カテリナには徒歩圏内に実家があるが、普段は王城の騎士団宿舎に住んでいる。
体を壊さないように夜は早く寝るんだよと教えた父の言葉を忘れたわけではないが、同僚が避ける夜勤は自分から取りに行った。ただ、体を壊さないだけの自己管理も生真面目に実行していた。
きちんと時間になったら夕食と仮眠を取り、間食もせず、王城をひととおり見回る以外は宿直室から一歩も出ない。まさかカテリナに限って勤務中にお酒を飲むはずもなく、普段後回しになっていることをしようと、夜勤中は要らない紙とまだ使える紙をより分けて縛る単純作業をするのが日課だった。
そんなカテリナであったので、王城で夜を明かすのは慣れている。ただし完全に仕事に励んでいるのであって、同じ頃同じ建物の中で夜遊びに励む方々がいることは知らなかった。
夜遊びの中心地、そこが王城の一角、昼間はローリー夫人のサロンと呼ばれている居酒屋ローリーである。
女主人ローリーは昼間と同じくどんな来客も快く迎えて、彼らの話を聞いてくれる。
「そうね、いろいろあるわね」
もっとも、出入りしていた子女たちが家に帰った後は、いい年した大人たちが子どものような顔をしてローリー夫人に甘えにやって来るのだった。
ローリー夫人はそのしとやかな話しぶりで、客人たちにささやく。
「でも奥さまにも言い分があると思うのよ。たとえば寂しいとき、どんな風に手に触れたか覚えていらっしゃる?」
ローリー夫人が傾けたグラスの中で、黄金色の酒気が揺らぐ。カテリナは飲んだことがないが、麦で出来た大人のお茶らしい。
「女性は変化に敏感なのよ。殿方は変わらないものを求めがちだけど、長い時を共に過ごす伴侶を同じ形に縛るなんて無骨なことはおやめなさいな」
カテリナはうなずいて、身を乗り出して次のローリー夫人の言葉を待った。
そのやりとりの一部始終は隣のテーブルに席を置いたギュンターとカテリナも耳にしていた。
「カティ、メモは取らなくていい」
ギュンターが事も無げに告げて、カテリナは不満げに彼を見上げた。
「そろそろ本題ですよ」
「夫婦喧嘩に本題も閑話休題もない。ローリー夫人も適当に相槌を打ってるだけだ」
カテリナが目を戻すと、確かにローリー夫人の前に座った男爵の愚痴は娘の婿のことに移っていた。それもまもなく隣に座った別の男性の声が重なって、カテリナも話の筋を追うことができなくなる。
昼間のサロンはテーブルを囲んで椅子が花びらのように並べられているが、居酒屋ローリーは椅子もまばらに置いてある。灯りも控えめで、貴婦人方のおしゃべりも聞こえてこない。時々軽食を運ぶ給仕が回って来るくらいで人の移動もほとんどなく、心なしか時間の流れもゆっくりとしていた。
カテリナが見る限り、父が口うるさく彼女に立ち入りを禁止していた危ない場所ではなさそうだが、普段彼女を囲んでいる世界ではない。カテリナはそういう違いには気づいていて、手帳を懐にしまった。
違うというなら、国王陛下もいつもと違う。
カテリナが知る陛下はサロンに出入りする合間にでも仕事をするはずなのに、今夜の彼はまるで時間を浪費するのを楽しむように、もう一刻ほどもサロンの片隅に腰を下ろして、何をするでもなく物思いに耽っている。国王陛下という身分は背負っているので、女主人であるローリー夫人から一つテーブルが離れただけの席ではあるが、ローリー夫人も国王陛下を特別に扱っているわけではなかった。
カテリナは夜勤の間に暇に任せて紙の束をより分けたように、普段ならさほど関心を持っていないことを思い出していた。
いつかの娯楽新聞、そこにローリー夫人の特集があった。彼女の銀髪とはちみつ色の肌は、彼女の母が不義を犯したからといわれていた頃があったのだそうだ。
