僕の家に突如、見知らぬ美少女が訪れた。

 時を遡ること5分前。僕の家のチャイムが鳴り、家の扉を開けたところに立っていたのは、顔も名前も知らない現実離れした容姿を持った美少女だった。

「こんにちは。私は(あい)って言います。あなたは神楽真司(かぐらしんじ)さんで合っていますか?」

「え、えっと。あなたは誰ですか?」

「はい。私は愛です!」

 いやいや。そういうことを聞いているのではなくて、僕が聞きたいのはなぜ彼女が僕の家に来て、僕の名前を知っているのかということだ。

 失礼だが、僕の頭の中に眠っている記憶を手繰ってみても彼女の詳細は一切出てこない。忘れているだけかとも思ったが、普段女性に興味がない僕が美少女だと思うくらいの人を忘れるはずがない。

 一体彼女は誰なんだろうか。まるで、アニメの世界からやって来たかのような外見。本当に訳がわからない。

「あ、愛さんですね。と、とりあえず要件はなんでしょうか」

 他にも色々と聞きたいことがありすぎたが、一旦彼女がここに来た目的を聞いてみることを選択した。

 彼女の回答次第で、僕のこの先の行動が変わる気がしたから。

「あ、はい! 私をここに住まわせてください!」

「はぁ!?」

「だから、私と一緒に暮らしてくれませんか?」

 なんなんだこの子は。常識というものが備わっていないのだろうか。ツッコミどころがありすぎて、どこから突っ込めば良いのかわからなくなってくる。

 ちなみにここには僕しか住んでいない。決して両親との仲が悪いわけではない。僕の故郷は離島にあり、高校に通うためには島を出る必要があったため、現在は島を離れて1人暮らしをしている。

 地元には長期休暇の時にしか顔を出すことができないのが、少しだけ寂しくもある。

 基本1人暮らしなので、友達が泊まりに来ることは問題ないが、一緒に住む。それも見ず知らずの他人となれば、話は別である。

 同性だとしても躊躇ってしまうというのに、異性なんて以ての外だ。

「え、どうして君と僕が一緒に暮らさないといけないの?」

「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりの表情で僕の瞳をジロジロと見つめてくる彼女。

「よくぞ聞いてくれました!」

 こんなにわかりやすい人初めてかもしれない。なぜだか、彼女の考えていることがわかったような気分になってしまった。

「私は君と一緒に暮らすために来たのです!」

「は?ぜんっぜん意味がわからないんだけど」

 もしかすると、両親が僕の1人暮らしを不安がって家政婦らしき人物を派遣して来たのだろうか。家政婦にしては僕と年齢がさほど変わらないようにも見えるが...

「詳しい理由は言えませんが、そういうことなのです!」

 どこが「そういうこと」なのだろう。今のところ、僕の中で彼女に対して芽生えている感情は、怪しさしかない。

「ひとつだけ聞かせてほしい」

「はい、なんでしょう!」

「君は・・・」

「愛です!」

「あ、愛は誰かに頼まれてここにやってきたの?」

 名前を呼ばないと一生質問に答えてはくれなさそうだったので、仕方なく呼んでみたが結構恥ずかしい。普段から女子の名前を呼ぶ耐性の付いていない僕には名前を呼ぶだけでも一苦労だ。

「はい! その通りです!」

「それって僕が知っている人だったりする?」

「んー、知っているようで知らない人です!」

「なんだそれ!」

 冷静になろうと取り付くって彼女と話していたが、どうやらそれは無理だったらしい。彼女のよくわからない発言にとうとう素の反応が出てしまった。

 ここまでで知り得た彼女の情報は実に乏しいものだった。いや、よく考えてみれば、僕は彼女の名前しか知らないのではないか。

 こんな非現実的な展開が僕に訪れるなんて昨日の僕は想像できないだろうな。過去の僕だけでなく、未来の僕もたぶん無理に違いない。

「それじゃ、真ちゃん! よろしくね!」

 もう僕に拒否権という選択肢すら与えられていないらしい。それに真ちゃんとはなんだ。僕は彼女に対して心を許したつもりもないし、これから先も許すつもりはない。

 無視しようか迷ったが、流石にそれはかわいそうだと思い、「よろしく」とぼそっと口にして部屋へと引き返した。半ば諦めていた。彼女はどんなに追い払っても決して諦めることのない眼差しを終始、僕に向けていたのだから。

