その日の夜。
 私は数年ぶりのハル様の部屋で、一人過ごしていた。


 押し入れから引っ張り出したアルバムのページをめくっていく。
 だけど、そのほとんどが、写真の抜き取られた後のページで、一緒にとった写真は一枚も残っていなかった。

「ほんっとに、優しい、馬鹿な人だ……」

 ぽつりとつぶやく。彼女のことだ。きっと、あの社長(おとこ)に絶対に、私のことが知られないようにするために捨てたのだろう。
 彼女の思いは、痛いほど伝わった。嬉しく、けれど、彼女と共に過ごした日々の証が何もないのは、とても寂しく切なかった。
 先程から、ほぼ白紙のページをめくり続けているのは、『一枚だけでも』と切なる願いがさせている行動であった。無意味な行動とは知りつつも、そうするのをやめられなかった。

「やっぱり、ないですね……」

 私は最後のアルバムをぱたんと閉じると、ふうとベッドの上に寝転がった。
 柔らかな布団。かすかに残る彼女の匂い。
 そのどれもが、数字として、データとして頭に流れてくる。それが今日は、ひときわ悲しく思った。

「……なんで、私は、人間に生まれなかったんだろう」

 抱きしめてくる彼女の温かな体を、
 ふわりと香る、彼女の髪の匂いを、
 彼女が流す、涙が口に入った時の味を、
 何故私は、感じることができないのだろう。

 ふと、ベッドわきに、写真立が置いてあるのに気づき、私は何とはなく、それを手に取った。
 入っていたのは、ライラックの写真だった。あの日植えた、桃色のライラックが咲いている写真だった。
 先程、庭で見た時には、まだ、もみ路さんより少し高いぐらいの背丈だった。
 この写真は、もう少し背丈が低いころの写真だ。

「……」

 私は、この木を植えたすぐ後に、彼女とケンカ別れをし、柾の元へと行ってしまった。
 だから、この木の花が咲いたところを、実際に見たことがない。

「……」

 私は何とも言えない、切ない気分になって、再びベッドわきにそれを立てようとした。しかし、その時手が滑って、床に音を立てて落としてしまう。

「しまった……あれっ?」

 写真立の裏蓋があいて、写真が出てきていた。落ちている写真は、二枚。
 私は、不思議に思いながら写真を拾って――息を詰めた。

「……」

 それは、私と彼女が、共に映っている写真だった。
 桃色のライラックを植えた直後の写真。植えたばかりのライラックを横にして、彼女がピースをして笑っている。
 一方の私は、彼女にじゃれて掛けられた土まみれで、不服そうな顔で、彼女を見ている。

「……」

 写真の淵は、ボロボロであった。
 そして、写真の表面には、いくつも不自然に丸い盛り上がりがあった。

「……涙の跡」

 何度も出して、見て、泣いていたのだろう。
 私は、どこか呆然とした心地のまま、写真を裏返した。
 そして、私は、息が止まったかのような心地がした。

――あなたを、愛しています。

 ただ一言、そう書いてあった。



「ハル様……」
 私は、言った。

「ハル様、ハル様、ハル様……」
 彼女の、声もなき思いが、一度に押し寄せた気がして――
 彼女の名以外、何も言えなくなった。


 いたずらが成功して、意地悪く笑う彼女。
 使用人に怒られて、しょんぼりする彼女。
 図星を刺されて、怒る彼女。
 嫌いな料理を、強がって食べる彼女。
 私の頬をつついて、ほほ笑む彼女。


 どうでもいい、ただの一瞬の何もかもが、かけがえのない瞬間で、
 平凡な、ただ過ぎ行く毎日の何もかもが、温かく大切な日々で、

 そんなめくるめく時間の中で、

 彼女が何よりも大事で、
 彼女が何よりも大切で、

 彼女は、
 私にとって彼女は――


 私は、絞り出すように言った。

「私も、愛しています……」

 写真を抱き、ボロボロとこぼれ出る涙をぬぐうこともできず、叫ぶ。

「愛しています! 愛してます……!」

 窓から見える月に、叫んだ。だけど、返事などない。当たり前だと分かっていても、やめられなかった。そうしなければ、自分は、自分は――


 今更、何もかもが遅すぎた事に、押しつぶされてしまいそうだったから。


「愛しています……。愛しています……!」

 私は狂ったように叫んだ。否、本当に狂ってしまえた方が、まだ楽だった。

「大好きなんて言葉じゃ足りない。月が綺麗ですねなんて言葉じゃ足りない……。私は、私は、あなたのことが、

自分の事よりも大切で、
この世に生きている誰よりも大切で、
あなたが悲しければ、私は悲しくて、
あなたが楽しければ、私も楽しくて、

あなたが幸せだったら、私も幸せで……
あなたが不幸なら、それを救ってやりたいと思う……。

私の中身は、あなたのことでいっぱいで、
いつも、あなたの事ばかりで、
あなたの存在が、私の存在意義で……
だから……だから……」

「愛しています……」

 私は月を見たまま、その場にへたり込んだ。


 時間は、待ってはくれない。
 この気持ちに、想いに、気づくまで、という情けなど、かけてはくれない。
 たいてい、大切なことに気づくのは、
 全部
 何もかも
 取り返しのつかなくなった時だ。


 私は、彼女にはもう二度と会えない。
 私には、死後の世界など、ない。
 私が死んでも、彼女には会えないし、
 そもそも、死んだ次の瞬間には、私は無だ。

 彼女と笑いあったことも、
 彼女を愛おしく思ったことも、

 こうして悲しんだことも、
 後には何も残らない。ただの無、だけがそこにある。


「……愛してます……」
 だから、この言葉など、彼女にもう二度と会えない今となっては、


――まったく何の意味もない、空虚な叫びだ。


「ははは……ははは……」

 私は乾いた笑いを上げて、仰向けになった。

「ははは……」

 もう笑うしかない。私には、永遠に、この言葉を、彼女に伝えるすべがないのだから。

「この世になんて、生まれなきゃよかった。人の心なんて、知らなきゃよかった。

そうでなければ、無に帰る事の恐ろしさを知らずにいれたのに……。
そうでなければ、無に帰る事の悲しさを知らずにいれたのに……!
ロボットのくせに器械のくせに、人間の心なんて知って、私は、馬鹿ですよ……。

そんなことしなければ、
愛しい人と永遠に会えない悲しみを、
そう思うこの気持ちすらも、いつかは無になってしまう恐怖を、知らずにいられたのに……!」

 私は、泣いた。泣き続けた。
 夜通し泣いて、泣いて、ふと気が付いたときには、東の空が白んでいた――。