跨線橋の階段を駆け下りた。
周りも同じように急いでいる。目的は皆同じだ。
ホームにいる友人の朋子が、息を切らしている私に呆れ顔を向けた。けれども、並んでいた列から一旦離れ、最後尾に並び直してくれた。
「37分の電車に乗りたいのは小町のくせに、その小町がギリギリってどういうこと?」
「ごめん! 家を出てから、お弁当忘れたことに気づいて取りに帰ったからっ」
だけど、苦情を言われる筋合いはないはず。そもそも“お互い遅刻してもいい”というルールなんだから。
一緒に37分の電車で登校することにした当初から、“片方が現れなければ、もう一方は待たずに電車に乗る”と取り決めてある。
にも拘らず、朋子は遅れたことがない。
これより1本遅い電車でも充分間に合うのに。何なら2本あとでも、改札を出てから正門まで小走りすればギリギリ間に合うのに。
「朋子ってば、そんなに私と学校行きたいんだね」
「何言ってんだか。『たまにならいいけど、毎朝ひとりは淋しいから』ってお願いしてきたのは小町のほうでしょ?」
「うん。それなのにいつも付き合ってくれてありがとう」
ふふっ。冷たくあしらっていても、朋子ってば私のことが好きなんだから。
朋子とは中学から一緒だ。
けれど中学はそこそこマンモス校だったこともあり、同じクラスになったことがなかった。部活や委員会などでも、特に接点はなかった。
だから、中学時代は顔と名前が一致する程度でしかなかった。お互い月ヶ丘高校を受験すると知ったときも、『ふーん』ぐらいの感想しか抱かなかった。
それが高校で同じクラスになったことで一転。たちまち仲よくなったのだった。
私たちはホームに入ってきた電車に乗り込んだ。いつもの3号車、そして進行方向から2番目のドアから。
混んでいる車内を素早く探る。
いた!
今日も向かいのドア横に立っている。たいていそこにいる。
けれど、先客がいたんであろうときには、車掌さんの言うところの『中ほど』に立っていることもある。
彼と一緒に乗車している『ワタル』さんのお陰で、彼の名前が『テル』さんであることは知っている(まあ、本当はテルヒサとか、テルミツとかかもしれないけれど)。
それと、着ている制服から銀星台高校の生徒だということもわかっている。銀星台は、我らが月ヶ丘より2駅先にある。
その他にも、テルさんとワタルさんの会話から得られた情報は雑多にある。どうやら1つ上の2年生らしいこととか、妹さんがいることとか、チーズカレーパンよりカレーパンのほうが好きなこととか……
私は車両に乗り込むと同時にささっと彼を探し当て、彼の近くに場所取りすることを、毎朝の至上命題としている。
乗り込むときがテルさんのことを見られる最大のチャンス。
乗ってしまったあとは、同じ方向を見るか正反対を見るかのどちらになるから。
わっ、いつも前髪は七三に分けて横に流しているのに、今日はオールバックだ!
おでこの形をガン見してしまいそうなところを、何とかチラ見で堪えた。
昨夜のテルさんとは違ってワイルド系だ。こっちも素敵。
『昨夜』といっても、実際に会ったわけではない。テルさんのことを想って入眠したら、夢に出てきてくれたのだ。
あと、加湿器を使ってみたのもよかったのかもしれない。
最近は空気が乾燥するせいで、朝目覚めると喉が痛くなっていた。
そこで、昨夜から加湿器をつけてみることにしたのだ。おしゃれにレモングラスのフレグランスウォーターも入れて。
残念だったことといえば、私のパジャマが裏返しになっていたことぐらい。
ボタンダウンのパジャマなら裏表反対になっていても、すぐに気づけるのになー。
寒くなってスウェットパジャマを着るようになったのがいけない。
もっともお母さんに言わせれば、『裏返しになるように脱ぐのがいけないし、脱いだときにその場で戻しておかないのもいけない』らしいけれど。
また夢でテルさんに会えるときには、正しくパジャマを着ていたいものだ。
現実のほうのテルさんがあくびをかみ殺した。
「ホント、朝から眠そうだな」
「眠りが浅かったんだよ。夢見るぐらいだし。すっきり起きられなくて、寝癖を直す時間もなかったんだよな」
「それでオールバックなわけだ」
なるほど。イメチェンじゃなくて、寝癖を誤魔化しているんだ。格好いいのに、どこか可愛い気がする。
そんな貴重なテルさんを見られるなんて……むふふ。
実は今朝目が覚めたときには、心底ガッカリしたのだった。このまま目が覚めなければよかったのに……って。
でも目覚めてよかった!
