思い出せない
なぜ、自分がそこに居るのか
冷たい風が屋上の出入り口を繋ぐ扉を抜ける
そんな冷たい風を浴びながら僕は正面に向き直す
屋上の端、転落防止に張られる緑色の金網に
右手の指を絡め、外を眺める少女
高校生だろうか
後姿なのに…何故かその表情は鮮明に読み取れて…
その屋上の景色の先にある遠い町並みを眺め
そこに居る誰かに話しかけるように…
「貴方は…今もそこに居ますか?」
誰に対してどういう意味の質問なのか…
もちろん僕にはわからなくて
夕日に照らされる彼女の姿は儚げで
「あの街も…私の時間も…あの日からずっと止まったまま…」
そう誰かに小さな声で語りかける。
「動くことをやめてしまった…そんな時計に価値はあるのでしょうか?」
風はゆっくりと彼女の長い黒い髪を揺らして
「完結させないとならない…終わらせないとならない…」
その言葉の意味などさっぱり理解できないはずなのに…
僕は…
「終わらせろよ…」
そう…彼女に告げる。
驚いた表情で振り返った彼女がいつの間にか僕を見ている。
そんな表情をすぐに崩し元の儚げな表情に戻し…
「時間が進まなくなった世界で…それを終えてしまったら…わたしは…」
そう儚げに微笑む彼女に…
「新しく何かを始めろ…なんだっていい…そうすれば再び時間は動き出す」
そんな僕の顔を眺めながら…
「私は一人じゃ何もできないの…彼の右手だけが…私《じかん》を動かしてくれた…だから…」
彼女は再び後ろ…遠くの町並みを眺めながら
「あそこに置いてきてしまったから…」
そう…悲しそうに話した。
「そんなものっ」
僕はそう言って右手を伸ばそうとした
そうして、ようやく気がついた
僕に彼女を導いてあげられる右手が無かったこと
麻痺したように全く動かない右腕
僕はそれを何処に置いてきたのだろうか
・
《少年の記憶》
少年の父親は風邪を拗らせ入院していた
少年は母親に頼まれて週に何度かそんな父親の病院に会社の書類やら何やらを届けに来ていた
そんな仕事を数秒でやっつけると、少年は決まって病院の出口とは逆の階段の最上階屋上を目指した
スケッチブックを広げると、その屋上から見える景色を両手の親指と人差し指え長方形を作り、辺りを見渡す
麦藁帽子をかぶり、白いワンピースを着た自分と同じくらいの年…5、6歳の少女が屋上のフェンス越しに立っていた
短い黒髪を風になびかせ
少年はその場に座り込むと…そんな彼女の後姿を眺めながらペンを走らせた
少しだけ時間が立って…彼女は動き出すと、ようやく少年の存在に気がつく
不思議に思い、少年の方に歩き出そうとするが
「駄目、動かないでっ」
少年はそう告げるが…少女はお構いなしに少年に近づく
「何してるの?」
そう率直に尋ねながら、少年のスケッチブックを覗き込む
「うわっ…上手」
素直にそう感想を述べる
10年に一人…なんて煽てられていた
神の右手なんて言われたこともある
もちろん自覚などしていなかったけど…
「つばさ…?」
僕が描いた少女の背中には翼が生えている
もちろん、彼女に翼は無い。
僕はそばで羽を休めていた鳥を見ながら…
「自由に飛べる翼があったらって思ったことない?」
そう彼女に告げる。
「私を天使が迎えにくることがあっても私が天使になることはないよ」
そう彼女は苦笑した。
少年は知らない。
いつから、なぜ、彼女は病院に居るのか…
少年の年齢を知るのはもう少し先の話だけど
たまたま偶然、この場に居合わせた同い年の少年
将来の色んな期待を背負った少年。
そして、難しい病名など覚えていない…
