「おそよう」
金曜日の昼前に目が覚めると、椿の声がした。まだ夢の中にいるのだと思ったが、声がいやに鮮明だったので目を開けた。僕の部屋に、椿がいた。思わず三度見した。まぎれもなく椿だった。
「椿⁉ 何でここに?」
「陸ママが入っていいよって言ったから」
昔、何度も椿はここに来た。だから、母が椿を招き入れること自体は不自然ではない。
「そういう意味じゃなくて」
戸惑う僕に椿が微笑む。
「陸に会いたかったから」
小麦色に日焼けして校庭を走り回っていたころとは違い、透き通るような白い肌。随分と長くなった黒髪。心臓がうるさいくらいに高鳴るのは、三年ぶりに会った椿が遠目に見たときよりもずっと美しいからだろうか。それとも、僕が今でも椿のことが好きだからだろうか。
「まずは思い出話でもしない?」
椿は今の話ではなく昔の話を選んだ。僕も今の話はしたくなかったが、椿が現状を話したがらないことが心配になった。
「部屋整理してたらさ、懐かしいもの見つけたんだよね。これでも見ながらさ」
そう言うと持ってきたDVDを勝手に再生し始めた。流れ始めたのは僕たちの幼稚園の卒園式の映像だ。 親と一緒に卒園証書を受け取ったあと、将来の夢を言う。微笑ましいイベントだが、僕にとっては黒歴史でしかない。ほかの園児たちがヒーローやスポーツ選手になりたいという中、六歳の僕は大声で言い放った。
「僕は大きくなったらドラゴンになりたいです! 最強のドラゴンになって世界中の悪い 奴らをみんな焼き払ってやります!」
隣の母が恥ずかしさに顔を真っ赤にしている。父兄陣は笑いをこらえているし、同い年の園児たちすら笑っている。あまりにいたたまれない。
「やめろよ、恥ずかしい」
僕はリモコンでテレビの電源ごと落とした。
「この頃は怖いものなしだったよね。魔法は本当にあるって信じてたし、自分は何にだってなれるって思ってた」
椿の口調は僕をからかうようなものではなく、椿自身に向けたものに聞こえた。椿は何を抱えているのだろう。折れそうな細い脚の両膝には血のにじんだ絆創膏が視界に入った。それ、誰にやられたんだよ。僕がぶっ飛ばしてやるよ。そう言えたらどんなに良かっただろう。
「膝、どうしたの」
「転んじゃった」
少し遠慮した僕の質問に、雑な嘘が返ってくる。同じ学校に進学していれば、椿を守れたのだろうか。なんて想像するが、頭の中ですら僕は椿を救えない。自分のことさえ守れない僕に、誰かを守れるわけがない。
椿と仲良くなったきっかけは、椿を助けたことだった。椿はお気に入りの魔法少女のステッキのおもちゃを悪ガキに取られて泣いていた。見かねた僕がステッキを取り返してから、一緒に遊ぶようになった。でも、あの頃の勇敢な僕はもういないのだ。
「ねえ、陸。お願い聞いてくれる?」
無敵じゃなくなった僕に、突然椿がお願いをする。
「いいよ」
僕は即答した。
「まだ内容言ってないのに?」
大人は普通白紙の契約書にサインするような馬鹿な真似はしない。子供は馬鹿だから“なんでもお願いを聞く券”なんて危険なものを簡単に発行する。僕はそんな向こう見ずさはとうに捨てたが、相手が椿となれば話は別だ。椿のお願いなら何でも叶えたい。きっと椿はそのために僕に会いに来たのだろうし、何より僕は椿が好きだからだ。
「一緒に銀行強盗して」
耳を疑った。まさかと思い、念のため聞き返す。
「銀行強盗?」
「うん、銀行強盗」
椿はいたって真面目に銀行強盗と言った。聞き間違いでも勘違いでもないようだ。
「いいけど、理由が聞きたい」
椿のことだから遊ぶ金欲しさではないだろう。銀行の汚職の情報を掴んだから、いじめっ子の実家をめちゃくちゃにして復讐したいから……非現実的な妄想ではあるがいくつかの仮説が頭をよぎった。
「友達が病気なんだ」
ああ、治療費が必要なパターンか。と、僕は勝手に納得した。悪人を懲らしめたいよりも、誰かを助けたいという理由の方が椿らしいと思った。
「麗ちゃんって子、ちょっと前に仲良くなったんだ。その子の力になりたくて」
椿の友人・麗はドルミーレ病という難病を患っている。最初は高熱が出て、一時的に症状が回復するが、徐々に体が動かなくなり、やがては植物状態に陥る病気だという。そこから目を醒ました前例はなく、現代医療に根本的な治療法は存在しない。
「まだ十歳なのに、もうだいぶ病気が進行してて」
麗は病状が進行し、地元の病院では手に負えなくなり東京に転院してきたらしい。椿はそんな麗を思い涙を流した。年の離れた友人のために泣ける椿は優しい。だから、僕は友達思いの椿の力になりたいと思った。
「二人なら変えられるだろ、その子の運命」
「協力してくれるの?」
椿の表情が明るくなる。僕は覚悟を決めた。失うものなど何もない人生、この笑顔のために使ってやる。
「ああ、やってやるよ。銀行強盗」
わかっている。これは犯罪だ。それでも僕は椿の力になりたい。これから犯す罪をあえて言葉にすることで僕は自分を鼓舞した。
「明日からじっくり作戦会議だな」
「ありがと、また明日」
椿は僕に手を振って部屋を出て行った。
