春になった。
まだまだ、空気は寒い。だけど、境内の桜の芽は、敏感に春の気配を受け取っているのか、日枚に大きくなってきている。
「……柊、お前、また今年もか……」
どっさりと中身の入った紙袋を、両手に持って、家から出てきた中学生の息子。
忙しくて忘れていたが、今日はホワイトデー。
石段を箒で掃いていた俺は、それを思い出すと同時に、ため息をついた。
「お前な、全部のチョコに、律儀にお返しなんてしなくてもいいんだぞ……。しかも手作りなんて。そんなことしてたら、女の子が変な期待をしちゃって、可哀そうだぞ……」
すると、柊は、「だってえ……」と言った。
「俺さ、貸し借りって言うの嫌いなんだよ……。手作りチョコもらったら、ちゃんと同等のものをあげなきゃ、なんかせっかく一生懸命作ってくれたのに、申し訳ないじゃん?
例え、見返りを求めずにくれたんだとしても、俺はちゃんと、その心に見合ったもんを返したいんだよ……」
「お前、イケメンだな……」
半分誉め言葉で、半分は呆れである。
両親の良い所だけを受け継いで、毎日学校で黄色い声を浴びているらしい息子。
だけど、割り切るところは、割り切らなければ。そのような態度が、逆に女の子に失礼だとは思わないのだろうか。
「じゃあ、早く行かないと、夕方までに配り切れないから。行ってきます」
「はいはい」
俺は息子の背を見送り、再び石段を掃き始めた。
すると、すっと、俺に手を出す者があった。
「お父さん、私、変わろうか?」
「いいよ、もう少しで終わりだし。お前も後もう少ししたら、新学期だろ。手伝いなんてもういいから、ゆっくりしてろ」
俺は、巫女の服を着ている桜の肩を叩く。大学の春休みに、都会から帰ってきている桜は、お守りを授与したり、あちこち剪定や掃除をしたりと、かいがいしく働いてくれた。
「いいから、私がするって」
「はいはい」
娘はこう言い出したら、聞かない頑固者である。俺は、苦笑いしながら、箒を渡した。
すると、意外にも体にきていたらしく、腰が痛い。
ふう、やれやれと、伸びをする。
「まったく、柊の奴、春休みだって言うのに、うちの手伝いなんて全くせずに、今日もお菓子作りよ。パティシエになるって、聞かないのよ。宮司の息子のくせに」
「まあまあ、良いじゃないか。夢は自由だ。お前だって、俺の跡なんて継がずに、好きなことをしてもいいんだぞ」
自身の大学の、はるか後輩となった自分の娘。
別に神社なんて継がなくても、女の子のなりたい仕事なんて、いくらでも他にあるだろうに、娘はあえてこの仕事を目指した。
「馬鹿言わないで。お父さんを助けたフユちゃんの、大切な場所だもの。私が守らなくて、誰が守るのよ?」
桜は、空を見て、言った。目の前の娘は、かつてフユを失い、毎日泣いてばかりいた。
そんな娘の為、そして自身と家族皆の為、退院してから、毎日、毎日。消えてしまったフユを何とか蘇らせる方法はないかと、探しつづけた。
代価の決まり事からの抜け道はないかと、フユの記憶のバックアップデータや、設計図をコンピューターから引っ張り出そうとした。だが、ちゃんと保存してあったはずのそれは、すべて壊れていて――何度も開こうとするが開かず――そして、目の前で無情にも、消えた。
やはり、代価は代価。決まり事は決まり事――。
当時の俺と家族皆、そのことが身に染みてわかり、絶望していた。
けれど、今やその娘も、自身と並ぶほどの背の高さとなり――その凛々しい顔は、あの悲しい日々からの立ち直りと、成長を感じさせた。
「あ、」
その時、ふと桜が、くすっと笑った。
「また来てるわよ。あの子。毎日、何を熱心に祈っているのかしらねえ」
娘がほほ笑む先には、小学校一、二年生ぐらいだろう、女の子がいた。
拝殿で、お辞儀をし、手を合わせている。
「本当だ、今日も来たんだな。本当、毎日毎日、何を願っているんだろうな」
その女の子は、二年程前から、毎日ずっと参拝に来ていた。例え、大雨が降っていても、風が吹いていても、必ず、何かを熱心に祈りに来ていた。
「親御さんが御病気とか、そんな事情があるんだろうな……可哀そうに」
俺は、そう推測をたてていた。それぐらいしか、あんなに幼い子が、毎日神社に拝みに来る理由がないはずだからである。
「世の中って、不条理だよな……。何か代償がないかぎりは、何も叶わないもんな……」
俺は、女の子を見た後、空を見て、つぶやいた。
「ふう、お掃除完了。おっ、だいぶ、つぼみがふくらんできたな」
俺はその日も、日課の石段掃除をしていた。他の神職に任せてもいいのだが、こうやって毎日、四季の移ろいを感じるのが、俺は好きだった。
多分このつぼみの膨らみ具合だと、あと一週間もすれば、花開く。
そうしたら、花見ついでにやってくる参拝客が増える。
「また今年も、忙しくなるな~。桜がいてくれたら、助かるんだけど」
