「卒業できてよかったね」
 学位記を片手に、旭唯子は金森春樹に会話を振る。人もまばらな終電1本前の下り各駅停車の8号車、ドアにもたれかかったままふたりは当り障りのない会話をする。
「俺が本気を出せば、試験くらいちょろいっての」
 軽口を叩いているが、春樹は在学中に遊びすぎてたくさんの単位を落とし、毎年留年が危ぶまれていた。内定はとっていたものの、前期の時点で卒業は本人もあきらめかけていたが、火事場の馬鹿力を発揮して奇跡的にすべての単位を取りそろえ留年を回避した。
「知ってる。春樹、根は真面目だもんね」
 唯子がそう答えると、ふたりの間に沈黙が流れる。間が持たない、気まずい、とお互いに頭の中で必死に次の話題を考えるが何を話したらいいのかわからない。どうにも居心地が悪いが、この時間が終わってしまうのは名残惜しい。そんなジレンマを抱えた二人を乗せて、電車は走る。

 一年生の秋から二年生の夏にかけて、春樹と唯子は付き合っていた。いわゆる飲みサーよりは大人しく、体育会や大学公認の文化部よりは緩く活動する小規模なアカペラサークルで二人は出会った。
 唯子は北海道、春樹は滋賀からの上京組だった。同じ学校からの入学者はいない。不安を抱えながら迎えた入学式とそのあとのオリエンテーションやサークル説明会。アカペラサークルの小さなブースに同じタイミングで訪れた。
 そこで、クラスは違うがお互いが同じ文学部心理学科であることを知った。同じ学部の友達ができるようにと気を利かせた先輩に会話を促されたが、地元の高校は男女別学だったので、異性とまともに話すのはほぼ三年ぶりで最初はとても緊張した。
「学部、同じですね」
「よろしくお願いします」
 なかなか敬語も抜けなくて、会話はどうにもたどたどしい。しかし、それもお互い様だと気付いてからは気が楽になった。サークルの異性の中ではこの人が一番話しやすい、という感情はいつしか、この人と話しているのは楽しいという気持ちに変わっていった。
 無垢なふたりは互いに惹かれ合った。正真正銘の初恋だった。告白は春樹から。唯子を映画館に誘って、その帰り道、夜の公園で告白した。
 手を、友達の繋ぎ方から恋人の繋ぎ方に変えるのにも、初めてキスをするのにも同年代のカップルに比べると随分と時間がかかった。
 一生に一度の恋だと思った。この人と結婚するのだと心の底から信じていた。
「俺たち、もう十八歳だから結婚できるんだよな」
「しちゃおっか」
「あれ? 十八歳って結婚に親の承諾必要だっけ? 民法変わったんだっけ?」
「どうだっけ、細かいところまで覚えてないなあ」
「まあ、いいや。大学卒業したら、すぐ結婚しような」
 十八歳で将来を誓い合った。しかし、その約束は果たされることはない。

 初めてゆえに不器用な恋だった。小さな嫉妬やすれ違いが積み重なって、喧嘩が増えた。ほんの少しのボタンの掛け違いが恋そのものを壊した。どちらが先に「別れよう」の言葉を発したかはもう二人とも覚えていないし、今更どうしようもない。売り言葉に買い言葉、引っ込みがつかなくなって、妙な意地が邪魔をして謝ることもできないまま人より遅い初恋は終焉を迎えた。

