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 ちゅん、ちゅん、とすずめのさえずる声がする。

 うっすらと瞳を開くと、わたしをぎゅっと抱きしめたままの真空の顔が目に入った。

 起きて、と声をかける。ぐう、と子供の腹がいい音で鳴った。んん、とむずかる声を上げて、真空のまつげがふるりと震える。ゆっくりと開いた瞳の奥にわたしが映り込んで、ぱちり、と瞬きをした真空はわたしをぎゅっと抱きしめた。


『……うそじゃ、ない……』

「……起きて、真空。お出かけするよ」


 きょとり、と真空が瞬いた。分からなくていいか、と思いながらわたしは真空の腕から逃げ出し、ぐうっと伸びをする。わたしのまねをしているのか、同じようにぐーっと伸びた真空は、にこにこと笑って、あったかかった、と言った。


「それはよかった。……じゃあ、行きましょうか」


 駄々をこねていたって仕方ない。明日には助けを求める、と決めたのだ。自分の置かれている状況がよく分かっていない子供を、これ以上家に置いていくわけにはいかなかった。

 相変わらずきょとんとした顔の真空に、ついておいで、と声をかける。こてん、と首を傾げた真空は、それでも律義にわたしのあとを追いかけてくれるので、わたしは少し安心と寂しさを覚えながら外へ出た。

 すっきりとした青空が広がっている。あんまり遅くなると、あの人たちも仕事に行ってしまうだろう。その前にコンタクトを取らなければ、次は今日の夜だ。

 そこまで、この子供を置いておくのは忍びない。それに、あんまり時間をかけるのも危険になる。だから、きっと、いま動くべきなのだ。もうこれ以上、わたし自身の私情に構っている余裕なんて、ない。

 だから、と子供を連れて、まっすぐに目的地へ歩く。ときどき振り返って真空を確認すると、疑問は抱いているものの素直にわたしに着いてくるのを見て少し不安になった。

 素直過ぎないだろうか。いやでも、昨日わたしが家に連れて帰った時点でいまさらの話ではあった。


『ねえ、ましろ』


 子供の声が、わたしを呼ぶ。どうしたの、と前だけ向いて声を返すと、子供が少し小走りになる足音がして、真空はわたしの隣に並んできた。


『……どこに、行くの?』

「あなたを、助けてくれるところよ」

『……ぼくを、どこに連れて行くの?』

「あなたが、きっと幸せに暮らせるところよ」


 それが、わたしの。いつの日かきみを捨ててしまったわたしができる、唯一の贖罪だから。

 昨日の家の前にたどり着いた。意味が分かっていない真空が、戸惑ったようにわたしに視線を落としてくる。それにふっと苦く笑って、わたしは家の主を呼ぶために、声を張り上げた。


 にゃおーん、


 ばたばたと、家の中から音がする。がちゃりと扉が開いて、いつもわたしを気にかけてくれる人間の顔が目に入った。


『あれ、シロちゃん? ……? ぼく、どうしたの?』

『シロちゃん?』

『この子の名前。私たちはそう呼んでるんだけど……君、その傷、どうしたの』

『え、……あ』


 ああ、ちゃんと気付いてくれた。

 シロちゃん、と人間がわたしに声をかけてくる。この子を助けてほしいってこと、と問うてきた彼女に、わたしはにゃあんともう一度鳴いて、しっぽを小さく振った。

 人間ではない、ねこのわたしには、これ以上はどうすることもできない。

 自分の寝床に、子供を一晩かくまうのが精いっぱいだった。ごはんと言ったって、いつもわたしたち地域の猫にパンをくれるパン屋のパンだ。だから早いうちに動く必要があった。わたしでは、この子供は守り切れないと分かっていたから。


「お願いね、わたしの子を」


 いつかのわたしの子。あのときは、見捨てるしかなかった、わたしの子。

 わたしたちねこは、九つの命を持っている。

 最初の毛並みは、黒。それからだんだん、白に近づいていく。八回目の生で真っ白になって、そうしてわたしたちは、九回目の生でひととして生きることになる。

 この子は、真空は。きっといま、九回目の命を生きている。

 身体の弱かった、わたしの子供。わたしよりも先に、人間になっているなんて。わたしが知っているのは、八回目のあの子だったけれど。まさかこうして九回目のあの子と関わることができるようになるなんて、思ってもみなかった。

 だから、あの夕暮れの公園で子供を見たときに。ぜったいに助ける、と決めたのだ。

 子供の身体を確認して、ちょっと待っててね、と言った彼女が、わたしに視線を流してくる。後のことは任せてね、と言ってくれた彼女に、わたしはにゃおんともう一度鳴いて。


「幸せになってね、真空」


 真っ青な空に、願う。きみのこれからの幸せを。

 くるり、と踵を返した。ちょっと待って、という彼女の声にはしっぽを振るだけで答えていると、それまでずっと黙っていた子供の、静かな声が聞こえた。


『ましろ』


 ぴたり、と足が止まる。会話が続いているような気はしていても、この子はもう人間で、わたしはまだ猫だから、言葉なんて通じるはずがない。

 それでも。あまりにすがるような声に、わたしはつい足を止めた。


『……いつかの、おかあさん』


 ああ、と思う。泣きそうになる。

 それでも涙をこらえて、わたしはまっすぐに前を向く。


『助けてくれて、ありがとう』


 幸せになるよという、真空の、いつかの我が子の声に。

 幸せになりなさい、と鳴く。幸せになって、と願う。

 ここから先は、もう手を引いてあげることはできないけれど。きみはもう、自分の足で立って、考えて、前に進むことができるのだから。

 さようなら、と、最後に一言だけ。

 背中越しに言葉を投げて。伝わりますように、と願いながら、わたしは背中を向けたまま、まっすぐ太陽に向かって足を踏み出した。