その頃には、娘は、向こうに帰ってしまっているだろう。自分と他の神職たちとで、何とかしなければ。
「……ん?」
ふと視線に気づき、見ると、石段の下に男の子がいた。小学一年生ぐらいだろうか。
絵本らしき本を抱きしめ――なぜか、俺の顔を、不思議そうに、見上げている。
「……」
親は傍にいなさそうだから、近所の子だろうか。だけど、それにしては、見たことのない顔だった。
「……迷子?」
こんな田舎町で、そんなことはないだろう。だけど、俺の顔を穴が開くほどに見つめてくるので、気にはなる。俺は、石段を下りると、男の子に話しかけた。
「君、どうしたの? おじさんの顔に、何かついている?」
すると、男の子は、ぽかんとしていたが、ハッとしてぶんぶんと首を振った。
「いや、違うの。なんだか、おじさん、どっかで見たことあるなあって」
「……」
以前、親御さんと参拝にでも来たことがあるのだろうか。それなら、俺の顔に見覚えがあってもおかしくはない。
ふと、なんとはなしに男の子の胸元の本を見ると、『人魚姫』と題名が書かれている。男の子にしては、珍しいと思った。
「……おじさん、僕と前にどこかで会ったことある……?」
ふと、男の子がそう聞いてきた。だから、俺は、首を横に振った。
「ごめん、ないよ。でも、おじさん、ここの神社で宮司さんをやっているんだ。だから、もし君がここへ来たことがあったら、おじさんは君のことを覚えていなくても、君はおじさんの顔を見たこと、あったかもねえ」
すると、男の子は、ぶんぶんと首を横に振った。
「僕、昨日、この町へ引っ越してきたばかりなんだ。だから、ここ、来たことないの」
「……」
誰か、よく似た人物に会ったことがあるのだろう。俺は「そっかそっか」と言う。
「じゃあ、引っ越してきたばかりの君は、ここの神様にあいさつしないとね」
「あいさつ?」
「うん、あいさつ。この土地……この町を守る神様に、これからこの町で暮らします。初めまして、よろしくお願いしますって、あいさつをするんだ。君も、初めてあった人には、『初めまして』って言うだろう?」
「ふうん、そうなんだ。分かった」
男の子は、素直に頷いて笑った。
俺は思う。
今は何かと『くそおやじ』と言ってくる息子にも、こんなかわいい時期があったなあと。
何だか、ちょっぴり寂しくて、けれど、自立を感じさせる息子でもあった。
「じゃあ、一緒にいこうか」
俺が手を差し出すと、男の子は、絵本を大切そうに手提げにしまい、「うん」と小さな手を差し出してきた。
そして、なぜか男の子は、俺の小指だけをきゅっと握った。
「……」
柔らかな肌のその手は、なぜか、どこかで触ったことがある気がして、懐かしい気がした。
「ほら、ここが拝殿って言うんだ。この建物の向こうにもう一つ建物があって、そこに神様が住んでいるんだ」
賽銭箱の前で、男の子に説明する。男の子は、奥を見て、不思議そうに言った。
「声もしないし、誰もいなさそうだよ? 本当にいるの?」
「いるよ、見えないけれど、本当に」
ふと、あの夜のことを思い出して。
何だか切ない思いがこみ上がってくるのを無視して、俺は笑顔で言った。
「おじさん、ここでお仕事している人だよね? 神様に会ったことがあるの?」
「う~ん、会ったことはないかなあ……」
その存在を感じたことはあるが、とは言えなかった。
そもそも、あんなこと、誰かに言っても信じてもらえるようなことではないし、信じられて真似されても困る。
この神社で、願いの代価で犠牲になるのは、あいつで終わりにしなければならない。
だから、あの夜のことは、俺たち家族以外には、絶対に知られてはいけない。
「神様は見えないからね。向こうからは見えていても、こっちからは見えないから、会えないんだ。だけど、ちゃんと聞いてくれているから、あいさつしようね」
「うん、わかった。神様~こんにちは~初めまして~」
男の子は、ヤッホーと叫ぶように、口の横に手を当てて、言った。
「……」
うっかり、俺はずっこけそうになった。けれど、改めて思い直す。
俺は、普段から、この子と同い年ぐらいの、あの女の子ばかり見ているから、
この年代なら、きちんと参拝の作法を身に着けているはずだと、思い込んでいた。
けど、実際、あの女の子が特別なだけであって、こういう言動をする方が普通なのだろう。
「君、神様へのあいさつの仕方はね、人間と同じじゃ駄目なんだ」
「そうなの?」
男の子は、きょとんとして俺を見た。
「うん、そうなんだ。あのね、まず、お賽銭といって、ここへお金をを入れるんだ。何円でもいいけれど、五円玉がよく『ご縁がありますように』って、入れられるね。それから、二回お辞儀をして――」
俺は、参拝の作法を教える。
教え終わったとき、ふと、男の子の目が、ぼんやりと拝殿の奥を――どこか遠くを見つめているかのように見ているのに――気づいた。