「ところで夢ってどんな?」
「覚えてない。俺、夢って見ても内容まで覚えてないことが多いかも」
「まあ、そうかもな」
私は覚えていますよ。遠くからテルさんを見つめる夢でした。
あーあ、どうせならおしゃべりする夢が見たかったな。今のワタルさんみたいに、テルさんと顔を合わせて、それで時々笑いかけてもらったりもするの。
よっし、次に夢でテルさんに会えたときは思い切って話しかけてみよう!
現実ではとてもじゃないけれど、そんな大胆なことはできない。だけど、夢でならきっと……
あっ、それなら余計にパジャマは正しく着ていないとね。
※※※
……会えない……会えない……会えなーい!
ううん、実際には会えている。朝の通学電車内で。
でも、あれっきり夢では会えていないのだ。
会いたい気持ちが足りない?
加湿器に入れるフレグランスウォーターを変えたのがいけなかった?
5種類のミニボトルのセットを持っているから、日替わりで香りを変えていたのだ。ラベンダー、グレープフルーツ、バニラ、ペパーミント。
けれど一周して、レモングラスに戻ってもまだ夢にテルさんは出てきてくれなかった。
週末には特に会いたくなって、土日は連続でレモングラスを使ってみたけれどダメだった。
ひょっとして、会えているのに、テルさんみたいに覚えていないだけって可能性ある?
きゃー、テルさんと一緒っ。
……って、全然うれしくなーい!
それとも、会いたい願望が強すぎてもいけない?
あのときは別にテルさんの夢を見ようなんて、意識はしていなかったわけだし。何も考えずに眠りについたほうがいい?
まあ、電車では会えるんだし、追加で夢でも会えたらラッキーぐらいの気持ちでいようかな……
そんな境地に至っていたのに、ここで緊急事態発生だ。
な、な、な、な、何と! 朝37分の電車ですら、テルさんを見かけなくなってしまったのである。昨日も、そして今日も!
「体調不良とかで休んでるんじゃない?」
朋子は、『そういう日だってあるでしょ』と平然とした顔で言った。
「だったら、ワタルさんは見かけていいはずでしょ? ふたり揃って姿を消すなんて絶対おかしいよー!」
「あー、それもそうだね」
「もしかして、私に毎朝チラ見されていることに気づいて、気味が悪くなって電車を変えたとか……?」
自分の考えに背筋が凍る。
「そんな繊細そうな人には見えないけど。てか、満員電車であんな慎ましい盗み見、気づきっこないよ」
「そうかなー?」
そう聞き返しつつも、胸を撫で下ろした。
「前々から、小町はもっと積極的にいけばいいのに……って思ってたんだよね。ねえ、そんなに会いたいなら、いっそのこと銀星台の正門前で待ち伏せでもすれば?」
「無理! それこそホントに嫌われちゃうっ」
だって、それは完全にストーカー行為だ。
「でも、しゃべったことはあるんでしょ?」
「『ある』って言ってもあれは……」
そんなんじゃない。そんなんじゃ……
あれは、高校に入学して1ヶ月と少しが経った頃のこと。まさかに私がテルさんに恋をするきっかけにもなった出来事だ。
体育祭が間近に迫っていた。
まだクラスメイトと打ち解けてもいないというのに、参加競技や係を決めなければならなかった。細やかに神経を使った。
けれど、私も朋子も巧いこと切り抜けることができたと思う。
運動が得意な朋子は、棒倒しとリレーの選手になる代わりとして、しち面倒な係の免除権を獲得した。もちろん応援看板の設置なんかは手伝っていたけれど。
反対に運動が苦手な私はというと、玉入れという目立たない無難な競技でお茶を濁させてもらうことに成功した。そして、それと引き替えに、別の玉入れ要員の子と手分けして、応援用のポンポンを作ること引き受けたのだった。
クラス半数分のポンポンは、家で作業して完成させた。これが今なら、『学校に残ってふたりで作ろう』という提案をどちらかからしたと思うのだけれど、当時は人見知りし合っていた。私たちは悪い意味で、似た者同士だった。
出来上がったポンポンの山を見たとき、達成感よりも絶望感を覚えた。
そして、バッグに詰めさえすればコンパクトに収まるだろう、という私の予想は完全にハズれた。軽いもののかさばり、大きなビニルバッグをパンパンに膨らました。
不安になった私は、あの日の朝、いつもより1本早い電車で登校することにした。
朋子も私に『合わせる』と言ってくれたけれど、あのときは断った。たった1日のことだし、こんな大荷物を抱えてふたりで乗車するより、ひとりのほうがまだ周りに迷惑でないはず……と判断したのだ。
自分の部屋を車内と見立てておこなった予行練習は完璧だった。
けれど、いざ乗り込む段になって思い直した。
だって、ラッシュの時間帯にこんな大きなバッグを下げていたら、どう考えたって邪魔だ。
だから、荷物棚に上げることにした。
しかし、薄々気づいていたけれど、私はそういう星の下に生まれてしまっているらしかった。
こういうときに限って、ロングシートの出入り口付近は、脚の長さが自慢のような乗客らによって占拠されていた。
かといって、大きな荷物で車内中ほどへは入っていけなかった。
まあ、何とかできるかな?
