「結婚しよう」

なんて名前の花かは、いつも分からない。
男性はピンクや紫や白…、とてもカラフルで綺麗な花束を女性にプレゼントしている所だ。

「うん……っ」

貰った花束を両手に抱える女性。そうして2人はどこかの砂浜で永遠を誓う。男性の顔も、女性の顔も、いつも霧がかかっていてよく見えない。だけど2人が幸せである事は痛い程伝わってくるのだ。そんなイメージが遠い昔の事のように時折湧いてくる。

***
コツン。
頭に軽い痛みが走り、顔を上げる。すると数学担当の鬼部(きべ)先生が鬼のような顔で私を見下ろしていた。

宮崎(みやざき)……、お前また居眠りしてたな!」
「すっ、すみません!」
「廊下に立ってなさい……!」

周りからはクスクスと笑い声が上がり、私はとぼとぼと廊下へと出た。
はぁー…、さっむ!
11月の廊下はまるでここは北極なんじゃないかと疑う程に冷えきっていた。ポケットからカイロを取り出し両手でギュゥ…、と握る。おっちょこちょい、天然、どっか抜けてる、能天気。友達から言われる私のイメージは大体こんな感じ。だから今みたいに廊下に立たされる事なんて日常茶飯事だった。
あ。そういえば…、と思い私は廊下の壁にぺたりともたれかかる。頭に過ぎる先程の夢…。全体的にぼんやりとしているけれど、男女が砂浜で結婚を約束している1場面だ。
やっぱり…、あれって私、なのかな?
小さい頃から時折見る夢だったけれど、最近になって、あれは‪”予知夢‪”なんじゃないか、と思い始めていた。

***
「今日は災難だったねぇー」

休み時間、友達の千里(ちさと)ちゃんが廊下から戻ってきた私を見るなり子犬のように駆け寄ってきた。ふわふわと揺れるお団子頭がトレードマークだ。140センチの低身長をそのお団子で少しでも高く見せたいらしい。休みの日なんか厚底ばっかり履いてくる可愛らしい子だ。

「だって数学なんてなにやってんのかチンプンカンプンでさー」
「それにしても寝すぎでしょ」
「だよねぇ…」

てへへ、と頭をかき、自分の席に座る。
と、その時だ。

「宮崎ー!」

廊下の方から私を呼ぶ声が響き、弾かれたように視線をやると、隣のクラスの一ノ瀬(いちのせ)くんが私に向かって手招きしていた。慌てて席を立ち、一ノ瀬くんの元へ向かう。

「教科書ありがとな!マジ助かった」

一ノ瀬くんは昨日私が貸してあげた国語の教科書を返却しに来たようだ。サッカー部次期キャプテン候補なだけあっていつもハキハキしていてみんなの視線を自然の集めるような存在だ。今だって廊下にいる生徒がチラチラと、こちらを見ていた。

「いえいえ、ろくに勉強してないから綺麗だったでしょ」

パラパラ、とページを軽くめくり、苦笑する。もう少し角とか折れてた方が勉強してます、って感じあるんだろうけど2年の2学期に差し掛かっているにも関わらず私の教科書はマーカーの1つも引かれていなかった。

「あぁ、ピカピカのツルツルだったわ」
「なんかハゲみたいな表現だね」
「ぷっ、あはは、確かに。でもありがと。また忘れたら頼るわ!じゃあな!」
「はいはーい。じゃあね。」

向けられたキラッキラな笑顔に一瞬見とれてしまいそうになりながらも立ち去る一ノ瀬くんの背中に慌てて手を振った。
……好きだな。
一ノ瀬くんの姿が見えなくなった辺りで私は自身の胸に熱い何かが込み上げてくるのを感じた。スポーツ万能でそれでいて、皆んなに優しくてかっこいい。成績はさほどいいほうでは無いらしいけれど、そんな所も可愛らしくて好きだな、と最近の私は一ノ瀬くんに恋をしていた。

***
放課後。私は昇降口で部活に向かう為にここを通るであろう一ノ瀬くんを待ち伏せしていた。
目的はもちろん告白する為。これは前々から、密かに計画していた事だった。だけどいくら脳内シミュレーションをしても心臓はバクバクと激しく今にも口から飛び出してきてしまいそうだ。
あっ……来た!
前から友達とじゃれ合いながら歩いてくる一ノ瀬くんの姿に、私は背筋をピン、と張った。ポケットから手鏡を取り出して笑顔を作る。自分で言うのもなんだけど右目の下辺りにある泣きぼくろがチャームポイント。こいつの存在が私のタレ目にさらに拍車を掛けている気がする。そしていつだって……
元気付けられている気がするのだ。