「……あれ、なんでだろ……僕、それ、知ってる……」
すると、次の瞬間、男の子の気配が変わった。
目の前の、幼いはずの男の子が、背筋を伸ばし、すっと前へと進み出て、二度お辞儀をし、二度手を叩いた。
「神様いつもお恵みをいただき、誠にありがとうございます。私は、〇〇区、〇〇町、〇番地に住む、三枝フユと申します。この度は、お願い事があって参りました」
「……ッ!!?」
俺は、驚愕に目を見開いた。
男の子が、急にすらすらと話し始めたことは当然だったが、言わずもがな、その内容である。
そんな俺の前で、男の子は、何かに憑りつかれたかのような目で、続ける。
「……もしも、もしも、本当にそこに居られるなら、――御柳柾の命を救ってはいただけないでしょうか? 私は、あの男に、死んでほしくありません。
……あの男の命を……「……それ以上ッ、言うなあッ!!!」
俺は、あいつの、肩をつかんだ。
あの日、あと少しで掴めなかった、その肩を。
あの日、届かなかった声が、今度こそ、ちゃんと届いて――。
しかし、男の子はきょとんとして、こちらを振り返った。
「おじさん、どうかしたの?」
「……えっ…?」
不思議そうに、首をかしげる男の子を前に、俺は思わず目をこすった。
男の子は、先程、財布を手提げから取り出した時の姿勢のまま、固まっている。
俺は、夢でも見ていたのだろうか。
確かに、こんなに何もかも知らなさそうな男の子が、急にすらすらとあんな言葉を言うはずがない。
最近、疲れ気味だったからな。きっと昔の記憶が、白昼夢となって、男の子とかぶさっただけだ。
「ごめんね、ちょっと、眩暈がしただけだよ」
男の子の肩から、手を離すと俺は、ぽんぽんと頭を撫でてあげた。
男の子の、薄茶色のふわふわの髪の毛は、柔らかく、まるで羽毛のようだった。
「じゃあ、あいさつをしようか」
「うん!」
気を取り直して言う俺に、男の子は頷くと、財布から五円玉を取り出した。
賽銭箱に投げ入れると、からんころん、と音を立てて落ちた。
男の子は、教えた通り、二回礼をした。
そして、手を一度叩いて――
その時、背後から風が吹いた。柔らかな、春の風だった。
御幌がふわり、ふわりと揺れる。
その風に乗り、桜の花びらが拝殿の中へと吹き込む。
桜なんて、まだつぼみ――。
俺がハッとしたその時、後ろから、ハアハアと、息を切らして誰かが走ってくる気配がした。
俺は振り返る。そこには、汗だくで、真っ赤な顔をした女の子――毎日、神社にお参りに来る女の子がいて――。
「フユッ……!」
女の子は、駆け出し、男の子に飛びついた。
男の子を抱きしめ、わんわんと泣く。
「会いたかった…ッ。」
「ふぇ……?」
抱き着かれたまま、ぽかんとしている男の子。
だが――
男の子の手から、手提げがするりと落ちた。
顔をのぞかせる『人魚姫』の本――。
ふと、その顔つきが急に大人びた気がして――。
その時、雲一つないはずの空に、轟音と光が迸った。
「……ッ?!」
次の瞬間、青空から、花が、花の雨が降ってきた。
それは、あの日、あの夜見たものと同じ、桃色の花だった。
空間が、花と香りで埋め尽くされる。
「……ッ、お父さん…ッ、大変、なにこれっ……!?」
桜が、すっ転びそうになりつつ、社務所のほうから走ってきた。
しかし、俺が子供たち二人を呆然と見ているのに気づくと、自らも、何かに気づいたかのように、そちらを見た。
「花が降る……」
桜はつぶやき、「まさか」と言った。
「あの子、いや、あの子たち……」
「ああ……」
「そのまさかだよ」
「フユ、私はッ……」
何かを言いかけた、彼女の口を、彼は親指を押し当てて、ふさいだ。
そして、何かを彼女の耳元でささやいた。
驚いた顔をして、彼の顔を見る彼女。
そんな彼女の顔を見て、彼はどこか切なそうに笑うと、
「……きっと、これが、最後で――最初です」
彼女の頬に手をやり、
彼女の口に、唇を重ねた。
「……しょっぱいですね。こんなにも、私のことを思って泣いてくれるんですか。嬉しい限りです」
「……フユ……」
彼は、唇を離すと、愛おしそうに彼女を抱きしめた。
「あなたの頬も、唇も、体も、これが、柔らかく、暖かく、いい香り、というものですね。……ああ、あなたの何もかもが、愛おしい」
彼は、彼女の肩に顔をうずめるかのようにして、かき抱いた。
ふと、降り続ける花の勢いが、弱まり始める。
彼は、名残惜しそうに顔を上げると、もう一度彼女の顔を見つめ、こちらを見た。
「柾、桜さん」
彼は、笑った。とても嬉しそうに、笑った。
「幸せに、生きてくれて。――ありがとうございます」
その間、きっと五分もなかった――。
花の雨が止んだ。
現実離れした現実に、夢でも見ていたのだろうか、と桜と顔を見合わせる前で、男の子もまた、元の戸惑いの表情に戻った。
