その場で入部届を書いて、3日後、稽古が始まった。
早くも私は後悔をしていた。

台本はしっかり読んだ。お披露目の舞台なので台詞が多いものかと思っていたが、そんなことはない。
『舞台は現代。主人公はミュージカルスターを夢見る女の子。クラスメイトとの恋。主人公はチャンスを掴むため、長い間、遠い土地に行くことになる。最後に両想いのクラスメイトにまた会う約束をする。』
という物語だ。私の役は主人公の親友。一緒にミュージカルスターを夢見ていて、チャンスを掴みに遠くに行くことを迷う主人公を後押しする明るい役だ。

問題はダンスと歌だ。私は中学も高校も美術部で、ダンスも歌も苦手だ。踊れば周りの足を引っ張り、歌えば緊張で声が掠れる。勢いで入部を決めた3日前の自分を殴って止めたい…。今は5月。あと4ヶ月、大丈夫だろうか…。私が9月の舞台の稽古をしている横で、先輩たちは7月の舞台と9月の舞台の2公演分の稽古を並行してやっている。

「休憩!アンズさん、水分補給して、もう一回ね!」
ダンスの練習後の教授の爽やかな汗が眩しい。
「アンズじゃないです…。」
床に突っ伏す私。このまま溶けそうだ。教授、厳しい…。そして元気だ…。私は体が動かない。枷でもつけられたようだ。仰向けで目を瞑っていたら、誰かに覗き込まれている気配を感じた。
「鈴鹿さん、大丈夫?起き上がって、水、どうぞ。」
盲目の男を演じていた姫路 幸助先輩だ。片目を開けると笑顔で水を差し出してくる。姫路先輩の笑顔は体育館のライトより眩しい。
「そもそもダンスが覚えられないです…。」
「うーん…稽古の後、残れる?僕、踊るから動画に撮ってみたらどうかな?反転して見たら覚えやすいし。」
「いいんですか?姫路先輩、稽古の後、用事とか…」
「大丈夫。今日はもう課題も終わらせてるし。」
優しい。約束通り、稽古の後に姫路先輩は私が分からないパートを踊ってみせてくれた。
「これが最初のダンス。他にも何個かあるけど、ちょっとずつ覚えていこう。」
「え、そんな何回も練習に付き合ってもらうの悪いです。」
「いいよ、僕も練習したいし。」
そう言って、姫路先輩は私の稽古に付き合ってくれた。

1ヶ月半が経った。私のダンスは少しずつ成長していた。
「アンズさん!脚はもっと真っ直ぐに前に出すの!」
「はい…!」
もう教授のアンズ呼びも気にならなくなっていた。姫路先輩は今日も私の稽古に付き合ってくれた。
「ここまで。これで4分の1かな。」
「やっと4分の1…。」
「大丈夫、ここまでで基礎ができてたらそこからはペースアップ出来ると思う。」
姫路先輩に励まされながら、自分も少し練習して、一緒に体育館をでる。今日はいつもより帰る時間が遅い。
「遅いから送るよ。」
姫路先輩が言う。少し悩んだけど、送ってもらうことにした。話しながら帰る。教授はダンスの天才だが、人を覚えることが苦手なので、印象づけるために出逢った時に思いついた花の名前をつけるらしい。教授のこと以外にも、地元のこととかを話した。私と姫路先輩は地元が近いらしい。
「あんまり地元が近い人いないから嬉しいな。」
ニコニコ笑いながら先輩は歩幅を合わせて歩いてくれた。
「あの、私、まだ歌も全然なのにダンスも覚えきれてなくて…」
姫路先輩が稽古の話をしないことが逆に不安になって、私から話題にしてしまった。姫路先輩は私を覗き込む。そんなつもりなかったのにプワリと私の目に涙が浮かぶ。立ち止まってしまった私の前にまわって、姫路先輩は私の両手を握りしめた。
「大丈夫だよ。頑張ろう、一緒に。」
元気が出るように何度も手を握り直して、真っ直ぐ見つめてくる。眩しすぎる。この人はなんでこんなに眩しいんだ…。
「っ、ありがとうございます…!」
今度は自分の体温が急上昇して、別の理由で目が潤んできたきたのを感じて手をそっと離す。姫路先輩は私の隣に戻ってもう一度、顔を覗き込み、言った。
「ね、なんか目標達成のご褒美、考えようよ。」
「え…?」
「鈴鹿さんがダンスを最後まで覚えたらご褒美、僕があげる。高いものは無理だよ?」
少し困り顔で笑う。
「名前で呼んでほしい…です。」
「え?」
私は絞り出すような声で繰り返す。
「あの、姫路先輩に名前で呼んでもらう…とかでもいいですか?」
「そんなことでいいの?普通に言えばいいのに。ご褒美に?」
姫路先輩が笑いながら聞いてきた。
「思い付かなくて…!」
私は誤魔化す。顔が暑い。さっきと同じくらい体温が上がる。思い付かなかったわけじゃない。大真面目だ。なんなら告白に近いとさえ思って言ったのに。
「いいよ!決まり!」
姫路先輩の笑顔は相変わらず柔らかくて眩しかった。