私は自分を過信していたのだ。150センチの身長に、ヒール高さが2センチしかないローファーのくせに!
座っている乗客に触れることがないように注意を払いながら、ビニルバッグを持ち上げた。
無茶だったと悟ったときにはもう遅かった。
私が荷物棚に上げかけていたビニルバッグは、まさに横に倒れようとしていた。
わっわっわっ、満員電車の中でポンポンの雨を降らせちゃう!
そのときスッと長い腕が伸びてきた。その腕は鮮やかに、ビニルバッグが倒れるのを堰き止め、さらに荷物棚に鎮座させてくれた。
その腕の所有者こそがテルさんだった。
「あっ、ありがとうございます」
私は小声でお礼を言った。
テルさんはこっちを見ることもなく、『このくらい別に』とでも言うように軽く頷いただけだった。
それでも恋に落ちるには充分だった。
にも拘らず、それだけで終わらなかった。
私の下車駅に近づいたとき、テルさんは荷物棚からビニルバッグを下ろしてくれたのだ。
「どうして……」
どこかで私を見かけたことがあって、私のことが気になっていたとか……?
今考えれば、それにしては私がお礼を言ったときの態度が素っ気なさすぎだったんだけど、あのときは冷静じゃなかったからそこまで考えが及ばなかった。
あっという間に、私の脳内ではロマンスが始まっていた。
「制服」
「えっ?」
「その制服、月ヶ丘でしょ?」
なんだ、それだけのこと。
都合のいい期待は、瞬く間にきれいさっぱり消え去った。
それでも、わざわざ荷物を取ってくれてうれしかったことには変わりなかった。
「学校まで気をつけてね」
見事なまでのダメ押しだった。
その日のうちに朋子に頼んで、私は翌日以降も同じ電車に乗るようにしたのだった。
※※※
昼休みになり、朋子を含めた3人のクラスメイトと共にお弁当を食べていた。
電車でテルさんに会えなくなって、今日で3日目。
お母さんのだし巻き玉子でも、私を励ますことはできなかった。
カットしてラップで包んだだけのバナナなんて、もっての外だ。
「小町、お手本みたいに恋煩ってんね」
朋子がひとり言のように呟いた。
ラップをむいていた私は、このときになって初めて3人から視線を集めていたことに気がついた。
「恋煩い……っていうか寝不足。夜寝てる間中、テルさんを探し回って彷徨ってる気がする」
「確かに顔色よくないね」
「それ食べたら5限目が始まるまで寝ておいたら?」
「そうだよ。ほんの少しでも昼寝するとすっきりするよ」
みんな本当に心配してくれているようだった。
「じゃあ、そうさせてもらおっかな」
空にしたお弁当箱を包み直して片付けると、私は自分の机に突っ伏した。
エアコンの効いた暖かい教室。眩しくない絶妙な加減で窓から入ってくる太陽の光。お弁当で膨れたお腹。
昼寝の最適条件がそろっているんではなかろうか……気持ちいい……
……はっ!
予鈴が鳴り、反射的に上体を起こした。
机がガタッと音を立てて、5センチほど前にズレた。
私、寝てた……よね?
今、テルさんがそこにいた! 手を伸ばせば届く距離に。
テルさんの名前を呼んだら、テルさんがこっちを振り返ってくれて……
でも、その瞬間に目が覚めてしまった。
予鈴があとほんの数秒待ってくれていたなら、視線が交わったかもしれないのに……
あー、もったいなーい!
悔しくて肩に力が入った。
すると何かが滑って、床に落ちた。
「私の……カーディガン……?」
「あっ、それ私が」
カーディガンを拾いながら、朋子が言う。
「風邪ひかないように、と思ってさ。はい」
返されたカーディガンを受け取った。
「ありがとう。でも、何で裏返し?」
「それはこっちが言いたい。背もたれにかけてあったのを、そのまま肩にかけただけだよ。文句があるなら、脱いだときに小町が自分で戻しておきなよ」
「それ、うちのお母さんもよく言ってる……」
そのとき、何かが引っかかった。
あれ? 最近もお母さんのそのセリフを思い出したことがあったような……
『あーっ!』と叫びそうになった。
そうだよ、テルさんの夢を見た朝!
もしかして、服だかパジャマだかを裏返しにしていると、テルさんに夢で会える……とか?
ちょっとした思いつきだった。
それなのに、考えれば考えるほどそうとしか思えなくなってくる。
きゃー、これは今夜試してみるしかないでしょ。
そして今度こそ、あの瞳の真ん中に映りたい!
