「桂ちゃん……手、痛い」
 桂ちゃんははっとして手を離した。
「うわわっ、ごめん! その、変なつもりじゃなくて……」
 あまりにも慌てふためく桂ちゃんをフォローする。桂ちゃんが私のために本気で怒ってくれたということに少なからず私の心は救われていた。
「大丈夫、分かってるから」
「ごめん、ほんとに」
 桂ちゃんはどちらに謝っているんだろう。手を強くつかんだことに対してなのか、私にアイドルを目指すきっかけを与えたことに対してなのか。
「もう20年も前だよ。桂ちゃん、そんな昔のことよく覚えてたね」
「うん、忘れるわけないよ。これでも記憶力には自信あるし」
 桂ちゃんがそう言った瞬間、壁のアナログ時計が十二時を指した。近所か隣の部屋でクリスマスパーティーをやっているのか、クリスマスの鐘らしきシャンシャンという音がかすかに聞こえてくる。
「あーあ、二十五歳になっちゃった。なんでこうなっちゃったんだろうね……」
 終わった。本当に終わった。もう笑うしかなかった。二十五歳になった私は、馬鹿な自分が歩いてきた今までの軌跡を振り返る。
「毎年、大嫌いな誕生日になるたび思ってた。ネバーランドに行きたいって、これ以上大人になりたくないって」
「僕もだよ。どっちかの誕生日一緒に過ごしたのって、いつぶりだろうね。昔はプレゼントお互いに渡しあってたのに。現実から逃げたくて、なんかその日はお互い避けてたよね」
「外でクリスマスソングが聞こえてきちゃうのも嫌だった。こんな日に生まれるとさ、世間がクリスマスムードなだけで誕生日実感しちゃうし」
「分かるよ。でも、こんな時期だと聖來ちゃんは僕よりずっと辛かったよね。本当に頑張ってたと思う」
 いつまでも叶わない夢を追い続けた結果、親にも見放された私の唯一の理解者。彼もまた、夢へのタイムリミットの中戦っていた。時間というあらがえない敵と戦う同志を気遣い、お互いにまったくめでたくない誕生日を祝うことはなくなった。
「将棋のプロになるための年齢制限って……」
「26だよ。だから、僕のタイムリミットは来期まで」
「切実な割には、私が中1の誕生日にあげたブックカバー使ってるんだ。嫌にならないの?」
 たったいま夢破れた者と夢の期限に猶予がほとんどない者。夢の話題が段々と気まずくなってくる。話題をそらすようにカバンからはみ出た書籍を指さしても、いまいちそらしきれない。
「誕生日は嫌だけど、聖來ちゃんからのプレゼントは嬉しかったから。聖來ちゃんプレゼントのセンスありすぎだよ。12年ずっと使ってる」
「逆に、桂ちゃんはセンスなかったよね」
 私は立ち上がり、引っ越してきてからずっと未開封だった「大切なもの」と書かれた段ボールを開ける。そこには、小学生の時に桂ちゃんがくれた誕生日プレゼントたちが入っている。クリスマスソングのオルゴール、光るクリスマスツリーをかたどったランプ、光るスノードーム、クリスマスカラーの玩具のティアラ、緑と赤のリボンの飾りのついた玩具のマイク。見事にクリスマス仕様である。あまりにひどい。文句の一つも言いたくなる。
「誕生日プレゼントとクリスマスプレゼント1個にまとめるとかないから!」
「えっ、ダメなの?」
 何が悪いのかすらわかっていない。私はクリスマスと誕生日の年二回桂ちゃんにプレゼントを渡していたのに、自分は一回で済ませるなんておかしいと思わなかったのだろうか。
「ほんとに悪手中の悪手だから」
 一からマナーをレクチャーするのも面倒くさくて、桂ちゃんにもわかるようにタブーであることだけ伝えた。