そこから2ヶ月が経った。歌の稽古は一通り終わり、自主練がメインになった。教授はダンスがメインらしく、歌は教授の知人の先生が教えてくれた。私は肺活量があるらしい。「他のみんながフォローもするし、自信を持って歌えれば問題ないわ。」と先生は言ってくれた。

今日も姫路先輩とダンスの稽古をした。通しを全部踊って確認する。終わって一息つく前に
「覚えられてるよ!」
と姫路先輩が言う。確かにまだ教授に指先や脚の角度は注意されそうだけど、なんとか通した。少し前髪を整える。先輩の方を向き爪先を揃える。呼吸はまだ整わない。
「あの、姫路先輩…」
「紫苑ちゃん」
私が言う前に姫路先輩が言った。
「紫苑ちゃん。僕だけ変えるの恥ずかしいし、僕も苗字じゃなくていいから。」
少し照れた顔。これまでの柔らかな笑顔とは少し違って胸がギューッとなった。
「幸助先輩、ありがとうございます!」
入部して3ヶ月半、私と幸助先輩の関係が『新人と面倒見のいい先輩』から少し変わった気がした。

9月まで残り半月、私は人生で1番頑張った。歌もダンスも出来る限り早くから稽古を始めた。物覚えに自信がないなら時間をかけるしかない。周りの部員たちも自主練に付き合ってくれた。先輩ばかりだから私の性格では普段なら絶対にされない末っ子扱い。可愛がってくれてるのは分かるけど照れくさかった。ダンスを一通り踊れるようになったあの日以降も幸助先輩は放課後の稽古に付き合ってくれた。稽古をするたびに『つまらない地味な女な私』が、じわじわと解されて変わっている気がした。

本番前日、今日はリハーサルをするらしい。当日に来ることが出来ない部員の家族を招いて披露するので実質本番のようなものだと他の部員に聞いた。
リハーサルの前に軽く確認の通しをする。もう何人か観客は来ていて通しを見ていた。主人公が夢を語るシーンが終わり、次は主人公が親友と稽古前のストレッチをするシーンだ。私は駆け寄って主人公に話しかけようとした。
「………っ?!」
これまで間違えたことも忘れたこともない主人公の名前が出てこない。思わず口を抑えて固まる。頭が真っ白だ。観客がこちらを見ているのを感じて、金縛りにかかったように体が硬直する。するとパンッ!と手を叩く音がした。
「直前でも、こういうこともあるんです〜!ほら、集中!」
私の動揺する様子を見て、少しざわめく観客に教授はおどけたように言った。助けてくれたみたいだ。仕切り直してくれたおかげで私の金縛りも解けた。無事にリハーサル、カーテンコールまで終えた。

片付けを終え、部員が帰り始めた体育館。今日はリハーサルだけで稽古はなしと聞いていたが、私は教授に頼み込んで一通りの流れを見てもらっていた。
「ん、オッケーよ」
「っ、ありがとうございます…。」
一応できたが、今日のことを考えると不安で仕方ない。明日は通しもなく本番だ。でも、教授にこれ以上残ってもらうのも気が引けた。
「私はできてると思ってアンズさんにオッケーと言ったわ。励ましてもらいたいならボーイフレンド にでも頼んだらいかが?」
教授がピッと指差した先の扉を見ると幸助先輩が顔を覗かせた。気まずそうにでてくる。
「教授…」
「ほら!一緒に帰りなさい!明日は本番よ!」
押し出されるようになりながら、扉をでると教授がまっすぐ私を見た。
「あなたは出来てるわ。稽古前に練習を何時間もしてた日もあったじゃない。大丈夫よ。」
そう言った教授は励ましとかではなく本気で言っている目だった。
明日はついに本番だ。