その女王はある小国を支配していた。湿った土の臭いのする暗い城から、彼女は一生出られない運命だった。

「女王、新しい服をお持ちしました」
「女王、マッサージをしましょうか?」
「女王、お体を綺麗にして差し上げます」
「女王、そのお綺麗な髪に似合う髪飾りがありますよ」

 毎日沢山の貴族の男性が、女王に媚びを売りにやって来る。彼らは女王と結婚することが最大の名誉だと思っている。
 この小国では生まれながらにして人の地位が決まっており、一生扱き使われる下級の者、女王と結婚する為日々自分磨きをして生きていく中級の者、そして最上級の女王がいる。女王は年頃になると複数の男と結婚する。女王は中級の者としか結婚してはならない決まりとなっているため、歴代の女王は例に従って皆中級の男たちと結婚し、例に従って複数の子を産んだ。現女王も、そう遠くないうちに結婚することになっている。
 けれど、彼女がこの国で本当に好きなのはたった一人――無条件で貢ぎ物を運んでくる、この国では下級とされる立場の、アントという男だけだった。

「失礼します」

 女王の大好きな声と共に、今日も部屋の扉が開く。寛いでいた女王はその居心地の良いふかふかのソファから立ち上がり、周りの貴族達の制止も無視して入り口の方へと駆けていった。

「女王様、いけません! そんな卑しい男と話すなど……。貢ぎ物ならわたくし共が受け取っておきますから、」
「口うるさい男は嫌い。どこかへ行って」

 上質な服を着て、肌も綺麗で、顔の整っている男達より――仕事で汚れた服を着ている長太郎の方が、ずっと素敵だと女王は思っていた。
 下級の男と親しくする女王は他の国を見ても滅多にいないため、「はしたない」と白眼視されることもある。女王は、好きな異性に近寄っただけでそんな目で見られるこの社会を、身分制度を嫌っていた。

「何を持ってきてくれたの?」

 貴族達の目を一切気にせず微笑みかけてくる女王を見て薄く微笑み返したアントは、甘い菓子の入った箱を女王に手渡した。彼なりに頑張ったらしく、美しく包装されている。

「ありがとう、嬉しい」

 女王にとってアントから貰う小さなプレゼントは、貴族達から貰う高値のプレゼントよりも、ずっと価値ある貢ぎ物だった。

「今日もすぐ行っちゃう?」
「いいえ、まだ少し居ますよ」

 アントの言葉を聞いた女王は、後ろで待機している貴族達を振り返って「出て行って」と強めに指示する。女王の言うことを聞かないわけにはいかない貴族達は、不満げに部屋から出て行った。



 外へ出られない女王に、アントはよく外の世界のことを話した。女王はいつもアントとソファに並んで座り、アントの持ってきてくれたおやつを食べながら、興味深そうに話を聞く。

「先輩がまた怠けて仕事を休んでいましたよ」
「アント達でもサボることってあるんだね」
「一部の人は怠けるんですよ。人手が足りなくなると働くんですけど」
「アントはずっと働いてるの?」
「ずっと、というわけにもいきません。休憩は入れます」
「ふうん。私も外の世界が見てみたいな」
「馬鹿を言わないでください。女王様をあんな危険な場所へ連れていくことなどできません」
「私が大事?」
「……当たり前でしょう。この国の宝ですよ、貴女は」

 女王は甘いお菓子をテーブルに置いて、アントに擦り寄った。

「それだけ?」

 甘えた声で聞き、アントの指に自身の指を絡める。ぴくりと彼の手が反応したのが分かった。女王がアントの膝の上に乗り、その顔を覗き込むと、アントは困ったような動揺しているような、けれど情欲を秘めた目をした。

「……女王様、退いてください」
「どうして? これからキスするのに」
「駄目ですよ。俺をお戯れの相手にしたら」
「だめ? どうして?」
「俺は貴女と結ばれてはいけないんです」
「そうやって言い聞かせて、自分の感情を抑えるの?」
「……そんなこと、」
「そんなに頑なに拒むなら、アントのこと忘れてあげてもいいんだよ? 私を欲しがる男なんて他にいくらでもいるから」