そして、激しく泣き始めた女の子を、体にくっつけたまま、「おじさん、助けてぇ……。誰この子……」とこれまた、自分も泣き始めた。
「……」
からん……。
何かが落ちる音がした。
俺は、どこか、狐につままれたかのような心地のまま、それを拾いに行く。
絵馬掛所の下に落ちた絵馬。それを拾い上げる。
『フユにいつかまた、巡り合えますよう。
そして、今度こそ、ずっと、一緒にいられますよう。
そして、今度こそ、ずっと、ずっと、幸せでありますよう。』
絵馬が、空気に溶けるかのように、粒子になって消える。後に残されたのは、焦げて、古ぼけた写真。
裏返すと、『あなたを、愛しています。』の、あいつの字と、
その隣に書かれた『私も、愛しています。』の、へたくそな字――。
「……ははは」
俺は、空を見上げて笑った。
心の底から嬉しくて、笑っているはずなのに、涙が止まらなかった。
「お父さん……」
隣にそっと寄り添いに来た桜も、目から絶えず涙を流している。俺は頷くと、再び空を見上げて言った。
「神様、あんた、」
泣きながら、俺はくすっと笑った。
「……ほんっと、イケメンだな」
照れたほっぺの色のつぼみが、返事をするかように、そっと揺れた。
「お前……毎日毎日、よくもこう……。遠慮と言う言葉を知らないのか……?」
俺は、目の前で、お菓子をほおばる女の子を、ため息をつきながら見た。
「そういうお前だって、私を追い返したりせずに、結局はお菓子をくれるじゃないか。そういう、なあなあな姿勢が原因だと思うけれど」
女の子――今は、風間弥生と名乗る、元、三枝ハルは、柾の家の縁側で、柾の息子の柊が作ったお菓子を頂戴していた。
「それにお前の息子だって、試作品を食べてもらうの、喜んでいるじゃないか。こっちは育ち盛りのお腹が膨れて、そっちは味を評価してもらえる。うぃんうぃんの関係だと思うけれど」
「……はいはい」
俺は諦め半分に頷きながら、彼女の隣に座って、頭を抱えた。
しかし、こういうやり取りはもう二度とできないはずのものだったと考えると、何だかおかしく、結局は許してしまう心地になってしまう。
「……それはそうと、お前な。こうやってまた生まれ変わったんなら、もっと早く言いに来いよ。それなら、もっと早くにフユが見つかるよう、俺も一緒になって祈ってやったと言うのに」
「柾。願い事って言うのは、人には黙っているからこそ、叶うとも言えるんだぞ。むやみやたらに話したら、逆に会えなくなるかもしれなかったんだから」
「確かに、それはそうだな……」
願掛け、というのは、そういうものだったな、と思い出す。
「……そういえば、あいつとは同じクラスになったんだってな。昨日、あいつが来て、『弥生ちゃんと、一緒のクラスになったの。二年一組っ!』って嬉しそうに言ってたけど」
初対面でいきなり抱き着かれて、泣かれて、彼にとって、一時は恐怖の対象となっていた彼女。いまや、すっかりと仲良くなり、彼は彼女に、この町で初めての友達として、よく懐いていた。
そのはずなのに、
「……」
彼女は、何を思い出したのか、ぷすぅと頬を膨らませた。
「どうしたんだ。もう喧嘩でもしたのか?」
すると、彼女は、首を横に振って、いらいらしながら言った。
「……あいつ、フユの奴……。毎日毎日、女の子にイチャイチャされて……。
『かわいい~、かわいい~』って、毎日上級生の女どもに、撫でられているんだよ……。私と言うものがいながら……」
「ああ……確かにわかるな、その子たちの気持ち……。まるで、北欧の少年みたいな可愛さだもんな」
フユ……今は、二ノ瀬冬樹と名乗っている彼は、初めて会った時から思っていたが、あまりにも可愛すぎる男の子だった。
色白で、ふわふわとした色素の薄い髪の毛。きれいに整った顔立ちではあるが、ほっぺはふくふくと柔らかそうで。
初めて会った日に、探検がてら、一人で町を歩いていたみたいだが、よくもまあ、誰か悪い人に、誘拐されなかったものだと思っていた。
「転校生ってだけで、物珍しさで人気なのに、可愛いと来たら、もう大人気のなんのって……。
まあ、結局もみくちゃにされて、『弥生ちゃん、助けてぇ』って後ろに隠れに来るから、許すけどな。
もし、一瞬でも、鼻の下を伸ばして喜んだりしたら、遠慮なく殴り飛ばすつもりだし」
「お前な……せっかくまた会えたんだから、大切にしてあげろよな……」
俺がそういうと、「まあ、そうだな」と、彼女は素直に頷く。
「フユは、私の夫にしないといけないからな。大切に、大切にしないと。
あいつは、私と違って記憶がないからな。こうしてまた巡り合えたものの、結局、ゼロからのスタートだ。
神も残酷だな。記憶がない挙句に、あんなにも可愛く生み出されては……。しかも、あの調子だと、将来的にはかなりのイケメンになる……、どれだけライバルがわんさか出てくるか……。