 当然、廊下を歩く足音は普段の2倍になって聞こえてきた。これが、僕と彼女の奇妙な出会いだった。

「おーい、真ちゃん! 起きないと遅刻するよ!」

「あぁ、もう起きるから、あと2分だけ寝かせて・・・」

「だめ! 本当に学校に遅刻しちゃうって!」

「わ、わかったよ。起きるから、静かに起こしてくれ」

 愛が家に来てから1ヶ月が経とうとしていた。依然、彼女が何者なのかはわかってはいない。でも、1ヶ月過ごしてきて少しずつだが、彼女のことを知る機会が増えてきた。

 例えば、彼女はかなりハイスペック人間だということ。県内でも有数の進学校に通っている僕でさえ分からない問題を最も簡単に解いてしまったり、時々謎めいた理論を口にすることがある。

 どこでそんな知識を身に付けたのか聞きたくなるくらいの。試しに彼女に、日本で最も頭の良いとされる医学部の入試問題を解かせてみたところ、一問も間違えることなく僕の手渡した紙には赤ペンで丸がつけられていた。

 もちろん不正などしていない。隣には僕が座っていたのだから。もしかしたら、間違っているのに丸をつけているのかとも思ったが、そんなことは一切なかった。

 学力に加え、彼女の家事はもはやお金を払っても良いレベルだった。家の掃除だけではなく、食卓に並ぶご飯はお店で提供したら、余裕で常連客が付いてくれるくらい美味しかった。

 少しずつ彼女のことを理解はし始めてきたが、それと同じくらい彼女の正体が益々分からなくなってしまった。間違いなく普通の若者ではないことは確か。

「はい! これ今日のお弁当ね!」

「ありがとう。愛はさ、学校には行かないの?」

 1ヶ月間ずっと気になってはいたが、なかなか聞くことができなかった。愛は自分のことを聞かれると少しだけ顔色を悪くしてしまう。

 あえて聞かないようにしてはいたが、僕としてはどうしても気になった。それに、親御さんは娘がいなくなったことを心配していないのだろうか。

 ここまで容姿が整っていたら、むしろ余計に心配してしまいそうになる。変な男が寄り付かないかとか、騙されたりはしないかなど。

 ん?もしかすると、他者から見たら僕がその存在に当てはまるのだろうか...

「いいの。私は学校で学ぶことはもう何もないから。それより、今は真ちゃんといる時間を大切にしたいの」

「そっか。愛がそう言うならいいけど。それじゃ行ってくるよ。留守番お願いね」

「はーい。任せてよ! 気をつけていってらっしゃい!」

 笑顔で玄関先から僕を見送る彼女。まるで、同棲し始めた新婚さんのような気分だ。同棲している点は間違いではないのだけれど。

 今日も心地のいい空気が僕の肺を満たしてくれる。もうすぐ僕の大好きな季節がやってくる。ギラギラと眩しいくらいに太陽が僕らを照らす夏が。

 ついこの間までは春だったのが、少しだけ恋しくもある。日本の四季は最高だ。あれだけ春の最中は、花粉症が辺りに巻き散っていて早く春が終わってくれと望んでいたのに、いざ終わってみると来年の春が待ち遠しい。

 一体この現象はなんなのだろうか。やはり、人という生き物は失って初めて、良さというものが身に染みて実感できるのだろう。あぁ、あの頃がよかったなどと思いに耽るもすぐには戻ってはこないのに。

 最悪、戻らないことだってあるんだ。時間が進むように、僕らも日々現実を過ごし、未来へと向かっている。未来へ進むことはできても、過去に戻ることなど現代の日本においては不可能なのだ。

