「いらっしゃいませ、本日もご利用ありがとうございます」
「どうも。お友達と待ち合わせなの。良い席空いてるかしら」
「かしこまりました。それでは景色の良い窓側のお席へどうぞ」

私は喫茶店で働いている。
席数もスタッフも少ないこじんまりとした店だけれど、そこそこ繁盛しているのだ。
どれほど文明が発達した世の中でも、直接の対話を好む人達がいる。
遠距離通信で済まさずに、わざわざ外出するお客様はコミュニケーションに飢えているらしく、こうした紋切り型の接客ひとつにもお金を落としてくれる、いわば上客だ。
貼り付けた接客用の笑顔で迎えたお客様は、これまた外出用の笑顔を貼り付けた仮面で頷いた。こうして笑顔同士でやりとりするのが一番楽だ。表情へのクレームをつけられることがなく、時間のロスも省ける。
笑顔の仮面は接客業の防護壁として、一番の売れ行きを誇るのだそうだ。

席へお通ししたお客様は、テーブルに設えてある期間限定スイーツのリーフレットを熱心に眺めている。

「ねえあなた、この日替わりプチケーキにつく飲み物ってコーヒーか紅茶でないとだめ?」
「基本的にはそちらのご用意になります」
「そう……」
「何か、ご都合がございますか」

笑顔のお客様は、その表情に似つかわしくない声音でメニューを眺めている。

「あたし、カフェイン摂りたくないのよ」
「当店ではノンカフェインのコーヒー、もしくは紅茶もお出しできます」
「あらそう? でもそういうのって味がイマイチよねえ」
「こだわりをお持ちなのですね」
「そうなの! あたしの旦那は大手貿易会社に勤めててそういうことに詳しいんだけどね、旦那が言うには──……」

しまった。
希望に寄り添いつつ適当なところでレールに落とし込む作戦だったのに、ノンストップ自分語り大演説暴走列車の発車ボタンを押してしまった。
視線だけをカウンターに向ければ、マスターがこれまた接客用の余裕に溢れた笑顔の仮面で鷹揚に頷く。まだ混雑する時間ではないから相手をしてやれというサインだ。
仮面をつけていると、こういう時にも役に立つ。

今時、リアルで接客できる店は少ない。
その稀少価値と充実したサービスを提供できる実績があるからこそ、対価はうんと高くなる。
ここに来店するからには金払いの良い客なのだから、そうそう無碍にもできない。
旦那の自慢と蘊蓄披露は立て板に水どころか、鉄板にゲリラ流星雨だ。しかしうんざりする様子などおくびにも出す訳がない。何せ私は完璧な「笑顔」で接客ができるのだから。
聞き流したところで気づく間もなく喋り続けるお客様に、適切なタイミングで相槌を打ちながらやり過ごすことにした。

カラン、とドアベルが鳴る。待ち人であってくれと念じたが赤の他人だった。
すかさずやって来た後輩が、同じく笑顔で接客している。
後輩はまだ新人研修中だ。粗相がなければいいけれど、とお客様に笑顔を向けつつ目だけは後輩を追い続ける。
ちょっと待って、そのトレイの持ち方はまだ早い。
たとえ不格好でも今は安定が一番で──

ガシャン。

ああ、もう遅い。

「も、申し訳ございません!」

案の定、後輩はグラスをひっくり返してしまった。すぐさましゃがんで床にぶちまけた破片を拾っている。

その拾い方じゃ怪我をしかねない。そしたらまた私の余計な仕事が増えるんだ。マスターったら手が空いているならヘルプに入って!っていうか私のお客様、この状況でまだ喋ってるの!? 空気読めないにも程があるでしょう。だからリアルの接客で相手して欲しいお金持ちの構ってちゃんなのか。そもそも待ち合わせ相手はまだ来ないの? これだけのお喋りなら愛想尽かされて振られたりしてね。
こっちはあなたの旦那が海外派遣されようが銀河系に出張しようがどうでもいいの、さっさとそのよく動く口を閉じなさい!

仮面の下の私は、焦りと苛立ちで見せられない表情になっている。しかし、逆に言えばどんな顔をしていようと、仮面さえ着けていれば一切の感情が表に出ることは無い。
接客の基本、姿勢さえ正しく保ち、一定の間隔で相槌を打っているように見せかければ、こうしたお客様とのトラブルは未然に防げるのだ。
それもこれも、仮面様々なのである。

「すみませーん、待ち合わせなんですけど」
「あら!」

正に天の助け。
ドアベルが祝福の鐘の如く鳴り響いて、入口に立っていたお客様はこちらを──正しくは私が接客中の、否、私の接客など不要な程に喋り続けているお客様を見て手を振った。

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」

ここでようやく御役御免だ。
お二方は会えなかった時間を取り戻さんばかりに、挨拶もそこそこに済ませると怒涛の近況報告を始めている。もう雑音にしか聞こえない声をシャットアウトして後輩の後始末へ向かった。

「片付けておくから、新しいものをお出しして。今度は落とさないでね」

しゃがみこんでそっと耳打ちすれば、後輩は笑顔で頷き、立ち上がってカウンターの奥へ消えた。
しばらくして出てきた後輩が無事に給仕している気配を感じながら片付けにとりかかる。

「キミさぁ、新人? とっろいよねぇ」
「は……い、申し訳ございません」
「お冷ひとつマトモに出せないで客ほっとくってどうなの、これ」
「す、すみません」

笑顔で嫌味、笑顔で謝罪。
たいていの場面は笑顔がクッションになってコミュニケーションが円滑に進むものだけど、こういう場面だけはどうにも違和感が拭えない。
笑顔の下を想像してしまうからだろうか。
この仮面社会において、素顔に言及するのはマナー違反なのだけれど。

文句も出尽くしたのか、ようやくお客様は後輩を解放した。深くお辞儀をした後輩が早足でこちらへやって来る。

「大丈夫?」
「……遅いんですよ。研修中なんだから、もっと早く助けてくれれば良かったのに!」

笑顔でそう吐き捨てた後輩はバックヤードに戻っていった。

え、仕事は?

のべつまくなしに喋り続けるふたり組、笑顔でテーブルをとんとん叩いて注文を取りに来るのを待つクレーマー、新たに来店した団体客、そんなフロアを笑顔で眺めているだけのマスター……
目の前の光景に仮面の下で頬が引き攣る。すうと深呼吸して一歩踏み出した。

「いらっしゃいませ!」

仮面から振りまく、ひとかけらも崩れぬ笑顔。
これが無ければやってられない。