そんな明日死んでも別におかしな話じゃない彼女と…
「ねぇ…どこか遠くに行こうよ、ふたりで」
そう唐突に少年は悪戯に微笑む
「…馬鹿なの」
少し怒ったように、彼女は少年に返す
「私が何で此処に居るか、病院に閉じ込められているのか…」
考えればわかることだとそう告げる
「僕も、君も翼は無いけどさ…そんな人生に抗いたいじゃん」
「自由に飛び回る鳥と一生困らない餌を与え続けながら鳥篭にずっと閉じ込められた鳥と、ねぇ…どっちが幸せかな?」
そんな少年の疑問に
「馬鹿なの…君はそれで私が明日死んでしまったら、そんなつまらない私《いのち》の責任を取れるの?」
そう少女が返す
「取れないよ…」
あっさりと返事を返す。
「でもさ…そんな一瞬の想い出を望んでくれて、共有できるなら、僕はその責任と一緒にそれを背負っていける」
少年はそう少し寂しそうに笑った
少年は黙ってスケッチブックやペンを片付け、左脇と左手にそれらを納め
あまった右手で
「行こう?」
彼女に差し向けた
同時に吹き抜けた風が少女の中の何かを全て吹き飛ばしてしまったように…
そんな彼の右手に気がつけば手を伸ばした後で
ずっと止まっていた私の人生が再び動き出した
そんなの、拒否することなんてできなかった
・
ゆっくりと目を開く…
そこは、先ほどの学校の屋上
僕は誰の記憶を見ていたのだろう
もちろん同じ屋上でも先ほどの病院の屋上とは違う
目の前の少女は寂しそうに微笑んで
彼女が僕にそれを見せたのだろうか
いったい…何が起きているのか
僕が今、彼女の前に立っている意味に
それに意味などあるのだろうか?
あの少年が誰なのかさえわからないのに
僕に何をしろというのだろう
彼女が再び遠くの街を眺める
「貴方はまだそこにいますか?」
記憶の少年に話しかけているのだろうか?
思わず彼女の見つめる場所を目で追う
再び、ぐるりと視界が暗転するように…
何かの記憶が流れてくる
・
「ねぇ、そんなに時間はないよ?」
少しだけ不安そうに少女が言う
面会、彼女が病室を出て病院内を歩き回れる時間…
「じゃぁ、今日はその辺まで」
彼はそう言って、彼女の左手を引っ張る
そこには確かに彼女を動かす右手があって…
繋がれる手と手…近場とはいえ、初めて無断で抜け出した病院と…
その胸のドキドキはなんのせいなのか…今は整理ができなくて…
つい先ほど、その手を取る恐怖を覚えたはずが
すでにその手を振りほどかれる恐怖が勝っている
それは、もちろん…こんな場所で手を離されてはこんな近場でさえ
彼女に病院に引き返すことが難しい
それくらい鳥篭の外は彼女には未知の場所だ
「ねぇ…どうして?」
彼女のそんな疑問
主語なんてものが何にも無くて…
「子供の僕が言う話じゃないんだけどさ、本当の恋って子供にしかできないんじゃないかなって思うんだ」
そう少年が言う
「大人になれば、恋をするにもその後の人生が絡んできて…」
「余計な考え抜きで…ただ、今の気持ちに正直になれるのってさ…年を重ねると難しいんじゃないかなって」
そう少年は言う
「でも…そういう人生もあっての恋なんじゃないの?」
そんな少女の返しに
「そうかも」
そうあっさりと返す
その少年の言葉になんの意味があったのだろう…
あったばかりの少女に
まさかの一目ぼれなどありえない
そう、自分でもわかりきっている
目の前の少年は10年の逸材
釣り合いさえ取れていない
手を繋いでいる間の実感はほとんどなかったのに…
別れ際に手を離したときの寂しさは妙に現実的に実感できて…
「またね…」
