彼と出会った月曜日。
土砂降りの雨の中、すぐに歩くのを断念して、今まで近所にも関わらず来たことのなかったお店に足を踏み入れる。住宅街の中道の、こじんまりとした薄暗い店。雨の日の客は私達だけ。店内のお洒落な音楽によって、けたたましい雨音はすぐに掻き消された。
「一名様ですね、こちらのお席にどうぞ」
通された席で店員に運ばれたお冷やは一つだけで、やっぱり向かいに座る彼は私にしか見えていないのだと改めて理解した。
メニューは昔ながらの喫茶店のようで、写真も少し色褪せていた。そのままパラパラと捲っては、音楽に紛れさせながら独り言のように彼と食べたいものを相談する。
誰かと共に食卓を囲む、こんな時間は一体いつぶりだろうか。頼んだオムライスはふわとろで、添えられたコーンスープは仄かに甘く優しい味がした。この味を知らずに死ぬところだったのかと、ほんの少しだけ止めてくれた彼に感謝する。
一人しか居ない店員の目を盗み見てこっそり分け合って食べるのが、何だかとても楽しかった。
変わらず雨の火曜日。
平日だと言うのに世界には人が多い。着替えやお菓子、数日生きるのに必要な最低限のみ買い込んで、人波に逆らうようにして、相変わらず何もない無機質なアパートへと足早に帰る。
一緒に出掛けたにも関わらず「ただいま」と呟けば「おかえり」と返してくれる死神に、殺風景なワンルームが世界一幸せな温かい家のように思えた。「ただいま」と「おかえり」、「おやすみ」と「おはよう」を誰かと言い合える。たったそれだけのことで、胸が一杯になった。
朝目が覚めて彼が居て、あっという間に一日が過ぎて、また眠る時間が来て。部屋の真ん中で、みのむしのように簡易寝袋に収まる私を部屋の隅で静かに見下ろす彼は、やっぱり作り物みたいな綺麗な顔をしていたけれど。誰かが居てくれる夜というのは、存外悪いものではなかった。
水滴ぽたぽた水曜日。
窓を叩く雨音をBGMに、最低限の材料と小さな安物のフライパンで作ったフレンチトースト。この間のようなこそこそしたやり取りも楽しかったけれど、家の中なら遠慮なく二人で食卓を囲める。まあ、テーブルも処分してしまったから、近所のスーパーで貰った段ボール箱の上なんだけど。
今時皆が気にする映えなんてものはそこに無くて、お洒落なお皿も盛り付けもない。そもそもスマホも解約したから、写真も撮らない。そこにあるのは、ただ二人で出来立ての甘いものを食べる、ほんのささやかな幸せの時間。
そんなどこにも残らない、特別でも何でもないこの瞬間が、そのまま永遠になれば良いと思えるくらいやけに愛しく感じた。
もくもく曇りの木曜日。
梅雨ももう終わりに近いのだろうか、今日は分厚い灰色の雲が空を覆っているわりに、雨は降っていなかった。
雨なんて名前なのに、実を言うと雨音が苦手だ。私の生まれた日は、警報が出るレベルのとんでもない大雨だったらしい。雨の日に生まれて、雨の日に死ぬ予定だった。
約束の日まで、あと少し。相変わらず傍らには死神が居て、何だかんだ楽しくやっている。どう考えても異常事態なのに、気兼ねなく誰かと過ごす遠くありふれた日常がそこにあって、たったそれだけのことが、こんなに素敵なものだなんて知らなかった。
「ねえ、夜」
「何だ?」
「しりとりしよ」
「却下」
「ちぇ、じゃあ散歩は?」
「……ついてく」
娯楽も刺激も何もない部屋で、彼は退屈かもしれないけれど。死神の義務で付き合ってくれているだけかもしれないけれど。
それでも私は、とりとめのない言葉を交わして、気が向いたらふらっと散歩して、その先で今まで知らなかった何かを見つけて共有するだけの、彼との何気ない時間を気に入っているのだ。でも、まあ、彼には内緒。
綺麗な月の金曜日。
今日は久しぶりに晴れ模様。久しぶりに見上げた青空に嬉しくなって、たまには少し遠出することにした。遺書とお金が入りっぱなしの鞄を持って、あの日飛び込もうとした駅で、適当に目についた電車に飛び乗る。
電車の揺れが心地いい。窓に凭れて居眠りしながら見知らぬ町へ。行き先も決めない、気ままな旅。計画性の無さもご愛嬌。だって、私には律儀な死神がついているんだ、怖いものなしだろう。