 女王が挑発した途端、アントは女王の腰を掴み、少し乱暴にソファに押し倒した。

「本当に、俺をいじめるのが好きですね。可愛らしく笑って、憎たらしい。……笑えなくしてやりましょうか?」

 この、反撃をしてくる時のアントの目付きが、女王は大好きだった。傷付ければ傷付ける程、彼が自分好みの目付きをするようになることを、彼女はよく分かっていた。

「いいよ、して?」

 女王がアントの背に手を回せば、アントは荒々しく女王にキスをした――しかしその時、勢い良く扉が開き、貴族の男の一人が入ってきた。

「――女王! そんな者の運んだおやつより、こちらの方が甘くて美味しいですよ。別の者が今日仕入れてきた物です。私も味見をしたのですが、これはたまりませんなぁ」

 男が持っている透明のゼリー状の菓子からは、女王がそれまで嗅いだことのない類の甘い匂いがした。女王はその甘い匂いにくらりとし、手を伸ばして受け取ろうとした。――しかし、アントが女王の腕を掴んで引き戻した。彼が自分から女王に触れることは滅多に無い。それも、これほど強い力で。

「――それをどこで?」

 非難するようにも聞こえる低い声音でアントが貴族に問うた。貴族は下級の男に話し掛けられたことが不快であるのか、砂を噛み潰したような表情で答える。

「さぁ、新人が持ってきたものだからな。お前と同じ下等な男だ」

 アントは難しい顔をして、暫く考え込むように押し黙っていた。アントのこのような表情を見たことがなく戸惑う女王に、長太郎が言った。

「女王様、あれを食べてはいけません」
「……何故?」

 彼はちらりと貴族の男の方を見た後で再び女王に視線を戻し、少し困ったように眉をへの字にする。

「他の男から貰った物など、食べてほしくないのです」
「き、貴様……! 何様のつもりだ!」

 プライドの高い貴族が憤慨して顔を赤くし、アントに殴りかかろうとしたので、女王は思わずアントを庇うようにして立ちはだかる。貴族は拳を振るわせながらも、当然一国の女王を殴るようなことはしなかった。代わりに、

「ふん、噂通りの品のない女王だな。下級の男を庇うとは……こんな娘がこの国の力になれるとは思えない」

 女王への嫌味だけを言う。

 陰でよく言われていることだと女王は知っていた。だから彼女自身は何とも思わなかったのだが――次の瞬間どしゃりと貴族が床に崩れ落ちた。噎せ返るような血の匂いに思わず口を押さえた女王の目を、アントの冷えた手が覆う。

「申し訳ありません。汚い物をお見せして」

 何が起こったのか、どこに武器を持っていたのか、本当にアントがやったのか――それはあまりに一瞬の出来事で、女王には何もかも分からなかった。

「……今のは何……?」
「忘れてください」

 アントは綺麗に笑っている。

「あの男が悪いんです。貴女を侮辱したから」

 綺麗に、綺麗に、笑っている。見えなくても、女王にはそれが分かった。

「……アントは、誰でも簡単に殺せるのね」
「この国の男は全員そうですよ。貴方の為なら何だってする」
「違うよ。身分の差を無視してまでこんなことをするのはアントだけ」
「……そうかもしれませんね。変わり者だとよく言われます」

 女王は微笑んだ。彼を変わり者だと言うのなら、そんな彼を好む自分も変わり者であろうと。

「後で掃除しておきます。部屋を変えましょう」

 アントの手に導かれ、女王は部屋を後にした。

 後日訪れると、死骸は綺麗になくなっていた。




 闇の濃いある日の晩、女王はアントを呼び出した。

「どうして俺を呼んだんですか」

 女王がこんな時間帯に彼を呼び出すのは珍しいことだった。女王は薄暗い部屋でアントに寄りかかり、ふと、彼が濡れていることに気付く。遅れて、その独特の匂いを嗅いだことがあることに気が付いた。

「……血がついてる。怪我をしたの?」
「いいえ? 仕事仲間を殺したんです。いつまで経っても動かないうえに、貴女のことを侮辱したので」

 まただ。アントは綺麗に笑った。

「そんなもの放っておいていいよ。いちいち相手してたらキリがない」

 この国の連中の一番の関心事は女王だ。この国は女王を中心に回っているのだから仕方がない。そして、国民が現女王を歴代の女王や他の国の女王と比べるというのもよくあること。女王を絶対的存在としながら、きっちり批判はするのだ。