 女性の先輩が隣の席に座るだけで赤面するような純情少年だった春樹は、別れた後は吹っ切れたような遊び人になった。古い価値観の家庭で育った反動と本人は言い張ったが、全部唯子を忘れるためだった。二股をかけている、毎日合コン三昧など、在学中ずっと浮名は絶えなかった。噂は多少の脚色やデマもあったが、褒められたものではない生活をしているのは事実だった。
 大学生活を遊び尽くした春樹もやがて落ち着くことになる。春樹の学業成績がひどいものであること、就職活動も碌にしていないことを知った父親は強制的に春樹を実家に呼び戻し大目玉を食らわせた。そのタイミングに居合わせたお節介な親戚が半ば強引にお見合いをセッティングした。
 いくら遊んでも、心は虚しいままに満たされない。父親の説教を受けている最中にそのことに気づいてしまった春樹はお見合いを受け、高校卒業後に地元の村役場に就職して二年目の女性と結婚することにした。春樹の大学卒業後は、父親の経営する会社に就職することが決まった。心を入れ替えて後期は真面目に授業に出席し、試験勉強に打ち込み、無事に卒業が確定した。
 もうすぐ籍を入れる予定だと、今日の卒業式の後に行われた追いコンで報告すると、ようやく真面目な春樹が帰ってきたとみんなが祝福した。

 一方、唯子はその後、誰とも付き合うことはなかった。心理学専攻だった唯子も、自分の心までは思い通りにすることはできなかった。春樹を忘れられなかった。

「アサヒは次の駅だっけ?」
 沈黙にしびれを切らした春樹が質問をする。唯子の家は特別駅から遠いというわけではないが、恋人が深夜に一人で外を歩くのはどうにも心配だったので、サークルの飲み会で帰りが遅くなったときは何度か唯子を家まで送ったこともある。だから、当然唯子の家の最寄り駅どころか家までの道のりも覚えている。
 気まずい空気は早く打ち破りたかったが、最寄り駅を覚えていると言うのは気が引けたので確認の体をとった。
「うん、金森はその次で合ってる?」
 唯子もまた、春樹が隣の駅に住んでいることははっきりと覚えている。しかし、春樹同様に質問という体裁を崩さなかった。
「ああ。っていっても、四月になったら田舎に帰るからもう荷物もほとんどないけど」
「そうなんだ。ねえ、金森。うちの近所最近不審者出たみたいなの。怖いから家まで送ってくれない?」
「いや、帰れなくなるから無理」

 交際当時、二人は「春樹」「ユイちゃん」と呼び合っていたが、別れた後は他のサークルメンバーに合わせて名字で呼び合うようになった。サークルメンバーは男女を問わず、ふたりを「アサヒ」「金森」と呼んでいた。
 サークル内恋愛はたとえ破局したとしてもサークルの空気を壊す行為はご法度だ。どんな別れ方をしたとしても、普通の友達として振る舞うのが大人と子供の狭間の小さな社会の鉄の掟だ。
 お世辞にも模範的とは言えない生活を送っていた春樹も、その鉄の掟だけは破らなかった。別れた唯子に対しても紳士的にふるまい、当てつけとばかりに唯子以外のサークルの女子部員に手を出すようなことは一切しなかった。春樹にとってサークルは唯子と出会った大切な場所だったから。

「じゃあ、次の電車が来るまでだけでいいから少しだけホームで話そうよ」

 春樹のスーツの袖を引っ張って、唯子が誘った。軽い雰囲気を出そうとしているが、緊張して声が上ずっている。春樹が返事をする前に、車内放送が唯子の最寄り駅への到着を告げた。

 停車の反動で少し揺れた後、電車の扉が開いた。

 春樹は特に抵抗することもなく、唯子に連れられて電車を降りた。散々奔放な生活を送ってきたが、結局春樹も唯子との日々を忘れられずにいた。

 音を立てて、扉が閉まった。

 深夜のホームで二人きりになると、唯子は微笑んだ。

「やっぱり、春樹は優しいね」
「優しくないよ。俺、一部でめちゃくちゃ評判悪いよ」
「うん、知ってる。春樹の噂、結構聞くもん」

 春樹はため息をついた。心のどこかで、唯子が自分の噂を知らないでいてくれたらと期待していた。「アサヒは純粋だから」と刺激の強い話から遠ざけられていた姿を覚えていたから、春樹の噂も耳に入っていなければいいと思っていた。

