病院につくと、柾は私をつかんで、飛び込むように中へと入った。だが、慌てた看護師たちは、私たちを彼女の元へと通してはくれなかった。
 身内でなければ、会わせることはできないと繰り返すばかりで、まったく話にならなかった。


『……』
 どうしたらいいのか、と不安に思う私を、柾は何を思ったか、床へと落とした。
 看護師たちは、私には気づいていない。頭上で医者や看護師たちと言い争っている柾は、手だけで『行け』と合図する。

「……」
 私は、柾に感謝しつつ、廊下を走る。その先には、彼女がいるらしき、病室があった。
 その病室は、いわゆる集中治療室、というものだろう。閉め切られていて、とても、入れそうにはない。……と、ふと、目の前を看護師が通った。どうやら、部屋の中に入るらしい。

「……」
 私は、慌てて看護師を追いかけると、扉を開けるのと同時に、部屋に忍び込んだ。看護師が部屋を再び出るまでの間、私は、そばにあった機材の後ろに隠れていた。

「……」
 看護師が出て行ってしまうと、恐る恐ると私は出て、ベッドのほうを見た。
 そこには変わり果てた姿の彼女がいた。体中のほとんどが、赤く染まった包帯で巻かれ、あちこちに管がつながれていた。

「……ハル様」
 ベッドによじ登ると、私は呼びかけた。
 ずっと会いたかった、彼女。やっとのことで、会えた彼女。
 しかし、彼女は、ぼんやりと目を開けて、窓から夜空を、何かを探すかのように、見ていた。

「……ハル様」
 もう一度呼びかけると、彼女は、ゆっくりと私を見た。

「フユか……幻覚か?」
「幻覚じゃありません、本物です」
 すると彼女は、虚ろだった目に、光を宿した。
 そして、ふっと笑った。

「久しぶりだな……」
 彼女は、ちょっとだけ目をそらして、言った。

「……あの時は悪かった。ずっと謝りたかった。ごめん。いい歳してるのに、自棄を起こしてな……。思ってもいないのに、あんな事を言って、お前を傷つけてしまった」

 そして目を閉じると、ため息まじりに言った。

「子供っぽい癇癪などおこさずに、もっと冷静に考えればよかった。そのせいで、お前を傷つけて、自分も傷つけて……。
……私って、体だけ大きくなって、結局何もかも不器用な子供のままだったんだな……」

 悲しく笑う彼女に、私は首を横に振る。

「……もういいですよ。私も、偉そうに言いました。あなたの気持ちをもっとよく考えて、そっとしてあげるべきでした」

 私も「ごめんなさい」と頭を下げた。すると、彼女は自由に動かない腕を、それでも動かすと、私を撫でた。


「私は、これから死ぬんだな」
「……はい」


 彼女に嘘は通じない。私は、泣きたい心地になりながら頷いた。すると、彼女は、寂しそうに、しかし、おかしそうに笑った。

「お前は、本当に、なんで人間に生まれてこなかったんだっていうぐらい、人間だな。私みたいな人間のために、泣くことなんてないのに」
「泣いてませんよ、涙腺なんてありませんもの」
「こんな時まで意地を張るなよ、泣きそうな顔してるくせに」
「そうプログラミングされているだけですってば」
「まだ私の言ったことを気にしてるのか? かわいいやつだな~」
「……正直言うと……機能上涙は出せませんが泣きたいです。ってか、あなたが、気にすることを言ったくせに……」

 うりうりと片腹を指先で小突いてくるハル様を、じとーっと睨めば、彼女は「ごめんごめん」と苦笑いした。そして、真面目な顔をして私を見ると、言った。

「フユ、ありがとな。色々あったけど、今までずっと、私の傍にいてくれて」
「……ずっとじゃありません。三年ほど会ってないじゃないですか」

 何だか、そんなことを言われたら、本当に彼女がいなくなるという現実を突きつけられている気がして――私は、少し悪態をついた。
 そんなことをしても、状況が何も変わらないのは、分かってはいても、そうしないではいられなかった。
 しかし、それでも彼女は、笑顔のままだった。