※※※
今夜はさっさとベッドに入ることにしよう。テルさんに1分でも長く会いたいから。
意気揚々と学校を出て駅に向かった。
下校時も乗るのは3号車。朝は先頭から3番目の車両のことだけれど、帰りは最後尾から3両目になる。
それでも3号車がいい。ホームの位置が同じだからで、それは習慣的なものだ。前から、もしくは後ろから何両目とかはどうでもいい。
私は3号車の、進行方向とは反対側から数えて2番目のドアが停まる位置で待った。
間もなく電車がホームに入ってきてびっくり!
て、テルさん!?
ドアガラスの向こう側に見えたのは、この3日間ずっと恋しかったテルさんの顔だった。それと、ついでにワタルさんもいた(私ってば、言い方!)。
登校にこの路線を使っているのだから、下校も当然そうなはず。けれど、下校時に見かけるのは初めてのことだった。
不意打ちに、心拍数が上がる。
ドアが開いた。
テルさんの足元には大きなボストンバッグが置かれていた。
それと、日に焼けてる?
車内は比較的空いていて、朝のラッシュ時ほどは近くには寄れない。それでもごく自然を装って、会話が聞こえる程度には近い位置を確保できた。
「それにしても、最初はスキーに文句言ってた割に、楽しんでたじゃん」
ワタルさんが、テルさんを揶揄うように言った。
「それは、高校の修学旅行は沖縄だと思ってたからで……」
修学旅行! それで見かけなかったんだ。
「でも、スキーも初めてやってみたけど、けっこう滑れるようになったし、案外面白かった」
「テル、すごかったな。最後なんか経験者と変わんなかったよ」
わあ、新情報。テルさんはきっと運動神経がいいんだ!
「言いすぎ。俺、足がガクガクになったわ。今朝からすっげー筋肉痛だし」
「そういや、帰りのバスで爆睡してたな」
「そう? 自分ではうつらうつらのつもりだったんだけど。あっ、あのとき一瞬だけ夢見たわ。今回は俺にしては珍しく覚えてる」
胸がドキン! と跳ねた。
「へえ。で、どんな?」
「女の子? 女の人? から名前を呼ばれて振り返ろうとしたところですぐ起きた」
「知り合い?」
「どうかな?」
それ……私……
高校生にもなって何馬鹿げたことを、とちらっと思いはした。
けれど、私だ、という確信があった。
私は夢を見るとき、いつも映画やドラマを見ているように、第三者になっているのだ。私もその映画に登場するけれど、自分が主演の映画を鑑賞しているみたいな感じ。
それなのに、今日の昼休みだけは妙に生々しかった。私は当事者で、まるで実際に体験しているような感覚があった。私自身の声帯を使って『テルさん』と呼びかけたような……
「テル自身気づいてないだけで、その子のこと好きなんじゃねえの?」
なぬ!?
「好きじゃなくても夢に出てくると、その子のことが気になってきて、いつの間にか好きになってるってことねえ?」
「あー、何かわかるかも」
きゃー、きゃー、どうしよう!?
今や私の心臓はバックバクだ。息苦しくなるほど内側から強く胸を叩いてくる。
「学校の廊下とかですれ違ったことがあったりな」
違っ! 電車、通学電車の中だから!
「学校で探してみれば?」
「ははっ、何だそれ」
笑い飛ばしてはいるものの、テルさんは提案の拒否はしていない。
うぬぬ……ワタルさんめ!
テルさんの名前が『テル』さんであることを教えてくれたのは、ワタルさんに他ならない。だから今までこっそり感謝していたのに。
この発言は許せなーい!
私と勘違いして、銀星台の女子生徒を好きになったらどうしてくれるの?
……えっ、大丈夫だよね……?
テルさんに『あれは私なんです!』と訴えたくて、私は胸のうちで必死にもがいた。
でも、そんなことができるんなら、夢なんか頼りにしていないで、とっくにテルさんに対して何らかの行動を取っている。
そう、現実の私にそんな勇気はないのだ(自信たっぷりに言うことではないけれど……)!
もうこうなったら夢の中でテルさんに会いにいって、何が何でも私を認識してもらうしかなーい!
※※※
パジャマは裏返した。
関係ないはずだけれど、念のため、フレグランスウォーターはレモングラスをチョイス。
あとは眠るだけ……
3回目こそ、テルさんと正面から話してみせる!
