幼いドリシエは泣いていた。

「どうしたの?」

 幼いハロルは彼女の顔を覗き込むようにして見た。

「みんながアタシを虐めるの」

 イアルグにある名もなき村の外れ。池のほとりで、彼女はいつも一人で泣いていた。ハロルはそれを知りながら、ずっと声を掛けられないでいた。しかし、ハロルには心変わりがあった。妹が生まれたのだ。もしも妹が、同じように一人で泣いていたら、自分はどうするだろうかと考えたとき、きっと声を掛けるだろうと思った。

「みんなって誰?」
「みんなはみんな」
「村の人たち? お父さんとお母さんには言ったの?」
「お父さんもお母さんもアタシが悪いって言うの」

 ハロルは彼女の頭に手を置いて撫ぜた。

「それは嫌だね。よくわからないけど、ドリシエは悪くないよ」
「よくわからないけど、悪くないってわかるの?」
「うん」
「どうして?」
「悪い人は、泣かないよ」

 ドリシエはハロルの胸に顔を預けて声を上げて泣いた。

 小さな村だ。二人とも顔見知りではあった。しかしそれが二人にとっての初めての交流だった。
 それから二人はいつも一緒に遊んだ。昼食を食べるまでは遊びに行ってはいけないと言われていたハロルは、いつも昼食を急いで食べていた。

「ドリシエ。妄想はボクたちにしかできないことだから、言わない方がいいよ」
「どうして? アタシはアタシの思いを言葉にしちゃいけないの?」

 そう言ってドリシエはいつも涙ぐむ。彼女の泣き顔を見ると胸が切なくなった。

「泣かないで、ドリシエ。ボクは笑顔のドリシエがいいよ」

 そう言って彼女が笑顔を取り戻すまで、手を握ったり頭を撫ぜたりしていた。
 ある日、ドリシエは花で編み上げた輪をハロルに持たせた。

「なにこれ?」
「ハロル、もしもアタシのこと好きならそれをアタシの頭の上に載っけて。お嫁さんにして」
「お、お嫁さん……!」

 ハロルは自分の顔が熱を帯びていくのを感じた。ドリシエも頬を染めて、目を瞑って祈るようにして手を組んでいる。

「ねえ、早くして。それとも、アタシのこと好きじゃない?」

 瞑ったまなじりに雫が溜まっていた。声も上ずっている。どれだけの覚悟を持って、彼女はハロルにこの花の輪を渡したのだろう。

「好きだよ、でも、その、いきなりお嫁さんとか言うから」

 ハロルは緊張した面持ちで花の輪を頭の上に載せながら、さらに続ける。

「恋人から始めようよ、まずは」
「こ、恋人……!?」

 ドリシエは目をぎょっと開いて、口元を掌で押さえた。

「え、だって最初はそうなんじゃあないの?」
「わわ、わかんないよ! でも、ハロルがそう言うならいいよ。いつかお嫁さんにしてくれるんでしょう?」
「うん」

 ドリシエは顔を綻ばせた。バラが咲いたのだと思った。

「ところで恋人ってなにをするの?」
「さ、さあ……?」

 キスと言う言葉が浮かんでいたハロルだったが、なにも言えないで視線を逸らした。

 二人が恋人になってから、3年が経った。

「ハロル。村を出よう」
「どうしたの? 急に」
「急じゃあないよ。ずっと、言ってたじゃない。アタシ、お父さんもお母さんも嫌い。村の人も嫌い。ハロル以外全員嫌い」

 ドリシエからの悩みはずっと聞いていた。彼女はハロルと同様に夢を見る、夢見子だった。妄想もできるし、虚構術も使えた。
 ハロルはそれが異常であることを親から教えられ、人前では絶対に使わないように言われていた。ハロルはそれを守って、誰の前でも使ったことはない。しかしドリシエは違った。
 彼女は昔、転んだ友達のケガを虚構術によって治してあげた。それを友達は気味悪がって親に話し、ドリシエが夢見子だと言うことが村全体に伝わった。村では騙言症と揶揄するものが多く、異端の性質を持つ彼女は迫害を受け始めた。そしてそれはドリシエの親にまで及んだ。やがて両親は精神を病んだ。

「どうしてあんなことをしたの!?」

 母親に怒られ、ドリシエは混乱した。

「アタシは、ケガをした子が痛そうだったから治してあげただけだよ」
「そのせいでみんな迷惑してるのよ!」
「じゃあ、ケガをした子は? あの子はどうしてあげればよかったの?」
「そんなの放っておけば良かったの!」
「でも、じゃあお医者さんはどうしているの?」
「あんたって子は屁理屈ばっかり! 黙りなさい!」

 ドリシエは母親から捻じ曲がったモラルを教えられ、殴られ続けた。間違ったことをした覚えなどないのに、人を助けたかっただけなのに、どうしたらいいのだろうと言う答えのない疑問を抱き続けてきた。

 ハロルは何度も悩みを聞いていたが、しっかりとした答えを用意できないでいた。ドリシエが言うことは正しい。ケガをした人を助けるのは当たり前にすべきことだ。そうやってみんな教わったはずだ。だが同時に、ハロルは人前で虚構術を使わないようにと教わってもいた。もしもドリシエが虚構術を人前で使う前に、親から禁じられていたとしたらどうだっただろうか。しかしそれでも彼女は使っただろうなと思った。それが彼女のやさしさだから。それを否定することは出来ない。だからハロルは「キミは間違ってないよ」と言い続けるしかなかった。やさしいドリシエの体の痣は毎日増えて行くというのに、彼女を守るための答えはゼロのままだった。
 そんな彼女の不遇を知りながらも、ハロルにとってこの村を出るという選択は難しかった。

「考え直そうよ。ドリシエ」
「……アタシが、もっとお母さんに殴られればいいの?」

 彼女はもう、泣いていなかった。感情を失ったように、乾いた赤色でハロルを見つめていた。そのときハロルは、初めてドリシエのことを怖いと思った。これほどの闇を抱えているのだと言うことを、本質的に理解した。

「そうじゃないよ」
「じゃあ一緒に逃げて」

 ドリシエが手を伸ばした。差し出されたその手を、ハロルは取れない。

「お父さんもお母さんも居る。ミーンもまだ3歳なんだ」

 彼女はなにも言わず、ただ手を下ろした。
 ハロルは俯いていたが、静寂に耐えられなくなって顔を上げた。
 そこにあったのは矛盾。
 矛盾を貼り付けたドリシエが立っていた。目から涙は零れているのに眉は正しい方を向いており、口角は上がっているのに笑い声は零れていない。
 ハロルは咄嗟に声を掛けるべきだと思った。しかしなにも思い浮かばなかった。壊れた心の治し方など、想像出来なかった。

「ハロルがいけないんだよ」

 ドリシエはそう言って近くの木に手を翳した。その一瞬で、夜を纏ったドラゴンを創り上げた。
 喪失、憂い、悲しみ、怒り……あらゆる感情が、彼女の創造力の爆発を促していた。
 ハロルが驚愕に撃ち抜かれているさなかに、彼女はドラゴンに乗って行ってしまった。

 そうしてその夜、イアルグにある名もない村は焼かれた。