「フユ。行くぞ」
「はい…」

 着替えたハル様の父親が、玄関で待っている。私は返事をしてから、後ろを振り返った。
 きっと、この屋敷とも、今日で最後のお別れだ。私は、使用人さんたちに挨拶をして、家の中をじっと見つめてから、玄関へと向き直った。

「……本当に持っていくのは、それだけでいいのかね。」
「はい……」

 私は、あの写真立を紐で結び、背中にしょっていた。

 ハル様と共にいたという、
 ハル様が私を愛してくれていたという、
 唯一の証。

 私にとっては、これだけで、充分だった。


「さあ、行こうか」

 彼が、扉を開けた時だった。
 外で、車が荒々しく止まる音がした。

「……っ、なんでこんな時にッ……!」

 彼はいったい外に何を見たのか、慌てて扉を閉めて、鍵をかけた。
 状況を理解できず、不思議に思っている私を、彼はつかむと、使用人の一人に押し付けた。

「フユを隠せ! はやくっ!」
「はいっ……!」

 ぴんぽん、ぴんぽんぴんぽん、ぴんぽーん

 インターフォンの音が、けたたましく鳴る。
 訳の分からないままの私が、使用人の女の子に抱かれ、二階へと連れられて行った時だった。
 玄関の扉が、開いた。
 開いたというより、ものすごい衝撃音を立てて、蹴破られたのが分かった。

「は…っ?」

 何が何だか理解できない私を抱きしめ、使用人の女の子が、悲鳴を上げてその場に腰を抜かした。


「篠原社長、急に来て、いったい何なんです?!」

 階下から、慌てるハル様の父親の声が聞こえた。

――篠原社長?

 そいつは確か、彼女が結婚させられた相手のはず――。


「お久しぶりですねえ、お義父さん。お元気ですかー? と言いたいところですが、この度あんたの娘に一杯食わされたことが判明いたしましてね。こっちはそういう和やかに挨拶ができる気分じゃないんですよ」

 ごすっと、何かを蹴る音がして、ハル様の父親のうめき声がして――彼がその男に蹴られたことを知る。

「おやめください、篠原様……きゃあっ!」
「うるさい、黙れ。邪魔だ!」

 使用人の誰かが、男の暴挙を止めようとして、殴られたことを音で知る。

「あの女の部屋はどこだ? ……ほかに何か残ってないか、調べつくしてやる。あの(アマ)にしてやられたままじゃ、気が済まねえ」
「ハル様の部屋など、もうとっくに片付けてしまって何もありません! お帰りください!」
「うるせえ、しらばっくれんじゃねえ!」
「きゃあっ……!」

 勇気を振り絞って叫んだらしい使用人は、バチンという音と共に倒れたらしかった。


「……早く逃げないと……フユちゃんを守らないと……」

 腰を抜かして、歩けなくなってしまった哀れな使用人の女の子は、それでも這って逃げようとした。
 しかし無情にも、階下から、荒々しい足音がのぼってきて――
 それは、二階にたどり着くなり、止まって――
 その足音の主は、動けなくなっている使用人の女の子を見つけると、こっちへと真っすぐ向かってきたのであった。

「何、逃げようとしてるんだよ。傷つくなあ。()は世間では、抱かれたい男ナンバーワンで通っている、優しくイケメンな社長だと言うのに。ん……?」

 男は目ざとく、私を見つけた。

――そして、嗤った。


 かつて、この男を写真やテレビで見た時は、怖いくらいに綺麗で、清廉な好青年だった。
 様々な、慈善事業を行い、人々から感謝される姿も、様々なメディアで紹介されていた。
 黒い噂もあるにはあった。
 だけど、もしかしたら、と、私は、彼女の幸せを期待したこともあった。

 だが、今、目の前のこの男は、
 金の匂いに、名声への欲望に、
 おぞましく、醜く、顔をゆがめる、


 化け物以外の、何物でもなかった。


「あの(アマ)ア……まだ、こんな良い物を隠し持っていやがったのか。はは~ん、良いね、良いねえ。ペット型ロボットか、これは売れるぞ~。」

 男は、私を掴もうと、手を伸ばしてきた。その時、固まったまま動けない私を、ぱっと投げ飛ばした者があった。

「フユちゃん、逃げて!」
「このくそアマ!」
「きゃあっ」

 男は、使用人の女の子を蹴り飛ばすと、こちらへと向かってきた。私は慌てて逃げる。しかし、男は走って私を追いかけてくる。

「あれれ~、うさちゃん。どうして逃げるのかなあ? ()は、こんなにも優しいお兄さんだって言うのに~」

 爽やかに笑いつつも、その笑顔の下には確かに、下卑た本来の顔を隠している。
 そうやって追いかけてくるその男の姿は、恐怖以外の何物でもなかった。

「ハル様、ハル様…っ! 助けてくださいっ…!」

 私は、思わず叫んでいた。しかし、そんなことを言ったところで、誰も助けてくれるはずもない。
 だけど、怖かった。
 だけど、恐ろしかった。
 そう叫ばずには、いられなくなるほどに。

「うさちゃん、話せるんだねぇ。だけど、残念。あの女はとっくにあの世に行っちゃったんだよ? 誰も助けになんて来ないから、あきらめてお兄さんと一緒に行こう?」

 まるで、公共放送の幼児教育番組のお兄さんのように、歌いかけるかのように話してかけてくる男。
 先程までの言動との大きな乖離に、これがサイコパスかと、思った。


 苦手な階段を何とか駆け上がり、三階まで登り切った。自然と足は、彼女の部屋へと向かっていた。彼女は、もういない。守ってなんてくれない。
 だけど、勝手に足がそう動いた。私は、扉の下に付けられたペットドアから、部屋へと飛び込んだ。

「うさちゃん、どこかな~? 返事して~?」

 この部屋へと逃げ込むところを見ていたはずなのに、逃げ場のなくなった獲物を、なぶるかのように足音をわざと立てて近づいてくる男。

 ハル様……ハル様……。

 私は背から写真立を下すと、写真を見つめた。笑顔の彼女がそこには居る。

 私は、もう駄目なのか。
 私は泣きそうになった。
 写真立を抱きしめる。


――私からの最後の頼み。


 ふと、彼女の声が聞こえた気がした。
 きっと気のせいだ。きっと極限状態が生み出した、幻聴だ。


――返事をさ。あの世で聞かせてくれないか? ――いつかあの世で返事を聞かせてほしい。


 幻聴でもよかった。
 彼女のその言葉は、
 私に最後の勇気を奮い立たせた。


 私なんかを好きになってくれた人。
 私なんかを愛してくれた人。


 命を懸けて、私を守ってくれたその人に、
 私の、最期が、こんなにも情けないものだったと、
 私が、ただただ震えて捕まっただけだと、知られたくなんかない。


 どうせ、駄目だとしても、
 どうせ、捕まって解体されるとしても、
 そして、どうせ、無に帰るとしても。

 最期のその時まで、情けなくあっては、駄目だ。


 だって、

 この命は――たとえ命なんか私にはなかったとしても――この命は、


 彼女が救ってくれた、たった一つの、
 誇らしく、大切なものだから。


 そう思うと、頭がすっと冷えた気がして。
 私は、覚悟を決めた。