「遅いな……」
はぁと溜め息を吐くと、横になっていたソファーから身体を起こす。時刻を確認すると、予定の時間より約一時間半が過ぎていた。
気分転換にお茶を淹れようと立ち上がった時、傍らに置いていたスマートフォンがメッセージの受信を告げる。送り主の欄に「ジェダイド」という文字を見つけて、期待を持ちつつ慌ててメッセージを開くが、ざっと読んだ私の表情が凍り付く。
『お客様がたくさん来店して帰れなさそう。ごめん』
「……は?」
自然と声が漏れた。急いで打ったのか、絵文字も顔文字も何も無い素っ気ない文章に思考が停止する。
「ジェダの奴……!」
目元に力をいれなければ、悔しくて涙が出そうになる。
レストランで働き始めてからというもの、同棲人のジェダは朝早くから仕事に行って、深夜遅くに帰宅する。ひとつ屋根で暮らしているにも関わらず、会えた試しがほとんど無い。
「終わりなのかな……」
そんな呟きを零しながらスマートフォンでニュースサイトを立ち上げると、たまたま三年前にジェダと一緒に観たアニメの広告を見つけて懐かしい気持ちになる。
(あれから三年が経つんだ……)
このアニメを視聴したのは、ジェダと同棲を始めた直後。ジェダの気分が少しでも晴れればと良いと思って、誘ったのがきっかけだった。
あの頃のジェダは本当にこの世界のことを何も知らなくて、車や掃除機に驚いたかと思えば、電子レンジを壊して、ロボット掃除機を生き物だと思っていた。
それが今ではスマートフォンや掃除機を使いこなして、料理や買い出しも積極的にやってくれるようになった。
すっかりこの世界の一員になって、私の手を借りなくなった。
結局どのニュースも全く頭に入らないままスマートフォンを消すと、手早くシャワーを浴びてパジャマに着替える。
(出会ったばかりの頃は、ワンコのように懐いてくれたのに……)
どこに行くにもついてきて、なんでも聞いてきて、全てに興味津々だった。
そんな子犬みたいだったジェダも、いつの間にか成長していた。
それが嬉しくもあり、自分を置いて先に行かれてしまったようで寂しい。
いつかこんな日が来るって分かっていたけれども、こんなにも辛いなんて……。
(ダメだな……。悪い想像ばかりしちゃう)
何もする気がしなくて、髪を乾かすとベッドに入る。スマートフォンで音楽を聴いている内に、いつの間にか眠っていたのだった。
夢も見ないで寝ていたはずが、けたたましいスマートフォンの着信音で意識が覚醒する。
「だれ……。こんな時間に……」
そうは言っても、すでに外は明るくなっていた。仕方がなくスマートフォンを取って発信者を確認したが、「げっ!?」と声を漏らす。
(なんで、お母さんから……)
とりあえず通話ボタンを押せば、案の定、お母さんの溜め息が聞こえてくる。
『あんたってば、また遅くまで下手な小説を書いていたの? いい加減、現実を見なさい』
厳格な両親は私が小説家を夢見て、執筆活動を続けていることを否定している。社会人になった以上、現実に目を向けて昇進や結婚考えなさいと。
『まあいいわ。ところで今日は仕事休みよね?』
「休みだけど……」
『お母さんの親戚がね、息子に琴美を紹介して欲しいって言っているの。覚えているかしら。小さい頃に何度か遊んだ雄介君のこと』
「うん。今はアメリカで働いているんだっけ?」
四つ歳上の雄介君は、親戚が集まった時によく遊び相手になってくれた。大学院を卒業してからはアメリカの外資系企業で働いているとか。
『その雄介君が日本に戻っているらしくてね。ご両親が結婚相手を探しているみたいなの。それで年齢が近くて、面識のある琴美を紹介して欲しいって頼まれたのよ』
「えっ!? お見合いってこと!?」
『そんなに堅苦しいものじゃないわよ。ただお互いに将来を考えないといけない時期でしょう。良い機会だから二人で将来のことを話し合いなさい』