自己紹介をして、それからビニルバッグを荷物棚に上げるときに助けてもらったあの日のことを話して……
そして、そのときからテルさんに恋をしていることも伝えよう。
そうすれば、いつもと変わらないはずの37分発の3号車……
乗り込んできた私を認めて、テルさんはきっと目を見開いてくれる……
END
周りも同じように急いでいる。目的は皆同じだ。
ホームにいる友人の朋子が、息を切らしている私に呆れ顔を向けた。けれども、並んでいた列から一旦離れ、最後尾に並び直してくれた。
「37分の電車に乗りたいのは小町のくせに、その小町がギリギリってどういうこと?」
「ごめん! 家を出てから、お弁当忘れたことに気づいて取りに帰ったからっ」
だけど、苦情を言われる筋合いはないはず。そもそも“お互い遅刻してもいい”というルールなんだから。
一緒に37分の電車で登校することにした当初から、“片方が現れなければ、もう一方は待たずに電車に乗る”と取り決めてある。
にも拘らず、朋子は遅れたことがない。
これより1本遅い電車でも充分間に合うのに。何なら2本あとでも、改札を出てから正門まで小走りすればギリギリ間に合うのに。
「朋子ってば、そんなに私と学校行きたいんだね」
「何言ってんだか。『たまにならいいけど、毎朝ひとりは淋しいから』ってお願いしてきたのは小町のほうでしょ?」
「うん。それなのにいつも付き合ってくれてありがとう」
ふふっ。冷たくあしらっていても、朋子ってば私のことが好きなんだから。
朋子とは中学から一緒だ。
けれど中学はそこそこマンモス校だったこともあり、同じクラスになったことがなかった。部活や委員会などでも、特に接点はなかった。
だから、中学時代は顔と名前が一致する程度でしかなかった。お互い月ヶ丘高校を受験すると知ったときも、『ふーん』ぐらいの感想しか抱かなかった。
それが高校で同じクラスになったことで一転。たちまち仲よくなったのだった。
私たちはホームに入ってきた電車に乗り込んだ。いつもの3号車、そして進行方向から2番目のドアから。
混んでいる車内を素早く探る。
いた!
今日も向かいのドア横に立っている。たいていそこにいる。
けれど、先客がいたんであろうときには、車掌さんの言うところの『中ほど』に立っていることもある。
彼と一緒に乗車している『ワタル』さんのお陰で、彼の名前が『テル』さんであることは知っている(まあ、本当はテルヒサとか、テルミツとかかもしれないけれど)。
それと、着ている制服から銀星台高校の生徒だということもわかっている。銀星台は、我らが月ヶ丘より2駅先にある。
その他にも、テルさんとワタルさんの会話から得られた情報は雑多にある。どうやら1つ上の2年生らしいこととか、妹さんがいることとか、チーズカレーパンよりカレーパンのほうが好きなこととか……
私は車両に乗り込むと同時にささっと彼を探し当て、彼の近くに場所取りすることを、毎朝の至上命題としている。
乗り込むときがテルさんのことを見られる最大のチャンス。
乗ってしまったあとは、同じ方向を見るか正反対を見るかのどちらになるから。
わっ、いつも前髪は七三に分けて横に流しているのに、今日はオールバックだ!
おでこの形をガン見してしまいそうなところを、何とかチラ見で堪えた。
昨夜のテルさんとは違ってワイルド系だ。こっちも素敵。
『昨夜』といっても、実際に会ったわけではない。テルさんのことを想って入眠したら、夢に出てきてくれたのだ。
あと、加湿器を使ってみたのもよかったのかもしれない。
最近は空気が乾燥するせいで、朝目覚めると喉が痛くなっていた。
そこで、昨夜から加湿器をつけてみることにしたのだ。おしゃれにレモングラスのフレグランスウォーターも入れて。
残念だったことといえば、私のパジャマが裏返しになっていたことぐらい。
ボタンダウンのパジャマなら裏表反対になっていても、すぐに気づけるのになー。
寒くなってスウェットパジャマを着るようになったのがいけない。
もっともお母さんに言わせれば、『裏返しになるように脱ぐのがいけないし、脱いだときにその場で戻しておかないのもいけない』らしいけれど。
また夢でテルさんに会えるときには、正しくパジャマを着ていたいものだ。
現実のほうのテルさんがあくびをかみ殺した。
「ホント、朝から眠そうだな」
「眠りが浅かったんだよ。夢見るぐらいだし。すっきり起きられなくて、寝癖を直す時間もなかったんだよな」
「それでオールバックなわけだ」
なるほど。イメチェンじゃなくて、寝癖を誤魔化しているんだ。格好いいのに、どこか可愛い気がする。
そんな貴重なテルさんを見られるなんて……むふふ。
実は今朝目が覚めたときには、心底ガッカリしたのだった。このまま目が覚めなければよかったのに……って。
でも目覚めてよかった!
