「ほら、ここが拝殿って言うんだ。この建物の向こうにもう一つ建物があって、そこに神様が住んでいるんだ」


 賽銭箱の前で、男の子に説明する。男の子は、奥を見て、不思議そうに言った。

「声もしないし、誰もいなさそうだよ? 本当にいるの?」
「いるよ、見えないけれど、本当に」

 ふと、あの夜のことを思い出して。
 何だか切ない思いがこみ上がってくるのを無視して、俺は笑顔で言った。

「おじさん、ここでお仕事している人だよね? 神様に会ったことがあるの?」
「う~ん、会ったことはないかなあ……」

 その存在を感じたことはあるが、とは言えなかった。
 そもそも、あんなこと、誰かに言っても信じてもらえるようなことではないし、信じられて真似されても困る。
 この神社で、願いの代価で犠牲になるのは、あいつで終わりにしなければならない。
 だから、あの夜のことは、俺たち家族以外には、絶対に知られてはいけない。

「神様は見えないからね。向こうからは見えていても、こっちからは見えないから、会えないんだ。だけど、ちゃんと聞いてくれているから、あいさつしようね」
「うん、わかった。神様~こんにちは~初めまして~」

 男の子は、ヤッホーと叫ぶように、口の横に手を当てて、言った。

「……」

 うっかり、俺はずっこけそうになった。けれど、改めて思い直す。
 俺は、普段から、この子と同い年ぐらいの、あの女の子ばかり見ているから、
 この年代なら、きちんと参拝の作法を身に着けているはずだと、思い込んでいた。
 けど、実際、あの女の子が特別なだけであって、こういう言動をする方が普通なのだろう。

「君、神様へのあいさつの仕方はね、人間と同じじゃ駄目なんだ」
「そうなの?」

 男の子は、きょとんとして俺を見た。

「うん、そうなんだ。あのね、まず、お賽銭といって、ここへお金をを入れるんだ。何円でもいいけれど、五円玉がよく『ご縁がありますように』って、入れられるね。それから、二回お辞儀をして――」

 俺は、参拝の作法を教える。
 教え終わったとき、ふと、男の子の目が、ぼんやりと拝殿の奥を――どこか遠くを見つめているかのように見ているのに――気づいた。

「……あれ、なんでだろ……僕、それ、知ってる……」

 すると、次の瞬間、男の子の気配が変わった。
 目の前の、幼いはずの男の子が、背筋を伸ばし、すっと前へと進み出て、二度お辞儀をし、二度手を叩いた。

「神様いつもお恵みをいただき、誠にありがとうございます。私は、〇〇区、〇〇町、〇番地に住む、三枝フユと申します。この度は、お願い事があって参りました」
「……ッ!!?」

 俺は、驚愕に目を見開いた。
 男の子が、急にすらすらと話し始めたことは当然だったが、言わずもがな、その内容である。
 そんな俺の前で、男の子は、何かに憑りつかれたかのような目で、続ける。

「……もしも、もしも、本当にそこに居られるなら、――御柳柾の命を救ってはいただけないでしょうか? 私は、あの男に、死んでほしくありません。
……あの男の命を……「……それ以上ッ、言うなあッ!!!」

 俺は、あいつの、肩をつかんだ。
 あの日、あと少しで掴めなかった、その肩を。
 あの日、届かなかった声が、今度こそ、ちゃんと届いて――。


 しかし、男の子はきょとんとして、こちらを振り返った。


「おじさん、どうかしたの?」
「……えっ…?」

 不思議そうに、首をかしげる男の子を前に、俺は思わず目をこすった。
 男の子は、先程、財布を手提げから取り出した時の姿勢のまま、固まっている。
 俺は、夢でも見ていたのだろうか。
 確かに、こんなに何もかも知らなさそうな男の子が、急にすらすらとあんな言葉を言うはずがない。
 最近、疲れ気味だったからな。きっと昔の記憶が、白昼夢となって、男の子とかぶさっただけだ。

「ごめんね、ちょっと、眩暈がしただけだよ」

 男の子の肩から、手を離すと俺は、ぽんぽんと頭を撫でてあげた。
 男の子の、薄茶色のふわふわの髪の毛は、柔らかく、まるで羽毛のようだった。

「じゃあ、あいさつをしようか」
「うん!」

 気を取り直して言う俺に、男の子は頷くと、財布から五円玉を取り出した。
 賽銭箱に投げ入れると、からんころん、と音を立てて落ちた。
 男の子は、教えた通り、二回礼をした。
 そして、手を一度叩いて――


