小さな街灯の薄明かりに包まれた住宅街の交差点に、警備員が一人立っていた。片手に誘導灯のような棒を持っているけれど、光は()いていない。
 駅前のカラオケ店で深夜のバイトを終えアパートに帰る途中だった僕は、少し不思議に思いながら交差点に近づいた。
 近所で工事などが行われている様子はないし、こんな真夜中に下校する子供たちがいるはずもない。そもそもこの辺りはそれほど頻繁に車が通るわけでもないのだ。
 いち早く僕に気づいた警備員は、棒を使って丁寧に歩行者を進行方向へ誘導した。防寒着のジャンパーが少しだぶついて見えたけれど、動きはきびきびとしていて、慣れた感じだった。

 数日後の深夜、僕はバイト帰りに再びその交差点の前に立つ警備員を見かけた。相変わらず周囲で工事は行われていない。
 前回、顔をよく見たわけでもないしマスクもしていたから、同じ警備員かどうかは定かでなかった。けれども丁寧に誘導してくれる仕草やオーバーサイズの防寒着を見て、同じ人だとわかった。
 僕は歩きながら振り返って警備員の様子を眺めた。電柱と並ぶような感じでこちらに背中を向けて佇んでいた。深夜の工事現場は少し腹の出た中年の警備員が多い印象があったけれど、あの警備員は華奢な感じで、大学二年生の自分と大して歳は変わらないように見えた。

 翌日はバイトがなかったから、大学の授業を終えた僕は、日が落ちる頃、家路についた。
 交差点に警備員はいなかった。
 今日は来ない日なのか、それとももっと遅い時間にやって来るのか、気になった。
 あるいは、もう警備の必要はなくなったのだろうか。
 といっても、元々警備の必要などないような場所なのだけれど。

 明くる日はバイトが夜中の二時過ぎに終わった。僕はコンビニで夜食を買い、とぼとぼと家に向かった。
 交差点の前に見覚えのある防寒着の警備員が立っていた。首をすくめたり、その場で軽くジャンプをしたりしていて、少し寒そうだった。
(ああ、やっぱり夜中には来ているんだな)
 いつものように目敏く僕に気づき、丁寧に誘導する警備員を、僕はいつもより注意深く観察した。決して相手には悟られないように。
 交差点を通りすぎ、警備員に背を向けたまま僕は平然と歩き続けた。でも実際のところはかなり意表を突かれていた。
 警備員が女のひとだったからだ。
 纏めた後ろ髪をヘルメットの中に納めているのがすれ違った時にわかった。ほんの一瞬だけ目が合った。キラキラした若い女性の眼差しだった。
 よっぽど引き返して、どうしてこんな所で警備をしているのか尋ねてみたかったけれど、生憎そのような社交性は持ち合わせていなかった。
 その晩、僕は明け方まで、警備する彼女の意図をあれこれと考えていた。

 それから二日後、バイトを終えると彼女はやはり警備服で深夜の交差点に立っていた。僕は思い切って用意していた言葉をかけた。
「あの、どこかで工事か何かがあるんですか?」
 突然質問された彼女は、きょとんとした顔で「いえ、特には」と短く答えた。
「そうですか…」とつぶやいた後、僕は言葉につまり、その場を後にした。「お疲れ様です」とか「寒いですね」とか、せめて何かもう一言くらいかけられたらと悔やんだ。
 一方で、彼女が「特には」と言ったきり警備について何も言及しなかったので、僕の中ではますます謎が深まっていた。 

 次の深夜バイトの帰り道、僕はコンビニで缶コーヒーのカフェオレのホットを二つ買い、ドキドキしながら交差点に向かった。そして彼女を見つけるや否や、さりげなく「よかったらどうぞ」と言って缶コーヒーを手渡した。きっとつき返されるだろうなと覚悟していたが、意外にも彼女は「ありがとうございます!」と言ってすんなり受け取ってくれた。

「お仕事、いつも大変ですね」 
 さっそく缶のふたを開け、マスクをずらして飲み始めた彼女を見て、僕の口から自然にそんな言葉が出た。
「あ、これ、仕事じゃないんです」
 彼女はほんの少し申し訳なさそうに答えた。
「え?じゃあ趣味でやっているんですか?」
「趣味というわけでも……」
「仕事でも趣味でもない?」
「仕事と趣味だけでできているわけじゃないので。人生は」
「はあ……」
 僕は、彼女の言っていることがわかるようでわからず、とりあえずカフェオレを飲んだ。彼女も無言でカフェオレを飲んでいた。
「でも、その警備服は?」
「ああ、これは仕事で使ってるやつです。仕事の警備もやってるので」
「なるほど……」
 先にカフェオレを飲み干した彼女は「ごちそうさまでした。じゃあ、お休みなさい」と早口で言って、僕を交差点の先に促した。僕は、「はい。お休みなさい」と言って立ち去るしかなかった。
 やっぱり、いきなり缶コーヒーを渡すなんて馴れ馴れしすぎたかなと、僕は後悔した。

 翌日のバイト帰り、僕はマスクを眼鏡の内側まで大きく広げ、恐る恐る交差点へ向かった。彼女には会いたかったが、合わせる顔がなかった。ところが僕を見つけた彼女は駆け寄ってきて、防寒ジャンパーのポケットから缶コーヒーを取り出した。
「昨日のお返しです。少し冷めちゃってるかもしれないけど」
 缶はまだ十分温かかった。
「ありがとうございます!」
 僕はうれしくてすぐにふたを開けて飲み始めた。ブラックコーヒーは苦手だったけれど、我慢しておいしそうに飲んだ。