神の野郎、簡単には、私にフユをよこすつもりはないという事か。ならば私は、他の女に取られないよう、今からしっかり、篭絡するだけだ」
「篭絡……。今何歳だ、お前……」
「前の歳と合わせたら、三十代半ばだから、篭絡と言う言葉は、おかしくはない」
「おばショタか……。あかん、聞きたくなかった。変な想像図が今脳裏に……」
俺は、あの純粋な男の子が、以前の姿の彼女に捕まって泣いているところを想像してしまい、慌てて首を振って打消した。
「まあ、という訳で、私たちが結婚する時は、この神社で結婚式を挙げてやるから。もちろんタダにしてくれよな」
「お前……一体何年後の話を……。鬼が笑って笑って、笑い転げまくるぞ……」
「好きなだけ笑わせてやればいい。私は有言実行するのがモットーだから、覚悟しておけ」
「へいへい……」
適当に相槌を打つ。ただ、適当と言うには、天邪鬼だったかもしれない。
「家族が増えたら、もちろんお宮参りにも来いよな。孫だと思ってかわいがってやるから。後、七五三もな」
そう言うと、ぼっと、音が聞こえるほどに真っ赤になった。
「ははは、大成功」と笑うと、俺は、ぽんぽんと彼女の肩をたたく。すると、彼女は「柾ぃ……!」と真っ赤なまま、しかし、それ以上は何も言えずに、睨んでいる。
「まずは、今度、縁結びの祈祷をしてやるよ。もちろん祈祷料は、タダ――だと神様は叶えないだろうから、俺持ちでな。奮発してやるよ」
「……」
彼女は、真っ赤なまま、睨み続けている。だから、俺は立ち上がると、社務所のほうへと歩き始めた。
「あーそうか、いらないのか。いらんならいいが」
「……いるっ!」
立ち上がって慌てて返事した彼女に、俺は振り返り、にやにやと笑う。彼女は、してやられたという顔をしたが、悪い気はしていないようだった。
「まーさーきーさーん。こんにちは――!」
すると、その時、声がした。見れば、彼が手を振りながら、小道から庭の方へむかってきていた。
噂をすれば。
俺は、彼の声に返事をした後、いまだに顔の赤い彼女を振り返り、にやりと笑う。
「……今度とは言わず、今からフユをだまして、縁結びの祈祷をするか? お前、『一緒に神主のお仕事を見学しよう』って誘え。
どうせ、縁結びって言葉も知らんだろうし、祈祷を聞いたところで、バレるはずがねえ」
「……いいなそれ。大賛成」
彼女は、にやっと悪い笑みを返す。
「どしたの? 二人とも……?」
そこへ、とてとてと走ってきた彼は、悪だくみを考えている二人を、そうとも知らず、不思議そうに見た。
そんな彼を見て、二人はまた、顔を見合わせ、けらけらと笑う。
「……? 変なキノコでも食べた?」
きょとんとして、言う彼。
「いいや、別に。ただなんとなく面白かっただけ」
「そうなの?」
彼女は立ち上がると、首を傾げる彼の手を取った。
「なあ、冬樹。今から一緒に神主のお仕事を見学しよう? 柾が特別に見せてくれるって」
「ほんと? 見る見る! 僕一度、柾さんがお仕事している所、見てみたかったんだ!」
「よかった。じゃあ、行こう!」
彼女は、駆けだした。しっかりと、彼の手を握り締めて。
「おい、こら待て! 今から準備するから、ここで待っとけ……って聞いてないな、あいつら」
二人を、俺は慌てて追おうとして、けれど、思わず立ち止まった。
風が吹いた。暖かい春の風。
それは、散り始めた桜達の枝を揺らし、その花びらを空へと巻き上げる。
花びらが空間を、一色に満たす。
そんな空間の中を突き進む彼らを見て、俺は微笑んだ。
「……変わってしまっても、変わらないな」
彼女に微笑みかける彼。
彼に微笑み返す彼女。
それらはかつて失われ、
今は、形を変えて、
けれど、それは確かに同じ――
平穏で、だけど、幸せな日常。
そんな日常を、祝うかのように、
写真立の前に、
そより、と桜の花びらが舞い降りた。
彼女を見かけたのは、雲一つない、透き通るような、青い空の下だった。
おそらく今生で最後になるだろう、氏神の社への参詣の帰り道。
花嫁行列の中、白無垢の美しい花嫁は、清々しい瞳で前を向き、夫となる男の手を取り、凛として歩いてゆく。
私は、思わず足を止め、彼女を見ていた。
――そして、
銀杏の葉が舞い散る風の中、この時期に咲くはずもない花の香りがした。
私が彼女に再び会うことになったのは、それからひと月もしないうちだった。
「その木、切るんですか」
業者の者たちが、せわしなく庭を行き来するのを、庭の片隅で座って見ていた私に、声をかけるものがあった。振り返ると、生け垣の切り株の向こう――道路で、通行人らしき女性が、こちらを見ている。
「こんにちは……。ご近所さんですか? ……庭木を切ってしまわないといけなくなりまして。今日一日、騒音でご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが……」