 その時、背後から風が吹いた。柔らかな、春の風だった。
 御幌がふわり、ふわりと揺れる。
 その風に乗り、桜の花びらが拝殿の中へと吹き込む。


 桜なんて、まだつぼみ――。


 俺がハッとしたその時、後ろから、ハアハアと、息を切らして誰かが走ってくる気配がした。
 俺は振り返る。そこには、汗だくで、真っ赤な顔をした女の子――毎日、神社にお参りに来る女の子がいて――。

「フユッ……!」

 女の子は、駆け出し、男の子に飛びついた。
 男の子を抱きしめ、わんわんと泣く。

「会いたかった…ッ。」
「ふぇ……?」

 抱き着かれたまま、ぽかんとしている男の子。

 だが――

 男の子の手から、手提げがするりと落ちた。
 顔をのぞかせる『人魚姫』の本――。

 ふと、その顔つきが急に大人びた気がして――。

 その時、雲一つないはずの空に、轟音と光が迸った。


「……ッ?!」

 次の瞬間、青空から、花が、花の雨が降ってきた。
 それは、あの日、あの夜見たものと同じ、桃色の花だった。
 空間が、花と香りで埋め尽くされる。


「……ッ、お父さん…ッ、大変、なにこれっ……!?」

 桜が、すっ転びそうになりつつ、社務所のほうから走ってきた。
 しかし、俺が子供たち二人を呆然と見ているのに気づくと、自らも、何かに気づいたかのように、そちらを見た。

「花が降る……」

 桜はつぶやき、「まさか」と言った。

「あの子、いや、あの子たち……」
「ああ……」



「そのまさかだよ」



「フユ、私はッ……」

 何かを言いかけた、彼女の口を、彼は親指を押し当てて、ふさいだ。
 そして、何かを彼女の耳元でささやいた。
 驚いた顔をして、彼の顔を見る彼女。
 そんな彼女の顔を見て、彼はどこか切なそうに笑うと、

「……きっと、これが、最後で――最初です」

 彼女の頬に手をやり、
 彼女の口に、唇を重ねた。

「……しょっぱいですね。こんなにも、私のことを思って泣いてくれるんですか。嬉しい限りです」
「……フユ……」

 彼は、唇を離すと、愛おしそうに彼女を抱きしめた。

「あなたの頬も、唇も、体も、これが、柔らかく、暖かく、いい香り、というものですね。……ああ、あなたの何もかもが、愛おしい」

 彼は、彼女の肩に顔をうずめるかのようにして、かき(いだ)いた。


 ふと、降り続ける花の勢いが、弱まり始める。
 彼は、名残惜しそうに顔を上げると、もう一度彼女の顔を見つめ、こちらを見た。

「柾、桜さん」

 彼は、笑った。とても嬉しそうに、笑った。

「幸せに、生きてくれて。――ありがとうございます」

 その間、きっと五分もなかった――。



花の雨が止んだ。



 現実離れした現実に、夢でも見ていたのだろうか、と桜と顔を見合わせる前で、男の子もまた、元の戸惑いの表情に戻った。
 そして、激しく泣き始めた女の子を、体にくっつけたまま、「おじさん、助けてぇ……。誰この子……」とこれまた、自分も泣き始めた。


「……」


 からん……。

 何かが落ちる音がした。
 俺は、どこか、狐につままれたかのような心地のまま、それを拾いに行く。
 絵馬掛所の下に落ちた絵馬。それを拾い上げる。

『フユにいつかまた、巡り合えますよう。
そして、今度こそ、ずっと、一緒にいられますよう。
そして、今度こそ、ずっと、ずっと、幸せでありますよう。』

 絵馬が、空気に溶けるかのように、粒子になって消える。後に残されたのは、焦げて、古ぼけた写真。
 裏返すと、『あなたを、愛しています。』の、あいつの字と、
 その隣に書かれた『私も、愛しています。』の、へたくそな字――。


「……ははは」

 俺は、空を見上げて笑った。
 心の底から嬉しくて、笑っているはずなのに、涙が止まらなかった。

「お父さん……」
 隣にそっと寄り添いに来た桜も、目から絶えず涙を流している。俺は頷くと、再び空を見上げて言った。


「神様、あんた、」


 泣きながら、俺はくすっと笑った。


「……ほんっと、イケメンだな」


 照れたほっぺの色のつぼみが、返事をするかように、そっと揺れた。