様子を見にきただけの顧問が図書室を出ていく。もちろん、扉を開けた先に先輩が立っているドラマチックな展開はなかった。

 廊下の窓から見える夕日が、下校時間を刻一刻と告げている気がする。

 無性に泣きそうになってしまった。しかし、泣いても誰も慰めてくれる人はいない。

 ずっと窓を開けていたからだろうか。少々肌寒くなってきた。椅子から立ち上がり、窓を閉めに窓際へと向かう。

 窓の前に立つと、必死にボールを追いかけているサッカー部の姿が目に映る。

「懐かしいな」

 先輩が現役だった頃は、ここから先輩の部活姿を見るのが私の楽しみの一つだった。

 私だけの特等席。それも、今となってはポッカリと空いてしまった心のように、意味を成すことは無くなってしまった。

「先輩・・・どこにいるんですか・・・」

「ここにいるよ」

「そこにいたんです・・・」

 声がした方にパッと視線を移すと、微笑む先輩の顔が私の視界を埋め尽くした。

 驚きすぎて次の言葉が出てこない。驚いたけれど、それ以上にこの場に先輩がいてくれたことが嬉しかった。

 約束を守ってくれた。それだけで私は感無量だった。

「驚かせてごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど、『どこにいるの』って言われたからつい・・・」

「い、いえ。私こそごめんなさい!」

「ん? 小野さんが謝ることなんて何一つないよ?」

「そ、その。廊下で、先輩が声をかけてくださったのに、無視をしてしまって・・・」

 「あぁ〜」と唸る彼。やはり、無視したことを気にしていたのだろうか。彼から発された低い声が、私の耳を震わす。

「気にしてないよ。むしろ、話しかけてごめんね。小野さん、目立つの嫌なの分かってたのに、会いに行った僕が悪かったし」

 今なんて言った?私に先輩が会いに来てくれた?冗談だろうか。それとも、先輩に会えた嬉しさで、今度は耳がおかしくなってしまったのだろうか。

「え、あ。その。私に会いに?」

「うん。だって、昨日約束したじゃん。忘れてるかと思ってさ、迎えに行ったんだけど、逆効果だったね」

 忘れるはずがない。大好きな人との約束を忘れるなんて絶対に。

「そうだったんですね」

 素直になれない私にイラッとしてしまう。ここで、「嬉しいです!」の一言でもあれば、好印象に映るのに。どうして私は素直に言えないのだろう。

 勘違いをしてしまうのが、怖くて踏み込めないのが情けない。

「あ、ほら。下校時間迫ってきてるから、早く教えてよ。小野さんが大好きな万葉集を」

 私のことを気遣ってくれたのか、明るく盛り上げようとしてくれる先輩。何から何まで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「は、はい!」

 せめて返事だけは元気よく...