私が、おぼつかなくなった足でなんとか立ち上がって頭を下げようとしたとき、彼女はそんな私を気遣ってか、慌てて座ったままでいるように促した。
「……みんな切ってしまうのですか? あの木も……?」
彼女は、庭の真ん中に生えている、ライラックの木を指さし聞いた。なぜだか、とても複雑そうで――悲しそうな顔をしていた。
「……年を取りすぎて、家の管理もままならなくなってしまってね。来月から施設に入ることになって、その前に自分の周辺の整理を……この屋敷を解体することにしたんだ。
……年を取るというのは嫌なものだね。自宅の管理どころか、自分の四肢の自由すら制御できなくなってくる。だから、大切なものすら、守ることができなくなる……」
私は、大切な木――桃色のライラックの木の幹にチェーンソーの刃が入れられるのを、両手で杖を握り締め、見つめていた。
もともとは二本あったその木も、今は一本しかない。紫色の方はとうに枯れてしまって、樹木医に診せると寿命だということだった。残った一本も近年はめっきり弱ってしまって、花をつけない年もあった。
それでも大切だった。自身のかつての思い出が、大切な者達が、確かにそこに在ったという証明であったから。そして、忘れてはいけない、自身が背負っていくべき業の象徴でもあったから。
だから、守りたかった。
だから、一縷の望みにかけて、良いと言う方法を山ほど試し、今日の日までなんとか命をつなげてきた。
だけど、今や、それは叶わない。自由の利かなくなった手と、足を見て、そして現実を見る。
切られて失われていくモノを、私はただ見つめているしかない。
「いくら大切なものでも、あの世までは持っていけないから、これでよかったんだ」
木の命を絶つ音が、あたりに響く。
私はその音を聞かないように、自らに言い聞かせるようにつぶやく。そうしないと、理性を失い、叫び出しそうだったからだ。
「……確かに、大切なものは、あの世までは持っていけませんね。けれど、」
静かに女性がつぶやいたのに、私は振り返った。いつの間にか女性は、私の後ろにに立っていた。女性は木が切られ、倒れていくのをつらそうに、しかしどこか清々しい表情で眺めている。
「憶いは、持っていけます。大切な憶いは。
もしも、忘れてしまっても、覚えていなくても、魂の奥底には相変わらずに、いつもそこに在る」
「……」
「憶いの象徴だったものが、例えこの世から消えてしまっても。なくなってしまっても。
自分自身がしっかりと、その憶いを大切に胸に抱いていれば、形は消えても失われない。……私はそう思うんですよ」
私は、その清々しい表情に、どこかで見覚えがあった。
そうして自身の記憶を思い返した時、私は、目の前の彼女があの日見た花嫁だという事に気づいた。
「お嬢さん、この間、あちらの神社の方で、結婚式を挙げていらした方でしょうか?」
ふと口をついて出た問いに、彼女はどきりとしたようだった。
「確かにこの間、結婚式をあそこで挙げましたが……その時、参詣されていたのですか?」
「……氏神様に今までお世話になりましたと、挨拶をしに行った帰りに見かけてね。
人生最後のお参りにと行ったから、とても良いものを見せてくださったと思っていたんですよ」
私はにこやかにほほ笑むと、言った。
「ご主人も男前で、とても優しそうな方だったし、あなたもそれはそれは幸せそうな顔をしていたから……とても良い方に巡り合えたのですね。私みたいな男を選ばなくて大正解ですよ……」
と言ってしまってから、私はしまった、と思った。これから幸せいっぱいの新妻に、不吉な事など言うべきではない。するとやはり、彼女は複雑そうな表情を浮かべていた。
かつて研究者だった私には、その研究のせいで、娘を犠牲にし、不幸にしてしまった過去がある。
厳密に言えば、娘を最初から不幸にしていたのは私のせいであった。
だが、自身の研究が発端である、或る事件をきっかけに、私は世間から憐れまれ――あるいは無能な父親として批判され――とにかく、私は世間から様々な形で噂されていた。
あんなに大きな事件だ。私と同じ町に住んでいるのであろう彼女なら、その噂を知らないはずがない。だからこそ、この表情なのだろう。
「……お嬢さん、私はね、娘を殺したんです」
「……」
彼女は、ぴくりと震えた後、固まってしまった。
やはり、私についての噂は知っているようであった。
私は、倒された後、裁断され運ばれていくライラックに視線を戻し、続ける。
「あの木は、娘が大切にしていた木でしてね。……娘が大切な人と一緒に植えた木だったんですよ」
「……」
「娘を死に追いやった私はね、娘が……いや、娘を大切にしていたその人に謝った後、死ぬつもりでした。だけど、その彼に気づかれて、叱られてしまいましてね。
