(気持ちいい!)
 BBQエリアと管理小屋の間は渓谷によって隔てられ、そこには吊り橋がかかっている。
 吊り橋と言ってもしっかりとした手すりがあり、足元も幅広の板が敷かれているため、両手が物でふさがっていても安心して渡れる造りになっていた。
 橋の下では渓流が心地よい音を立てている。
 そこから立ち上る目に見えぬミストは、橋を渡る者に香気と涼しさを与えていた。
(BBQでもレオポルドと一緒なら楽しいんだろうな)

 限定衣装の推しが肉を焼く姿を妄想しつつ、吊り橋の半ばまできた時だった。
有寿(ありす)ちゃーん!」
 名前を呼ばれふり返る。
 橋を揺らしながら小走りでやってきたのは、神室(かむろ)さんだった。
「やっと追いついた!」
 笑いながら、神室さんは私のパーソナルスペースに躊躇なく踏み込んでくる。
「なんでこんなところにいるの? 手洗い場はあっちだよ? さ、おいで」
 言って私の手首をつかむと、元来た道を戻ろうとする。
「え? あ、ちょ!」
「有寿ちゃんって方向音痴? 可愛いなぁ」
「……」
 もし私が一般的な感覚を持っていれば、彼は魅力的な人に思えただろう。
 けれど残念ながら、私は違うのだ。
 神室さんにつかまれた手を、やや強引に引き抜く。
「有寿ちゃん?」
「ごめんなさい、道を間違えたわけじゃないんです」
「え? じゃあ、散歩がしたかったの?」
「管理小屋に戻りたくて」
「管理小屋?」
「そこなら電波マシだから。ゲームしようと」
「あぁ」
 クスクス笑いながら、神室さんは更に身を寄せてくる。
「本当にゲーム好きなんだね。分かった、俺も一緒に行くよ」
 形のいい口がスッと私の耳元に寄せられる。
「二人で抜け出すのも悪くないね」
「っ!」
 私は囁かれた側の耳を押さえて一歩距離を置く。肌が粟立っていた。
(そうじゃない!)
 正直この人とはこれ以上関わりたくない。
 興味がないのもそうだけど、彼は岡名(おかな)さんのお気に入りだ。
 二人で抜けたと彼女が知れば、恨まれ睨まれ、大学内での風当たりが強くなる。
 サークルのリーダー格である彼女を敵に回したくないのだ。
(明日からの平和な学校生活のためにも、この人とは距離を置きたい)
 私は意を決し、神室さんに向き直った。
「神室さん」
「ん? なに、有寿ちゃん」
「私、人の男に興味ないんです」
「え?」
 笑顔のまま、神室さんが固まった。
「女性がいいってこと?」
「違います、ケモノがいいんです」
「ケモノ?」
「聞いたことありませんか、ケモナーって。獣人って言う、動物と人間の半々の姿をした空想上の生物が私の恋愛対象。そんな性的嗜好なんです」
「性的嗜好……」
「『美女と野獣』で、野獣が王子様になった瞬間ガッカリしたタイプです。中身で好きになるとかじゃなくて、あのビーストの見た目じゃなきゃときめかないんですよ」
「……」
「だから、こんなおかしな私のことなんて放っておいてください」
 よし、言った。ここまで言えばさすがにキモいと……。
「へぇ、そうなんだ。奇遇だね、俺も猫耳とか割と好きだよ? 今度二人で、そういう仮装系のイベントとか行ってみようか」
 すごい、くじけない! そうじゃない!
 こんな特殊な性的嗜好にまで話を合わせてくれるなんて、いい人なんだろうとは思う。
 思うけど。
「私、イケメンにケモ耳しっぽ付きは、好みじゃありません。それが好きな人もいますけど。私は全身獣毛に覆われて、頭が動物の形をしているタイプじゃなきゃダメなんです。だから……」
 私は神室さんに一礼する。
「ごめんなさい。私に構わず、みんなのところに戻ってください」
 神室さんは口を閉ざす。沈黙が続いた。
 川のせせらぎの音だけが耳に届く。
 やがて神室さんは、「そっか」と残念そうにつぶやいた。
(わかってくれた?)
 ホッと息をつく。
 だが次の瞬間、私の体は神室さんによって高々と持ち上げられた。
「きゃ!?」
 吊り橋の手すりよりも上の位置まで吊り上げられる。
「何を!?」
 神室さんは薄く笑うと、私を手すりに座らせた。
「あぶなっ……!」
「俺ってさ、SかMかっていうとSなんだよね」
「何の話!?」
「先に特殊な性的嗜好の話を始めたのは、有寿ちゃんだよ?」
 な……。
「下ろして! 落ちる!」
「怖い? でも俺、有寿ちゃんの怯えてる顔、結構好きかも」
 言って神室さんは足を使い、吊り橋を揺らした。
「やっ……!」
 慌てて手を伸ばし、神室さんの襟元を掴む。
 神室さんはそんな私を見て、満足そうに目を細めた。
「ねぇ、今、有寿ちゃんの命は俺が握ってるんだよ? どんな気持ち?」
 どんな気持ちって!?
(意味わかんなくて、腹が立ってるよ!)
 私が黙っていると、神室さんはまた足元を踏みしめて吊り橋を揺らす。
「ひっ!」
(まさかコイツ……、文字通りの『吊り橋効果』狙ってる!?)
 恐怖のドキドキを、恋による胸の高鳴りを錯覚させるというアレだ。
「怖かったらさ、俺にギュッと掴まっていいよ? そしたら下ろしてあげる」
(はぁあああああ!?)
 さっきまで好青年だと思っていたけど、取り消し!! こんなの完全に脅迫だ!
 本気で落っことす気はないだろうけど、こっちが怯えてるの見て楽しんでるよね?
 サイコパス! 最っ低!
「ほら、俺にしがみついて? それから『神室様、助けて』って言ってみて?」
(ふっ、ざっ、けっ、んっ、なっ!!)
 生殺与奪の権利を握ったこの状況に、この男は陶酔しているように見えた。
(この、自覚なしDV野郎! 最悪! でも、どうすれば……)
 心もとない吊り橋の手すりの上で、必死にバランスを取りつつ耐えていた時だった。
「神室君!」
 こちらに向かって歩いてくる岡名さんが見えた。
「そんなところで何を……、不破(ふわ)さん?」
「助けて、岡名さん!」
 チャンスとばかりに私は叫んだ。
「落とされる!」
「えっ、神室君がなんでこんな……」
「あ、あはっ、違うんだって~」
 神室さんの表情が、元の穏やかなものに戻る。だがその瞬間、私を支える彼の手が緩んだ。
(え……)
 あっという間にバランスを崩し、私の体は後方へとひっくり返る。
「きゃあっ!?」
「しまった!」
 空中に投げ出され、体は渓流に向かって吸い込まれてゆく。
(ここの川って……)
 子どもの膝ほどの深さしかなかったはずだ。
 落下してきた人間を衝撃から守ることなど、無理だろう。
 きっと私の体は、ごつごつとした川底に叩きつけられる。
(私……)
 急激に意識が遠のく。
(限定レオポルド引きたかった……!)
 推しの顔を思い浮かべながら、私は真っ黒な世界へと飲まれていった。