「名無し! なにぐずぐずしてるんだい! 掃除は日が昇りきるまでに終わらせなっていつも言っているだろう!」
山の稜線が金色に輝き、邑に陽が差し始めた頃、咲(さき)は母である市子に鞭で打たれた。痛みに、持っていた膳を落としてしまう。
「すみません、お母さま」
咲が謝罪すると、また一閃、鞭が飛んだ。
「奥さまとお言い、といつも言っているだろう! 何度言っても言い間違えるお前は、本当に馬鹿で愚図だね! まったく、破妖の力のないお前みたいな役に立たないお荷物を養ってやってるんだから、もうちょっと感謝の気持ちを持って働くべきなのに、畑仕事も水仕事も、牛の世話も不出来と来ては、お前に食べさせる食事が無駄に思えてくるね!」
ピシッとまた一閃。袖から出ているがりがりの腕に赤い傷跡が出来る。うっ、と思うが、声には出さず、堪える。鞭を両手で持った市子が煌びやかな紅の着物の袂を払うと、鼻息を荒く吐いた。紅はこの時代において高価な品。それを身にまとえるだけの収入を、市子たち家族は破妖の仕事の対価として、邑人から得ていた。
「ああ、全くかわいげのない。泣いて謝罪でもしたら、鞭を緩めてやらないこともないのに」
忌々し気に市子はそう言うが、物心がつくまでの間、それをやっていたら、余計に折檻が酷くなった。つまり市子にとって咲は、存在するだけで鬱陶しい存在であり、なにをどうしたって、鞭は飛ぶのだ。
「申し訳ありません、奥さま」
「ふんっ! お前の今日の食事は抜きだよ! ぐずぐずしていた罰だ! 今から邑長(むらおさ)がやってくる。長の話はきっと破妖に絡む話だ。同じ血筋なのに破妖の才のない無能のお前は、我が家のお荷物でしかないんだから、せめてあたしらがお腹いっぱい食べられるように、食事をいっぱい用意するんだ。お前の分まで働いてくるあたしたちを労う気持ちで作るんだよ!」
「はい、かしこまりました」
咲が頭を下げると、市子は妹と父を呼びに行く。直ぐに妹の芙蓉が現れた。芙蓉は豪奢な絹をまとい、咲の腕の赤いあざを見ると、あざけるように笑った。
「名無し。お母さまの声が聞こえたけど、本当にお前は使えないのね。全く私と同じ血縁であるなんて思えないくらいの、無能さ。そのくせ、そのみすぼらしいなりで私の目の端に入る図々しさだけは、あるなんて、いっそ清々しいわ。本当に、私とお前があねいもうとであることの事実は、許しがたい天の采配だと、私思っていますわ」
芙蓉は父母の咲に対する扱いを学んで、咲を敬おうとする気持ちを持たなかった。家族のお荷物である限り、仕方ないのかもしれない。
「申し訳ありません」
「本当に申し訳ないと思ってるの? だったら、この家から出て行ってくれればいいのに。そうしたら、お父さまもお母さまも私も、みんな、無能で何も出来ないお前の世話をしなくてもよくなるもの。破妖の仕事だって、昔から私たち三人でして来たんだもの、今更名無しが居なくなったって、私たち、なんにも困らないわ」
芙蓉の言葉に、何も言い返せない。黙って俯いていると、芙蓉はあっという間に咲に関心を失くして、咲が項垂れる前を通り過ぎて行った。きっと、邑長が待つ広間に行ってしまったのだろ。はあ、とため息が零れるが、それすら息の無駄遣いのような気がした。
家に居ても役に立たない為、咲は邑外れの畑に来た。ここの畑は結界が近いために邑人は使いたがらず、安値で両親が借り上げた。この畑を世話するのは咲一人で、家族が手を入れることはない。畑は、時に天候にも左右されるが、おおよそ咲が手を入れただけその成果を咲に見せた。故にこの場所は、咲の心の拠り所のような意味合いも持っていた。
母たちに出す献立を考えながら、植えて合った根菜を抜いていく。葉物も少し、と思って視線を移したところで、視界に入る、黒い薄靄のようなものがふたつ、あった。朧(おぼろ)だ。
朧とは、黒い靄(もや)の塊のような成りの、最下級のあやかしだ。人に危害を加えることは出来ない為、咲は、何故か邑に迷い込んだ朧を、結界の外に逃がしてやっていた。今、咲の目の前には二体の朧。どちらもするりと結界の外へ行こうとせず、なにやら躊躇っているようだった。
「あなたたち。ここに居るとお母さまたちに狩られてしまうわ、お逃げなさい。結界の外なら、あなたたちの住む場所もあるでしょう」
彼らの身を案じながら、咲の心はつきりと痛む。彼らには帰るべき場所がある一方、咲には寄る辺となる場所がない。その事実に心を暗くしながら彼らの様子を窺ったが、朧は言葉を持たないため返事もない。しかし、二体の朧は体を震わせながら、どうやら咲を見ているようだ。
「どうしたの? 何か気になるの?」
彼らが命の危険が迫る中で躊躇うことを知りたくて、咲はこう提案した。
「では、あなたたちをこう呼びましょう。あなたはハチ、そっちの子はスズよ。さあ、ハチ、スズ。私になにを伝えたいの?」
名を呼ばれない悲しさを知っている咲は、出会う朧に積極的に仮の名をつけて交流してきた。咲がそう呼ぶと、朧たちはにわかにその色を濃くした。その時。