「いやァ、今日はお疲れ様。日当、色つけといたよ」
「きゃあマスター、有難うございます!」
結局、あの後帰ってしまった後輩の分まで働く羽目になった。フロアのあっちこっちに引きずり回されて、もうクタクタだ。
そんな私を見兼ねたマスターが気を利かせてくれたようだ。マスターの管理下にある給与システムの画面を見せて貰うと、私の名前の下に増額補正マークが表示されていた。
この時ばかりは仮面いらずの笑顔を作れるというものだ。とは言え、マスターに見せている表情は1ミリたりとも動いていないのだけれど。
バックヤードで帰り支度をしていると、ロッカーの中でチカチカ光るものがある。
咄嗟にカバンに手を突っ込んで通信機器の画面を開けば、青いシルエットのアイコンからの音声着信を告げていた。
それを確認した途端、ぶわ、と頬に血液が集中する。
熱くなった顔とは裏腹に、指先は冷えきって力が入らない。
深呼吸して心拍を落ち着かせたいけれど、そんな悠長なことをしている間に着信が切れてしまったら後悔してもしきれない。
は、は、と忙しない浅い呼吸を唇を噛み締めて飲み込む。機器を落とさないように爪の先が白くなるほど握りしめて、通話許可モードに切り替えた。
「も、もしもし」
「こんばんは。お仕事は終わりましたか?」
このひと言で今日一日のクタクタが一瞬で蒸発した。
とろけるような低くて甘いお声。
いったいどんなボイストレーニングを積んで、この喉を手に入れたのかしら。
いつまでも浸っていたいけれど、これは文書通信ではなく音声だ。不審がらせない程度に堪能してから返事をした。
「は、はいっ。ちょうど今終わったところでふ」
「はは、でふって」
「えっ、や、やだ、噛んじゃった……すみません、忘れてください」
「残念ですが承服しかねますね。いつもきちんとしている貴方の抜けたところ、忘れるなんてもったいない」
「もう……ずるいです」
舞い上がりながらも必死に他愛ないやりとりを重ねていく。カフェオレみたいな深くて甘い声に自分の名前を呼んで貰えて会話できるなんて今でも夢みたい。
彼とは遺伝子レベルでの好相性なパートナーを探すマッチングサービスで知り合った。
国家のデータベースに蓄積された膨大なデータから導き出される相性は、個人のインスピレーションや占いなんてものとは比べものにならない程正確だと評判だ。
やはり最新のゲノム研究は進歩しているもので、良相性と判定された相手だけあって通信機器を通しての声すら心地良く聞こえるし、話題に詰まることもない。
一時期は遺伝子に振り回されるなと宣う自称文明人達が、己の感性のみでパートナーを決める風潮を作り出していたこともあり、私も直感を信じて複数回チャレンジしてみたものの、全滅だった。
デート用仮面の笑顔が胡散臭く感じたり、パッと見で素敵と思ってもすぐに欠点が目についたり。
すぐにリアルで相対すると上手くいかないものだな、と痛感した。
この彼とは推奨されるセオリー通り、リアルではなく通信のおつき合いから始まった。
傷になるなら浅いうちに、と恥を忍んでリアルのお見合いで失敗したことを打ち明ければ、何のことは無い、彼も同じ経験があるようで似た者同士ですねと笑い話に落ち着いたのだ。
これも遺伝子レベルでの好相性がなせる技なのだろうか。
「──……さん?」
私の名前を呼ぶ声はとびきり甘くとろけるようで──これは惚れた欲目というものか──つい、ため息が漏れてしまう。リアルで耳にしたら腰が砕けるのかもしれない。
そんなはしたない妄想をなんとか押し込めて、接客業で培った清廉な声色を使ってはきはきと返事をする。
「あ、は、はいっ! なんでしょう?」
「その、僕達もこうして通信を重ねて……お互いのこと、わかってきたような気がするんです。自惚れ、でしょうか」
もしかして。これは。
「え、ええと……う、自惚れでは、ないかと……。通信だけで、他人を安易に理解した気持ちになってはいけないと習いました。でも、その文章や音声のやりとりで、私達、気が合いそうだなって予感はしているんです」
切り出した彼に続けてそう返せば、機器の向こうで彼がごくりと息を呑む気配がした。
「あ、貴方もそう思ってくれているなら嬉しいです。だから──その」
「はい」
言って! 口篭らないでそのまま続いて!
私と好相性なら私をガッカリさせないで!
「そ……そろそろ、直接会ってみるのはどうですか。実は、貴方の職場の近くに来てるんです。その辺りには美味しい飲食店が揃っていると聞いて、いくつかチェックしてあって」
き、きたぁぁぁ!