 近い将来可能になるかもしれないが、その時まで僕らが生きているかと言われたら、かなり怪しいラインであろう。

 タイムマシンとやらができてくれたら世間は賑わうかもしれないが、僕的にはそこまで興味はない。理由は簡単だ。特に戻りたいと思う過去なんて、僕には存在しないのだから。

 でも、なぜだろう。最近はやけに胸が弾んでいる気がする。毎日退屈だった灰色の世界が、色付き始めたかのような感覚。

 きっと彼女のおかげだ。僕の廃れた人生を染めてくれたのは、紛れもなく不思議な少女だった。

 そして、僕は気付いてしまった。先ほど家を出たばかりなのに、今ものすごく家に帰って彼女に会いたいと思ってしまっていることに。

 これが、恋なのかは分からない。ただ胸が高鳴っている鼓動音だけは、やけに鮮明に聞こえた。

 "チャリンチャリン"と地面の窪みの衝撃でベルが鳴っている自転車が、僕の前方を走っている。しかし、僕らの距離はなかなか縮まらない。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 息が苦しい。自分がなぜ走っているのか、自分でもよく理解はできていない。一刻も早く家に帰りたかった。

 今日の授業が終了した瞬間、僕は鞄を手に取り一目散に教室を出ていった。当然、普段の僕とは違う行動にクラスメイトの何人かは、僕を見て驚いた表情をしていたが、僕にはどうでもよかった。

 一分一秒でも早く彼女が待つ家へと帰りたかったから。

 僕から逃げるかのように走る自転車。当たり前だろう。背後から無言で自転車の後ろを追っかけてくる者がいたら、恐怖でしかないだろう。もしかすると、自転車に乗っている彼は今日、ゆっくりと寝付くことができないかもしれない。

 申し訳ないと思いつつも走るスピードを緩めることを知らない僕。

 二手に分かれる道の右へと曲がっていく自転車。僕は左なので、これ以上怖がらせることはないだろうと安心をする。

「あっ」

 自転車に乗る彼が曲がる拍子に後ろにいる僕を一目見た。その目は、まるで汚いものを見るかのような、人に対して向ける目ではなかった。もちろん、彼に非はない。全て僕が悪いのだから。

 自転車の彼とは、反対の左の道を駆け抜けていく。そろそろ口呼吸ですら息を吸うのがしんどくなってきた。明らかに吸う息よりも吐く息の方が圧倒的に多い。

 口から漏れ出て聞こえる乱れた呼吸音が、僕の足を徐々に緩やかなものへと変化させていく。

 あと少し。あと200メートルほどで我が家が見えてくる。

「あれ、真ちゃん。なんで走ってるの?」

 急いで我が家へと戻ろうとしていた足が、嘘だったようにピタリと止まる。前方には、買い物袋を手にした愛が立っていた。

 見るからに重そうな袋。1週間分くらいの食料でも調達してきたのであろう。

「あ、愛!」

 自分でも驚いてしまうほど声が出てしまったが、幸いなことに周りには僕ら以外に人はいなかった。もし、いたら恥ずかしさで家まで再び走り出していただろう。

 これからはもう少しだけ気を付けなければならないな。

「すごい汗だよ、真ちゃん」

 ポケットから白い花柄のハンカチを取り出し、僕の汗を一滴残らず拭いてくれる彼女。訂正。新婚気分と言ったが、これは実質新婚夫婦みたいなものだろう。

「ありがとう。愛に会いたくて急いで帰ってきた」

「1ヶ月の間に随分素直になったね。出会って1週間くらいは私に、不信感を顕にしていたのに」

「ご、ごめん」

「いいよ〜。私は真ちゃんに会うために来たんだからね」

「嬉しいけどさ、なんで僕だったの?」

 自然と呼吸の乱れが収まり始め、まともに息を吸えるくらいまで落ち着きを取り戻していた。

「ごめんね。それはまだ言えないの。それに、この答えは私が話さなくてもそのうち、真ちゃんが自分で答えを見つけることができるよ。無責任だけど、今はこれしか話すことができないの。真ちゃんならわかってくれるよね」

