私が彼女と出会ってから、六度目の春がやってきた。


 ある日、私は屋敷の中庭で、ぼんやりと紫色の花を見上げている彼女を見かけた。

「……フユ、この花の名前、知っているか?」
「知っているも何も、よくあなたが世話しているライラックの木ですよね?」

 私は彼女がこの木を大切にしていることをよく知っている。暇さえあれば、剪定や水やり、肥料をやっていた。
 地植えにそこまでの世話はいらないと言ったこともあるけれど、彼女は手入れを止めなかった。
 後で古い使用人に聞いたところ、この木は彼女の死んだ母親が植えたものらしいことを知って納得したものだ。

「…そうだな」

 今日の彼女は少し変だった。ぼんやりしていて、いつもよりもはるかに口数が少ない。
 受け答えもどこかずれていた。それに、憎まれ口を叩いても、力なかった。


「なあ、フユ、知ってるか?ライラックの花言葉は何か」
「知りません……」

 花言葉についての知識は、私のAIには入っていない。後で、パソコンを借りて検索しようと思った。

「なあ、フユ、知ってるか? ライラックの花は花びらが四枚なんだが、たまに五枚の物があるんだ」
「……そうなんですか」

「それでな、それを誰にも言わずに飲み込むとな、好きな人と永遠に結ばれるんだってさ」
「おまじないですかね」

「そうだ。ただのおまじないだ。……だから、叶うことなんてない」
「……」

 私がまさか、と思ったことは、杞憂には終わらなかった。その日の夕刻には、私は、屋敷の者から、柾の結納の話を聞いたからだ。


「……」

 彼女が柾に気があることは、薄々気づいていた。しかし、彼女に聞けば、いつも否定された。
 だが今回、柾の結婚という事象で、こうもはっきりと、私の目にはわかりやすく、彼女の気持ちは証明された。
 私は、彼女の気持ちも知らないで婚約をした柾に、怒りを覚えた。
 しかし、同時に、これで彼女を奪われないで済むという安堵も、かすかに覚えたのだった。

 彼女が悲しんでいるのに、安堵なんて――。

 柾は、近々、結納のために、都会から帰ってくるという。私は、その日の夜にこっそりと柾に会いに行くことにした。



「よう、フユちゃん。久しぶり」

 庭に忍び込めば、久々に見た柾は縁側に腰かけていて、うれしそうに手を振ってきた。
 だから、ムカついた私は遠慮なく柾の顔面に向けて、飛び上がって体当たりをした。
 もふもふの体では大したダメージにはならないだろうが、そうせずにはいられなかった。

「おまっ……いきなり何すんだ!」
「何するも何も、こっちがあんたに何してんだと聞きたい気分ですよ」

 縁側に着地した私は、ひっくり返ったままの柾を見下ろしつつ、言う。
 「何のことだ」と首を傾げつつ体を起こす柾に、私は怒りのままに言い放つ。

「何、勝手に女作って、婚約してんだってことですよ。
ハル様がどんな気持ちで、あんたが都会から帰ってくるまでの長い間、待ってたか知らないでしょう?」
「……」

 すると、柾は体を起こすと、真面目な顔をして座りなおした。

「フユちゃん。これだけは前提としてはっきり言っておきたいんだが」
「何ですか?」
「俺は彼女のことは、妹のようなものだと思っている。女性としてみたことは、一度もない。
そして、女は作ってない。親の紹介によるお見合いだ……強制的な家同士のな」

「……まあ、そうでしょうね。ハル様とは歳が離れてますもんね。私もそうでしょうとは思ってましたよ。
それにもし本気でハル様を女性として見ていたとすれば、きもいロリコン、略してきもロリですよ。
エロリ菌だらけで、ばっちくて傍に寄りたくもありません。

そんな男はお見合いでもない限り、結婚なんてできる訳もありません」

「きもロリって……お前、俺があいつに好意があった方と、なかった方、どっちのほうが良かったわけ……?」

 ひどい言われようにボソッと抵抗する柾に、私は「ない方です」ときっぱりと言いつつも、続ける。

「私は、いくらあの性格じゃ分かりにくいとはいえ、十年以上の付き合いのあなたが、彼女の気持ちに気づかなかった可能性は低いはずだという点において、怒っているんですよ。
知ってたくせに、はっきりとした態度をとらず、なあなあの状態で、残酷にも淡い期待を残させたまま彼女を放置して、傷つけたと怒ってるんですよ」

「……」
「……黙ってるってことはやっぱりそうなんですか?」
「……」
「何とか言ったらどうなんです?」

 きつい口調で問い詰めると、柾は重い口を無理に動かすように開けた。

「……知ってた。あいつが俺に気があるということは、ずっと前から」
「やっぱりそうだったんですね!」
「そして、結果的に、なあなあの状態で放置してしまったのも事実だ」
「最低だな、一発殴らせろ」

