あれから八か月が経ち、シズヤは今日、勇竜学院高校を卒業する。式典が終わり教室に戻ると、担任の河合を囲んで多くの生徒たちが騒いでいる。
「カワちゃん、今日で教師と生徒じゃなくなるから俺とつきあってください!」
 お調子者のクラスメイト、吉村の公開告白に拍手喝采だ。
  河合美里は夏にタケオから担任を引き継いだ。タケオ同様若い女性教師ということもあり、愛称で呼ばれて親しまれている。
「吉村君、大人をからかうものではありませんよ。皆さんも、席に戻ってください」
 河合はタケオよりも落ち着いた口調で吉村を軽くかわした。タケオならば激しく動揺してしまうような事態にも眉一つ動かすことはない。
「おーっと、残念! 吉村、ふられてしまったー!」
 生徒の一人が実況をする。教室が爆笑の渦に包まれる。
「えー、俺結構本気だったんだけどなー」
 一連の出来事を、シズヤは遠巻きに見ていた。

 何事もなかったかのように河合は最後のホームルームを終える。最後の礼が終わるや否や、シズヤはバットを担いで教室を出ようとする。
「あれー? シズヤ、こんな日まで練習すんの?」
 先ほど振られたばかりの吉村は案外けろっとした様子でシズヤを呼び止めた。
「おう。グラウンドにも三年間世話になったから、最後だしちょっと素振りしていこうかと思ってさ」
「うおーう! 真面目だねー! やっぱりプロになるやつは違うわな」
 シズヤは秋に行われたドラフト会議でタケオが贔屓にしている球団から指名を受けた。
 優勝とまではいかなかったが勇竜学院高校は甲子園本戦でも快進撃を見せた。初出場にして準々決勝進出という快挙を成し遂げ、多くの人から注目を集めた。特に、シズヤが二回戦六回表で放ったホームランには日本中が沸いた。五点差をつけられもはや勝負あったかと誰もが思ったとき、シズヤが場外に飛び出さんばかりの大きなホームランを打った。勇竜学院高校の打線はそれに勢いづけられ、ヒットに次ぐヒットを打ち見事逆転した。まさに流れを作ったといえるだろう。
「今のうちにサインくれよ、プレミアつきそうだし」
 そう言いながら吉村が差し出したのは卒業アルバムの寄せ書き用のページだ。
「おいおい、思い出転売すんなよ」
 軽口を叩きながらも、シズヤは快くメッセージとサインを書いた。
「サンキュー、打ち上げ四時からだから遅れんなよ」
「おう」
 短く答えると、グラウンドへと脇目も振らず走りだす。

 グラウンドにはほかに誰もいなかった。シズヤはほっとする。よかった、吉村やほかのクラスメイトには悟られなかった、と。
 雑念を振り払うように必死で素振りをする。本当はただひとりになりたい気分でグラウンドに来た。こんな調子ではいけない、これからプロになるのに、とモヤモヤを抱えたまま必死でバットを振る。

 甲子園の準々決勝で敗退するその瞬間までは、生活のすべてを野球に捧げてきた。野球以外のことに悩む時間なんてなかった。それが幸いなことだったと気付いたのは部活を引退してからだ。
 卒業式に出れば自然と三年間の学校生活を振り返ることになる。吉村の告白にも思うところがあった。柄にもなく感情を乱され、いくら素振りをしても心は晴れない。
 ついにシズヤはその場にしゃがみこむ。周囲には誰もいない。ここなら泣いても誰にも見られることはない。シズヤの目からこらえ続けた涙がこぼれる。シズヤはひとり小さな声でつぶやいた。
「好きだったよ……タケちゃん……」
 一生懸命な人が好きだった。誰よりも熱心で、生徒一人一人のことを深く知って向き合おうとするタケオはシズヤの瞳にはとても魅力的な人に映った。教え子が部活動で、あるいは課外活動で成果を上げれば自分のことのように一緒に喜ぶ人だった。そのまぶしい笑顔が好きだった。
 ひったくり犯を捕まえた時、ほかの教師が「我が校の誇りだ」とシズヤを褒める中、タケオは開口一番に「怪我はなかった?」とシズヤを気遣った。幸いにもシズヤに怪我はなかったことを確認したタケオは心底安堵し、そのあとシズヤを思い切り賞賛した。
「シズヤは優しくて勇敢だね。私も見習わなきゃ」
 シズヤにとっては、タケオの言葉が一番嬉しかった。
 教師としての立場に驕ることなく、タケオは生徒からも学ぶ姿勢を見せていた。それゆえに、生徒との距離も近かった。人としての尊敬心はいつしか淡い恋心へと変わっていった。
 タケオは出会ったときから“タケちゃん”だった。常に左手の薬指には指輪をしていた。タケオの旧姓が川島であることを知ったのは親しくなってずいぶん経ってからのことだ。
 相手は教師で、しかも既婚者ともなれば胸に芽生えた小さな初恋が叶うはずもない。結ばれる可能性のない恋にうつつを抜かしている暇はない。がむしゃらに野球に打ち込んだ。
 タケオが予定より早く学校を去ったことで、秘めていた想いも応援への感謝も伝えられることなく会えなくなってしまった。テレビ越しに送ったエールは届いていたのかもわからない。タケオが産休、育休を終えて戻ってきたとしても、自分は大阪へ行ってしまう。
 野球のことや進路のことを考えていれば、悩みに押しつぶされることはなかった。しかし、卒業式という非日常に抑えきれなくなった想いがあふれ出す。
「タケちゃん……もう会えないのかよ……」
 シズヤはすすり泣く。泣いても何かが変わるわけでもない。それでも泣かずにはいられなかった。
 ひとしきり泣いた後、泣きはらした目をこすって一人寂しく後片付けをする。クラスメイトに泣いていたことを悟られないように後で顔を洗おうと思った。
「シズヤ、久しぶり」
 グラウンドを出ようとすると、我が子を抱いたタケオが立っていた。当然のようにシズヤは驚く。
「え、タケちゃん…? タケちゃんだ! なんで? 実家に帰ったんじゃないの?」
「昨日まで実家にいたんだけど、卒業式に合わせて帰ってきたんだ。初めて担任持ったクラスだから、一目見たくてさ」
 タケオは微笑んだ。タケオの返答にシズヤは納得する。と、同時に泣いていた痕跡を想い人に見られたことに恥ずかしさを覚えた。
「打ち上げ、シズヤは行かないの? 吉村たちは校門のところに集まり始めてるみたいだけど」
 タケオが涙の痕に触れずに話を進めてくれることにほっとして、男としてせめてもの面目を保つためにシズヤは明るい声で答える。
「あー、まだ集合時刻まで余裕あるから平気! 教えてくれてありがとね!」
 吉村たちの合流する前には顔を洗わなくてはいけない。タケオは卒業式の日に目を赤くしている生徒にそれを指摘するような無粋な真似はしないが、同年代の男子となればそうもいかないだろう。
 しかし、それよりもタケオと再会した喜びの方が勝っていた。タケオが母子ともに健康に出産を終えたことは学年主任が報告していたが、実際に元気な姿を見るのは本当に久しぶりのことだ。当然積もる話もある。
「可愛いね。タケちゃんそっくり。名前なんていうの?」
「ヒカル」
「え?」
 シズヤは戸惑った反応を見せるが、タケオは間髪入れずに続ける。
「シズヤと同じ。いい名前でしょ?」
 タケオが微笑んだ。シズヤの脳裏に、タケオに試合の応援に来てほしいと言った日の記憶がよみがえる。