 「うん」とだけ返事をする。そう返事をするしか僕には手段がなかった。彼女は賢い。そして、ずるい。でも、そんな彼女に僕はたぶん惚れてしまっているのだろう。

「そっか。それなら、仕方ないね。いつか答えを見つける日が来るまで、気長に待つとするよ。それまで僕の隣に居てくれよ。答え合わせをできるようにさ」

「もちろんだよ!その時は、私はあなたの隣にいるよ。ねぇ、真ちゃん」

「ん?」

「ありがとね」

「僕、何か感謝されるようなことしたっけ?むしろ僕の方こそありがとうなんだけど」

「いいのいいの。今の私があるのは、全て真ちゃんおかげなんだからさ!」

 なんのことかさっぱり分からないが、愛が幸せそうなら僕はそれだけで満足だ。でも、なぜだか引っかかる。

 彼女が選ぶ言葉の一つ一つが...なんだろうこの胸のモヤモヤは。

「さ、早くおうちに帰ろうよ!」

 手を引かれるがまま、僕は愛に連れられて家の中へと入っていく。今日の夜ご飯はシチューだと言っていた彼女の顔は、どこか寂しげなものに見えた。

 まるで、ここではないどこかを思い返しているような切ない瞳だった。

 今日で彼女が僕の家へと来て3ヶ月になろうとしていた。僕らの距離は一定の間隔を保たれたまま、程よい同棲生活を繰り返す日々。

 3ヶ月も一つ屋根の下で異性が暮らすなど、相手に恋をしない方が無理ではないだろうか。ましてや、相手は誰が見ても頷くほどの美少女。

 休日に2人で外を出かけた日などは、街を歩くたびにそこらを歩く獣たちが彼女の容姿に惹かれ、何度も振り返って見ていたのを数えきれないほど確認してきた。

 僕も彼女の存在を知り得ていなければ、世の男性諸君と同じだったに違いないが。

「おはよう、真ちゃん!さて、問題です。今日はなんの日でしょうか?」

「今日? 何か特別な日だったっけ?」

「すごーく大切な日だよ。ほら、当ててみて!」

「難しいな。あ、わかった!」

「なになに!」

 僕が少しでも顔を前に出せば、彼女の唇に触れてしまう距離まで彼女は顔を寄せてくる。最近では、彼女のちょっとした仕草にさえドキッとしてしまうのに、男子高校生にこれは刺激がかなり強めだ。

 彼女はなんとも思っていないだろうが、僕は先ほどから心臓の鼓動音が鳴り止まないでいる。彼女に聞こえていると思うと恥ずかしくて堪らない。

「そ、そのゲ、ゲームの発売日とか!」

「ぜんっぜん違うよ! 今日は真ちゃんの17歳の誕生日でしょ!」

「あれ、そうだっけ?」

「そうだよ!」

 すっかり忘れてしまっていた。自分の誕生日など普通は覚えているものなのだろうか。僕には家族以外に自分の誕生日を祝ってくれる人がいない。

 そのせいか、小学生までは誕生日は楽しく、待ち遠しいものだったが、いつからかありふれた日常の1日と化してしまった。

 ベッドに置かれた携帯を手に取ると、母からメッセージが来ていたことに気付く。もちろん、内容は祝いの言葉が並べられたメッセージだった。

 「ありがとう」と淡々とメッセージを打ち込んで、送信ボタンを押す。すぐに既読がつき、謎のパンダがグッドサインをするスタンプが送られてきたのを確認し、携帯をテーブルの上へと置いた。

「お母さんから?」

「うん。おめでとうだってさ」

「真ちゃん」

 僕の名前を呼ぶ彼女の瞳は、微かに潤んで見えた。そんなに僕がかわいそうな奴にでも思えたのだろうか。仮にそうだったとしても僕は平気だ。今の僕の隣には君が居てくれるのだから。

「ん?」

「お誕生日おめでとう!」

 胸がドキッと音を立てる。両親以外から誕生日を祝ってもらえたのはいつぶりだろうか。記憶に残るものだと、確か小学生が最後だった気がする。

 人から祝ってもらえるのがこんなにも嬉しいことだったなんて、すっかり忘れてしまっていた。

「あ、ありがとう」

 つい照れ臭くて、彼女の目を見ることができないまま返事をしてしまった。僕はこの瞬間を一生後悔することになろうとも知らずに...