 私は腕を後ろに振りかぶった。

「だけどな、俺だって色々と考えてた……。結局どうにもならなかったけれど」

 私の全力を込めたパンチは、うなだれている柾の片の掌で、ぽふぽふと簡単に受け止められる。
 この小さな機械の体が、恨めしいと思いつつ、何度もパンチを繰り出していると、柾がため息交じりに口を開いた。

「なあ、フユ(・・)。……俺が向こうに言っている間、あいつに友達なんてできたか……小中はともかく、今高校には行ってるんだろう? 高校であいつに友達なんてできたか?」
「……できてませんけど……」

 彼女は、昔に言っていた通り、高校にはちゃんと通っている。
 しかし、彼女にたまに連れて行ってもらった高校でも、彼女は明らかに浮いていた。彼女もそれを分かっていて、いつも教室の隅に溶け込むようにして本を読んで過ごしていた。

 誰にも関わらず、そして関わられないように。

「なあ、フユ。お前は知らないだろうけれど、あいつがいつからあんな風になったか知っているか?」
「……いいえ」

 彼女と出会ったのは、彼女が十二歳の時。それ以前のことは、ほとんど知らない。

「七歳の時、あいつの母親が死んでからだよ……。あいつが変わっちまったのは、それからだ……」
「……」

「あいつの母親、あいつをかばって車にひかれて死んだんだ。……それ以来、周りから浮くような行動ばかりするようになった。
人からあえて距離を置いて、誰も近づいてこないように、言動を変えてしまったんだよ。
……たぶん、自分と関わった人間は、不幸になるって、思い込んでいるから」
「そんなこと……」

 言葉を失う私に、柾は「そんなことなんだよ」と続ける。

「しかも、あいつにそう思い込ませてしまった相手が、これまた悪かった」
「……誰ですか、それは」
「……あいつの父親だよ」
「三枝博士が……?」

 驚く私に、柾は続ける。

「あいつの母親の葬式の時にな、俺の母さんが見ちゃったんだって。『なんで、お前はあの時にボールを追いかけたんだ』と言っているのを。『お前のせいで……』と、言いかけてさすがに父親も我に返って言葉を止めたんだが、あいつにはしっかり分かってしまったんだよ。
父親が自分のことをどう思っているかを。……自分だって傷ついている時に、実の父親にそれを言われちゃあ、もう逃げ場がないわな……」
「……」

 言葉を失う私に、柾は「だからな」と言う。

「あいつは、家族によりどころを失った。そして、自身に関わって不幸にならないためにと、人との関わりを極力絶つようになった」

 柾は、そこで一息、ふーっと長い息をつくと、空を見た。

「……だけど、結局人はな、生きている以上、誰かに……何かに依存せずには、いられない。依存っていう言葉じゃ、少々綾があるかもしれないから……なんていうかな……人間は、誰かとの、何かとの関わりあいの中でしか、生きていけない。
……一人でいようとしたって、どうしても心は、少しでも誰かに、何かにもたれかかっていないと――支えにしていかないと、生きていけない。
……その支えは、今を生きている他者であったりするし、過去に失った大切な人との思い出であったりもするし、誰かが言った言葉であったりもする。
一人でできる趣味であったり、ネット世界だったりする奴もいるけどな。

……だけど、そのどれにでも、人というものは必ず関わっていて――。人は人の波の中から、逃れたくても逃れられないんだよ」

 柾は、空を見たまま、私の頭をぽふぽふと撫でた。

「だから、あいつも何かを支えにして、今まで生きてきた。唯一の身内の父親には捨てられたと思っているから……あいつは、俺を支えにしたかったんだろうと思う。
物心つく前からよく知っていて、何かがあっても、決して裏切らないと安心できる人間だったんだろうな」


「あなたは、その支えには、なれないんですか……?」

 私は、聞かずにはいられなかった。彼女が、生きるために必要としているのならば、この男が彼女の支えとなれば、すべて丸く収まるではないか。

「……なっちゃいけないんだよ」
「どうしてですか? あなたにも自由権はありますから、あなたが嫌なら無理強いはしません。
ですが、なっちゃいけないとはどういうことなのですか?」

 すると、柾は「機械のお前には、難しいかもしれないけどな」と前置きをして、続けた。

「……人はな、最初から、一つのもの……一つの場所にとらわれていてはいけないんだ。様々な人や場所と関わりあった末に、支えにするものを自ら選ばなくてはいけないんだ。

そうでなければ、何が自分にとって正しくて、何が自分にとって間違っているか、ずっと選んだことのないまま――分からないまま、偏った考えだけを持って生きていくことになってしまうから。

そうなれば、今はよくても、いつかきっと、生きることに躓く日が来る」

「……」

「だから、あいつがたくさんあるものの中から、俺を支えとして選んでくれたのなら、俺は何も言わない……俺が、振るかもしれないことは別にしてな。
だけど、あいつは、最初から俺一つで、そして一つから俺を選び、支えにしようとしている」

