ああ、もう本当に終わりなんだ。
 私がボロボロになるまで働き続けたのは、一体何のためなのだろう。
 子どもたちのおもちゃとして生まれてきたのはわかっていた。それでも人形にだって、多少の幸せがあってもいいんじゃないかと思ってしまう。
 記憶の端にすら残ることができず、最後はゴミになるなんて、あまりに酷いじゃないか。

 真っ暗な中でそう思った。私の使命は終わっても、私の気持ちに終止符は打てない。
 すると、ガサガサと音を立て、少しだけ視界が明るくなった気がした。
 空はまるで闇のような暗さだったが、白い街灯が、紙袋を開けた人の顔をぼんやりと照らす。
「昔ね、この子と同じメーカーのお世話人形を持ってたの」
 そう言って私の顔を覗き込んだのは、香乃子先生だった。
「リリアンナ人形だから、アンナちゃんって呼んでたんだ。一人っ子の私にとっては妹みたいな存在で、大好きで毎日遊んでたの。でも引越しを機に見当たらなくなって、親に聞いたら捨てたって言われたんだ。どうせそのうち遊ばなくなるからって」
 狭い世界から、私を抱き抱えるように香乃子先生は紙袋から出してきた。そんな彼女の後ろには、風詩くんが白い息を昇らせながら立っていた。
 香乃子先生は瞳を潤ませて、ぐっと息を飲み込みながら続けた。
「だからね、正直お別れしたくないなぁ。こんな年になっても、人形に執着するなんておかしいんだろうけどね」
 ハハッと息を吐くように笑った香乃子先生に対し、風詩くんはそっと肩に手を乗せた。
「おかしくなんかないですよ。僕も昔、同じ人形を持ってました。リリちゃんって名前をつけて、色んなごっこ遊びをして、何するにも一緒って感じで。でもある日からクローゼットの上の方に片付けられて、あまり遊べなくなったんです。最終的に『男の子なんだから、そろそろお人形遊びは卒業しろ』って親に言われて、他の家に譲られたらしいんですけど、正直当時は全く納得いかなくて、泣いて暴れてましたもん」
 それって……。
 じわりと涙が滲んできた。尤も、それが現実として瞳から流れ出ることはないのだが。
 それでも覚えていてくれていたことが嬉しかった。私のことを、忘れてしまったと思っていたからこそ、泣きそうなほど嬉しくて堪らなかった。
 あの思い出は、私の中だけに残る幻ではなかったのだ。ちゃんと、覚えてくれている人がいた。大好きな彼は私のことを覚えていたのだ。
「ねえ、それ私だよ! 風詩くん、私がリリちゃんだよ!」
 いくら叫んでも、香乃子先生も風詩くんも、私の声は届かない。
 気づいて欲しい。私だと言いたい。
 もし神様がいるのなら、私に奇跡をください。
「風詩先生も遊んでたんだね。やっぱり幼い頃に遊んだ大切なものって、覚えてるよね」
 香乃子先生は笑った。笑いながら涙がこぼれていた。
「人形ってね、私たちが気づいていないだけで、人間にバレないように話してたり、生きてるんじゃないかなって思ってるの。あの歌みたいに。だから、この子とも一言くらい話せたらいいのになぁ」
 香乃子先生はそっと私の頭を撫でる。温かく、優しいその手は、あの頃の風詩くんのようだった。
「何の歌ですか?」
 風詩くんが尋ねると、香乃子先生は透き通った声で歌い出した。
 真っ暗だった夜道が、まるで魔法をかけられたかのように、彩られていく。
 それは聞き覚えのある歌だった。
 みんなが寝静まった夜に、おもちゃは狭いおもちゃ箱を飛び出す。おもちゃたちだけの世界が広がり、楽しく踊ったり歌ったり。
 そんなおもちゃたちは、朝になるとまたおもちゃ箱に帰って眠るのだと。
 子どもの夢が詰まったような歌。
 風詩くんも、知っているようで、途中から香乃子先生と共に歌い出す。
 ああ、この歌がどうか現実になって欲しい。
 私も香乃子先生と風詩くんと話をしたい。
 一晩でもいいから、奇跡をください。