 僕はまだまだ幼かった。幼稚だった。高校生になったことで大人の自覚が芽生え始めていたが、僕は全然大人ではなく子供のままだったんだ。

 もし、僕が10年後の27歳だったら、きっと彼女の目を見て返事をすることができたであろう。

「愛の誕生日はいつなの?」

 今し方、僕のことを祝ってくれた彼女。今度は僕が彼女の誕生日を祝いたい。自分の誕生日は忘れてしまっても、絶対に君の誕生日だけは忘れないから。だから、教えてほしい。君の誕生日を。

 しかし、彼女から返事が返ってくることはなかった。部屋を見渡してみたが、彼女の姿はどこにもなかった。

「おーい、愛! どこに行ったんだ!」

 何度呼んでみても、聞こえてくるのは小学生たちの元気な声だけ。どこからも愛の声が聞こえることはない。

 一体どこに行ってしまったのだろうか。ま、夕方になれば帰ってくるだろう。

 そんな甘い気持ちを抱いてしまった僕は、すぐに後悔することになるんだ。これが、僕と彼女の別れになるなんて思ってもいなかった。

 僕の恋は煮え切らないまま時間だけが過ぎ、現在が西暦何年なのかすら忘れてしまっていた。西暦は忘れてしまっても、僕は自分の誕生日だけは絶対に忘れることはなかった。

 彼女が祝ってくれた僕の誕生日。一体あれからどれだけ1人の誕生日を迎え、歳を重ねてきたのだろうか。すっかり、髪は黒から白に染まり、顎には剃るのが面倒になった白い髭がだらしなく伸びてしまっている。

 小さい子供が見たら、冬に訪れるソリに乗って赤い衣装を着るおじいさんを連想するだろう。

「博士! とうとういよいよですね!」

 助手である酒井(さかい)くんが僕の元へと小走りでやってくる。今年で27歳となった彼女は、まだまだ仕事に専念したいらしく、結婚願望は一切ないらしい。

 僕の唯一の助手で最愛の弟子。僕もそう長くはないだろう。人生の全てを賭けて、今日のために数多くの実験を繰り返しては失敗し、その度に試行錯誤をしてきた。

 これが何度目の挑戦で何度の失敗を重ねてきたかは定かではない。

「そうだね。いよいよだ。酒井くん」

「はい!」

「今日がなんの日かわかりますか?」

 数十年前の淡い青春時代の記憶が蘇る。僕にとって最初で最後の恋をしたあの頃の記憶が...

「もちろん! 博士の研究がついに完成をした日です!」

「惜しいですね。半分正解で半分不正解です」

 「えー」と駄々こねる小学生みたいに拗ねる彼女。まだまだその反応ができるだけ若いなと感じてしまう。時として、孫のように可愛がってしまうので注意が必要だ。

 あくまで僕と彼女は師弟関係であり、私情を挟んではいけないのだから。

「こ、答えはなんですか!」

 僕の机に身を乗り出してくる形で迫ってくる彼女。そんなにも答えが知りたいのだろうか。

「僕の誕生日なんだ」

「へ? 誕生日?」

「そう。今日は僕の56回目の誕生日なんだよ」

「56回目?博士は今年で73歳ですよね。73回目ではないんですか?」

「僕の時間はあの時から止まっていたんだ。止まっていた時間を動かしてくれたのが、この子だったんだ」

 椅子から立ち上がり、長い年月によって刻まれた皺だらけの右手をそっと彼女の肩へと乗せる。僕の手は皺々になってしまったのに、彼女はあの頃と全く変わらない。

 まるで、彼女だけが時間に置き去りにされたみたいに。

「それって・・・」

 酒井くんが小さな手で口を隠すも、事の顛末を知ってしまったのかその手は震えていた。

「あぁ、そうさ。この子はこれから過去の僕の元へ行ってもらう。そのために僕が人生をかけて作ったんだ」

「昔、博士が話していた初恋の女の子ってのはAI()のことだったんですね」

「そうだよ。僕も気付いたのは、60歳を過ぎたあたりだったんだけどね。それまで、僕は彼女の幻影を夢見ながらオリジナルのAIを作ろうとしていた。でも、気付いてしまったんだ一つの結論にね。愛は人間ではなくて人工知能を持ったAIだったのではないかと」