「……私には、よくわかりませんよ。生きるための支えは沢山ある中から選ぶべきだとか、あなたが言っていることの意味は分かっても、腑に落ちないんですよ。
一つから、一つを選んだって、何が悪いんですか? どうしてそれで、生きることに躓くんですか?」

 私は、率直に沸いた疑問を問う。すると、柾は、「折れやすくなるからだよ」と言う。

「……俺を選んで、俺一人に依存しつつ生き続けることができたところで、いつか俺に何かがあった時、一人ぼっちになったあいつはきっと簡単に折れてしまう。それだけで、立ち直れなくなってしまう」
「人間とはそういうものなのですか?」
「そういうものなんだよ。お前には……まだわからないか。だけど、賢いお前なら、いつかは理解してくれる気がするよ」

 柾は、「とにかく」というと、私の頭から手を離した。

「俺は、あいつに、そうはなってほしくなかった」
「……」

「そうはなってほしくないから、俺はあいつが、他の人の輪に入っていけるように、世界を広げてやれるように、色々努力したんだ。……誰かと仲良くなれそうな……公園とか、スポーツクラブとか、連れて行ってやったりしたんだ。だけど、あいつは頑なで」

 柾は、伸びをしながら、はあーっと長い息をつくと、縁の板張りの上に、仰向けになった。

「結局、全部何もかも、うまくいかなかったなあ……。それどころか、俺が頻繁にかまうものだから、ますますあいつは俺しか目に入らなくなった。
……俺には俺で、家の跡を継ぐっていう俺の事情があったから、そのうち物理的な距離もできてしまって、時間も待ってはくれなかったし。……その結果がこれだ」

「あいつは、俺がなってほしくなかった、あいつになってしまったなあ……」
 柾は観念したかのような、口調で言った。

 そして、そのまま静寂が過ぎた。ふと、柾が寝転んだまま、私を見る。そして、言った。
「俺が悪くないとは、言い訳しないよ。だけど、一言だけ言わせてもらっていいか?」

「世の中って…どうしてこんなにもうまくいかんものかね……」
 柾はふうと目を閉じた。

「………」
「せめて、俺の家の事情がなけりゃ、時間もあったし、もう少しあいつの性格も改善できたのかもしれないな……。」

 柾の表情は、苦しそうだった。悔いというものが、心の底から溢れてくるかのような、表情だった。
 だから、私は、それ以上、彼に苦しんで欲しくなくて。

「……話の内容は主観的にはよく分からない部分もありましたが、とにかく結論としては、あなたはハル様のお気持ちには答えられないということが分かりました。
後、私が今言えることは、「もしも」の話は、ないものねだりで堂々巡りになるだけだと、ハル様が言ってました。そういう考え方はやめましょう」
「……あいつ、そういうところはさばさばしてるくせに……なんで、ぼっちは十年以上こじらせるんだろうな……」

 柾は、はあとため息をつくと、再び体を起こして、私に向き直った。


「……なあ、フユ」
「……はい」
「俺はもう、跡を継ぐ時まで、帰省以外でこっちに戻ってくることはない」
「……そうですか」
「そして、帰ってきたとしても、俺も家庭を持つ以上、ハルの傍にいてやることはできない」
「……」

 柾は、真剣な瞳で私をみると、口を重々しく開いた。

「だから、俺は、もうあいつを、変えることはできない。それに、あいつは、もう変えられない」

 柾は、「だから、約束してくれないか?」と、手を差し出した。その手は小指だけを伸ばしていた。

「あいつの傍にずっといてやってくれ。あいつはもう、一つからしか一つを選べない。あいつには、もうお前以外、何も残されてはいない」

 夜風がさらりと縁側を吹き抜ける。

「一つから一つしか選べないのなら、それでもいい。お前がその一つになればいいだけだ。
……だけどその代わり、絶対に何があっても、あいつの前から消えないと、あいつより先にいなくならないと、約束してくれないか?」
「……それを私が約束することが、彼女にとっての救いになるのですか?」
「……ああ。もうお前にしかできないことなんだ」
「……」

 私は、柾の言った言葉の数々をもう一度頭の中で反芻する。
 納得のいかない言葉もあれども、柾の話す様子を見ていれば、それは重い事実であり、正しい事実であることは、理解はできた。


「わかりました」
 私は手を差し出した。私には小指はないが、代わりに柾の小指に手を絡ませる。

「約束しましょう、()。私は、何があっても必ず、彼女の傍にいます」

 大丈夫。私が彼女の元を離れて生きていくなんてことはないし、彼女よりも先に死ぬ――壊れるなんてことはない。
 何しろ、私は体がちぎれようが、原型を失おうが、データやメモリーさえ残っていれば、部品を取り換えて再生できる。そのデータやメモリーも、頻繁にバックアップを取っているし、たとえ体のすべてを失っても、死ぬことはない。なのに。

「いて、見せます」
 余裕のはずのその返答に、力を入れて答えてしまったのは、なぜだろうか。