商店街を抜けるとき、ハロルが気になっている店の前を通った。

「なあ師匠、あれだよ」

 くもりも傷もないガラス張りの店。壁には塗りたてのペンキが艶々と朝日を反射している。店内にしまわれた看板には、ふわふわのシュー生地に粉砂糖が掛かっているイラストが描かれていた。

「ほら、店構えからしてうまそーだろ?」
「そうですね。でもまだ開店前のようですし、仕事が先ですよ」
「ぐう……あ、そう言えばその仕事って?」

 答える代わりに、スーは封書を渡した。

「いつもの夢見子(ゆめみご)探しだけじゃあねーんだな」

 封書の中身の手紙を読みながら歩く。

「なんでも不可解な事件が起きているようでしてね。その調査も兼ねているのです」

 しばらく手紙を読んでいたハロルだったが、急にバッと手を広げた。

「だあ! なんでこんな回りくどい書き方するん——」

 ——ドンッ!

 ハロルの腕がなにかに当たって鈍い音を立てた。視線を向けると少女が倒れていた。ふんわりとした白いブラウスが土に汚れている。恐らく後ろから走って来たのだろう。まったく気付かなかった。

「あ、わりい!」

 膝まであるはずのジャンパースカートの裾はめくれ上がっていたが、彼女はパンツが見えるのもお構いなしにそのまま片膝を抱えた。

「痛むのか?」

 少女は答えずに不安げな視線をハロルへ向けた。半開きの瞼の奥では宝石を思わせる緑色が揺れ、垂れたまなじりにはうっすらと涙が溜まっている。淡く薄い唇が歪に曲がって、その先は微かに震えている。小動物のように庇護欲を掻き立てられる可憐な少女だった。
 ハロルは手紙をスーに返して、封筒を彼女の膝に宛てがった。太ももまで隠すほど丈の長いポンチョを翻し、腰のベルトから大きな万年筆——(そう)(ひつ)を取り出した。親指の第二関節の上に胴軸(どうじく)を載せてくるりと回すと、ペン先を封筒に向ける。筆はサラサラと流麗に舞い始めた。

【痛みを持つ者。膝に根差した痛み。これは痛みを取り除く。代償として破られる。散り散りに破られる。痛みによって破られる。痛みを持つ者に安息を】

 創筆が舞をやめると、封筒はビリビリに破れ、ハロルの掌の上に落ちた。

「悪かったな。もう大丈夫だろ?」
「……本当だ。痛くない! でもどうして?」

 ハロルはふふんと鼻を鳴らした。親指を自分の顔に向けて言い放つ。

「オレが天才虚構士のハロル様だからだぜ!」

 キメ顔のハロルの瞳を見つめたまま彼女はゆっくりと首を傾げた。肩まで伸びたオリーブ色の髪がたらりと落ちる。なにを言っているのかわかっていないようだ。
 そんなボヤッとした彼女の表情が突然切り替わる。

「ああ! 学校遅れちゃう!」
「え? ああ、そうか」
「じゃあね! 綺麗なお姉ちゃん!」

 膝丈のジャンパースカートをひらひらと風になびかせて、学校へ向かって走っていった。
 見送る頭にポンッと掌が置かれた。

「周りを見ずに腕を振り回すのはいけないことですが、彼女のケガを治したのは偉いですよ」

 ハロルは「へへ」と言う言葉と共に笑みを零した。

「ただ、重複が多かったですねえ」
「うえ!? ダメ出しすんのかよ」
「当り前です。弟子の虚構術の良し悪しは常に気にしていますから。もしも重複させて効果を高めたいのなら他の言語を入れ——」
「あーもう、はいはい。わかってるよ。同じ言葉を何度入れても効果は変わんないんだろ? 時間が限られた状況だと致命的になるってさ。あ! そうだ! それより早く学校行かねえと!」

 ハロルはスーの手を取って走り出す。スーはやれやれと言った顔で肩を竦めつつも、歩調を早めた。