 顎に生えた白く伸びる髭を左手で摩りながら、今はまだ起動していない彼女を見つめる。

「どうして気付いたんですか?」

「どうしてだろうね。彼女に恋をしていたからかもしれないね。僕は彼女が好きだった。ある日、彼女が言っていたんだ。『私は真ちゃんに会うために来たんだ』って。それを思い出して気付いたんだ。愛をローマ字にするとAI。いかにも、僕が付けそうなわかりやすいネーミングセンスだ。ま、あの頃の僕は恋に夢中でそんな単純なことにも気がつけなかったけどね」

 それに、今ならわかる。時折見せた彼女の切なそうな表情の意味が。彼女はわかっていたんだ。僕の誕生日を迎える日には、未来へ帰ってしまうことが。もちろん、帰ることになった理由も。

 あの3ヶ月間はいわば、テスト期間だったんだ。彼女が日常生活でも問題なく人工知能として人々の生活に役立つことができるかを確認するためのものだった。

 未来の僕が過去の僕を実験の対象に選んだのは、きっとあの頃の僕は孤独を背負って生きていた。友達も少なく、笑い合える人もいない。そんな寂しい僕への些細なプレゼントだったんだ。

 おかげで僕は愛を失った後、勉強を頑張り、そして多くの友や仲間と巡り合うことができた。しかし、どれだけ歳を重ねても結婚だけはできなかった。

 正確には、しなかった。両親から心配されて、お見合いの話も持ち出されたが、僕は全て拒否した。僕の心の中には、1人の女性しかいなかった。皮肉なことにその女性こそが、自分が作り上げた人工知能の愛だった。
 
「そうだったんですね。辛いですね。恋した相手が、未来の自分が作り上げた人工知能だったなんて・・・」

「あの頃は辛かったね。でもね、辛いことばかりではなかったよ」

「それはどうしてですか?」

 弛んだ頬を緩ませ、まだ眠っている彼女へ微笑みかける。生きている人間と同じくらい精巧に作られているのに、体温だけは持ち得ていない彼女に手を添えて。

「こうしてまた愛と出会うことができたから。あの頃の記憶を持ち合わせた愛はいないけれど、僕は満足なんだよ。昔約束したんだ彼女と。愛のことを全て知った時、僕の隣に居てくれるとね。やっと、その願いが叶ったんだ。これほど僕にとって嬉しいことはないよ」

 僕の話を聞いている間に、涙が止まらなくなってしまったのだろう。ずるずると鼻を啜る音が、研究室内に小さく響き渡る。

「私初めて知りましたよ。博士と愛の間にそんな物語があったなんて。博士・・・」

「なんだい?」

「博士は今、幸せですか?」

「もちろん。幸せだよ」

 自分の机へと戻り、パソコンで最終確認をしてから彼女を起動する準備を始める。

 ここまで辿り着くのに56年もの時間がかかってしまった。本当に長かった。君と過ごした3ヶ月は、僕が君を失って生きてきた56年間と等しい価値のものだった。

 そのくらい僕にとって君との時間は大切な思い出になっているんだ。

 酒井くんと最終チェックを済まし、あとは起動ボタンを押すだけになった。ボタンを押せば、彼女が起動し、僕らと会話をすることができるようになるはず。

 待ちに待った日が来たというのに、心が穏やかになってはくれない。いい歳になったのに、心はあの頃に戻ってしまったかのようだ。

「博士。あとは博士の準備が整い次第、私がボタンのスイッチをオンにするので、いい時は言ってください」

「お願いします」

 カチッとボタンを押す音が聞こえた。重たい足取りで、愛の前に立つ僕。ゆっくりと愛の目が開き、彼女の黒い瞳に僕が小さく映る。

「こんにちは。愛」

「あなたは誰ですか?」

「僕の名前は・・・」

 懐かしさが込み上げてくる。僕の思い出は、過去も未来も全て君で埋め尽くされていたんだね。ありがとう愛。

 それと、過去の僕をよろしくね。僕はもう一度、愛に願いを込めて彼女を過去へと送り出す。

 行ってらっしゃい。僕の大好きな人よ。