いつの時代だかのスラングが装飾文字付きで脳裏を音速で駆け抜けていく。
でも、ここですぐに応えてはだめ。「もったいぶって駆け引きを楽しむことも重要」ってマッチングサービスのコラムに書いてあったもの。
「そ、そうですね。美味しいお店はたくさんありますよ。私達みたいにアルコールが得意でない客でも、ちゃんと元を取れるようなメニューや演出に力を入れています。リアルで接客してくれるお店ってその辺りのサービスがしっかりしていますから──」
「そうですね。アルコールに惑わされずに食事を味わいたいし、貴方とのお喋りも楽しみたい。素面で貴方を──知りたいです」
うわ、わ。
自分で話題を吹っかけておいてなんだけど、結構な口説き文句を聞けた気がする。
ここらで応えるべきだろうか。
「は……はい。私も……貴方を、知りたいです」
音声通信モードなのでお互いの表情はわからない。
けれど「似た者同士」がマッチングしているなら、彼も私も、機器を持っていない手でガッツポーズを決めているのは確かだった。
「きゃあマスター、有難うございます!」
結局、あの後帰ってしまった後輩の分まで働く羽目になった。フロアのあっちこっちに引きずり回されて、もうクタクタだ。
そんな私を見兼ねたマスターが気を利かせてくれたようだ。マスターの管理下にある給与システムの画面を見せて貰うと、私の名前の下に増額補正マークが表示されていた。
この時ばかりは仮面いらずの笑顔を作れるというものだ。とは言え、マスターに見せている表情は1ミリたりとも動いていないのだけれど。
バックヤードで帰り支度をしていると、ロッカーの中でチカチカ光るものがある。
咄嗟にカバンに手を突っ込んで通信機器の画面を開けば、青いシルエットのアイコンからの音声着信を告げていた。
それを確認した途端、ぶわ、と頬に血液が集中する。
熱くなった顔とは裏腹に、指先は冷えきって力が入らない。
深呼吸して心拍を落ち着かせたいけれど、そんな悠長なことをしている間に着信が切れてしまったら後悔してもしきれない。
は、は、と忙しない浅い呼吸を唇を噛み締めて飲み込む。機器を落とさないように爪の先が白くなるほど握りしめて、通話許可モードに切り替えた。
「も、もしもし」
「こんばんは。お仕事は終わりましたか?」
このひと言で今日一日のクタクタが一瞬で蒸発した。
とろけるような低くて甘いお声。
いったいどんなボイストレーニングを積んで、この喉を手に入れたのかしら。
いつまでも浸っていたいけれど、これは文書通信ではなく音声だ。不審がらせない程度に堪能してから返事をした。
「は、はいっ。ちょうど今終わったところでふ」
「はは、でふって」
「えっ、や、やだ、噛んじゃった……すみません、忘れてください」
「残念ですが承服しかねますね。いつもきちんとしている貴方の抜けたところ、忘れるなんてもったいない」
「もう……ずるいです」
舞い上がりながらも必死に他愛ないやりとりを重ねていく。カフェオレみたいな深くて甘い声に自分の名前を呼んで貰えて会話できるなんて今でも夢みたい。
彼とは遺伝子レベルでの好相性なパートナーを探すマッチングサービスで知り合った。
国家のデータベースに蓄積された膨大なデータから導き出される相性は、個人のインスピレーションや占いなんてものとは比べものにならない程正確だと評判だ。
やはり最新のゲノム研究は進歩しているもので、良相性と判定された相手だけあって通信機器を通しての声すら心地良く聞こえるし、話題に詰まることもない。
一時期は遺伝子に振り回されるなと宣う自称文明人達が、己の感性のみでパートナーを決める風潮を作り出していたこともあり、私も直感を信じて複数回チャレンジしてみたものの、全滅だった。
デート用仮面の笑顔が胡散臭く感じたり、パッと見で素敵と思ってもすぐに欠点が目についたり。
すぐにリアルで相対すると上手くいかないものだな、と痛感した。
この彼とは推奨されるセオリー通り、リアルではなく通信のおつき合いから始まった。
傷になるなら浅いうちに、と恥を忍んでリアルのお見合いで失敗したことを打ち明ければ、何のことは無い、彼も同じ経験があるようで似た者同士ですねと笑い話に落ち着いたのだ。
これも遺伝子レベルでの好相性がなせる技なのだろうか。
「──……さん?」
私の名前を呼ぶ声はとびきり甘くとろけるようで──これは惚れた欲目というものか──つい、ため息が漏れてしまう。リアルで耳にしたら腰が砕けるのかもしれない。
そんなはしたない妄想をなんとか押し込めて、接客業で培った清廉な声色を使ってはきはきと返事をする。
「あ、は、はいっ! なんでしょう?」
「その、僕達もこうして通信を重ねて……お互いのこと、わかってきたような気がするんです。自惚れ、でしょうか」
もしかして。これは。
「え、ええと……う、自惚れでは、ないかと……。通信だけで、他人を安易に理解した気持ちになってはいけないと習いました。でも、その文章や音声のやりとりで、私達、気が合いそうだなって予感はしているんです」
切り出した彼に続けてそう返せば、機器の向こうで彼がごくりと息を呑む気配がした。
「あ、貴方もそう思ってくれているなら嬉しいです。だから──その」
「はい」
言って! 口篭らないでそのまま続いて!
私と好相性なら私をガッカリさせないで!
「そ……そろそろ、直接会ってみるのはどうですか。実は、貴方の職場の近くに来てるんです。その辺りには美味しい飲食店が揃っていると聞いて、いくつかチェックしてあって」
き、きたぁぁぁ!
いつの時代だかのスラングが装飾文字付きで脳裏を音速で駆け抜けていく。
でも、ここですぐに応えてはだめ。「もったいぶって駆け引きを楽しむことも重要」ってマッチングサービスのコラムに書いてあったもの。
「そ、そうですね。美味しいお店はたくさんありますよ。私達みたいにアルコールが得意でない客でも、ちゃんと元を取れるようなメニューや演出に力を入れています。リアルで接客してくれるお店ってその辺りのサービスがしっかりしていますから──」
「そうですね。アルコールに惑わされずに食事を味わいたいし、貴方とのお喋りも楽しみたい。素面で貴方を──知りたいです」
うわ、わ。
自分で話題を吹っかけておいてなんだけど、結構な口説き文句を聞けた気がする。
ここらで応えるべきだろうか。
「は……はい。私も……貴方を、知りたいです」
音声通信モードなのでお互いの表情はわからない。
けれど「似た者同士」がマッチングしているなら、彼も私も、機器を持っていない手でガッツポーズを決めているのは確かだった。