実際は祖母に辺境の血が入っているからなのよ。それで破談になった縁組もあったけれど、切れた縁の代わりに夫と出会えたと思うと、精霊に見放されてはいなかったみたいね。ローリー夫人自身はそう話していて、出生の逸話も話題の一つにしかしていなかったから、その記事を読んだカテリナも気に留めていなかった。
ふいにギュンターは頬杖をつくのをやめて、ローリー夫人に声をかけた。
「もう二年になるのか」
ギュンターが告げた言葉は、カテリナには独り言のように聞こえた。
「君がローリーの名を手放しても、ヘルベルトが君を責めるとは思えない」
国民の多くは彼女の夫が船旅に出たきり失踪したことを知っている。
新聞記者でさえご夫君のことを大きく書かないくらいには、ヴァイスラントの国民は彼女を気遣っていた。
だからギュンターの独り言は、ヘルベルト・ローリー将軍を盟友としていた国王陛下でなければ、誰も口にする日が来なかった言葉だったかもしれなかった。
ローリー夫人が話していた、破談になった縁組。カテリナは要らない紙により分けた娯楽新聞は、本当に要らない情報だったのか考えていた。
ギュンターがローリー夫人をみつめるまなざしが今も優しいのは、彼女が親友の妻だからなのか、それとも破談になった元婚約者だからなのか。
ローリー夫人はギュンターの言葉に苦笑してみせた。
「あなたは優しいわね。……だから嫌い」
ローリー夫人は柔らかい棘のような声色でギュンターを刺して、あとは彼の方を見ることなく他のテーブルのところに向かった。
カテリナはギュンターとローリー夫人の間に広がった距離をみつめながら、そこに一度ねじれた縁を見ていた。
精霊は人の知らない基準で恋を取り上げてしまうことがあるらしい。
そっと元に戻しておいてくれることもあるらしいけど、どういう基準なのかな。カテリナはうつむいて、難しい問題に考え込んだ。
ギュンターはふとカテリナの様子を見て言った。
「どうした、カティ。酔ったか」
カテリナはギュンターに返事をしようとしたが、その前に下を見て言葉を引っ込めた。
もし陛下が今もローリー夫人が好きだとしたら、最後のダンスの相手になれる。カテリナの望む仕事の完成形のはずなのに、どうしてかそれはカテリナの中で少しもやがかかっていた。
「カティ?」
ここは普段の執務室とも違うせいか、陛下も知らない人のように見えた。灰青の瞳が仕事中のように張りつめていなくて、かける声もなんだか優しい。
たとえば足を組んでグラスを持つ姿が精悍だと思っても……思うだけ損な気がして、カテリナは目を逸らした。
ギュンターはカテリナの顔を覗き込んで眉を寄せる。
「本当に体調が悪いのか?」
「申し訳ありません、陛下」
手を伸ばしたギュンターの前に、部屋の隅で様子をうかがっていたウィラルドが助け舟を出すように割って入った。
「カティはこういう場は慣れていないものですから。お酒も飲めないんです」
カテリナの肩に触れようとしたギュンターの手が、つかむものを失って宙に浮く。ウィラルドはカテリナの肩を抱いて椅子から立たせると、下からうかがいを投げかける。
「退出させても構いませんか?」
「体調が悪いなら……」
ウィラルドは一礼して、それ以上のギュンターの言葉を待たずに踵を返す。
顔を伏せて連れられて行くカテリナは体調が悪そうだったが、ギュンターはウィラルドがカテリナを見下ろす目が不愉快だった。
ギュンターの視線に気づいたのかウィラルドは顔を引き締めたが、大丈夫だよ、俺がついてると言ったときは、上司というより男性に近い声色だった。
ローリー夫人は後に残されたギュンターがウィラルドと同じ表情をしていたことに気づいていたが、大人の事情で黙っていたのだった。