適当な駅で降りて、お土産コーナーで可愛くもない謎のご当地ストラップなんて買ったりして。適当な町に行って、特に観光地でもない場所で出会った野良猫を追うようにしてぶらぶら歩いたりして。
「小さい頃、猫を拾ったことあったなぁ。幸せにしてあげられなかったけど」
「……一時でも情を向けられたなら、猫も幸せだろう」
「慰めてくれるの? 珍しいね」
「そんなんじゃない」
あの日死んでいたら、夜が目の前に現れなければ、本来なら存在しなかったこんな時間。無駄に生き長らえているような負い目はあるけれど、少しくらい、思い出ってやつを残しても罰は当たらないだろう。そんな心境の変化に、自分が一番驚いた。
家に帰って「ただいま」と「おかえり」を言い合えば、すっかり馴染んだ響きに小さく笑みが溢れる。
疲れ切って眠る前、窓から差し込む久しぶりの月明かりの中浮かぶ彼の綺麗な瞳。眠ってしまうのが惜しいくらい、ずっと見ていたかった。
どんより天気の土曜日。
昨日の晴れ間が嘘のように、今日は生憎の空模様。今にも降るぞと言わんばかりの濃い雲が空を覆っている。鞄に増えたキーホルダーを横目に見ながら、にやけ顔を何とか抑えて、外出は諦め大人しく家に居ることにする。
入れっぱなしだった遺書を取り出して、紙飛行機にしてやった。そのまま窓から飛ばそうとして、夜に慌てて止められる。確かに誰かが拾ってしまったなら、不幸の手紙より悪質だ。
窓の外は、雨降り前の匂いがする。明日もまた、きっと雨が降るに違いない。だって私の命は、雨に始まり雨に終わるのだ。
「明日も雨かな?」
「さあ、天気の情報まではリストにない」
「リストって?」
「社外秘」
「死神って、会社なんだ……」
「似たようなもんだな」
一週間休みなしとか社畜が過ぎる。こちとら人生の終了に向けて仕事もすっぱり辞めた身だ。思わず同情の目を向けたら、心底うざそうに視線を逸らされた。
「じゃあ、死神じゃなくて夜について教えてよ」
「そんなの、聞いてどうするんだ」
「魂を預けるんだもん、少しくらい教えてくれても良いでしょ。明日までの付き合いだけどさ」
「……明日、か」
そうだ、明日まで。何気なく言葉にして、自分でも驚いた。一週間の猶予なんて、随分長いと思っていた。何でもいいから早く終われば良いって、確かにそう思っていたはずなのに。
「あっという間だったな」
同じく驚いたようにした彼の口からそんな言葉が出たものだから、もうだめだった。彼と居られる残り時間は、始まった時から決まっていたのに。どうして今になって、終わりが嫌だなんて思ってしまうのだろう。
「本当……でも、人生で一番楽しい一週間だった」
本当は、気付いていた。ふと目を離すと暗闇に紛れてしまいそうな、けれど影のように必ず傍に居てくれる安心感。
死神なのに、迷子や捨て猫を見かけてしばらくその場から動けなくなるような、冷酷になりきれない優しい人。
私が美味しいと感じたものを、彼も美味しそうに食べてくれていた時の、同じ感覚を共有している嬉しさ。
憂鬱な雨の日にも、雨音に彼の落ち着いた声が混じると子守唄のように心地好くて、微睡む時間が幸せだった。
こんな日々が、ずっと続けばいい。自分の魂を迎えに来たこの死神に、私はずっと、恋をしていたのだ。
「夜……」
「ん?」
「何でもない!」
けれど、想いを伝えてしまえばきっと、この優しい死神は、私を殺すのを躊躇する。クールに見えて情に厚い人だから、自分に好意を抱いていると知れば、それだけで動揺して、葛藤してしまうだろう。過ごしたのはたった一週間足らずなのに、私にはそんな確信があった。
どうせ、あと一日の命なのだ。わがままに、自分本意に振る舞って、いっそ恋人のふりでも頼めば良いのかもしれない。最期の一秒まで、せめて幸せな夢を見させて貰えば良いのかもしれない。
でも、私が死んでも、彼は生き続けるのだ。唯一残る彼の記憶の中でくらい、ただ楽しい思い出を共有した、聞き分け良く死ぬ可愛い女で居たかった。