「ところで夢ってどんな?」
「覚えてない。俺、夢って見ても内容まで覚えてないことが多いかも」
「まあ、そうかもな」
私は覚えていますよ。遠くからテルさんを見つめる夢でした。
あーあ、どうせならおしゃべりする夢が見たかったな。今のワタルさんみたいに、テルさんと顔を合わせて、それで時々笑いかけてもらったりもするの。
よっし、次に夢でテルさんに会えたときは思い切って話しかけてみよう!
現実ではとてもじゃないけれど、そんな大胆なことはできない。だけど、夢でならきっと……
あっ、それなら余計にパジャマは正しく着ていないとね。
※※※
……会えない……会えない……会えなーい!
ううん、実際には会えている。朝の通学電車内で。
でも、あれっきり夢では会えていないのだ。
会いたい気持ちが足りない?
加湿器に入れるフレグランスウォーターを変えたのがいけなかった?
5種類のミニボトルのセットを持っているから、日替わりで香りを変えていたのだ。ラベンダー、グレープフルーツ、バニラ、ペパーミント。
けれど一周して、レモングラスに戻ってもまだ夢にテルさんは出てきてくれなかった。
週末には特に会いたくなって、土日は連続でレモングラスを使ってみたけれどダメだった。
ひょっとして、会えているのに、テルさんみたいに覚えていないだけって可能性ある?
きゃー、テルさんと一緒っ。
……って、全然うれしくなーい!
それとも、会いたい願望が強すぎてもいけない?
あのときは別にテルさんの夢を見ようなんて、意識はしていなかったわけだし。何も考えずに眠りについたほうがいい?
まあ、電車では会えるんだし、追加で夢でも会えたらラッキーぐらいの気持ちでいようかな……
そんな境地に至っていたのに、ここで緊急事態発生だ。
な、な、な、な、何と! 朝37分の電車ですら、テルさんを見かけなくなってしまったのである。昨日も、そして今日も!
「体調不良とかで休んでるんじゃない?」
朋子は、『そういう日だってあるでしょ』と平然とした顔で言った。
「だったら、ワタルさんは見かけていいはずでしょ? ふたり揃って姿を消すなんて絶対おかしいよー!」
「あー、それもそうだね」
「もしかして、私に毎朝チラ見されていることに気づいて、気味が悪くなって電車を変えたとか……?」
自分の考えに背筋が凍る。
「そんな繊細そうな人には見えないけど。てか、満員電車であんな慎ましい盗み見、気づきっこないよ」
「そうかなー?」
そう聞き返しつつも、胸を撫で下ろした。
「前々から、小町はもっと積極的にいけばいいのに……って思ってたんだよね。ねえ、そんなに会いたいなら、いっそのこと銀星台の正門前で待ち伏せでもすれば?」
「無理! それこそホントに嫌われちゃうっ」
だって、それは完全にストーカー行為だ。
「でも、しゃべったことはあるんでしょ?」
「『ある』って言ってもあれは……」
そんなんじゃない。そんなんじゃ……
あれは、高校に入学して1ヶ月と少しが経った頃のこと。まさかに私がテルさんに恋をするきっかけにもなった出来事だ。
体育祭が間近に迫っていた。
まだクラスメイトと打ち解けてもいないというのに、参加競技や係を決めなければならなかった。細やかに神経を使った。
けれど、私も朋子も巧いこと切り抜けることができたと思う。
運動が得意な朋子は、棒倒しとリレーの選手になる代わりとして、しち面倒な係の免除権を獲得した。もちろん応援看板の設置なんかは手伝っていたけれど。
反対に運動が苦手な私はというと、玉入れという目立たない無難な競技でお茶を濁させてもらうことに成功した。そして、それと引き替えに、別の玉入れ要員の子と手分けして、応援用のポンポンを作ること引き受けたのだった。
クラス半数分のポンポンは、家で作業して完成させた。これが今なら、『学校に残ってふたりで作ろう』という提案をどちらかからしたと思うのだけれど、当時は人見知りし合っていた。私たちは悪い意味で、似た者同士だった。
出来上がったポンポンの山を見たとき、達成感よりも絶望感を覚えた。
そして、バッグに詰めさえすればコンパクトに収まるだろう、という私の予想は完全にハズれた。軽いもののかさばり、大きなビニルバッグをパンパンに膨らました。
不安になった私は、あの日の朝、いつもより1本早い電車で登校することにした。
朋子も私に『合わせる』と言ってくれたけれど、あのときは断った。たった1日のことだし、こんな大荷物を抱えてふたりで乗車するより、ひとりのほうがまだ周りに迷惑でないはず……と判断したのだ。
自分の部屋を車内と見立てておこなった予行練習は完璧だった。
けれど、いざ乗り込む段になって思い直した。
だって、ラッシュの時間帯にこんな大きなバッグを下げていたら、どう考えたって邪魔だ。
だから、荷物棚に上げることにした。
しかし、薄々気づいていたけれど、私はそういう星の下に生まれてしまっているらしかった。
こういうときに限って、ロングシートの出入り口付近は、脚の長さが自慢のような乗客らによって占拠されていた。
かといって、大きな荷物で車内中ほどへは入っていけなかった。
まあ、何とかできるかな?