体を壊さないように夜は早く寝るんだよと教えた父の言葉を忘れたわけではないが、同僚が避ける夜勤は自分から取りに行った。ただ、体を壊さないだけの自己管理も生真面目に実行していた。
きちんと時間になったら夕食と仮眠を取り、間食もせず、王城をひととおり見回る以外は宿直室から一歩も出ない。まさかカテリナに限って勤務中にお酒を飲むはずもなく、普段後回しになっていることをしようと、夜勤中は要らない紙とまだ使える紙をより分けて縛る単純作業をするのが日課だった。
そんなカテリナであったので、王城で夜を明かすのは慣れている。ただし完全に仕事に励んでいるのであって、同じ頃同じ建物の中で夜遊びに励む方々がいることは知らなかった。
夜遊びの中心地、そこが王城の一角、昼間はローリー夫人のサロンと呼ばれている居酒屋ローリーである。
女主人ローリーは昼間と同じくどんな来客も快く迎えて、彼らの話を聞いてくれる。
「そうね、いろいろあるわね」
もっとも、出入りしていた子女たちが家に帰った後は、いい年した大人たちが子どものような顔をしてローリー夫人に甘えにやって来るのだった。
ローリー夫人はそのしとやかな話しぶりで、客人たちにささやく。
「でも奥さまにも言い分があると思うのよ。たとえば寂しいとき、どんな風に手に触れたか覚えていらっしゃる?」
ローリー夫人が傾けたグラスの中で、黄金色の酒気が揺らぐ。カテリナは飲んだことがないが、麦で出来た大人のお茶らしい。
「女性は変化に敏感なのよ。殿方は変わらないものを求めがちだけど、長い時を共に過ごす伴侶を同じ形に縛るなんて無骨なことはおやめなさいな」
カテリナはうなずいて、身を乗り出して次のローリー夫人の言葉を待った。
そのやりとりの一部始終は隣のテーブルに席を置いたギュンターとカテリナも耳にしていた。
「カティ、メモは取らなくていい」
ギュンターが事も無げに告げて、カテリナは不満げに彼を見上げた。
「そろそろ本題ですよ」
「夫婦喧嘩に本題も閑話休題もない。ローリー夫人も適当に相槌を打ってるだけだ」
カテリナが目を戻すと、確かにローリー夫人の前に座った男爵の愚痴は娘の婿のことに移っていた。それもまもなく隣に座った別の男性の声が重なって、カテリナも話の筋を追うことができなくなる。
昼間のサロンはテーブルを囲んで椅子が花びらのように並べられているが、居酒屋ローリーは椅子もまばらに置いてある。灯りも控えめで、貴婦人方のおしゃべりも聞こえてこない。時々軽食を運ぶ給仕が回って来るくらいで人の移動もほとんどなく、心なしか時間の流れもゆっくりとしていた。
カテリナが見る限り、父が口うるさく彼女に立ち入りを禁止していた危ない場所ではなさそうだが、普段彼女を囲んでいる世界ではない。カテリナはそういう違いには気づいていて、手帳を懐にしまった。
違うというなら、国王陛下もいつもと違う。
カテリナが知る陛下はサロンに出入りする合間にでも仕事をするはずなのに、今夜の彼はまるで時間を浪費するのを楽しむように、もう一刻ほどもサロンの片隅に腰を下ろして、何をするでもなく物思いに耽っている。国王陛下という身分は背負っているので、女主人であるローリー夫人から一つテーブルが離れただけの席ではあるが、ローリー夫人も国王陛下を特別に扱っているわけではなかった。
カテリナは夜勤の間に暇に任せて紙の束をより分けたように、普段ならさほど関心を持っていないことを思い出していた。
いつかの娯楽新聞、そこにローリー夫人の特集があった。彼女の銀髪とはちみつ色の肌は、彼女の母が不義を犯したからといわれていた頃があったのだそうだ。
