言えなかった言葉を乗せて、終電は走る。

 フット・イン・ザ・ドアという心理学テクニックがある。訪問販売などで扉が閉まる前に、靴さえドアの間に挟み込んで交渉を始めてしまえばなし崩し的に契約にこぎつける。転じて、小さな要求を飲んだ人間は、勢いのままに大きな要求を飲みやすい。

 唯子はそういうつもりでキスをせがんだのだと思っていた。一度きりのキスのつもりではなく、そのままよりを戻すことを唯子は望んでいると思っていた。春樹はそれを望んでいたから。
 キスをしたあと、二人で終電に乗って行けるところまで遠くへ行くつもりだった。終点についたらあてもなく歩いて、それを繰り返して誰も自分たちを知らないところまで駆け落ちしようと思った。

 親に迷惑をかけようとも、婚約者を裏切ることになろうとも、世間から不倫だ浮気だと罵られようともどうでもよかった。不道徳だとはわかっていても、それでも唯子が好きだった。
 唯子と別れてから、だいぶ恋愛経験を積んだ。今なら間違えない。同じ失敗を繰り返さない。もう二度と唯子を手放したりしない。今度こそ大丈夫だ。
 手に入れられなかった永遠を取り戻すための最初の一歩。一度きりのキスというのは建前で、これから何度だってキスをする。そう思っていた。

 でも、唯子は正しくない恋を望んではいなかった。唯子はあの頃と変わらずまっすぐなままだった。変わったのは春樹だけだった。それをいやというほど思い知らされた。
 唯子だけは汚れた世界に引きずり込んではいけない。唯子は特別だから終わりにしなくてはいけない。唯子を愛していたから、もう会ってはいけない。

 春樹の最寄り駅についた。ホームには誰もいない。

 春樹がもたれかかっていた扉が開いた。

 春樹はバランスを崩し、見えない何かに追い出されるように電車を降りる。頭がぐわんと揺れた感覚に、これが夢ではなく現実だと実感する。唇に手を当てた。きっとこの感触を永遠に忘れることはない。

「本当に好きだったよ、ユイちゃん」

 一人きりのホームでつぶやいた。その声は唯子には届かない。

 音を立てて、電車の扉が閉まった。