「……俺は少しおかしいのかもしれないですね。他の奴らとは少し違うように感じます。他の奴らがまるで機械のように思えるんです。機械が、この国で唯一生きている貴女を侮辱するなんて、俺には耐えられない」

 アントがぽつりと放った言葉が、女王の胸にじんと染み渡った。――この国で意思を持って生きているのは、自分とアントだけなのだと思った。

「明日、私、結婚するの」

 言った後で、女王は内心自嘲した。何を期待しているのだろうと。自分の結婚式のことなど、わざわざ言わなくともこの国の誰もが知っている話だ。それを改めてアントに伝えたところで、何も変わりはしないのに。

「式の最中、複数の男に抱かれるんだよ。……ねぇ、嫌じゃないの?」
「いいえ」
「いいの? 私が他の男の物になっても」
「嫌だと、言える立場ではありません」

 その瞬間、込み上げてくる感情を抑えきれず、女王はアントを思いきり殴った。アントは何も言わなかった。抵抗一つしなかった。何度殴られても、彼は女王の望む言葉を与えることができなかった。
 彼もまた、この国の仕組みに、誰が決めたのかも分からない習慣に、身分制度に捕らわれている者の一人だった。

「貴方だって機械なんじゃない!」

 女王が疲れ果てるまで、アントは何も言わず、ただヒステリックに叫ぶ女王を、無表情で見つめていた。





 女王の結婚式を境に、国民が次々と原因不明の死を遂げた。
 それが式の日にある下級国民の出した料理であることなど誰も知り得なかった。





「どうなさいましたか」

結婚式から数日が経っても、女王の身体の震えは収まらなかった。

「遅くに呼び出してごめんなさい……」
「いいえ。貴女の為なら何時だって来ますよ」

 あの夜のようにアントを呼び出した女王は、あの夜よりもやつれた顔で彼を見上げる。

「ショックが大きくて……」
「……そうでしょうね」
「怖い夢を見た気分なの」

 アントは何も纏わない無防備な女王を、包み込むように抱き締めた。

「私……いいえ、私達……何の為に生まれてきたの? これが運命? 逃れられないの?」
「……」
「あの貴族たちは、私を抱いて死んでいく。その運命を当たり前のように受け入れて、それが名誉なことだと思ってる。私はそれを止めることもできない。受け入れるしかない。だって決まったことだから。――ねえ。連れ出してよ、ここから。この城から……」

 この国には本当の意味での支配者などいない。身分制度など存在しない。それなのに――何故自分たちは、ルールに従って毎日を生きているのだろうか。何が自分たちを支配しているのか分からない。そのことに女王は、漠然とした恐怖を感じていた。

「……連れ出しますよ。貴女が言うのなら」

 アントの手にあったのは、見慣れない食べ物だった。……いや、二度見たことがある。一度目はあの日、二度目は式の日。白いゼリー状のそれからは、変わらず甘い匂いがした。それを女王に差し出した彼は――また綺麗に微笑むのだ。

「結婚式の日、貴女は出された食事を口にしなかったでしょう」
「……何かを食べる気分じゃなかったの」

 結婚式の日だけでなく、結婚式の日から今日に至るまでずっと、女王は殆ど何も食べていない。数々の男が自分と体を重ね、同時に死んでいった。そんな光景を見て元気でいられる程、彼女は無感情ではなかったのだ。アントは女王の華奢な身体を掻き抱き、泣きそうな顔をして言った。

「俺の……っ、俺のだ、貴女は俺の物だ……一生俺の物だ! 誰にもあげない! 俺だって、貴女と結ばれない運命を、こんな世界を、受け入れたくはないんです。何故俺たちが生まれながらに下級として扱われ、無条件で働かされるか分かりますか? 俺たちには生殖機能がないんです。働くしか能がない。生まれながらにして全て決まっているんです。貴女の立場も、俺の立場も。運命ですよ。俺たちの、この国全体の生き方は、生まれたその瞬間から決まっているんです。……逃れる方法は一つしかない」

 これから何が分かるのか、女王には不思議と分かってた。けれど怖いとは思わなかった。
 女王にとっては彼の手によってこれから起こる出来事よりも、得体の知れない自分たちの社会性の方が怖かったからだ。

「俺が最期に、唯一この国のルールを守るとしたら――……俺は永遠に、貴女の僕で有り続けます」

 アントはそう言って、女王に小さなキスを一度落とした。