俺は、清掃会社にでも就職した方がいい。
そう思ったのは、それからすぐのこと。今度の俺は、小太り店員に促されるわけでもなく、まわりの視線が全身に突き刺さったわけでもないのに、大人しく白線を消し始めたのだから。
ゴシゴシゴシゴシ。
一体何なのだろう、この白線。もしかして新種の生物だったりして。
消せど消せど現れる不思議な線に、ファンタジーの世界にでも巻き込まれたのではないかと考え始める始末。しかしこれは現実だ。だから少々気味が悪い。
白線と俺の追いかけっこは続く。次はなんだ、お前は俺をどこへ連れて行く。
自宅の玄関前から始まって、レンタルビデオ屋にコンビニ。そしてその間にはあの小川。だから俺は、次の目的地が気になった。馴染み深い場所へとばかり誘うこの線の、新たな行方が。俺の目は、もうこの白線だけにロックオンだ。
掃除に勤しみながら小道に入り、角を曲がった時だった。足に感じた違和感と共に、バシャンと大きな音がした。
「げ、やっば……」
バケツに入っていた満杯の水を蹴ってしまったのは俺。そしてその傍で寝ていた大型犬にそれがかかって、そいつを怒らせたのも俺。
「お、おい落ち着けって。わざとじゃねえんだから……」
ガルルと牙を剥いた大型犬は前足にグッと力を込めて立ち上がると、血走る双眸で俺を睨む。逃げる暇も与えられずに、思いきり飛びかかってきた。
「いってえ!」
脹脛を噛まれた俺は、持っていた傘とデッキブラシで思わず抵抗、そいつの頭をバチンと叩いた。すると甲高い悲鳴を上げた大型犬、キャインと鳴きながら去って行く。
短い戦闘だったけれど、とりあえずは俺が勝利した。腰が抜けてヘナヘナと、その場に座り込む。
「なんでこんな道端に、バケツが置いてあんだよも〜……」
角を曲がってすぐのところ、堂々置かれていたポリバケツ。トラップにも思えたそれを暫し見つめていると、再び頭へ降りてくるのは遠い日の記憶。
これも昔にあったことだ……バケツの水をひっくり返して犬に噛まれて、確か俺、大泣きしたんだ……
走馬灯を見た気がした。それくらいにやばい経験だった。
犬に追われている俺のことを、祐樹と泰造は終始爆笑していたけれど、どうして助けてくれなかったのだと後に大喧嘩になった。
痛みはしっかり覚えている。尻に噛みつかれた痕も、小学生の頃の出来事なのに未だにある。
くくくと俺の肩が震えていくのは、またもや笑いが込み上げたから。
「あん時奈美が仲裁してくんなきゃ、ぜってえ殴り合いになってたよなー」
祐樹の胸ぐらを掴んだ俺の頬に、奈美から放たれた平手打ち。俺は涙目で眉を寄せた。
“なにすんだよ奈美!”
“友達のこと殴ろうとするなんて、洋太サイテー!”
“はあ!?今奈美、俺のこと殴ったじゃんか!”
“わたしはいいの!女の子だから!それより泣くなうじうじマン!かっこ悪い!”
奈美の理不尽な言動に、あの時心底ムカついた。それなのにどうして何十年も経った今、それが笑いに変わるのだろう。意味は全然わからないけど。
「奈美……」
奈美の葬式に行かなかったこと。俺はそれを、後悔した。
……って、ちょっと待てよ。
てか、最初のレンタルビデオ屋でのあの一件も、昔の記憶の中にあるぞ。俺と祐樹と泰造のことを中学生だって気付いた店員が、わざと小っ恥ずかしいタイトルを大声で言ってきて、まんまと撃退されたことがあったじゃないか。
あの時は今みたいにネットが普及しておらず、俺たちの欲が満たされるのは唯一あの場所で借りたアダルトビデオだけだったから、発狂するほどムカついた。
電柱に八つ当たる泰造を思い出し、くすっとまた笑う俺。
当時の店員が小太りだったかどうかはおいていて、今日の出来事と酷似している。と言うことはまさか、この落書きは……
ふと足元に落とす視線。実家の玄関からずっと続いているこの白線。俺を思い出の場所へと導き、あの頃と同じような体験をさせて。
「間違いない、祐樹と泰造の仕業だ」
そう確信し、俺は勢いよく腰を上げる。ずっとふたりからの連絡を無視していた俺。それは昨日も然りだったから、あいつらは俺にこんないたずらを仕掛けたんだ。
耳元で聞こえるのは、未来を待ち侘びる奈美の声。
“20年後の今日だよ、忘れないでね。必ず4人揃って、この箱を開けるの”
それから数分後。白線は、とある丘のふもとへ辿り着くと途絶えた。緑が多く、空気が新鮮な場所。肺を存分に広げ、深く息を吸って、丘の上を見上げる。
「よう洋太、やっと来たな」
「おせーよまじで。どんだけちゃんと掃除してんだよ。清掃会社にでも再就職しろ」