自分の蒔いた種から生えたものは、全部枯れるまで世話をしろって。……そうして地べたを這ってでも、最期まで生きろって言われましてね。……そうやって苦しんで生き抜くことで、迷惑かけた者たち、全部に償えって……」
視界が、次第にぼやけてかすんでいく。
「私は、もうそうは長くない。自分の体のことは、自分が一番よく分かっている」
「……」
私は、空を見た。瞬きすれば、ほろりと目から雫が零れ落ち、景色が鮮やかに映る。
青く高い空が、ただ静かに、そこにはあった。
「私は、充分苦しめただろうか。充分償うことができただろうか……」
私は彼を振り返りかけて、その存在のとうに失われていることを思い出す。
その問いに答えてくれるものは、もう、永遠にない。
「……もう、充分、だと思いますよ」
振り返ると、彼女はこちらを見ていた。奇妙な表情であった。それは、同情心から相手を、その場限りの建前で慰めようとしてする表情ではなかった。
「何がとか、どうしてそう言えるのか、とまではうまく言えませんが。だけど。充分、だと思いますよ。私は」
彼女の表情は、呆れ半分、諦め半分を含んだ、微笑みであった。まるで、友人や家族の大失敗を、仕方なく許すかのような表情であった。
友人でもない、ましてや家族でもない赤の他人にそんな表情をする彼女を、不思議に思いながら見ていると、彼女は続けて言った。
「それでも納得がいかないのなら、後はあの世で奥様に謝ってから、ぼこぼこに殴られればよろしいですよ。そうすれば、その苦しみも悩みも、きっと晴れますから」
「……ッ。」
いつか、妻と娘に、あの世でぼこぼこに殴られること。
自身がいつも胸の内で望んでいたことを言われ、一瞬息をつめた私に、彼女はにこりと笑いかけた。そして、すっと前へと歩み出ると、先程までライラックのあった場所にしゃがんだ。
彼女は地面から何かを拾い上げると、それを手に持ち、私に問いかけた。
それは、ライラックの小枝だった。
「これ、いただいても?」
「え、ええ、よろしいですが……そんなものを、何に?」
「内緒ですよ」
彼女はいたずらっぽく、笑った。
まるで、いたずらっ子が、小さなたくらみを隠す時のように。
『おとーさん』
こんな表情を、実の娘から、かつて向けられたことを思い出す。
それは、娘の顔を面と向かって見られなくなる前の、はるか昔の事。
『ないしょ』
くくくと笑い、背に何かを隠す娘。そのかつての他愛ない日々の笑顔と、目の前の女性が重なって見えた。
そのことは、先程心の中に芽生えた霞のような何かに、疑念と言う実体を取らせるには、充分な出来事であった。
「それでは、いただいて帰りますね」
女性は私の前まで戻ると、お礼を言い、頭を下げた。そして、屋敷をぐるりと懐かしむかのような目で見た後、庭に視線を戻し、そして再び私を見た。
彼女は、笑った。少しだけ、寂しそうな色がその目に映ったのは、疑念を、確信に変えるのには充分であった。
「では、私はこれで失礼いたします」
女性は、私に再び頭を下げると、踵を返した。
「待ってくれ!」
私は、慌てて立ち上がった。だが、よろけて椅子のひじ掛けにもたれかかった。
彼女は立ち止まると、そんな私を振り返らず、言った。
「幸せですよ。私は今」
「……」
彼女が、自身の腹を愛おしそうに撫でたのに、私はハッとする。
「とても。とてもとても長かったですが、積年の想いも叶いましたし。」
「……? ………ッ!」
その言葉の意味に気づき、驚愕する私に、彼女は肩越しに振り返って微笑みかけた。
「だから、もう恨んでもいない。憎んでもいない。それに……ずっと、見てきたから。もう充分、気持ちは受け取ったから」
「……そうか」
ほう、と長い息をついてから、私は立ち上がった。立ち上がって、彼女に向き合った。
そして、微笑み返した。
「体を、大事にな」
「……ええ、あなたも」
彼女はふふふと、笑った。
「くれぐれもお体をご自愛ください。きっとあなたの奥様は、拳を鍛えて待っているでしょうから。
体力を残しておかなくては、きっとすべての拳を受け止めきれないでしょうから。」
「ああ、そうさせてもらうよ」
私は、静かにほほ笑み、頷いた。
「では、それでは」
「ええ、それでは」
きっと、もう、今生で彼女と出会うことはないだろう。
だけど。
――また、いつか。
私は、再び庭を向いた。遠ざかっていく彼女の気配を背に、目を閉じ、ほほ笑む。
彼女もまた、同じことを思っているのだろうと、感じながら。
「弥生! まったく君って人は!」
私は、しょんぼりとして正座している妻を前に、やりづらく思いながら、それでも怒っていた。
「君はもう、自分一人の体じゃないんだよ。なのに、わざわざ柾さんとこの神社まで、妊娠のご報告だって?!
