駅から徒歩十五分、築三十年、オートロックなし。窓や壁は薄く、冬は寒いうえに、外や隣の音がうるさい。部屋の隅の段ボールもテーブルの上で倒れたままの写真立ても埃をかぶったままの狭いワンルーム。高校を卒業してすぐ家を飛び出してから六年、私はこの息の詰まるようなボロアパートで耐え忍んできた。
 十二月二十四日午後十時。帰宅した私の目に真っ先に映ったのは古びたアイドルのポスター。限界だった。
 私はラインを開く。「桂ちゃん」の名前と将棋の桂馬の駒のアイコンをタップして、「二十五歳になりたくない」「死にたい」と送信した。と、同時に体の力が抜けて玄関にへたりこんだ。スマホがカンッと音を立てて床に落ちる。気力は使い果たした。希望は全部ついえた。暗い玄関でスマホだけがブルーライトを放っていた。

 ドタドタとボロアパートの廊下の階段を駆け上がる音がする。桂ちゃんが鍵をかけ忘れたドアを開け放った。
「聖來ちゃん! ごめんね、遅くなって。研究会の場所がここから遠くて」
 スーツもコートも、トレードマークの黒縁眼鏡もすべてが乱れている。普段運動と無縁の生活をしているのに走ってきてくれたのだろう。
「いったいどうしたの? 大丈夫?」
 桂ちゃんは幽霊みたいに生気をなくした私の姿を見て驚いていた。コンビニの袋と黒い鞄を両方ともドサっと落とした。鞄が床に落ちた拍子に、縫い目が不格好な布製のブックカバーがかかった本が見えた。
「桂ちゃん……」
 人生最悪の日でも桂ちゃんはいつもと変わらない。昔からずっと変わらない。桂ちゃんの顔を見ると、張り詰めていた糸が切れて涙腺が決壊した。涙が止まらなくなった。
「終わった。私の人生全部無駄だった……」
 桂ちゃんは泣いている私の肩にコートをかけて、テーブル前のクッションのところまで連れて行ってくれた。

 桂ちゃん、本名・結城桂太は二十年来の幼馴染である。同級生で25歳、現在は奨励会の三段リーグに在籍している。研究会とは将棋の研究会だ。
 桂ちゃんは私の一番の理解者で、何かと不便な生活をしている私を気遣ってくれている。泣いている私を落ち着かせるために、レンジでホットミルクを作ってくれた。
「熱いから火傷しないでね」
「うん」
 マグカップを受け取ってホットミルクを口にした。温かい。優しさが身に染みる。
 世間がお祭り騒ぎの中、心配をかけてわざわざ駆け付けさせたのだから事情は説明しなければならない。
「今日、最後のオーディションだったの。ダメだった」
 壁にかかったカレンダーが忌々しい。バイト代をつぎ込んだレッスンやボイストレーニングの予定、そして十二月二十四日の「オーディション」の文字。そのあとのことなんて考えたくなくて、明日以降の日付はすべてマジックで黒く塗りつぶした。
「最後なの?」
 桂ちゃんの質問に、無言で封筒を押し付ける。封筒にはクラウディアプロモーションの文字。部屋に飾ったポスターに映る元アイドル・桜井カナの事務所だ。桜井カナは私たちの幼少期には日本中で知らない人はいないというくらいの人気を誇っていた。
「最後なの?」
 私は頷く。募集要項に書かれたオーディションを受けられる年齢の上限は24歳。この条件は一度たりとも緩和されたことがない。
 魂を込めてアイドルにかける熱い想いを書いた応募用紙には私の生年月日。二十五年前の十二月二十五日。あと三十分ほどで日付が変われば私は二十五歳になる。
「厳しいんだね、年齢制限」
「クラウディアプロモーションは業界で一番緩いよ。ほかは十五歳とか十八歳とか」
「そうなんだ、将棋より厳しいね」
「あはは、笑っちゃうでしょ。今までの人生、ぜーんぶ無駄でした! 恋も遊びも我慢してきたのも、家出してボロアパート生活続けてきたのも、何も意味なかった。可愛いとか歌うまいとかお世辞真に受けて舞い上がって、バカすぎるでしょ。その辺のどこにでもいるような普通の女の子だったんだよ! 才能ないくせに夢なんて見なきゃよかった!」
 これ以上泣きたくない。泣いたらもっと惨めになる。無理やり作り笑いを浮かべながら自嘲する。 
「そんなことない。聖來ちゃんが小学生の時からずっと頑張ってたの知ってる。だから、無駄なんかじゃないよ」
「無駄だったんだよ!」
 やっぱり無理だ。どんなに取り繕おうとしても感情が抑えきれない。私は声を張り上げた。
「アイドルの原石の子を何千人も見てきた審査員の人に言われた!それでよくアイドルになろうと思ったねって! 君は二十四歳のババアだけど十四歳だったとしても絶対に合格しないって! 向いてないって十年前に気づかなかったの?って!」
 今日のオーディションで薄笑いを浮かべた審査員に言われた暴言。思い出したくもないのに、きっと一生忘れられない。
 自棄を起こした私は募集要項と応募用紙をビリビリに破いた。夢の残骸は雪のように部屋を舞うと冷たいフローリングに散らばった。
 過呼吸にも近い私の呼吸音と、壁にかかったアナログ時計の音が部屋に響く。もう全部どうでもいい。
「あと十五分で十二時。そしたら、女の子の魔法が解けちゃう。シンデレラは12時に魔法が解けるまでは華やかな世界にいられたけど、私はお城に足を踏み入れることもできなかったな」
「終わりじゃないよ」
「終わりだよ。女の子は25歳になったら終わり。よく言うじゃん、クリスマスケーキって。24日まではありがたがるけど、25日になったら誰も見向きもしない。アイドルの卵は今日で賞味期限切れ」
「何、その昭和の結婚観。女の子の価値が年齢だけで決まるわけがないよ。ていうか、今の平均初婚年齢って確か30歳くらいだし、今時そんな時代遅れなこと言ってる人なんていないよ。時代に乗り遅れたおじさんの言うこと真に受けちゃダメだって」
 感情的になる私を桂ちゃんは論理的に諭す。
「でも、女の子を品定めするのは、いつだっておじさんなんだよ。今日、私の人生全部を否定したプロデューサーさんみたいにね」
 桂ちゃんは優しい。そして正しい。でも、それは全部綺麗事だ。綺麗事だけじゃ生きていけない。私の頬を涙が伝った。力尽きたように壁にもたれて呟いた。
「もう疲れた。夢を追いかける女の子のままで死にたい」
 頭がぼーっとする。視界がぼんやりする。桂ちゃんを見ると、こぶしを握り締めて震えている。
「僕は、聖來ちゃんをこんな風に泣かせるためにアイドルになってって言ったんじゃない!」
 桂ちゃんがいきなり大きな声を出した。その勢いに驚き圧倒された。怒りに震えた声で、桂ちゃんは続ける。
「今日聖來ちゃんにひどいこといったおじさん連れてきて。本当に殴りたい。ぼこぼこにしないと気が済まない」
「桂……ちゃん……?」
 桂ちゃんは喧嘩とか暴力とかそういう野蛮なこととは一番遠いところで生きている人だった。そんな桂ちゃんが私のために怒ってくれた。
「本当に、こんなつもりじゃなかった……ただ、楽しそうに歌って踊ってる聖來ちゃんが好きだっただけなのに」
 桂ちゃんは私の手を強く握りしめている。桂ちゃんの言葉に私は遠い昔のことを思い出した。