最終目的地はどこだと途中から予想はついていたが、俺は母に言われた通りきちんと白線の落書きを消しながら、ここまでやって来た。
だって怒ると怖いから、うちの母さん。
デッキブラシとビニール傘を芝生に横たえた俺は、ゆっくり木の下へと歩を進めた。
「祐樹、泰造……」
きらきらと光る木漏れ日の中、馴染みの顔が俺を見下ろす。穏やかな表情だけれど、呆れているようにも見えた。
「この約束破り」
「ご、ごめん」
「許すかばーか。昨日いつまで待っても洋太が来ねえから、俺と泰造とで掘り出しちまったぞ、タイムカプセル」
思い出を詰めたタイムカプセル。それは高校を卒業と共にこの町を出ることが決まっていた奈美が、4人で埋めようと言ってくれたものだった。
「じゃあ俺の0点も、もしかしてその中に?」
「ああ、そうだ」
あの日の答案用紙は、川から拾った奈美にそのまま押し付けた。「こんなのいらない」と彼女は言っていたけれど、まさか高校生までとっておいていたなんて。
「バケツもお前らか……」
「おう、懐かしいだろ?バケツで転んで犬に噛まれて。あれは悲惨だったよな。あの大型犬、昔いっつもあそこで寝てたやつの子供なんだよ。親と一緒で、あそこが定位置らしい」
「雨はどうやった」
「ドローンにシャワーヘッドつけて、ホースでシャーよ。今日は傘1本で済んでよかったな」
「まさかとは思うけど、ビデオ屋の店員も仕込み……?」
「ああ、あれは俺の叔父さんだ。友達にいたずら仕掛けるって言ったら、ノリノリで協力してくれて」
得意げな祐樹から次々と明かされる、今日の真実。ばからしくなって、笑う。
「ははっ。お前ら変わんねーのな。奈美が死んだっていうのにさ」
奈美の名前を出した途端、ふたりの目つきが少し変わった。彼らから1メートルほどの距離を空けて立ち止まった俺と、泰造の視線が絡む。
「今日洋太に用意した道は、俺らが知りうる限りのお前のドン底を再現した道だ」
「ドン底?」
「ビデオ屋での赤っ恥に0点テスト。突然買わされた傘に犬の強襲。当時の洋太はそのどれの時も、怒るかへこむかしていただろ?」
「ああ、まあ。うん……」
「でも、今日はどうだった」
「どうって?」
「振り返ってみたら、なんだか楽しくなかったか?」
そう問われ、少し考える。確かに昔をたくさん思い出した今日は、楽しかったのかもしれない。
人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ。
チャップリンの名言が頭を過ぎった。
仕事を辞め実家に引きこもった俺がどうしてこんな風になったのかを、幼馴染みのふたりには説明せずともバレていた。
「奈美は愛する園児たちを最期の最期まで庇ったんだ。それを誇ってやれよ」
はっと目の前の息を吸う。そんな俺に、泰造は続ける。
「洋太お前、チャップリンのこと好きだったよな。だったら笑えよ。人生で起こったムカつくことも悲しいことも、とことんムカついて悲しんだら笑っちまえよっ。じゃないとこれから先、もっと生きんの辛いだけじゃんか。人生の道なんて、死ぬまでいつまでも続くんだぞ。今日もしお前が楽しめたなら、お前の苦い過去は喜劇に変わったんだ」
懸命な訴えかけに、涙が出てしまいそうになる。祐樹とふたりで用意してくれた、俺専用のドン底道。確かに笑えた自分がいた。当時、その瞬間瞬間は、あんなに嫌だったことも。
何も答えずに鼻を啜っていると、俺に歩み寄った祐樹が箱から何かを取り出した。
「応援してんだってさ、奈美」
それは、淡い色した便箋。
「たとえ会えなくなっても、ずっとずっと俺らのこと応援させてくれって。だからいつまでも、全力で突っ走れってよ」
おもむろに受け取ったその手紙。それは思い通りにならぬ『人生』という名の道の上で、もう少し頑張ろうと思える内容だった。
祐樹、泰造、洋太へ
わたしは明日から東京へ行きます!だからこれからは、あまり会えなくなるね。でもわたしはわたしのいる場所がどこであろうと、遠くから祐樹と泰造と洋太の人生を応援するって決めているから。だからいつの日も、全力で突っ走るんだよ!
って、もしかして祐樹たちもそのうち東京に出てきて、4人で居酒屋で呑んでるかもね。それはそれで楽しそう!きっと仕事なんかの愚痴を言い合っているだろうけど、タイムカプセルを開ける頃にはそれもいい思い出かな?
みんなと過ごせた学生時代は宝物です。本当にありがとう。
追伸。
実は洋太のこと好きだった!でもうじうじする癖は嫌い!その癖直したらいつか告白してあげるから、さっさと直せー!