「で、でも……」
『今日の十六時に設定したから。場所は駅前にあるホテルのカフェ。後で地図を送るから』
それだけ言うと、お母さんは電話を切ってしまう。その直後には駅前に建つ高級ビジネスホテルの地図が送られてくる。この用意周到ぶりを見る限り、私が逃げ出さないように当日までわざと黙っていたに違いない。
(急に言われたって……)
雄介君のことは嫌いじゃない。けれども今は自分の夢で手一杯で恋愛をする余裕が無い。
ベッド近くのテーブルを見れば、物語についてネタや情報をまとめたキャンパスノートが目に入る。
最近は思うような物語が書けなくて、そのままになっていた。こっちももう諦め時なのかもしれない。
お母さんの言う通り、そろそろ現実を見るべきなのかも。
(雄介君と会う時に、何を着て行けばいいんだろう……)
お見合いでは無いと言われたものの、カジュアルな服装では浮いてしまうかもしれない。
着替えて部屋を出たところで、ドアの前に真っ白な毛糸玉が落ちていることに気付く。
「小雪」
ドアの音に驚いたのか、毛糸玉のような成猫の白猫はテレビ台の前まで逃げて行ったのだった。
「今までどこにいたの?」
「俺の部屋。正確には俺の布団で寝ていたんだけど」
他に誰もいないと思って話しかけたのに、急に後ろから聞こえてきた美声に心臓が飛び上がりそうになる。
振り返ると、声の主に唇を尖らせたのだった。
「もう! 帰っていたなら声を掛けてよ!」
「ごめん。寝てたから声を掛けそびれて……昨日は帰れなくてごめんね」
仙斎茶色に染めた今風の短髪に、少し長めの前髪。男性声優並のイケメンボイスの持ち主である青年は、可愛らしい熊のイラストが書かれたエプロンを身に纏っていた。
「いつ帰ってきたの?」
「明け方近くかな。片付けと仕込みをしていたら終電に間に合わなくて、店で寝させてもらった」
「タクシーを呼ばなかったの?」
「タクシー? ああ、バスみたいにお金を払うと乗せてくれる車だっけ。歩いて帰ることしか頭に無かったよ」
いつの間にかジェダの足元に擦り寄ってきた小雪の声で我に帰る。
「そうだ。小雪のごはん……」
「俺がやっておいた。もうすぐ俺たちの朝食も完成するから」
「明け方に帰ってきたなら、まだ寝足りないんじゃない? 私が代わるよ」
「あっちの世界では、仕事で寝られない日なんて普通にあったから大丈夫。それより、先に顔を洗っておいで」
ジェダの言葉に甘えて洗面所で洗顔して戻ってくる頃には、リビングのテーブルには朝食が並んで、サラダを狙う小雪をジェダが追い払っているところだった。
「冷めない内に食べて。コーヒーを淹れてくるから」
「それなら私が……」
「いいから、コトは座って」
コーヒーを淹れにジェダがキッチンに向かったのに対して、小雪は日当たりが良い窓際に行くとお腹を見せながら床に寝そべる。
小雪はジェダのことが好きだから、きっとサラダじゃなくてジェダに相手してもらいたかっただけだろうな……。
「そういえば」
小雪を眺めていると、二人分のコーヒーを手に戻ってきたジェダに話しかけられる。
「今年は行かないの? えっと、コミケ? 」
「うん。今年は申し込まなかったの。どうせ売れないし、無駄に在庫を増やすだけだから……」
「コト……」
エプロンを外したジェダが手を止めて見つめてくる。
ジェダが戸惑うのも当然。そのジェダと初めて出会ったのもコミケ会場だった。
異世界から現代日本のコミケ会場に迷い込んだ騎士の格好をしたジェダのことを、あの時はただのコスプレイヤーだと思った。
精巧なデザインの真鍮の鎧や風に靡く青いマントはどう見てもコスプレにしか見えなかったし、言葉を交わさなければジェダが異世界人で、元の世界に帰る方法が分からなくて困っていることも気付けなかった。