その少年の言葉だけが今の彼女を生かす糧だった
・
再び…学校の屋上の景色が広がる
そのしがらみが…彼の言葉が…
彼女を此処に縛り付けているのだろうか…
時計の針が動くことをやめてしまったのだろうか……
僕は右手を動かすことを諦めて、左手で彼女の手を掴もうとした
…その結果に彼女は寂しそうに笑って
「あぁ…そういうことか」
彼女をすり抜けた左手を眺めて僕は呟いた
・
残された時間…そんなものがあるのなら
そんな間だけでも何とか繋ぎ止めたい…そう思った
親に我侭を言った事は無かった
何かを望んで、生に期待を持つようなことはしたくなかった
「ひなた~、その雑誌何度も見て楽しい?」
見舞いの椅子に座る少年を無視する少女の名前を呼ぶ
女性誌、ファッションや今の流行…
異性とどんな服を着てどこに遊びに行くのか
こんなのを見て…何を期待しているのか
「ばぁ!?」
余計なことをごちゃごちゃ考え、結果的に少年を無視していた少女に
少年は雑誌と彼女の顔の間に割り込むように顔を覗かせる
少し気障なロマンチストな言葉を吐くくせに以外とおちゃめな一面がある事にここ最近気づかされた
少し不機嫌そうにその顔を雑誌を丸めてバシンと叩く
なぜ、不機嫌なふりをしているのか自分でも謎だ
あの日、以来少年はこうして彼女の元を訪れるようになった
またね…その約束を破ることはなく…
だから、私の残りの命を彼の右手が動かしてくれる
そう…信じていた
いつの間にか、イスで回るのをやめた少年はじっと時計を眺めて…
「…行こう?」
病院の監視が手薄になる時間…
少年は右手を彼女に差し出した
・
再び景色は学校の屋上に戻り
あの少女が大きくなったら…たぶん…
「…ひなた?」
僕はその名前を呼ぶと
彼女は寂しそうに微笑んで
なぜ…僕は忘れていたのだろう…
それを…なぜ今思い出すのだろう…
そして…なぜ彼女は僕の前に…
「約束…覚えてる?」
彼女のその言葉に…ぼくはその責任から逃げる事は許されない
・
いつものように抜け出した病院
少年と少女が向かう先はそのほとんどが少年が決めていた
少女はその少年の手が導く場所だけが彼女の場所だった
もうすぐで彼女の誕生日だった
そして、彼女も少年に媚びるすべを少しずつ身に着けていた
とある雑貨屋
ずらりと並んだ縫いぐるみ
無理に背伸びをして女性雑誌を眺めてその何かを欲するよりもずっと可愛らしかった
店に入った瞬間、自分の身長と差ほど変わらない大きさの熊の縫いぐるみ
思わず二人してそれを眺める
そして、何かを察するように少年は目線を下げ、値札を確認する
「おっ…これなんか可愛いんじゃないか?」
そう彼女に告げ、サングラスをしたウサギの縫いぐるみを手に取る
「てやんでぃ」
ある箇所を押すとしゃべる仕組みになっているようだ
「うぉっすげぇ」
ちょっとだけ本気で関心しているようだった
だが…
彼女はぎゅっと大きな熊の縫いぐるみに抱きつく
「な、ひなちゃん、こっちにしよーな?」
「てやんでぃ」
そう少年の言葉にウサギが返事をする。
「これ…欲しい」
単刀直入だった…
「ひなちゃ…これ?」
自分の手にしているウサギを少し上にもちあげる
「いらない…こっち」
大きい縫いぐるみをぎゅっとする
「少年は大きい熊の縫いぐるみを買った…しかしお金が足りなかった」
そう…言いながら
「この甲斐性なしっ!」
そう自分を罵倒しながら、近くの縫いぐるみを叩いた
八つ当たりだった
「ごめんなさーい」
叩いた縫いぐるみが喋る
土下座をしたウサギの縫いぐるみ
てやんでぃウサギと別のシリーズだろうか?