金曜日の昼前に目が覚めると、椿の声がした。まだ夢の中にいるのだと思ったが、声がいやに鮮明だったので目を開けた。僕の部屋に、椿がいた。思わず三度見した。まぎれもなく椿だった。
「椿⁉ 何でここに?」
「陸ママが入っていいよって言ったから」
昔、何度も椿はここに来た。だから、母が椿を招き入れること自体は不自然ではない。
「そういう意味じゃなくて」
戸惑う僕に椿が微笑む。
「陸に会いたかったから」
小麦色に日焼けして校庭を走り回っていたころとは違い、透き通るような白い肌。随分と長くなった黒髪。心臓がうるさいくらいに高鳴るのは、三年ぶりに会った椿が遠目に見たときよりもずっと美しいからだろうか。それとも、僕が今でも椿のことが好きだからだろうか。
「まずは思い出話でもしない?」
椿は今の話ではなく昔の話を選んだ。僕も今の話はしたくなかったが、椿が現状を話したがらないことが心配になった。
「部屋整理してたらさ、懐かしいもの見つけたんだよね。これでも見ながらさ」
そう言うと持ってきたDVDを勝手に再生し始めた。流れ始めたのは僕たちの幼稚園の卒園式の映像だ。 親と一緒に卒園証書を受け取ったあと、将来の夢を言う。微笑ましいイベントだが、僕にとっては黒歴史でしかない。ほかの園児たちがヒーローやスポーツ選手になりたいという中、六歳の僕は大声で言い放った。
「僕は大きくなったらドラゴンになりたいです! 最強のドラゴンになって世界中の悪い 奴らをみんな焼き払ってやります!」
隣の母が恥ずかしさに顔を真っ赤にしている。父兄陣は笑いをこらえているし、同い年の園児たちすら笑っている。あまりにいたたまれない。
「やめろよ、恥ずかしい」
僕はリモコンでテレビの電源ごと落とした。
「この頃は怖いものなしだったよね。魔法は本当にあるって信じてたし、自分は何にだってなれるって思ってた」
椿の口調は僕をからかうようなものではなく、椿自身に向けたものに聞こえた。椿は何を抱えているのだろう。折れそうな細い脚の両膝には血のにじんだ絆創膏が視界に入った。それ、誰にやられたんだよ。僕がぶっ飛ばしてやるよ。そう言えたらどんなに良かっただろう。
「膝、どうしたの」
「転んじゃった」
少し遠慮した僕の質問に、雑な嘘が返ってくる。同じ学校に進学していれば、椿を守れたのだろうか。なんて想像するが、頭の中ですら僕は椿を救えない。自分のことさえ守れない僕に、誰かを守れるわけがない。
椿と仲良くなったきっかけは、椿を助けたことだった。椿はお気に入りの魔法少女のステッキのおもちゃを悪ガキに取られて泣いていた。見かねた僕がステッキを取り返してから、一緒に遊ぶようになった。でも、あの頃の勇敢な僕はもういないのだ。
「ねえ、陸。お願い聞いてくれる?」
無敵じゃなくなった僕に、突然椿がお願いをする。
「いいよ」
僕は即答した。
「まだ内容言ってないのに?」
大人は普通白紙の契約書にサインするような馬鹿な真似はしない。子供は馬鹿だから“なんでもお願いを聞く券”なんて危険なものを簡単に発行する。僕はそんな向こう見ずさはとうに捨てたが、相手が椿となれば話は別だ。椿のお願いなら何でも叶えたい。きっと椿はそのために僕に会いに来たのだろうし、何より僕は椿が好きだからだ。
「一緒に銀行強盗して」
耳を疑った。まさかと思い、念のため聞き返す。
「銀行強盗?」
「うん、銀行強盗」
椿はいたって真面目に銀行強盗と言った。聞き間違いでも勘違いでもないようだ。
「いいけど、理由が聞きたい」
椿のことだから遊ぶ金欲しさではないだろう。銀行の汚職の情報を掴んだから、いじめっ子の実家をめちゃくちゃにして復讐したいから……非現実的な妄想ではあるがいくつかの仮説が頭をよぎった。
「友達が病気なんだ」
ああ、治療費が必要なパターンか。と、僕は勝手に納得した。悪人を懲らしめたいよりも、誰かを助けたいという理由の方が椿らしいと思った。
「麗ちゃんって子、ちょっと前に仲良くなったんだ。その子の力になりたくて」
椿の友人・麗はドルミーレ病という難病を患っている。最初は高熱が出て、一時的に症状が回復するが、徐々に体が動かなくなり、やがては植物状態に陥る病気だという。そこから目を醒ました前例はなく、現代医療に根本的な治療法は存在しない。
「まだ十歳なのに、もうだいぶ病気が進行してて」
麗は病状が進行し、地元の病院では手に負えなくなり東京に転院してきたらしい。椿はそんな麗を思い涙を流した。年の離れた友人のために泣ける椿は優しい。だから、僕は友達思いの椿の力になりたいと思った。
「二人なら変えられるだろ、その子の運命」
「協力してくれるの?」
椿の表情が明るくなる。僕は覚悟を決めた。失うものなど何もない人生、この笑顔のために使ってやる。
「ああ、やってやるよ。銀行強盗」
わかっている。これは犯罪だ。それでも僕は椿の力になりたい。これから犯す罪をあえて言葉にすることで僕は自分を鼓舞した。
「明日からじっくり作戦会議だな」
「ありがと、また明日」
椿は僕に手を振って部屋を出て行った。