実際は祖母に辺境の血が入っているからなのよ。それで破談になった縁組もあったけれど、切れた縁の代わりに夫と出会えたと思うと、精霊に見放されてはいなかったみたいね。ローリー夫人自身はそう話していて、出生の逸話も話題の一つにしかしていなかったから、その記事を読んだカテリナも気に留めていなかった。
ふいにギュンターは頬杖をつくのをやめて、ローリー夫人に声をかけた。
「もう二年になるのか」
ギュンターが告げた言葉は、カテリナには独り言のように聞こえた。
「君がローリーの名を手放しても、ヘルベルトが君を責めるとは思えない」
国民の多くは彼女の夫が船旅に出たきり失踪したことを知っている。
新聞記者でさえご夫君のことを大きく書かないくらいには、ヴァイスラントの国民は彼女を気遣っていた。
だからギュンターの独り言は、ヘルベルト・ローリー将軍を盟友としていた国王陛下でなければ、誰も口にする日が来なかった言葉だったかもしれなかった。
ローリー夫人が話していた、破談になった縁組。カテリナは要らない紙により分けた娯楽新聞は、本当に要らない情報だったのか考えていた。
ギュンターがローリー夫人をみつめるまなざしが今も優しいのは、彼女が親友の妻だからなのか、それとも破談になった元婚約者だからなのか。
ローリー夫人はギュンターの言葉に苦笑してみせた。
「あなたは優しいわね。……だから嫌い」
ローリー夫人は柔らかい棘のような声色でギュンターを刺して、あとは彼の方を見ることなく他のテーブルのところに向かった。
カテリナはギュンターとローリー夫人の間に広がった距離をみつめながら、そこに一度ねじれた縁を見ていた。
精霊は人の知らない基準で恋を取り上げてしまうことがあるらしい。
そっと元に戻しておいてくれることもあるらしいけど、どういう基準なのかな。カテリナはうつむいて、難しい問題に考え込んだ。
ギュンターはふとカテリナの様子を見て言った。
「どうした、カティ。酔ったか」
カテリナはギュンターに返事をしようとしたが、その前に下を見て言葉を引っ込めた。
もし陛下が今もローリー夫人が好きだとしたら、最後のダンスの相手になれる。カテリナの望む仕事の完成形のはずなのに、どうしてかそれはカテリナの中で少しもやがかかっていた。
「カティ?」
ここは普段の執務室とも違うせいか、陛下も知らない人のように見えた。灰青の瞳が仕事中のように張りつめていなくて、かける声もなんだか優しい。
たとえば足を組んでグラスを持つ姿が精悍だと思っても……思うだけ損な気がして、カテリナは目を逸らした。
ギュンターはカテリナの顔を覗き込んで眉を寄せる。
「本当に体調が悪いのか?」
「申し訳ありません、陛下」
手を伸ばしたギュンターの前に、部屋の隅で様子をうかがっていたウィラルドが助け舟を出すように割って入った。
「カティはこういう場は慣れていないものですから。お酒も飲めないんです」
カテリナの肩に触れようとしたギュンターの手が、つかむものを失って宙に浮く。ウィラルドはカテリナの肩を抱いて椅子から立たせると、下からうかがいを投げかける。
「退出させても構いませんか?」
「体調が悪いなら……」
ウィラルドは一礼して、それ以上のギュンターの言葉を待たずに踵を返す。
顔を伏せて連れられて行くカテリナは体調が悪そうだったが、ギュンターはウィラルドがカテリナを見下ろす目が不愉快だった。
ギュンターの視線に気づいたのかウィラルドは顔を引き締めたが、大丈夫だよ、俺がついてると言ったときは、上司というより男性に近い声色だった。
ローリー夫人は後に残されたギュンターがウィラルドと同じ表情をしていたことに気づいていたが、大人の事情で黙っていたのだった。