部屋の空気が張り詰める。夜が深くなり、外や隣の部屋の喧騒はいつの間にか静かになっている。アナログ時計の音だけが響いている。
「僕はまだ夢を叶えられてないけど、あの時からずっと聖來ちゃんが好きだよ。たとえ聖來ちゃんが覚えてなくても、僕が聖來ちゃんに誇れる自分になったら結婚したいって気持ちは、今もずっと変わらない」
桂ちゃんは真剣な目で私の手を握る。
「あのさ、桂ちゃん……」
「あっ、ごめん」
しかし、私が話を切り出すと、慌てて手を離す。その拍子にずれた眼鏡を両手で直した。
「桂ちゃん、将棋は強いのに、今回の読みはめちゃくちゃ間違ってるよ」
桂ちゃんはきょとんとしている。私は段ボールから玩具のティアラを取り出して頭につけた。
「忘れてたら、桂ちゃんからのプレゼント後生大事にとっておいたりなんかしないよ」
見たくないはずの、大嫌いなクリスマスを嫌でも想起させる品々。それでも、実家を飛び出したときこれだけはと持ってきた。
心から信頼できる人にしか弱音なんて吐けない。この家には桂ちゃん以外の人間をあげたことがない。好きでもない男の子に手作りのブックカバーなんて渡さない。
「桂ちゃん頭いいんだから分かってくれるでしょ?」
あの日小さな手で交わした約束。「好きな男の子を応援したい」「好きな女の子に誇れる自分になりたい」始まりはそんな小さな夢だった。小さな夢は壮大な夢になり、それに人生を懸けたがゆえに、恋にうつつを抜かしている余裕がなくなった。夢に向けてストイックに生きていくうちに、いつの間にかすれ違っていた。
今日この時まで桂ちゃんはもう約束なんて覚えていない、私のことなんてもう好きじゃないと思っていた。
「ごめんね、アイドルになれなくて、指切りしたのに約束守れなくて」
「聖來ちゃんは、ずっと僕のアイドルだったよ!」
いつもおどおどしている桂ちゃんだけれど、はっきりと言い切った。
「文化祭とか新歓で踊ってる聖來ちゃんも、林間学校のバスのカラオケで歌ってる聖來ちゃんも、僕にとっては紛れもなくアイドルだった。あと、校庭とか近所の公園で練習してるのもこっそり見てたし、聖來ちゃんが頑張ってるから僕も頑張ろうってエールになってた」
「ええ⁉ 見てたの?」
嬉しさよりも先に、驚きと気恥ずかしさが来た。思わず赤面する。
「だから、聖來ちゃんは約束を破ってなんかいない。今度は僕が約束を守る番。その前に、僕の一生のお願い聞いてほしいんだけど、いいかな?」
桂ちゃんが深呼吸をする。
「年明けすぐ大一番の勝負があるんだ。対局相手は、一番の強敵」
私が息をのんで次の言葉を待つ。
「だから、聖來ちゃんに勇気をもらいたい。僕だけのために、ライブしてくれないかな?やっぱり、僕のアイドルのライブは特等席で見たいよ」
「ええっ? そんな大事な役目、私に?」
「聖來ちゃんは今までもこれからもずっと、世界一可愛いアイドルだから」
お願いと両手を合わせて桂ちゃんに頼みこまれる。今まで私が桂ちゃんを頼ることはあっても、桂ちゃんから私にお願いすることはなかった。その桂ちゃんからの一生のお願い。夜中に呼び出しておいて、聞かないわけにはいかないだろう。
「桂ちゃんが推してくれるなら、私、今だけアイドルになれる気がする」
「うん、一生推し続けるよ」
「わかった」
私は立ち上がり、クッションをどけた。部屋の照明の明るさを一段階下げる。殺風景な部屋は、私のステージにふさわしくない。机の上の倒れていた写真立てを立て直した。スノードームとクリスマスツリー型のランプをコンセントにつなぐ。スノードームもクリスマスツリー型のランプも一定時間ごとに光の色が変わり、まるでステージのライトのようだ。足元の紙屑は、積もった雪のように光を反射して足元を照らす。