「あははっ、まじか!それはやべぇー」
「だろー!てか一ノ瀬だってあれはー……」

一ノ瀬くんの声が近づく度、心臓の鼓動がまたひとつ大きくなる。

ーー結婚しよう
ーーうん……っ

きっとあれは、予知夢。未来の私と一ノ瀬くんだ。そう信じて疑わなかった私は胸を張って1歩踏み出した。

「一ノ瀬くん!」
「ん?あぁ、宮崎!どうした?」
「ちょっと話があって…っ、今……いい?」
「これから部活だから、5分ぐらいでいいか?」
「うん!ありがとう」

一緒に歩いてきた友達に先行っててー、と合図した後、一ノ瀬くんは私に向き合うように立った。こうして目の前に来られるとさっきまでとは比にならないくらい心臓が騒ぐ。覚悟を決めたはずなのに怯みそうなってしまう。

「どうした?」
「えっ、と……その、」

沈黙が重い。だけどこの沈黙を破るのは私の役目だ。私の気持ち……、ちゃんと伝えなくちゃ。

「好きなの!付き合って下さい…」

最後の方は声が震えてしまいには手も震えだしてしまった。スカートをギュッ、とちぎれちゃうんじゃないかって程握って何とか落ち着きを取り戻そうと尽力する。

「恋愛、感情か……?」

恐る恐る尋ねられた質問にコクリ、と大きく頷く。そのままただ、俯いて彼の返事を待った。そして数秒後。彼はゆっくりと口を開いた。

「ごめん…。俺、他校に、彼女いるんだ…」

その言葉がベッタリ、と私に張り付いていくのを感じた。

「そっ、そっか!ごめん、突然こんな事…っ」
「いや、気持ちは有難く受け取っとくな?本当ごめん」

***
「どうしたのー?元気なくなーい?あ!昨日廊下に立たされた事、根に持ってる、とか……?」
「違うぅ〜……」
「えー?じゃあなにー?」
「昨日の帰りね……、2組の一ノ瀬くんに告白したの」
「え!?そうなの!?結果は…!?」

前のめりにそう尋ねてきた千里だったけれど、すぐに「あっ…」と沈んだ顔付きに変わった。

「お察しの通りです…」

しょぼんとする友達と、告白したという事実。この2つだけで十分色々読み取れる事だろう。

「失恋って、つら……」
「でもきっとさ!?もっといい人いるよ!」
「ありがとう…」
「‪”失恋届‪”は?出した?」
「えー、出してない。だってあれってさ?ぶっちゃけ別に出さなくても良くない?」

近年。
自殺の要因に「失恋したから」などという理由が増加した事で、失恋した者は7日以内に役所に失恋届を提出しなければならない義務が設けられた。失恋届を受理されると、政府から新たな‪”想い人‪”があてがわれる。そういう仕組みだ。

「いやぁ…、先月、3年の宮野先輩が誰かに告白して振られて…。いわゆる失恋をした訳なんだけど、失恋届出さなかったんだって。そしたら罰金3万円請求されたらしいよ」
「さっ、3万!?」
「そうー、2週間後には役所の人が取り立てに来たんだってー、国民の失恋しただ、してないだとか、の情報。どっかで見張ってんのかねぇ」
「うわぁ〜…こっわ」

お小遣い月5000円の高2に3万は痛いなぁ…。
その日の夕方。私は学校の帰りに渋々役所に向かう事にした。

***
「手続きは以上になります。この度はご愁傷様で御座いました」

失恋理由や、彼のどこを好きになったのか、そんなバカバカしい書類を記入し終えると、職員の人は私にぺこり、と頭を下げた。やかましいわ!そう叫びたくなる心を必死になだめる。

「想い人についての詳細はまた後日、追って連絡させて頂きますね」
「……はい」

そうか。想い人の事忘れてた……。
政府的には失恋の痛みは新たな出会いで癒す。
という方針らしい。……新たな出会いかぁ。なんか気が進まない。まぁ私の気が進まなくても政府はスタコラサッサと私の想い人を決めているのだろう。あーあ。告白なんてしなければ良かった。

「私のママとパパだって元は想い人だったらしいし意外とちゃんとしてるっぽいよ?」

その日の夜。私は千里と電話していた。想い人が変な人だったら最悪だ、と愚痴をこぼしていたのだ。

「え!?そうなの?」

だけど驚きだ。まさか千里の両親がそんなふうに出会っていたなんて……。

「うん!だからきっと大丈夫だよ!一ノ瀬くんよりイケメンかもしれないじゃん!」
「えぇ…」

今はそんな人いる訳ない、と失恋の痛みに悶えるのに精一杯だ。だけど、想い人制度もそこまで悪いものではないのかも、と千里の話を聞いてだいぶ気が楽になった気がする。だってその制度が無ければ、千里はこの世に生まれて来てなかった、って事だもんね。心配事が1つ、スッ、と消えてなくなっていくのを感じた。