――いい名前だね、ヒカルって。

 「静谷光」と書かれたノートの表紙を見てタケオはそう言った。席順に集めたノートの一番上がシズヤのものだったのはほんの偶然だった。タケオに深い意図がなかったとしても、大好きな人に褒められて嬉しかった。その直前にタケオが応援に来ると約束してくれていたことも相まって、シズヤは天にも昇るような気持ちになった。それは今でもシズヤにとって大切な思い出だ。

 目の前であの日と同じ笑顔を見せるタケオにシズヤはドキドキしていた。
「うん! タケちゃん、ネーミングセンス最強! もしかして俺からとってたりー?」
 照れくささと動揺をごまかすように、わざとおちゃらけてみる。
「そうだよ」
 タケオはまっすぐシズヤの目を見て答えた。
「シズヤみたいに、光あふれる人生を送れますように、誰かの光になれますように、って」
「ははっ、由来まで一緒じゃん」
 胸が熱くなる。それ以上何か話すとまた泣いてしまいそうで、シズヤは黙って目をそらした。
「シズヤが神奈川の決勝でホームラン打った時に決めたんだよ。シズヤが頑張ってるのを見て、私もヒカルも頑張れたよ。シズヤ、ありがとう」
 ねー、とタケオが我が子に同意を求める。生まれて数か月のヒカルには当然言葉の意味は分からないが、ヒカルは嬉しそうに笑っている。
「まだ言ってなかったね、甲子園出場と入団おめでとう。ずっとテレビで応援してたよ、甲子園」
 その言葉に、シズヤは感情を抑えきれなくなり、涙を流す。言葉はちゃんと届いていた。遠く離れた場所で、ずっと見守っていてくれた。
「ありがと、タケちゃん」
 嗚咽交じりの声で、必死にそれだけ返す。
「こちらこそありがとう。私、A組の担任になれてよかった。一生の思い出」
 たとえ同じことをほかの生徒たちに言っているのだとしても、それでもいい。
「出会いに感謝、ってやつだね。なんだっけ、タケちゃんの座右の銘。すっげーいい意味の言葉だったよね」
「一期一会、ね」
 人や物事との出会いは生涯で一度きりであり二度と同じ機会は訪れない、だから一度きりの機会を大切にせよ。
 タケオと出会えてよかった。野球と出会えてよかった。最高の高校生活だった。タケオと会うのはこれが最後かもしれない。だから、最後に伝える。
「俺、タケちゃんと出会えてよかった。三年間ありがとう!」
 恋心ではなく、最大限の感謝を。最後にタケオを困らせることはしない。優しい担任と自慢の生徒としてさよならをする。タケオが今後自分の試合を見て思い出すのは、泣きはらした目で告白する自分ではなく、笑って感謝を伝える自分であってほしい。綺麗な思い出は綺麗なままに、これからの長い人生を生きていく。
「俺、もう行かなきゃ。最後にヒカルちゃんにも一個だけお願い」
 今後会うことはないかもしれない。次に会ったとしてもヒカルはシズヤと出会った今日のことは覚えていないだろう。それでも、今こうして恩師の子供と出会ったのも何かの縁だ。だから、今この瞬間を大切にしよう。
「俺、プロ野球でもいっぱいホームラン打つからさ」
 バットを太陽に向かって掲げてホームラン予告をする。もう泣かない。迷わない。振り返らない。胸を張って生きていく。座右の銘は有言実行。この子が大きくなっても、ホームランを打ち続ける。
「プロ野球選手の静谷光と同じ名前なんだって、自信もって生きてくれよな!」
 “ヒカル”の物語はまだ始まったばかりだ。