「会ってないときだって、お前はずっと私の心の支えになってくれた。だから、私にとっては、この十四年間、ずっとお前と一緒に居たんだ」
「……」
「いつだって、お前がいるから。同じ世界に、同じ空の下に、お前がいるから、頑張れたんだ。
いつか謝るんだって。そして、またいつか、一緒に楽しく暮らすんだって思って、頑張ってこれたんだ」
「……」
「全部、お前のおかげだよ」
「……ハル様」

 彼女は、私の頭をわしわしと、撫でた。毛並みが乱れたのを見て、彼女はおかしそうに笑う。この笑顔も、もう今夜で最後なのだろう。私には愛しく、悲しく映った。

「そんな顔するなって、もう」
 しかし、彼女はあっけからんと、楽しそうに言った。
 それから、ちょっと遠い目をして、言った。

「それにしても、この十四年間、色々お前と楽しいことをしたなあ。ひまつぶしに爆弾を作ったら、失敗してうっかり部屋爆発させたり。
お前と競争させようとを亀をつくったら、凶暴なのができて、屋敷中暴れまわった挙句、お前に銃撃しだしたし」

「ロクな思い出、ないじゃないですか……?」

「そういうのも、今となっては、良い思い出なんだよ」
「……どこが?」
「……ははは。そういう顔を待ってました」

 彼女は、くすくすと笑った。初めて見る、素直で屈託のない笑い。


 最期だからこそ、意地も心の重りも、何もかも、取り払えたからこそ、
 私が、私だけが、見られた顔だった。


「なあ、フユ……」
「……もう無理して話さなくていいですよ」

 呼吸の乱れが、隠せなくなってきた彼女に、私は無理やり笑顔を張り付けて言った。

「私はずっと傍にいますから」

 一分一秒でも、彼女と長くいたい。話さないことで、ほんのすこしだけでも。
 ほんの少しだけでも長く、彼女と触れていたかった。
 だけど、彼女は、首を横に振った。

「お前とまた会えたら、あの時のことを謝って。そして、言いたかったことがあるんだ」
「……何ですか?」

 私は彼女の掌を両腕で抱くと、頬に擦り付けた。この愛おしい人の体温を、少しでも長い間感じていたくて。けれど、器械の体には、温度と湿度のデータ以外、何も伝わらなくて。

 彼女は、何やら、もごもごと口を動かしていた。そして、不安そうに――まるで、子供が親に頼みごとをする直前のような顔をして――こちらを見ていた。

「常識的な人間がこんなことを聞いたら、馬鹿にするようなことなんだ。……何よりも、お前に馬鹿にされるのが怖くて、言いにくいんだが……」
「あなたの言う事を馬鹿になんてしませんよ。誰が大切な人が言う言葉を、馬鹿になんてするもんですか」

 すると、彼女は、「そうか」と言って、安堵の笑みを浮かべた。
 だけどすぐに、気恥ずかしそうな顔になってしまった。不思議そうな顔をする私に、彼女は、観念したかのように、しかし、絞り出すかのように言った。

「月が」
――月?

 私は、今日は月が出ていないことに気づいた。
 代わりに窓からは、都会にしては、星が良く見えている。

「月が、綺麗ですね」

「……っ!」
 私は、驚いた顔をして、彼女を見た。


 そんな

 まさか


「……」
 固まる私を、彼女は愛おしそうに撫でつつ、しかし不安そうにこちらを見てくる。

「……今日は、新月、です」
 やっとのことで、言えた言葉に、彼女はクスリと笑う。

「お前の考えていることが、手に取るようにわかるぞ。『そんな、器械の私に』なんて考えているだろう?」
「だって……。それに、私なんかの、何が……」

 只の器械の私に、そんな恐れ多い感情を向けられるなんて、ありえない。それに、例え私が人間だったとしても、何故(なにゆえ)私などを選ぶのか。
 すると、彼女は、優しく微笑んだ。

「お前が、良いんだよ。お前は、私の傍にずっといてくれて、ずっと私のことを支えてくれた。……昔、柾が好きで、あいつの結婚の時に結構へこんだんだが、その時さ、気づいたんだ。私の傍には、まだお前がいるってことに。
そして、柾よりも、お前といる時のほうが、自分らしくいられるようになっていたことに。

何も気取らずに、共に過ごせる、腹を割って話せる、大切なたった一つの存在」

「……」

「この気持ちがはっきりしたのは、私が結婚してからだ。……お前だけが、本気で笑いあって、本気で喧嘩しあえる……。もしも世界が終わる時がきたら、他の誰でもない、ただお前と寄り添っていたい。……そんな大事な存在だったんだ」