***
翌日の土曜日。
私は都内の喫茶店に向かっていた。古民家風の喫茶店で、ドアを引くとカラン、とベルの音が優しく店内に響く。私はおもむろに窓側の1番後ろの2人席に腰掛けた。直ぐに店員さんが水を運んでくる。店内に私以外の客は居なくて、ガラン、としていた。西日が思ったより眩しく私の横顔にぶち当たる。時刻は16時30分。こんな時間にこんな場所に来ているのには訳がある。昨晩役所から想い人とはここで待ち合わせする事になっている、と連絡があったからだ。想い人…、一体どんな人なんだろうか。ワクワクとソワソワが入り交じる胸を膨らませテーブルに軽く頬ずえをつくと、店のベルが先程同様カランコロン、と鳴った。誰か来たみたいだ。だけど今店内に入ってきた人が想い人だったら、と思うと途端に視線が下を向いていく。テーブルの上の水にペタリ、と視線を貼り付けていると……

「お前が俺の想い人か?」

低く安定した男の声が私に降りかかり、そっと視線を上げた。
わっ……。
つい息が漏れる。だって…、思いのほかかっこよかったから。彼は隣町の学校の制服を着ていた。確か前に千里が「あそこは頭いい人しか行けないんだよ」と言っていた学校だった気がする。

「あっ、多分…?」

首を傾げながらそう答えると、男の人は僅かに目を見開いた。

「?」

真っ黒で透き通った瞳。そんな真っ直ぐに見つめられたら吸い込まれてしまいそうだ。

「あの…?」
「いや、すまん」

彼は私の対面に腰掛け、注文を取りにやって来た店員にホットコーヒーを頼んだ。私も注文がまだだったので「私はアップルジュース」と付け加えた。すると…

「おこちゃまだな」

口元を手で押さえ、堪えきれなかった笑いを漏らすかのような所作をした彼が皮肉たっぷりでそう言った。

「は?」

プチン、と頭の血管が切れたかのような感覚に私は顔を顰める。眉間にはこれでもかとシワがより始める。

「俺は高宮 翔(たかみや かける)。お前の名前は?」

こんな奴に名前なんぞ教えたくはなかったけれど渋々口を開いた。

「宮崎ほのか」
「へー。お前はなんで失恋したんだ?」
「言う訳無いでしょ。あなたデリカシー無さすぎ。嫌い」

これ程までにハッキリと意を述べた事はきっと未だかつて無い。だけど口に出した嫌悪はれっきとした事実だ。

「おぉ、わりぃわりぃ。聞いてやるから…。話してみ?」

しかし彼はこれでもかと甘い微笑みを私を向けて、うんと眉を下げた。まるで私の失恋の痛みにそっと寄り添うように。不思議だ。さっきまで嫌悪で満たされていた心がその彼の表情1つでコロッ、と変わってしまう。

「…好きな人には彼女がいたの。勇気出して告白したのに​──」

まだ話している途中だった。なのに……

「ぷっ、あはははっ!まじかー。ほんっと、鈍感だな!」

彼は笑った。人の不幸を腹を抱えて笑ったのだ。

「もう!なんなの!?なんか面白い!?」

テーブルの下で彼の足を力いっぱい踏み付けながら怒鳴る。信じられない!笑うなんて!彼は子供のような無邪気な笑顔で「いて!」と言った後、悪びれもなくこう言った。

「いやー、彼女いるとか普通告白前に見極めれない?」

グサッ、と何かが胸に刺さる。それはその通りだ。図星で何も言えなくなる。……だって、よく教科書とか借りに来るから…てっきり両想いかもと思っていた。今思うと勘違いも甚だしいものだ。

「想像以上のバカっぷりで、それはそれは…不憫だ」
「不憫?なにそれ…。」

初対面の人に横暴すぎる。なんなのこいつの態度…!ついカッとなって、私の怒りはまた表に出る。バシ!とテーブルを叩く。手のひらがジンジン、と熱いのを無視して息を吸い込んだ。