「そんなに万葉集好きなんだね」

 間違ってはいないが、変な勘違いをされてしまった。あぁ、ほんと先輩といると私自身が乱れてしまうよ。

 私たち以外誰もいない図書室。長机に設置された椅子に2人で並んで座る。

 右を見れば、先輩の横顔が私の視界を埋め尽くす。座っているせいで、離れようにも離れることができない。

 保たれた一定の距離感。私の心臓の高まる鼓動音。一定だったものが、急にバクバクと乱れるリズム。

 落ち着かせようと深呼吸するも効果なし。私が緊張しているというのに、隣に座る先輩はいつも通りの涼しげな顔。

 かっこいい。でも、それと同時にショックを受けてしまう。私に心を乱されることがないのだと間接的に言われたようなもの。

「ねぇ、僕の顔に何かついてる?」

「あ、いや。なんでもないです」

 自分では気が付かなかったが、先輩の顔を直視していたらしい。顔が火照る私と涼しげな表情の彼。

 まるで、夏と冬が拮抗している境界線のような空気感。

「この和歌、僕好きかも」

 すらっと長く綺麗な指。そんな指に指されている和歌は一体どんな和歌なのだろう。

 下心と興味本位が混同する。先輩が人差し指で指していた和歌。

 『ありつつも君をば待たむうち靡くわが黒髪に霜の置くまでに』

「現代語訳にはなんて書いてありますか?」

「えっとねー。『このまま私は恋しいあなたを待ちましょう。私の黒髪に霜がおりるまで、白髪になるまでも。』だってさ」

 意外だった。数ある和歌の中から先輩が選んだ和歌は、恋を歌っている和歌だった。

 偶然だろうか。それとも先輩は恋をしていて、この和歌に共感を得てしまったのか。

 もしそうだとしたら、先輩に片想いをしている私からすると、いい情報ではない。

 先輩だって1人の人間だ。もちろん、好きな人がいて人相応の恋だってしてきたはずだ。

 分かっている。分かっているはずなのに、どうしてこんなに心が痛むのだろう。

 ズキズキと痛む心に蓋を閉めることができたらと思うと、自分の未熟さが露わになる。

「・・・さん。小野さん! 聞こえてる?」

「あ、はい!」

「ボーッとしてたでしょ」

「ごめんなさい。この和歌を書いたときの気持ちを考えてました」

 半分嘘で半分本当。

「いいよ。それよりさ、和歌って難しいイメージがあったけど、意外とこうして読んでみると、僕らと変わらない感性を持っているんだね。普通に僕らが恋している時と考えていることが同じ気がする」

「そ、そうなんですよ!」

 これ以上先輩に気を遣わせないために、過度にテンションを上げる。その方が、先輩からしても嬉しいに違いない。

「おぉ、急に食いつくね」

 若干引かれた感じもするが、私の胸中はバレてはいないので良しとしよう。

「大好きですからね。これからが楽しいんですよ!」

「これから?」

「はい! ぜひ、先輩も一緒にしてみませんか?」

 今日は初めから先輩には見せるつもりではいた。しかし、いざその場面になると途端に恥ずかしさが込み上げてくる。

 私の誰にも見せたことのない秘密のノートをリュックサックから取り出し、テーブルの上へと置く。

「これは・・・古典ノート? 中見てもいいの?」

「はい。そのために持ってきたんです」

 パラパラっと教科書でも眺めているかのように、私の日々積み重ねてきた訳たちが先輩に見られている。

 恥ずかしい反面、やっと誰かに打ち明けることができた。

 10分くらい時間をかけて読み終えた先輩。パッと見た表情では、先輩が何を考えているのか見当もつかない。

 引かれている可能性だって0ではない。むしろ、その可能性の方が高いなんてことも...

「すごいよ! 僕も考えてみたい! これとか、今の女子高生たちが本当に言いそうなことだしね」

 先輩が指差したのは、私が今朝教室で訳したばかりのものだった。現代の女子なら...と思って書いたものが、先輩はどうやら気に入ったらしい。

 ホッと一安心する。大好きな先輩に引かれなくてよかったという安心感と先輩が興味を持ってくれたことに。

「じゃあ、先輩も考えてみましょ! さっきの現代語訳を現代風の人たちの言葉に書き換えて訳してみてください!」

「でも、僕ノート持ってきてないんだよね」

 私たちの手元にあるのは、私の古典ノートだけ。他のノートは全て授業で使っているものばかり。

 流石に授業ノートは学期末に先生に提出するので、下手な落書きはできない。

「んー、あっ! この私の古典ノートを交換ノート代わりにして交換し合うのはどうですか? 1日ひとつ選んだ和歌と自分の訳を書き込んで交換ってのは」

「お! それいいね! パッと直ぐには思いつかなそうだったから、今日は家で考えることもできるし、何より交換ノートっぽくて面白そうだ」

 我ながら名案だったと思う。数秒前の自分をめちゃくちゃに褒めてやりたい。

 先輩との繋がりが今日だけではなく、明日からも続くことが今確定したのだから。嬉しくないわけがないんだ。

 明日も明後日も先輩と繋がれる。その事実が存在することが、私にとって幸福以外の何物でもない。

 今が私の人生の最高潮なのかもしれない。間違いなく16年生きた中で、最も幸せな時間を過ごしていると言える。

「じゃ、僕は先に帰るとするよ。小野さんも気をつけて帰ってね!」

「は、はい!」

 図書室の扉を開いて廊下へと姿を消してゆく先輩。開いた扉から流れ込んでくる外気のひんやりとした風が、図書室内の温まった空気と混合する。

 でも、不思議と私は寒くはなかった。嬉しさで寒さなんかどうでもいいくらい惚気きっていたんだ。

 考えている事といえば、常に明日のことばかり。

 静まり返った図書室が、私の心を落ち着かせるのには最適な場所だった。

「あぁ、早く明日にならないかな・・・」

 恋する乙女は明日が来ることを願わずにはいられなかったんだ。結局、表情筋の活動が落ち着くまで10分の時間を要した。
 
 その頃にはすっかり日も暮れ、図書室だけでなく校舎にも夜が進行を始めていた。