 そう願って、私も心の声を重ねた。

「チャチャチャのチャチャチャ。

チャチャチャのチャチャチャ。

チャチャチャ奇跡のチャチャチャ!」

 パッと月が私にスポットライトを当てるように光が弾けた。
 あまりに眩しくて、目を瞑る。香乃子先生も、風詩くんも、光を遮るように手で瞼を塞いでいた。
 すると、何だか体が重くなって、紙袋から落ちる。硬いコンクリートの地面は冷たくて、思わず私は立ち上がった。
「え?」
 そう言ったのは香乃子先生だった。隣に並ぶ彼女は、立ち上がった私と同じくらいの背丈になっていて、何だか世界が小さくなったように思える。
 背の高かった風詩くんも、私と数センチしか変わらない大きさになっていて、二人が人形のように小さくなるライトを浴びてしまったのかと思った。
「もしかして、リリアンナ?」
 私に対してそう言う香乃子先生は、驚きながらも私の手を握る。
 温かみを感じた私の手を見つめると、まるで人間と同じく細くて長い指があった。
 服はこの前香乃子先生がくれた毛糸のポンチョだったが、それも今の私のサイズに合わせて綺麗に編まれている。
 ようやく気がついた。私が人間になったのだ。
「か、のこせんせい? ふうし、くん?」
 試しに声を出してみる。すると、それはちゃんと届いているようで、頬に涙の川を流しながら、香乃子先生はうんうんと何度も頷いていた。
 信じられなかった。思いが重なり、奇跡が起きた。
 今まで一度も伝わらなかった私の声が、初めて届いたのだ。
「風詩くん、私のこと、覚えてる?」
 驚いて固まっている風詩くんに話しかける。すると我に返ったかのように、「え?」と声を漏らした。
「私だよ。〝リリちゃん〟だよ」
 呆然とする風詩くん。当たり前だ。今までただの人形だったものが、突然人間になって、それが過去に遊んでいたものだと言われるなんて、理解が追いつかないのも当然だろう。
「ちょっと待って、これ夢?」
 慌てる彼を見て、香乃子先生はペシッと肩を叩いた。何を言ってるのだと。
 香乃子先生はこのような不思議な世界線を信じているからこそ、目の前に現れても受け入れられたのだろう。
 そんな二人を見て、私は笑った。
「夢だと思ってていいよ。きっと今夜だけ与えられた、奇跡だと思うから」
 私は風詩くんの前に立ち、すっと息を吸う。肺に空気が入る感覚が不思議だった。
「あのね、私、風詩くんのことが大好きだったんだ。小さい頃の風詩くんとの思い出があったからこそ、どんなに辛いことがあっても耐えられたの。ずっと会いたかった。欲を言うなら、結婚式ごっこじゃなくて、本当に結婚したかった。でも、もう十分だよ。風詩くんと本当に話せて、こうしてずっと伝えたかった想いを届けられたんだから」
 そうして私は、香乃子先生の方を向いた。
「香乃子先生。出会った時から、ずっと優しく接してくれて本当にありがとう。大人になってからも、純粋でこんなにも心が綺麗な人、他にいないよ。たくさん話しかけてくれたこともありがとう。全部聞いてたし、楽しかったよ。あとね、私は〝いい〟と思う。だから、幸せになってね」
 私はぎゅっと彼女を抱きしめた。すると、彼女は嗚咽を漏らして泣き始める。
 私もつられて、涙が溢れた。
 鼻がツンとなり、じわりと温かい涙が頬を伝う。
 初めて感情が形になったと思った。
 ああ、なんて人間は美しいんだろう。
 私はゆっくりと彼女から離れると、まるで消えてしまう光を握り締めるように、香乃子先生は叫んだ。
「そんなお別れみたいなこと言わないで! 私の家においでよ。絶対捨てたりなんかしないから!」
 香乃子先生の表情は真剣そのものだった。これはきっと嘘ではないのだろう。
「私、あなたに救われてたのよ。仕事は毎日クタクタになるし、私生活でもトラブルや壁は次々現れる。でも、あなたに話したら、本当に聞いてくれてる気がして、不思議と楽になれたの」
 走馬灯のように、香乃子先生との思い出が脳裏によぎった。初めて会った日のこと。服をくれたこと。守ってくれたこと。悩みを打ち明けてくれたこと。
 きっと香乃子先生の家に行けば、幸せになれる。今度こそ捨てられずに済むはずだ。
 でも……。
「ありがとう。でもね、私はいつまでも私でしかいられないんだ。奇跡はきっと、そう長くは持たないから。また元のボロボロな人形に戻って、誰もいない部屋に閉じ込められることや、言葉を届けられないのは……もう耐えられないよ……」
 二人の髪が冷たい風に乗って靡く。
 私は涙を拭い。微笑みを浮かべた。
「もし二人が私の最後の願いを聞いてくれるのなら、煙にして、お空に昇らせてくれないかな! そうしたら、身軽な体で行きたいところに自由に行ける気がするの。あわよくば、そのまま神様のところにでも行って、次は人間になって、二人の近くに生まれ変わりたいってお願いできるように……ね?」
 また涙が流れた。美しいけれど、感情を誤魔化せないのだなと思った。
 香乃子先生はしばらく涙目で俯いていたが、悲しそうな顔をしながらも、頷いて私を抱きしめてくれた。
 そんな私を見て、風詩くんも瞳を潤ませる。
 そうして、言ってくれたのだ。
「リリちゃん。もう一度会ってくれて、ありがとう」
 優しい眼差しで私を見つめていた。今この瞬間だけは、彼の視界は私のものだ。私一人に向けられているその視線と言葉を、私は決して忘れない。
「ありがとう……私は世界で一番幸せな人形だよ!」
 すると、曲がり角の向こうから足音が近づいてきた。現実世界に引き戻されるように、奇跡の時間は終わりを告げる。
 再び月が私を照らした。歌のように、朝までとはいかなかったが、まるで夢のように一瞬でも奇跡が起きたことを、心から感謝する。
 どうか来世は、大好きな二人の傍で、人として生を()けることができますように。
 私を照らしてくれた月に、そう願った。