「その心意気、気に入った…今日はこれで手をうとう」
強引に少年はその土下座ウサギを買うと、少女にプレゼントした
「その熊はまた今度な」
そう約束して、少年はその縫いぐるみを手渡す
「売れてなくなっちゃうかも」
少女のそんな不安に
「そんなでけぇ熊欲しがるのお前くらいな?」
そう少年が返す。
「じゃぁ…約束」
少年が少女にそれをプレゼントする…そう約束を…
「ねぇ、お父さん…あたし、あのでかい熊が欲しい~」
「よ~し、パパが何でも買ってあげちゃうぞ~」
その矢先…後ろでそんな会話が聞こえてきた
「ごめんなさーい」
少年は自分の後頭部を叩くとそう声真似した
雑貨屋の近くのパン屋でひとつずつパンを買って
近くの公園で二人でそれを食べていた
「ごめんなさーい」
少女は時たま、少年のプレゼントされたそれの頭を叩いている
近くでは少年と少女とは別に同じ年代の男の子が多人数でボール遊びをしている
「どうして…?」
相変わらずな主語のない台詞
まぁ…どうしてあのボール遊びをするグループに混じらず、自分と要るのか…みたいな話であろう事は推測できるようになった
「別に…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
不規則に少女が手を動かし、土下座ウサギの頭をどつく
「別に…同じじゃないかな…ひなたと」
その少年の言葉に…
「どういう意味?」
自分にも同じ質問をしてみるが…その答えが見つけられない
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
その答えを聞くのが少し怖いのか、手を忙しそうに動かしている
そのたび、どつかれている土下座ウサギに…
こんな場面なのに噴出しそうになってしまう
「別に…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
「僕は…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
「ひなた…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
「おまっ…それ、ちょっと煩いからなっ」
言葉を遮られ思わずそう突っ込む
「ごめん…」
無意識だったのだろう、彼女がそう誤る
「頭、もげちゃうからな」
…そう心配を付け足しておく
「ごめんなさーい」
彼女の素かボケか…その台詞に
「ぶふっ」
少年は噴出し笑い出す
少女もそれにつられて笑い出す
「多分、こうゆうことっ」
そう、笑い涙をぬぐいながら少年が言う
「楽しいじゃん、それで十分じゃない?」
それは答えになっているのか…
正直わからなかったけど…
「うん」
少女は頷き
「行こう」
少年の右手を少女は左手で掴む
彼女に地図など必要なかった
そこには、確かに彼女を導く右手があったから
・
少年の記憶は再びいったんそこで途切れる…
楽しそうな少年と少女の記憶…
なのに…どうして?
「そう…別れは唐突だった…」
目の前の彼女が言う
病の名も知らない
そんな症状も…少なくとも少年の記憶の中には残っていない
それなのに…
・
「一緒に行きたいところがあるんだ…」
その日、少年は強引に少女の手を取った
いったい、どこへ向かっているのか
少女は不安だった
何処と無くいつもと雰囲気の違う少年に
いつもより移動距離が長く
戻る頃には完全に病院の門限を越えてしまうだろう距離
日が暮れ始めて…
ようやくたどり着いたその場所は
何処の学校だろうか…
少年は躊躇うことなくその門を潜り、休校日なのか
ほとんど人の居ない校舎の中に入っていく
階段をただうえにのぼっていく
最上階のドアを開けると冷たい風がその出入り口を吹き抜ける
夕暮れ…
彼は少女の手を引いて、転落防止ようのフェンスから外の街を眺める
「僕たちあの辺から来たんだね…」
そう遠くの街を眺めそう呟く
「こうやって歩いてくるには…すごく遠い遠い場所」
…いったい少年は何を言っているのか?
「こうして、ひなたと手を繋いで…僕は君を利用して自由になったつもりでいたのかもしれない…」
いったい何を告げようとしているのか?
