妻に誘われ、マンションのベランダで植木鉢に土を入れていた私は、先程から不思議に思っていたことをついに問うた。

「弥生。君、小さい頃から、あそこの屋敷のライラックが好きでよく庭をのぞいていたのに、あの人に見つかりそうになるとすぐに逃げていたよね。なんだって、今になって話しかける気なんかになったんだい?」

 まあ、妻が逃げていた理由はなんとなくは分かる。自分が産まれる前の話なので直接知っている訳ではないが、あの屋敷の住人は、昔に大きな事件に関わってしまったらしく、あまり良い噂を聞かない。だから、関わりたくなかったのだろう。

 だが、私は密かに、あの男性は、噂通りの悪い人でもないだろうと思っていた。昔、妻に付き合わされて、幾度もあの屋敷の傍へと連れられて行ったが、その時、何度かその男性を見かけた事がある。その男性は噂が作り上げた偶像(イメージ)とは違い、どこにでもいそうな老人であった。だが、彼は、いつも寂し気な顔をしていて、ライラックの木を見上げては何かを話しかけているようであった。そこだけが、奇妙で普通ではないように感じていた。

 とにかく、そういう事なのに、妻が今になってあの男性に話しかけた理由が、なんとなく気になったのだ。

「……まあね。あの家、解体されるんだって。あの人、あそこからいなくなってしまうから。その前に、一度話してみたかったんだ」
「ふうん……」

 妻の表情にはどことなく、何かを隠しているような気配がしたが、私はなんとなく聞かなくてもよい事のように思えて、口を開くのをやめた。その代わりに、もう一つ、先程から疑問に思っていた言葉を口にした。

「それにしても、なんで、もっと枝をもらってこなかったんだい?」

 妻は、その男性からライラックの小枝をもらってきたようだが、なぜか一枝だけ。そのライラックが好きだったことはよく知っているからこそ、確実に挿し木で増やそうと思うのなら、もう少しもらってきても良かったのではないか。

「まあな、賭けみたいなものだよ」
「賭け?」

 首を傾げる私に、妻はいたずらっぽく笑った。

「冬樹との、大切な思い出をな。これからも積み重ねて増やしていけるかどうか、ってな」
「なあんだ、そんなこと」

 私は、当然だと言わんばかりに、妻の肩を後ろから抱いた。すると、表情は見えないが、とても幸せそうに笑っているのが感じられた。

「じゃあ、挿すぞ」
「うん」

 妻は、小枝を植木鉢に挿した。そして、私は、小さなゾウさんのじょうろで水をやる。来年の春には生まれてくる我が子も、数年後にはこうやって水をやってくれるのだろう。

「でもライラックって案外大きくなるからね。いつかは庭のある家に越さないと。家族も増えていくし、子供には広い所でのびのびと育ってほしいしね。そのためにも貯蓄貯蓄、だね」
「よく言うよ。神職の給与なんて、営業マンに比べたら、雀の涙だもんな。はてさて、あと何百年かかるやら」
「こーら、失礼な」

 こつんと、妻の頭を殴る真似をすると、妻はけらけらと笑った。

「まあ、大丈夫さ。いざとなったら、柾の所で働かせてもらったらいい。がっぽり給料を出すように脅しておくから」
「なんで、君はいつも、柾さんにそんなに辛辣なんだい……?」

 私が呆れながら言うと、彼女はさあ? と肩をすくめて答えた。

「腐れ縁だからじゃない?」
「腐れ縁って……」

 私はため息をつくと、「まあ、」と言った。

「いつか、またあの町に戻りたいのも確かだけどね」
「田舎だから、ここに比べたら地価もかなり安いしな」
「まーた、現実的な事を言うね。君は」

 ぴんと、妻のおでこを指ではじく。妻は反省の様子もなく、くすくすと笑っている。


 私はふうと息をついて立ち上がると、ベランダから街を見下ろした。既に日は落ちて、キラキラとした明かりが、闇の中に次第に増えていっている。

 この街を超え、山を越えた遥か向こうに、あの町の、あの地がある。
 私たちが出会い、私たちが過ごし、私たちが愛を育んだ、あの地が。
 平穏で、だけど、幸せな日常を過ごした、あの地が。


「……」


 急に視界に景色が差し込んだ気がした。涙の跡の残る写真に、ライラックの若木、そして女性と白いウサギ。
 空を見る。なぜか、見なければならない気がしたからだ。
 都会では、新月でもない限り、星はほとんど見えない。だが、明るく輝く満月は、静かに私たちを照らしてくれている。


 あの夜(・・・)は、寂しく、冷たかった。しかし、今はこれほどにも暖かく、幸せだ。


「あなたを、愛しています」

 妻を振り返り、どうしてだか、口からその言葉がこぼれた。妻は少しだけ驚き、しかしすぐに笑顔になって立ち上がった。

「私も、愛しています」

 妻は私に抱きつく。私はそれを抱きとめ、土だらけの手で、それでもかまわずに彼女の頭をかき(いだ)いた。


「なんでしょうか、この気持ちは」

 妻の香りで体の中を満たしつつ、目を閉じてほほ笑む。


「とても、満たされた感じです」


 ライラックの小枝から、月の光をはらんだ雫が、二人を映しぽとりと落ちる。
 それは、若木を育む土の上に確かに落ち、染み込んでいった。