「私がどれだけ彼の事好きだったか何も知らない癖に…!」

その瞬間。私は一ノ瀬くんに告白した事を悔やんでしまった。そしてそんな事を思ってしまう自分が…嫌だ、とも心が悲鳴を上げ始めた。

「まぁそうカンカンするなよ。踏切みたい」

…ダメだ。こいつに何を言ってもダメみたいだ。またもぷぷっ、と人を小馬鹿するかのように笑う彼に私は心底諦めの眼差しを向ける。

「あんたはなんで失恋した訳?」

人をおちょくるのも、ここまでなんだから!
今度は私がこいつの失恋理由に笑ってやる!そう強い意志を抱え、私は堂々と足を組んだ。次はこっちの番だ、と選手交代をしたつもりでいた。

「言わねぇよ。言う訳ねぇだろ?」
「へぇー?あ、なるほど」
「なんだよ」
「あんたみたいな捻くれ者。どうせ相手にしてくれなかったんでしょ?」

おおよその理由は想像が着いた。身の程知らずに可愛らしい女の子にでも恋してしまったのだろう。きっと。可愛い奴だ。

「いや?俺は、5年。交際していた彼女がいた」

私の挑発が効いたのか、彼は防御するかのようにそう言った。どうやら失恋理由を教えてくれるみたいだ。こんな横暴な男、死んでも教えてくれないと思っていたのに。意外と負けず嫌いを待ち合わせているようだ。

「へぇ…?」

かかって来なさいよ、と私はあざ笑うような眼差しを向ける。

「いつも元気で、笑ってて、太陽みたいな。俺の彼女はそういう奴だった」
「そんな出来た子がよくあんたと付き合ってくれたね?」
「まぁな。基本的にはバカな奴だったからな。すぐ突っ走って、鈍感で、だらしなくて、ガサツで、バカで、マヌケで、アホな野郎だった。」
「ボロくそ言うわね…」

彼女にまでそんな言い方をするなんて、やっぱりこの男は転生のクズ男らしい。でもそんなイメージを払拭るかのように彼の口から出たのは意外な言葉だった。

「だけど……俺はそんな彼女の事を、愛していた。」

その言葉に心臓がドクン、と跳ね上がるのを感じる。この男がそんな事を言うなんて。面を食らう、とはまさにこの事だと思った。

「あ、ちなみに言っとくが告白してきたのは向こうだ。どうしてもっていうから、俺は最初彼女に付き合ってやったんだ」
「なんて上から目線」

この男の事だから嫌な返事をしていないか。その告白したという彼女は傷付けられてはいないだろうか、と自分とは全くの無関係な話なのにすこぶる不安になる。

「一緒に過ごすうち、俺も次第に彼女の事を好きになっていった。この先も、これからも。ずっと一緒だ、と。お互い信じていた」

だんだん彼の視線が下がり、淡々とした口調だったのが、急に弱まってしまった。その表情にさっきまで皮肉をぶつけていた私はつい口を閉ざす。黙って彼の次の言葉を待った。

「…だけど彼女は結婚式当日に飲酒運転のトラックに跳ねられて死んだ。会場に向かう途中だった」
「え……」

彼の失恋理由をおちょくってやろう、という私の浅ましい感情がそこでプツリ、と途切れた。だってそれは私が想像していたよりも重い事実だ。

「これが俺の失恋理由だ」
「……あんた、別に振られてないじゃん」
「結果的には失恋だろ。こんなの。人は死んだら全ておしまいだ。たとえ好きだと伝えたくても、もう伝えられない。なんなら失恋よりも悲惨だろ?」
「まぁ…」

自嘲気味に笑った彼に私はろくな相槌すら、うてなくなる。しかしその時。私はある事に気付いた。

「てか、あんたまだ未成年でしょ…。結婚って何……もしかして今の話、嘘…?」

そうだ。こいつはしっかり高校の制服を着ている。それに気付いた時。途端に今の話は全て私をからかう為なついた嘘なんじゃないか、と思い始めた。

「あぁ。今は未成年だ」
「じゃあ作り話だったの?バレバレな嘘やめてよ」
「違う」

彼は思いのほか真剣な眼差しで否定した。そして続ける。

「今の話は…、俺の前世の話だ」
「前世?」

厨二病?というやつだろうか?