私にとってコミケ会場はただの娯楽場、でもジェダにとっては大切な思い出の場所なんだろうな。
「どうしてそう思ったのか、聞いてもいい?」
「そんなの簡単だよ。だって私には才能が無いんだから。公募に出せばいっつも落選、同人誌は売れない。良いところは何も無いじゃない」
「それで最近は何も書いていないの? あんなに一生懸命書いていたのに……」
「そうだよ。あ〜あ、悔しいな。ジェダにも手伝ってもらったのに、何にも結果を残せなかった」
公募の締め切り前は原稿に集中出来るように、いつもジェダは気を遣ってくれた。家のことを全部やってくれて、小雪の世話もしてくれて……。一人暮らしだったら、てんやわんやの忙しさだった。
「そんなことは……」
「そんなことより、早く食べよう? もうお腹空いちゃった」
なんでもないように話して朝食を食べ始めても、やっぱりジェダは心配そうな顔をする。
「ジェダが作ると美味しいね。毎日だって食べたいくらい」
「ありがとう。でも俺はコトの料理が一番好きだよ」
「え〜っ。私なんて適当に作って盛り付けているだけだよ!」
ジェダが作ってくれた朝食が美味しいのは本当のこと。それを言っただけなのに、困り顔で弱々しく笑わないで欲しい。どれも全て本当のことなんだから……。
どこか心が晴れないまま完食した後、ジェダはキッチンで後片付けをしながら何か考え込んでいる様子だったけれども、やがて覚悟を決めたのか、真剣な顔でやってくる。
「コト、お願いがあるんだ。今日の午後、俺に時間をちょうだい。どうしても会わせたい人がいるんだ」
「えっ……」
ジェダから「会わせたい人がいる」と言われた途端、心臓を掴まれたように息が出来なくなる。すぐに「ごめん」と謝ったものの、その間も恐れていた嫌な想像が頭の中を回り続ける。
(そうだよね。三年もこの世界に住んでいれば、恋人くらいいてもおかしくないよね……)
恐れていた日がとうとう来てしまった。ジェダが私から離れて、別の女性の元に行く日が。
「この後、少し出掛けてくる。その人、あまりこの街に来たことが無いんだって。だから迎えに行くつもり。夕方前にはこっちに着くみたいだから。その時にコトにも会って欲しいんだ。きっと夢を叶える手助けをしてくれるから。このチャンスを逃して欲しくない……」
これ以上、聞いていられなかった。
ジェダの言葉を遮るように、音を立てて椅子から立ち上がる。
「もういいの。もう止めるから……」
「止めるって……夢を……?」
「私、結婚することにしたから。お母さんに言われて、今日会うことになっているの」
「結婚? どういうこと!? 俺は何も聞いていない!」
「いつまでも叶わない夢を見ていないで、現実を見ることにしたの。だって辛いだけじゃない。遊ぶ時間や寝る間を惜しんで何文字書いても、選ばれるのはいつも違う人。そんな選ばれなかった行き場の無い駄作ばかり何十作品も溜まり続けるのよ!」
「そんなことはない! コトは自分のブログで作品を公開していたよね! 面白かったって言ってくれた人もいるよね!? その人はどうするの?」
「感想を言ってくれた人って……。いつも同じ人だよ。結局はその人しか面白いって言ってくれないじゃない。小説家になるということは、誰もが面白いって思うような作品を書かなきゃならない。でも私にはそんな作品が書けないの!」
私は公募で落選した作品をこのままお蔵入りさせるのは勿体ないからと、自分のブログに載せている。運が良ければ、出版社や編集者の目に留まるかもしれないと思って。でも今のところ、そんな話は一度だって無い。
唯一感想をくれる読者さんが一人だけいるけれども、でもその人しか作品を読んでくれない。自作を読まれるためならなんでもしたし、挑戦もした。それでもたった一人の読者さんしか得られなかった。