「うわぁ……その言葉は奨励会員の心に刺さるよ。というか、聖來ちゃんがクリスマス嫌いになったの僕のせいじゃん。ほんと、ごめん」
「ほんっとに、私以外の女の子だったら一発で桂ちゃん嫌われるよ。将棋で言うなら二歩だよ。重ねるのはホントにダメ」
 二歩は悪手を通り越して、即反則負けになる手だ。これで桂ちゃんにも伝わっただろう。
「僕、聖來ちゃん以外の女の子にプレゼント渡したことないけどね」
 まくしたてる私に対して、桂ちゃんはぼそっとつぶやいた。
 昔話をしているうちに、昔の不平不満やジョークを言える程度に回復した私を見て、桂ちゃんはほっと息をついた。
「なんか食べようか。聖來ちゃんおなかすいたでしょ?」
「確かに、オーディション……でダンスしたあと、何も食べてないや。でも、冷蔵庫に今何もないよ。さっき見たでしょ」
 オーディション、という言葉を口にするのはまだ抵抗がある。しかし、おなかがすいているのは事実だ。桂ちゃんは思い出したように玄関に落としたコンビニの袋を拾ってくる。
「聖來ちゃんから連絡もらうちょっと前、ちょうど研究会の帰りでコンビニに寄ってたんだ。気分だけでもって、一人で食べようと思ってたんだけど、聖來ちゃん食べなよ」
 中には、落としてしまったため形の崩れた1人用のブッシュドノエルと、ホットスナックのフライドチキンが入っていた。空腹には抗えず、私はそれらを口にした。やたらと食が進んだ。桂ちゃんは私をじっと見つめている。
「美味しい?」
「美味しい」
「どこにでも売ってるコンビニのフライドチキンと、賞味期限が24日までのクリスマスケーキだよ」
 フォークの手が止まる。
「やっぱり、桂ちゃん慰め方に絶妙にデリカシーないよね。女の子慣れしてないでしょ」
「将棋で恋愛どころじゃなかったの、聖來ちゃんが一番よく知ってるじゃん」
 全国から地元の天才と呼ばれた将棋少年たちが群雄割拠し、しのぎを削り、やっと入れるのが奨励会だ。その過程であまたの棋士の卵の卵が、才能の限界を思い知らされ消えてゆく。奨励会に入ってからの戦いはさらに過酷だ。今までに幾多の棋士を夢見た者たちが夢破れて散っていった。恋だの愛だのにうつつを抜かしている場合ではない。
「僕の先輩、一昨年、年齢制限で奨励会退会したんだけど、もともと女流棋士目指してた女の人と結婚したんだってさ。今2人とも28歳」
「結婚はできるから安心しろってこと?」
 二十八歳、結婚。慰めようとしている気持ちはわかるけれど、キーワード一つ一つが私の神経を逆なでした。つい声にイラつきが表れてしまう。
「そうじゃなくて……今、夫婦二人で仲良く趣味で将棋楽しんでるんだって」
 桂ちゃんは、口下手なりに不器用に言葉を選びながら声を絞り出している。
「聖來ちゃんは、もう歌とダンス、嫌いになっちゃった?」
「わかんない……」
「僕はさ、さっきも言ったけど、楽しそうに歌って踊ってる聖來ちゃんが好きだから、やめちゃったら嫌だなって」
「今はまだ、考える余裕ないや」
「だよね。ごめんね」
「でも、結婚も恋愛もできなくていいから、やっぱりアイドルになりたかったな」
 私の言葉に桂ちゃんは大きなため息をついた。
「聖來ちゃん、恋愛とか結婚とかは興味ない感じ?」
「アイドルには御法度だからね。一応、今朝までは目指してたんだし、アイドルになれません、じゃあ今からさっそく恋愛するぞって気分にいきなりはなれないよ」
「そっか……じゃあ、今言うことじゃないかもしれないけど“あの日”の続きの話してもいい? 聖來ちゃんはもう忘れちゃってると思うけど」
 桂ちゃんが真剣な瞳で話し始める。