「俺には前世の記憶があるんだ」
「またそうやってからかっ……」
「本当だ。嘘じゃねぇ」
「……」

やけに真剣な眼差しが向けられる。本当に今の話は本当なのだろうか……。そんな事を考えていると……

「ある時。彼女は俺にキスをせがんできた」

彼は遠い昔を懐かしむように、窓の外に視線をやり再び語り始める。

「だけどその日。彼女は高いヒールを履いていた。唇にキスをしようとした矢先、足元を滑らせやがって…。俺は彼女のこの辺りにキスをした」

自身の右目付近にそっと触れる彼。

「……」

‪”恋人‪”という存在すら出来た事の無い私にとってはこんな話、ただの惚気としか思えなかった。私はつい目を軽く細めて、「だから何?」というような視線を送る。すると、彼の右目から1粒の涙が溢れ、それは長い時間を辿るかのようにゆっくりと頬を伝っていった。つい見入ってしまう。きっと彼は今、彼女の事を思い出しているのだろう。

「……知ってるか?一説によると、ほくろがある位置って前世で最愛の人にキスされた場所なんだってよ」
「キス……」

どうしてかその瞬間、私の脳裏には忘れてはいけない…、忘れたくない…、大切な記憶が猛スピードでフラッシュバックしていった─────…

ーーキスしたいな!
ーーはぁ!?こっ、ここでか!?
ーーだめ?

街中にそびえ立つクリスマスツリーの前。人が大勢いる所で‪”絢音(あやね)‪”‬は‪彼にキスをせがんでいた。

ーーい、いいけど…
ーーやった!

渋々了承してくれた彼は‪”絢音‪”の肩にそっと手を置く。いつも意地の悪い事ばかり言う彼だったけど、その手の置き方から私は大切にされているんだな、と感じていた。そして次の瞬間。

ーーわぁ!

‪”‬絢音‪”‬が慣れていないヒールのせいかバランスを崩す。そんなハプニングの中、そっと目を閉ざした彼の唇が‪”‬絢音‪”の右目の横に触れる。
うわー、やらかした、と自己嫌悪に苛まれている‪”‬絢音‪”に彼は陽だまりのような優しい笑みを向けた。

ーーほんっと、ドジだな。あはは……

それは心がポカポカする暖かい記憶で気が付けば鼻の奥がツーン、と刺激されて、右目の縁から溢れ出した一粒の涙がチャームポイントと自負している泣きぼくろを通過していく。

‪”‬恋が浜‪”‬(こいがはま)……」

小さく空いた唇からそんな言葉を漏らした私に彼はまるで子犬の相手をしているかのような優しい笑みを浮かべる。

「…そうだ」

‪”‬恋が浜‪”は、2人の初デートの場所だ。

「‪”‬優斗‪”‬は……‪”絢音‪”に…、」

心の奥がワナワナと震えているのを感じる。私は大きく深呼吸をした。

ーー結婚しよう
最近では予知夢だと確信していた時折見るあの夢……。
なんて名前の花かは、いつも分からない。
男性はピンクや紫や白…、とてもカラフルで綺麗な花束を女性にプレゼントしている所だ。そんな場面が記憶に新しく私の脳内をぼんやりと照らす。

「‪”スターチス‪”の花束をくれた」

「そうだ。スターチスの花言葉は​───」

2人の声がピタリ、と揃う。

「‪”途絶えぬ記憶”」

そうだ……。あの花は、スターチスじゃないか。‪”‬絢音()‪”‬の大好きだった花だ。そして目の前にいるこの人は…、

私の……、前世での‪”婚約者‪”だ。

そしてあの夢は、‪”‬優斗(高宮 翔)‪”‬と‪”‬絢音(宮崎 ほのか)‪”‬の記憶だ。

「待ってた。ずっと待ってたよ」

愛おしそうに、そう言った彼はガタン!と席を立って私の体を強く抱きしめる。もう離さない、と言わんばかりに強く。強く。優しく髪を撫でられるその感覚はいつぶりだろうか。

「どうして…、どうしてまた会えたの……」

なんの確証もないのに、どうしてか目の前にいる傍若無人な男が‪”優斗‪”‬である気がしてならなかった。私が‪”‬絢音‪”‬である気がしてたまらなかった。私も彼と共に厨二病を発症してしまったとでもいうのだろうか。そんな可能性を揺蕩(たゆた)わらせる私に彼はさも当然かのような口調で「‪”運命‪”だろ」と言う。そんな非科学的な言葉がなんの抵抗もなく、私の心にスっと、溶け込んでいくのを感じる。

「どうして私が‪”‬絢音‪”‬だって分かったの……」

その疑問は私自身にも問いかけた。どうして私は、目の前の男が‪”‬優斗‪”‬だと思ってしまっているのだろう。姿も背丈も全て違うというのに。未だ混乱の渦中にいる私に彼は自慢げに、誇らしげに言い放つ。

「直感」
「ふふっ…、何それ……っ」

随分長い間、
離れ離れだった私達が再会したこの日。

「結婚しよう。18になったら。」
「うん…っ」

夢にまで見た結婚の約束を…、


もう1度、交わしたのであった。

【終】