玩具のマイクを手に取り息と頭のティアラを整える。とびっきりの笑顔を桂ちゃんに向けるのはアイドルの矜持。
「桂ちゃーん! 今日はセーラのクリスマスライブに来てくれて、ありがとー!」
最高に明るい掛け声でライブスタートだ。アイドルになってこの人の夢を応援したかった。この人に特等席で見てもらうためにアイドルになりたかった。ああ、すべての始まりの夢が叶ったんだ。
「桂ちゃんは、今まですごく頑張ってきたので、絶対夢は叶います。今なら言えます。夢は叶います。だって、今この瞬間、桂ちゃんは私の夢を叶えてくれたから。桂ちゃんが、素敵なクリスマスと新しい年を迎えられるように、この曲を贈ります!」
ねじまき式のオルゴールが奏でる『We Wish You A Merry Christmas』を伴奏に、私は即興の振り付けをしながら心をこめて歌う。
「We wish you a merry Christmas……」
十年間祝うことはなかったクリスマスと誕生日。このステージを十年分楽しんでやる。桂ちゃんが私を見ている。目がキラキラしている。だから私はウインクで応えた。
「We wish you a Merry Christmas and a Happy New Year.」
この歌が、桂ちゃんへのエールになることを願って。年明けに良い知らせが聞けることを願って。
何度も同じフレーズを繰り返す歌も終わりに差し掛かる。歌の最後に私はアドリブを加えた。これから先もう誕生日に泣かなくてもいいことを願って。棋士になった桂ちゃんが笑顔で二十六歳の誕生日を迎えられることを願って。
「We wish you a merry Christmas And a happy Birthday!」
テーブルの上の写真の中では、マグネットの将棋盤を抱えた眼鏡の少年と玩具のマイクを持って踊る少女が笑っていた。
「僕はまだ夢を叶えられてないけど、あの時からずっと聖來ちゃんが好きだよ。たとえ聖來ちゃんが覚えてなくても、僕が聖來ちゃんに誇れる自分になったら結婚したいって気持ちは、今もずっと変わらない」
桂ちゃんは真剣な目で私の手を握る。
「あのさ、桂ちゃん……」
「あっ、ごめん」
しかし、私が話を切り出すと、慌てて手を離す。その拍子にずれた眼鏡を両手で直した。
「桂ちゃん、将棋は強いのに、今回の読みはめちゃくちゃ間違ってるよ」
桂ちゃんはきょとんとしている。私は段ボールから玩具のティアラを取り出して頭につけた。
「忘れてたら、桂ちゃんからのプレゼント後生大事にとっておいたりなんかしないよ」
見たくないはずの、大嫌いなクリスマスを嫌でも想起させる品々。それでも、実家を飛び出したときこれだけはと持ってきた。
心から信頼できる人にしか弱音なんて吐けない。この家には桂ちゃん以外の人間をあげたことがない。好きでもない男の子に手作りのブックカバーなんて渡さない。
「桂ちゃん頭いいんだから分かってくれるでしょ?」
あの日小さな手で交わした約束。「好きな男の子を応援したい」「好きな女の子に誇れる自分になりたい」始まりはそんな小さな夢だった。小さな夢は壮大な夢になり、それに人生を懸けたがゆえに、恋にうつつを抜かしている余裕がなくなった。夢に向けてストイックに生きていくうちに、いつの間にかすれ違っていた。
今日この時まで桂ちゃんはもう約束なんて覚えていない、私のことなんてもう好きじゃないと思っていた。
「ごめんね、アイドルになれなくて、指切りしたのに約束守れなくて」
「聖來ちゃんは、ずっと僕のアイドルだったよ!」
いつもおどおどしている桂ちゃんだけれど、はっきりと言い切った。