「はあ……誰だよ。アサヒに教えてるやつ」

 春樹は唯子からの呼び方が変わったことには気づいているが触れることはしない。かたくなに唯子を名字で呼び続けた。

「アサヒ、ね。もうユイちゃんって呼んでくれないんだね。悪いことついでに、最後に一度だけ、悪いことに付き合ってくれない?」

 唯子は一瞬悲しげな表情をしたが、意を決して春樹に切り出す。深呼吸した後、うつむきがちに震える声で最後のお願いをする。

「一回だけキスしてよ。それで全部終わりにする。春樹がいるときはサークルの集まりに来るのもやめるよ」

 結婚予定の男性にキスをせがむのは悪いことだと分かっている。春樹が婚約者を捨てて自分を選ぶことはないと分かっている。それでも抑えきれなかった。
 どんなに悪い噂を聞いても、唯子の思い出の中の春樹は誠実なままだった。この申し出はきっと拒否される。

「いいよ。目、閉じて」

 そう思っていたが、春樹から返ってきたのは予想と正反対のものだった。
 春樹は唯子を自分のもとに抱き寄せると頬に手を当てた。久々に唯子の顔を間近で見る。卒業式の帰りということもあり普段より濃いメイクをしているが、付き合っていたころと変わらずあどけない。
 このまま唯子をもう一度自分のものにしたいと思った。誰もいないホームで春樹は唯子にキスをした。
 初めてキスした時と同じ、ほんの一瞬唇同士が触れ合うだけのキス。それでも、その時間は時が止まったように長いものに感じられた。

 唇が離れた後、目を開ける。唯子は呆然としていた。春樹も言葉を失っていた。ホームには完全な静寂が訪れた。春樹が話を切り出すより、ほんの一瞬だけ早く、唯子が口を開いた。

「ありがとう。これで思い出にできるよ。約束通りもう会わないから」

 唯子はまっすぐに春樹の目を見つめて言った。春樹が好きだった茶色がかった澄んだ目には涙の一つも浮かんでいない。先ほどとは打って変わって堂々とした声だった。

 春樹が何も言えずにいると、構内放送が終電の到着を知らせる。それを聞いて我に返ったように春樹は答えた。

「ははは……アサヒは普通に同期会行けよ。俺、もう行かないから」

 ホームに進入してきた電車の扉が開いた。

 ふたりの最後の時間が終わりを告げる。春樹は電車に乗った状態でホームの唯子を見つめる。閉まる前の扉を隔てて、ふたりは最後の言葉を交わす。

「じゃあ、最後にこれだけ。ごめんね、騙して。不審者の話、嘘なの」

 扉が閉まる直前、いたずらっ子のように肩をすくめて唯子が言った。

 ドア・イン・ザ・フェイスという心理学用語がある。訪問販売などで、扉が閉まる前に過大な要求をして相手から拒否の言葉を引き出してそのあとに本命の交渉を始める。一度断った後だと、相手には罪悪感があるので本来のお願いを聞いてもらいやすいというテクニックだ。

 唯子には分かっていた。婚約者のいる身で、一人暮らしの唯子の家に春樹が来るはずがない。だから、家まで送ってほしいという申し出は絶対に断られる。わかったうえでお願いをした。それを断った春樹に、「少しだけホームで話がしたい」とお願いするために。
 望みは叶った。もう十分だ。だからこの恋を綺麗な思い出にする。

「好きだったよ、春樹」

 その言葉を最後に、電車の扉が閉まった。

 電車は動きだし、すぐに春樹の姿は見えなくなる。ホームで一人きりになった唯子はどこか冷静だ。まさか本当にキスされるとは思わなかった。断られる前提のお願いだったから。

「最後にユイちゃんって呼んでくれたら、それでよかったんだけどなぁ」

 ぼそりと呟いて、唯子は家路を急ぐ。付き合っていた頃、春樹が送ってくれた帰り道を一人きりで歩く。もう、振り返らない。