私は自分を過信していたのだ。150センチの身長に、ヒール高さが2センチしかないローファーのくせに!
座っている乗客に触れることがないように注意を払いながら、ビニルバッグを持ち上げた。
無茶だったと悟ったときにはもう遅かった。
私が荷物棚に上げかけていたビニルバッグは、まさに横に倒れようとしていた。
わっわっわっ、満員電車の中でポンポンの雨を降らせちゃう!
そのときスッと長い腕が伸びてきた。その腕は鮮やかに、ビニルバッグが倒れるのを堰き止め、さらに荷物棚に鎮座させてくれた。
その腕の所有者こそがテルさんだった。
「あっ、ありがとうございます」
私は小声でお礼を言った。
テルさんはこっちを見ることもなく、『このくらい別に』とでも言うように軽く頷いただけだった。
それでも恋に落ちるには充分だった。
にも拘らず、それだけで終わらなかった。
私の下車駅に近づいたとき、テルさんは荷物棚からビニルバッグを下ろしてくれたのだ。
「どうして……」
どこかで私を見かけたことがあって、私のことが気になっていたとか……?
今考えれば、それにしては私がお礼を言ったときの態度が素っ気なさすぎだったんだけど、あのときは冷静じゃなかったからそこまで考えが及ばなかった。
あっという間に、私の脳内ではロマンスが始まっていた。
「制服」
「えっ?」
「その制服、月ヶ丘でしょ?」
なんだ、それだけのこと。
都合のいい期待は、瞬く間にきれいさっぱり消え去った。
それでも、わざわざ荷物を取ってくれてうれしかったことには変わりなかった。
「学校まで気をつけてね」
見事なまでのダメ押しだった。
その日のうちに朋子に頼んで、私は翌日以降も同じ電車に乗るようにしたのだった。
※※※
昼休みになり、朋子を含めた3人のクラスメイトと共にお弁当を食べていた。
電車でテルさんに会えなくなって、今日で3日目。
お母さんのだし巻き玉子でも、私を励ますことはできなかった。
カットしてラップで包んだだけのバナナなんて、もっての外だ。
「小町、お手本みたいに恋煩ってんね」
朋子がひとり言のように呟いた。
ラップをむいていた私は、このときになって初めて3人から視線を集めていたことに気がついた。
「恋煩い……っていうか寝不足。夜寝てる間中、テルさんを探し回って彷徨ってる気がする」
「確かに顔色よくないね」
「それ食べたら5限目が始まるまで寝ておいたら?」
「そうだよ。ほんの少しでも昼寝するとすっきりするよ」
みんな本当に心配してくれているようだった。
「じゃあ、そうさせてもらおっかな」
空にしたお弁当箱を包み直して片付けると、私は自分の机に突っ伏した。
エアコンの効いた暖かい教室。眩しくない絶妙な加減で窓から入ってくる太陽の光。お弁当で膨れたお腹。
昼寝の最適条件がそろっているんではなかろうか……気持ちいい……
……はっ!
予鈴が鳴り、反射的に上体を起こした。
机がガタッと音を立てて、5センチほど前にズレた。
私、寝てた……よね?
今、テルさんがそこにいた! 手を伸ばせば届く距離に。
テルさんの名前を呼んだら、テルさんがこっちを振り返ってくれて……
でも、その瞬間に目が覚めてしまった。
予鈴があとほんの数秒待ってくれていたなら、視線が交わったかもしれないのに……
あー、もったいなーい!
悔しくて肩に力が入った。
すると何かが滑って、床に落ちた。
「私の……カーディガン……?」
「あっ、それ私が」
カーディガンを拾いながら、朋子が言う。
「風邪ひかないように、と思ってさ。はい」
返されたカーディガンを受け取った。
「ありがとう。でも、何で裏返し?」
「それはこっちが言いたい。背もたれにかけてあったのを、そのまま肩にかけただけだよ。文句があるなら、脱いだときに小町が自分で戻しておきなよ」
「それ、うちのお母さんもよく言ってる……」
そのとき、何かが引っかかった。
あれ? 最近もお母さんのそのセリフを思い出したことがあったような……
『あーっ!』と叫びそうになった。
そうだよ、テルさんの夢を見た朝!
もしかして、服だかパジャマだかを裏返しにしていると、テルさんに夢で会える……とか?
ちょっとした思いつきだった。
それなのに、考えれば考えるほどそうとしか思えなくなってくる。
きゃー、これは今夜試してみるしかないでしょ。
そして今度こそ、あの瞳の真ん中に映りたい!