「文化祭とか新歓で踊ってる聖來ちゃんも、林間学校のバスのカラオケで歌ってる聖來ちゃんも、僕にとっては紛れもなくアイドルだった。あと、校庭とか近所の公園で練習してるのもこっそり見てたし、聖來ちゃんが頑張ってるから僕も頑張ろうってエールになってた」
「ええ⁉ 見てたの?」
嬉しさよりも先に、驚きと気恥ずかしさが来た。思わず赤面する。
「だから、聖來ちゃんは約束を破ってなんかいない。今度は僕が約束を守る番。その前に、僕の一生のお願い聞いてほしいんだけど、いいかな?」
桂ちゃんが深呼吸をする。
「年明けすぐ大一番の勝負があるんだ。対局相手は、一番の強敵」
私が息をのんで次の言葉を待つ。
「だから、聖來ちゃんに勇気をもらいたい。僕だけのために、ライブしてくれないかな?やっぱり、僕のアイドルのライブは特等席で見たいよ」
「ええっ? そんな大事な役目、私に?」
「聖來ちゃんは今までもこれからもずっと、世界一可愛いアイドルだから」
お願いと両手を合わせて桂ちゃんに頼みこまれる。今まで私が桂ちゃんを頼ることはあっても、桂ちゃんから私にお願いすることはなかった。その桂ちゃんからの一生のお願い。夜中に呼び出しておいて、聞かないわけにはいかないだろう。
「桂ちゃんが推してくれるなら、私、今だけアイドルになれる気がする」
「うん、一生推し続けるよ」
「わかった」
私は立ち上がり、クッションをどけた。部屋の照明の明るさを一段階下げる。殺風景な部屋は、私のステージにふさわしくない。机の上の倒れていた写真立てを立て直した。スノードームとクリスマスツリー型のランプをコンセントにつなぐ。スノードームもクリスマスツリー型のランプも一定時間ごとに光の色が変わり、まるでステージのライトのようだ。足元の紙屑は、積もった雪のように光を反射して足元を照らす。
玩具のマイクを手に取り息と頭のティアラを整える。とびっきりの笑顔を桂ちゃんに向けるのはアイドルの矜持。
「桂ちゃーん! 今日はセーラのクリスマスライブに来てくれて、ありがとー!」
最高に明るい掛け声でライブスタートだ。アイドルになってこの人の夢を応援したかった。この人に特等席で見てもらうためにアイドルになりたかった。ああ、すべての始まりの夢が叶ったんだ。
「桂ちゃんは、今まですごく頑張ってきたので、絶対夢は叶います。今なら言えます。夢は叶います。だって、今この瞬間、桂ちゃんは私の夢を叶えてくれたから。桂ちゃんが、素敵なクリスマスと新しい年を迎えられるように、この曲を贈ります!」
ねじまき式のオルゴールが奏でる『We Wish You A Merry Christmas』を伴奏に、私は即興の振り付けをしながら心をこめて歌う。
「We wish you a merry Christmas……」
十年間祝うことはなかったクリスマスと誕生日。このステージを十年分楽しんでやる。桂ちゃんが私を見ている。目がキラキラしている。だから私はウインクで応えた。
「We wish you a Merry Christmas and a Happy New Year.」
この歌が、桂ちゃんへのエールになることを願って。年明けに良い知らせが聞けることを願って。
何度も同じフレーズを繰り返す歌も終わりに差し掛かる。歌の最後に私はアドリブを加えた。これから先もう誕生日に泣かなくてもいいことを願って。棋士になった桂ちゃんが笑顔で二十六歳の誕生日を迎えられることを願って。
「We wish you a merry Christmas And a happy Birthday!」
テーブルの上の写真の中では、マグネットの将棋盤を抱えた眼鏡の少年と玩具のマイクを持って踊る少女が笑っていた。