まったく、君の信仰心には感心するけれど、神様だって、そんな体で、しかも車で、高速道路で三時間もかかって来られたときちゃ、ひやひやして報告なんてまともに聞けたものじゃないよ!」
「……すみませんでした」
仕事から帰ってみれば、いつもならすでに帰っているはずの妻がおらず、一時間ほど遅れて帰ってきた妻を問い詰めれば、地元の神社にお参りに行っていたとの返事。私は驚き呆れるとともに、自身の体の事を考えない行動をした妻に怒りを覚えた。そして、お説教をしている今に至る。
「柾さんと桜さんだって呆れていたでしょう?」
「おっしゃる通りにございます……」
いつもにも増し、素直に反省している妻。屁理屈が大好きな妻が、一切反論してこないことに、さすがに妊娠中にうかつにする行動ではなかったと、心から反省しているようであった。
だから、私も、ふうとため息を一つつくと、怒りを収めることにした。
「まあ、とにかく何事もなくてよかった。夕飯はもう私が作るから。君はお風呂にお湯を入れてきて」
「うん。あっ、でもちょっとその前に」
妻は、脇に置いてあったビニール袋の中から、何かを取り出した。それは、植木鉢と園芸土の小袋、スコップに可愛らしいゾウさんのじょうろであった。そして、カバンの中から、何やら小枝を取り出した。
「これ、一緒に植えないか?」
妻に誘われ、マンションのベランダで植木鉢に土を入れていた私は、先程から不思議に思っていたことをついに問うた。
「弥生。君、小さい頃から、あそこの屋敷のライラックが好きでよく庭をのぞいていたのに、あの人に見つかりそうになるとすぐに逃げていたよね。なんだって、今になって話しかける気なんかになったんだい?」
まあ、妻が逃げていた理由はなんとなくは分かる。自分が産まれる前の話なので直接知っている訳ではないが、あの屋敷の住人は、昔に大きな事件に関わってしまったらしく、あまり良い噂を聞かない。だから、関わりたくなかったのだろう。
だが、私は密かに、あの男性は、噂通りの悪い人でもないだろうと思っていた。昔、妻に付き合わされて、幾度もあの屋敷の傍へと連れられて行ったが、その時、何度かその男性を見かけた事がある。その男性は噂が作り上げた偶像とは違い、どこにでもいそうな老人であった。だが、彼は、いつも寂し気な顔をしていて、ライラックの木を見上げては何かを話しかけているようであった。そこだけが、奇妙で普通ではないように感じていた。
とにかく、そういう事なのに、妻が今になってあの男性に話しかけた理由が、なんとなく気になったのだ。
「……まあね。あの家、解体されるんだって。あの人、あそこからいなくなってしまうから。その前に、一度話してみたかったんだ」
「ふうん……」
妻の表情にはどことなく、何かを隠しているような気配がしたが、私はなんとなく聞かなくてもよい事のように思えて、口を開くのをやめた。その代わりに、もう一つ、先程から疑問に思っていた言葉を口にした。
「それにしても、なんで、もっと枝をもらってこなかったんだい?」
妻は、その男性からライラックの小枝をもらってきたようだが、なぜか一枝だけ。そのライラックが好きだったことはよく知っているからこそ、確実に挿し木で増やそうと思うのなら、もう少しもらってきても良かったのではないか。
「まあな、賭けみたいなものだよ」
「賭け?」
首を傾げる私に、妻はいたずらっぽく笑った。
「冬樹との、大切な思い出をな。これからも積み重ねて増やしていけるかどうか、ってな」
「なあんだ、そんなこと」
私は、当然だと言わんばかりに、妻の肩を後ろから抱いた。すると、表情は見えないが、とても幸せそうに笑っているのが感じられた。
「じゃあ、挿すぞ」
「うん」
妻は、小枝を植木鉢に挿した。そして、私は、小さなゾウさんのじょうろで水をやる。来年の春には生まれてくる我が子も、数年後にはこうやって水をやってくれるのだろう。
「でもライラックって案外大きくなるからね。いつかは庭のある家に越さないと。家族も増えていくし、子供には広い所でのびのびと育ってほしいしね。そのためにも貯蓄貯蓄、だね」
「よく言うよ。神職の給与なんて、営業マンに比べたら、雀の涙だもんな。はてさて、あと何百年かかるやら」
「こーら、失礼な」
こつんと、妻の頭を殴る真似をすると、妻はけらけらと笑った。
「まあ、大丈夫さ。いざとなったら、柾の所で働かせてもらったらいい。がっぽり給料を出すように脅しておくから」
「なんで、君はいつも、柾さんにそんなに辛辣なんだい……?」
私が呆れながら言うと、彼女はさあ? と肩をすくめて答えた。
「腐れ縁だからじゃない?」
「腐れ縁って……」
私はため息をつくと、「まあ、」と言った。
「いつか、またあの町に戻りたいのも確かだけどね」
「田舎だから、ここに比べたら地価もかなり安いしな」
「まーた、現実的な事を言うね。君は」
ぴんと、妻のおでこを指ではじく。妻は反省の様子もなく、くすくすと笑っている。
私はふうと息をついて立ち上がると、ベランダから街を見下ろした。既に日は落ちて、キラキラとした明かりが、闇の中に次第に増えていっている。
この街を超え、山を越えた遥か向こうに、あの町の、あの地がある。
私たちが出会い、私たちが過ごし、私たちが愛を育んだ、あの地が。
平穏で、だけど、幸せな日常を過ごした、あの地が。
「……」
急に視界に景色が差し込んだ気がした。涙の跡の残る写真に、ライラックの若木、そして女性と白いウサギ。
空を見る。なぜか、見なければならない気がしたからだ。
都会では、新月でもない限り、星はほとんど見えない。だが、明るく輝く満月は、静かに私たちを照らしてくれている。
あの夜は、寂しく、冷たかった。しかし、今はこれほどにも暖かく、幸せだ。
「あなたを、愛しています」
妻を振り返り、どうしてだか、口からその言葉がこぼれた。妻は少しだけ驚き、しかしすぐに笑顔になって立ち上がった。
「私も、愛しています」
妻は私に抱きつく。私はそれを抱きとめ、土だらけの手で、それでもかまわずに彼女の頭をかき抱いた。
「なんでしょうか、この気持ちは」
妻の香りで体の中を満たしつつ、目を閉じてほほ笑む。
「とても、満たされた感じです」
ライラックの小枝から、月の光をはらんだ雫が、二人を映しぽとりと落ちる。
それは、若木を育む土の上に確かに落ち、染み込んでいった。