※※※
今夜はさっさとベッドに入ることにしよう。テルさんに1分でも長く会いたいから。
意気揚々と学校を出て駅に向かった。
下校時も乗るのは3号車。朝は先頭から3番目の車両のことだけれど、帰りは最後尾から3両目になる。
それでも3号車がいい。ホームの位置が同じだからで、それは習慣的なものだ。前から、もしくは後ろから何両目とかはどうでもいい。
私は3号車の、進行方向とは反対側から数えて2番目のドアが停まる位置で待った。
間もなく電車がホームに入ってきてびっくり!
て、テルさん!?
ドアガラスの向こう側に見えたのは、この3日間ずっと恋しかったテルさんの顔だった。それと、ついでにワタルさんもいた(私ってば、言い方!)。
登校にこの路線を使っているのだから、下校も当然そうなはず。けれど、下校時に見かけるのは初めてのことだった。
不意打ちに、心拍数が上がる。
ドアが開いた。
テルさんの足元には大きなボストンバッグが置かれていた。
それと、日に焼けてる?
車内は比較的空いていて、朝のラッシュ時ほどは近くには寄れない。それでもごく自然を装って、会話が聞こえる程度には近い位置を確保できた。
「それにしても、最初はスキーに文句言ってた割に、楽しんでたじゃん」
ワタルさんが、テルさんを揶揄うように言った。
「それは、高校の修学旅行は沖縄だと思ってたからで……」
修学旅行! それで見かけなかったんだ。
「でも、スキーも初めてやってみたけど、けっこう滑れるようになったし、案外面白かった」
「テル、すごかったな。最後なんか経験者と変わんなかったよ」
わあ、新情報。テルさんはきっと運動神経がいいんだ!
「言いすぎ。俺、足がガクガクになったわ。今朝からすっげー筋肉痛だし」
「そういや、帰りのバスで爆睡してたな」
「そう? 自分ではうつらうつらのつもりだったんだけど。あっ、あのとき一瞬だけ夢見たわ。今回は俺にしては珍しく覚えてる」
胸がドキン! と跳ねた。
「へえ。で、どんな?」
「女の子? 女の人? から名前を呼ばれて振り返ろうとしたところですぐ起きた」
「知り合い?」
「どうかな?」
それ……私……
高校生にもなって何馬鹿げたことを、とちらっと思いはした。
けれど、私だ、という確信があった。
私は夢を見るとき、いつも映画やドラマを見ているように、第三者になっているのだ。私もその映画に登場するけれど、自分が主演の映画を鑑賞しているみたいな感じ。
それなのに、今日の昼休みだけは妙に生々しかった。私は当事者で、まるで実際に体験しているような感覚があった。私自身の声帯を使って『テルさん』と呼びかけたような……
「テル自身気づいてないだけで、その子のこと好きなんじゃねえの?」
なぬ!?
「好きじゃなくても夢に出てくると、その子のことが気になってきて、いつの間にか好きになってるってことねえ?」
「あー、何かわかるかも」
きゃー、きゃー、どうしよう!?
今や私の心臓はバックバクだ。息苦しくなるほど内側から強く胸を叩いてくる。
「学校の廊下とかですれ違ったことがあったりな」
違っ! 電車、通学電車の中だから!
「学校で探してみれば?」
「ははっ、何だそれ」
笑い飛ばしてはいるものの、テルさんは提案の拒否はしていない。
うぬぬ……ワタルさんめ!
テルさんの名前が『テル』さんであることを教えてくれたのは、ワタルさんに他ならない。だから今までこっそり感謝していたのに。
この発言は許せなーい!
私と勘違いして、銀星台の女子生徒を好きになったらどうしてくれるの?
……えっ、大丈夫だよね……?
テルさんに『あれは私なんです!』と訴えたくて、私は胸のうちで必死にもがいた。
でも、そんなことができるんなら、夢なんか頼りにしていないで、とっくにテルさんに対して何らかの行動を取っている。
そう、現実の私にそんな勇気はないのだ(自信たっぷりに言うことではないけれど……)!
もうこうなったら夢の中でテルさんに会いにいって、何が何でも私を認識してもらうしかなーい!
※※※
パジャマは裏返した。
関係ないはずだけれど、念のため、フレグランスウォーターはレモングラスをチョイス。
あとは眠るだけ……
3回目こそ、テルさんと正面から話してみせる!
自己紹介をして、それからビニルバッグを荷物棚に上げるときに助けてもらったあの日のことを話して……
そして、そのときからテルさんに恋をしていることも伝えよう。
そうすれば、いつもと変わらないはずの37分発の3号車……
乗り込んできた私を認めて、テルさんはきっと目を見開いてくれる……
END