 それから半月くらいの間、深夜のバイト帰りに僕はカフェオレ、彼女はブラックを差し入れし合いながら、缶コーヒーを飲み終わるまでのほんの数分の間、何気ない会話をした。
 長話はしたくないという空気はひしひしと感じていたけれど、拒絶されているわけでもないことはわかった。僕が駅前で月、木、金に深夜までバイトしているのだと話すと、どんな仕事をしているのか興味を示してくれた。 僕はカラオケ店でバイトをしていると答え、「いつかシンガーソングライターに成りたい」などと、これまで考えてもみなかったことを将来の夢みたいに勢いで語ったりした。
 その話をしたとき、彼女は初めて笑顔を見せた。僕はその瞬間、花模様のワンピースを着た彼女の姿を思い浮かべた。警備服じゃない普段の彼女にも会ってみたいと思った。

 僕が最後に彼女に会ったのは、霙まじりの冷たい雨が降る夜だった。彼女は傘も差さずに交差点の前に立っていた。風邪を引かないか心配だった僕は思わず自分の傘を渡そうとした。けれども彼女は「この服、完全防水だから大丈夫」と言って、傘を受け取る代わりに缶コーヒーをくれた。雨の中で飲むわけにもいかず、僕はぬるくなった缶をそのまま家へ持ち帰った。

 翌朝、二度寝してしまい十時過ぎに起きると、雨は止んでいたけれど太陽は灰色の空のどこかに隠れたままだった。上空で旋回するヘリコプターの音がやけに騒がしかった。朝食と昼食を一食で済ませ、午後からの授業に出席するために家を出た。
 電車の中でスマホを見ていると、あるニュースが目にとまった。

『昨夜未明、都内S区の住宅街で傷害事件か発生した。路上で刃物のようなものを振りかざしていた男が、付近に居合わせた女性警備員を刺し逃走した模様。女性は腕や背中など数ヶ所を刺され病院へ搬送されたが命に別状はないとのこと。事件を目撃し救急車を呼んだ新聞配達員によると、逃走中の容疑者は身長170cm前後のやせ形の若い男で黒っぽい上着を着ていたという。警察は防犯カメラなどを手掛かりに男の行方を追っている』

 記事を見て、すぐに彼女が事件に巻き込まれたのだと思った。僕は慌てて電車を乗り換えて引き返し、住宅街の交差点に駆けつけた。予想通り規制線が敷かれ、報道関係と思われる人々や近所の住民たちが集まっていた。規制線の向こうでは数人の捜査員が立ち話をしていて、現場検証などは既に終わっているようだった。
 僕は彼女の運ばれた病院がどこか知りたかったが、規制線の中に入って誰かに聞くわけにも行かず、とりあえず自宅に戻った。テレビをつけると、午後のワイドショーはどの局も議員の不祥事とか不倫とかどうでもいい話題ばかり取り上げていて、彼女の事件は扱っていなかった。 

 明くる日、大学に行かずにずっとテレビやネットのニュースにかじりついていた僕は、夕方の報道番組でようやく事件の続報を知ることができた。
 犯人の男がその日の午後、自宅で逮捕されたのだ。年齢は28歳。無職で、氏名はなぜか公表されなかった。男にはストーカー行為で前科があり、今回も本人が現場近くに住む女性へのストーカー行為をほのめかしているとのことだった。そして意外な事実が明らかにされた。傷害事件の被害者である女性(24歳)が男の実の妹だというのだ。捜査関係者によると、エスカレートする兄のストーカー行為を未然に防ぐために、妹は現場で兄ともみ合いになり負傷したらしい。

 淡々と缶コーヒーを飲みながら話に付き合ってくれた彼女が、これほどまでの重荷を背負っていたなんて……。  
 僕は自分の愚かさと無力さに頭を抱えた。おそらく彼女は時間の許す限り、兄の犯行を未然に防ぐために連日あの場所に立ち続けたのだ。もちろん警察にも相談していたのかもしれない。けれどもこの類いの問題は、事件になるまでなかなか警察が動いてくれないことは世間知らずの僕でもなんとなく知っていた。 

 その夜、僕はいてもたってもいられず、ダウンジャケットを羽織って交差点に赴いた。既に規制線は解かれ、現場には誰もいなかった。
 僕は彼女と同じように一晩中その場に立ち続けることにした。時間を追うごとに強い冷気が全身に覆い被さってきて、凍り付いた心臓が砕け散ったみたいに胸が痛かった。
 とにかく刺された彼女のことが心配だ。けれども今の自分には、夜空を仰いで祈ることしかできない。
 今の自分?
 ならば、この先の僕に何ができるというのだろう。
 僕はこれから、どう生きればいいのだろう。
 答えがあるのかどうかも分からないまま、僕は自前の低スペックのCPUをひたすら動かし続けた。

 立ったままいつの間にか眠っていた僕は、近くを通り過ぎたバイクの音で目を覚ました。
 辺りはいまだ闇に包まれていた。
 やがてどこからか小鳥のさえずりが聞こえてきた。何度か瞬きした後、遠くの空に目をやると、かすかに白み始めていた。
 少しずつ何かの想いが内側から沸き上がる気配がした。それは空が光を増すにつれて少しずつ明瞭になっていった。
 僕は本気でシンガーソングライターになることを決意した。才能なんてこれっぽっちもないかもしれない。音楽で食べていける人なんてこの世界でほんの一握りだ。けれども僕は真剣に、そしてがむしゃらに曲を作りたいと思った。

 真夜中に人知れず何かと戦っている誰かのために。

 それこそが自分にとって、彼女が言っていた「仕事でも趣味でもない」領域の生き方であるような気がした。

 きらきらと輝く宝石みたいな朝の光たちが視界を覆った。それらに負けないくらいの価値が自分の生き方にあることを、彼女ならとっくに気づいているに違いなかった。