 「気づくのが、遅すぎたな」と寂しく笑う彼女に、私は首を横に振ろうとした。
 けれど、器械の自身が――彼女の思いに答える資格もない空っぽの玩具(おもちゃ)が、そんなことをできるわけがない。
 ただ、黙ってうつむく私に、彼女は、それでもほほ笑んでいた。そして、私の頬を撫でると、あごに手を添え、自分の方を向かせた。

「……お前は、もう少し、うぬぼれたっていいんだぞ」
「うぬぼれ……?」
「自分は、器械じゃない、人間なんだって。うぬぼれて。もっと自分の存在を、気持ちを、自分の物として、大切にして。誇って、奢って生きてもいいんだぞ」
「そんな、私なんかが……」

 私は、小さく首を横に振った。そんな私に、彼女は「仕方ないなあ」と笑うと、酸素吸入器のマスクをずらした。慌てる私にかまわず、彼女は自身の唇に、親指を押し当てた。
 そして、彼女は、不思議そうに見ていた私の唇に――その親指を押し当てた。

「……っ」
「フフッ…お前。こういう時は、そんな顔をするのか……」

 驚いて、口を両手で押さえてどきまぎとしている私に、彼女は心底おかしそうに笑った。
 だが、苦しいのか、せき込んだ彼女。慌ててマスクを直す私に、彼女は「大丈夫だ」と呼吸を整えると、真剣な顔をして言った。

「これは、私からの最後の頼みだと思って聞いてくれないか?」
「はい……」

 私が返事をすると、彼女は続けた。

「返事をさ。あの世で聞かせてくれないか? 人間として生きて、自分の感情に素直に生きて。人間の気持ちをもっと知って。……お前は色恋なんて、考えたこともないだろうから。
私にできなかった――私がしなかった、広い世界を知って、色々な人間と出会って。その上で、私を選ぶかどうか、いつかあの世で返事を聞かせてほしい」
「……」


 あの世、なんてあるのだろうか。


 理不尽な人生を歩んできた彼女を、助ける者は誰もいなかったこの世。こんなこの世に、神さえ、いるかどうか分からないっていうのに。あの世なんてあるのだろうか?
 そもそも、あったとしても、器械の自分に、死んだ――壊れた後など、あるのだろうか?

 私にとって残酷な約束――。
 しかし、彼女の笑みを見れば、その約束を拒否することなど、できなかった。


「……分かりました」
 やっとのことで、頷くと、彼女は嬉しそうにほほ笑んだ。


「……これで、お別れだな」
「……ええ」

 彼女の脈はどんどん弱くなっていた。それでも、かろうじて平静を保っているのは、きっと私の為なのだろう。私に最後まで、心配をかけたくないのだ。
 それが彼女だ。どんな時でも、決して弱音は吐かない。
 頑固で、かたくなで、
 けれど、ただただ優しかった。


「ハル様……」

 言いたい言葉は、心にたくさん浮かんでくるのに、これから消えていく彼女を目の前にしたら、喉が悲しみに押しつぶされるようで、何も言えなかった。
 ただ、やっとのことで、一言だけ、はっきりと言えた。

「私は、あなたに出会えて、幸せでした」

 すると、彼女は、とてもうれしそうに笑って――


 そのまま目を閉じた。


「ハル様……ねえ、ハル様……?」
 力の抜けた手に縋りつく。だけど、彼女から返事はない。

「ハル様……ッ」

 私は泣いた。涙なんて出ない。ただただ、声の限り、叫ぶようにして泣いた。泣き叫んだ。
 そんなことしたって、彼女は蘇らないと分かっているはずなのに。
 再び、目を開けるはずもないことは、分かっているはずなのに。
 泣かずにはいられなかった。


 笑う彼女。
 怒る彼女。
 泣く彼女。
 照れる彼女。


 そのすべてが私の宝物だった。


 なのに、その彼女はこの世界のどこにもいない。
 もう、二度と会えない。
 きっと、私が、死んだとしても――。


 私は、部屋に医師たちが駆け込んできても、追い出されても、ずっとずっと泣き続けた。


「……フユ」
 柾が、隣でずっと座っていてくれたのに気づいたのは、空が白み始めたころだった。