好きなものを書きたいだけなら、プロの小説家なんてならなくていい。誰にも見せずに細々と書くだけなら、いつでも出来る。
それは結婚して、子供が産まれてからでも遅くない。でも結婚と出産は若いうちしか出来ない。
夢を見るだけなら、いくつになっても出来る。今はお母さんの言う通りに結婚するべきだろう。
「みんなはコトの作品を知らないだけだよ! 今日会う人だって、そんなコトの良さを知ってくれた人で……」
「もうこれ以上、私を惨めな気持ちにさせないで! ジェダだって、こんな私に付き合うのはうんざりなんだよね!? 早くここから出て行きたいから、毎日遅くまで仕事をして、私と顔を合わせないようにして。今日だって顔を立てるために恋人を引き合わせようとしてっ!」
「何か誤解しているよ! 俺はずっとコトのためを……」
「もう放っておいてっ!」
そう言って、部屋に駆け込むとベッドに突っ伏す。自然と涙が溢れてきて止まらない。
(最悪。何もかも上手くいかないからって八つ当たりなんてして。いつかはジェダも独り立ちするって、分かっていたじゃない……!)
この世界に来たばかりの頃は、私以外に頼れる人がいなかったかもしれない。でも初めて会った時から、もう三年も経った。
その間に私の知らない人と知り合って、仲睦まじい関係になってもおかしくない。いつまでもジェダと一緒にいられると思っていた私がおかしい。
(謝らなきゃ……)
しばらくして気持ちが落ち着いてくると、ジェダへの罪悪感が募ってくる。これまでジェダと喧嘩したことなんて無かったし、こうして泣いたことも無かったから、きっと困っているよね。
結婚するのならジェダとも一緒に住めなくなるし、早い内に今後の相談もしないと。
ドアの前で深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、何とも無いように開ける。
「ジェダ、さっきはごめんね……」
そう言いながら部屋から出たものの、リビングにジェダの姿は無かった。一応、ジェダの部屋も覗いてみたけれども、小雪が丸くなっているだけだった。
(やっばり、そうだよね……)
恋人が来るみたいだし、私よりもそっちを優先するよね。部屋から立ち去ろうとした時、机の上に表紙がボロボロになった古い本を見つけて、思わず手に取ってしまう。
「この本、懐かしい……。そっかジェダに貸したままになっていたんだっけ」
その古本は私が小説家になりたいと思うきっかけになった、ひと昔前のファンタジー小説だった。
ありきたりな子供向けの内容ながらも、かっこいい勇者やかわいい王女、頼もしい魔法使いや強いドラゴンが出てきて、寝る間も惜しんで読み耽ったっけ。
小学生低学年でも読めるように、難しい漢字はほとんど使われてなくて、簡単な漢字でも読み仮名が振られているから、文字の読み書きを始めたばかりのジェダにも丁度良いと思って貸したんだよね。
(あの頃は文字が読めないジェダの代わりに、私が読み聞かせをしたんだよね。もう必要無いけど)
この世界に来たばかりのジェダは何故か日本語は話せるけれども、日本語の読み書きは一切出来なかった。それで幼児向けの日本語のテキストを買ってきて、一緒に学んで……。
(そっか。今までずっとジェダのことを手の掛かる弟みたいに思っていたんだ)
それならこんなに悲しい気持ちになるのも納得する。姉離れされて、寂しいだけなんだ。兄弟や姉妹がいない一人っ子だったから、歳が近いジェダと暮らすうちに、いつの間にか姉のつもりになっていたのかもしれない。
歳はジェダの方が二歳上のはずだから、いつまでも私が歳上ぶっていたら、一緒に暮らすのが嫌になるのも当たり前だよね。
(私もジェダから離れる良い機会かもしれないね)
私はジェダの部屋から見つけた本を持って部屋に戻ると、雄介君との待ち合わせの時間まで読んだのだった。