「…結局、僕も不自由な子供だったんだ」
いやだ…聞きたくない
本能がそう告げている
「…あの病院からずっとずっと遠い場所」
一日かけてようやくたどり着いた場所
「…僕が今度から通う学校」
何を告げられたのか…理解が追いつかない
その言葉の意味するところが理解できない
「いや…」
溢れてきた涙に
「翼があれば…いいのにね」
「翼があれば…いつでもひなたに会いに行けるのに…」
「連れ出すのも…此処から逃げ出すのも自由にできたのに…」
少年の言葉に…
「いや…いやだっ」
その言葉を繰り返すことしかできない」
「実感ないけどさ、僕の右手には凄い価値があるらしいんだ」
そう少女の左手を握る力を強める
「実際、ここに通うのはもう少し先の話なんだけどさ、こっちで…いろいろと勉強をつまないとならないんだって…」
少年が告げる。残酷に…
「…結局、僕も大人の決めたことには逆らえない…鳥篭に飼われた鳥だった」
そう告げる
「いやだ…ひどい…いまさらっ」
せめて、私の命が尽きるまで…責任を取ってよ
その言葉をなんとか重いとどませる
「わたし、君がいないと何もできないっ…」
泣きじゃくる少女に…少年は残酷に…それでも…
「だからさ…だから、元気になってひなたも来なよっ」
さすがに怒る、当然だ…少年だって理解している
「できるなら、とっくに元気になって退院しているっ!!」
理解している…それでも…
「…元気になってさ、ひなたもこの学校に受かって…」
少年は続ける
「そして、周りに恥じることなくこうやって…毎日一緒に登校するんだ」
そんな少年の未来図に
「そんな恋人同士になったらさ、毎日が楽しいと思わない?」
そんな少年の提案に
少女は少年の手を振りほどき、その体に抱きつき…
「うん…そうしたいっ」
だから、少女もその日の訪れを疑わなかった
それが、二人の約束だったから
・
目を開く
少年の記憶の屋上と
現在の景色が重なり合う
彼女が病気にうちかって此処に居るのならどんなに幸せな話だろう
彼女に触れることすら許されなかったことを思い出す
僕に思い出せる記憶はここまでなのか?
そもそもなぜ…忘れていた
なぜ…僕の右手は…
「ごめんね…ひなた…」
その記憶の全てはまだ、思い出せないけど…
その記憶の行き着く先はなんとなく想像はついていた
いま…全て思い出すから…
・
「あのね…最近、街に大きなデパートが出来る予定でね、今そこは工事中なんだけど、そこが目立つからそこで待ち合わせ」
電話口で少女は大騒ぎだった
久々の連休に少年は一人、少女の居る街に遊びに来た
最近、元気になった彼女はその連休、家での休養を病院からも正式に許可されている
バスを降りる。
歩けば半日以上終わってしまう距離だが、バスなら昼前に到着する
真っ先に待ち合わせの場所に行きたいが
少年はまずはとある雑貨屋に訪れる
店主に取り寄せてもらったものを受け取らないとならない
右手には自分と同じくらいの熊の縫いぐるみ
店から出た少年の姿を通りすがった女子学生がクスクス笑っている
「…今日、手を繋ぐ相手はお前じゃないつーのっ」
ぺしんとその頭を叩く
「ごめんなさーい」
変わりに少年が誤る
「まて、この後お前…誰と手を繋ぐんだ?」
嬉しそうに熊を抱きかかえる少女が思い浮かぶ
「今夜、彼女に抱かれるのは俺の役目だからな?」
そう熊に語りかけ、はなぢを噴出しそうになる
「明日からは部屋の隅で誇りかぶってろ…なっ?」
そう言い聞かせる
数ヶ月前くらしていた街
それでも、懐かしいという感情が沸いてくる
数ヶ月前は空き地だった場所
そこでは、聞いたとおり大掛かりな工事がされていて…
はるか高いところまで柱となるような鉄骨を懸命に積み上げている
その下には、鉄の策に囲まれた工事現場の外に白いワンピース
白の麦藁帽子をかぶった少女が懸命に少年に手を振っている
「やば、似合ってるじゃん」
手を振る彼女の元に歩いて近寄る。
鉄骨を忙しそうにワイヤーで引き上げる大人たちの掛け声…
その側で懸命に手を振る少女…
急に強い風がびゅーっと吹いて…
舞った砂埃に視界が奪われる
再び、彼女の方を向いて…
相変わらず手を振る彼女の元に…
僕は手にした縫いぐるみを地面に投げ捨てる
思いっきり地面を蹴り上げ、許される全速力で彼女にかけよる
「にげろっ ひなたっ!!」
これから、楽しい、楽しい、一日が始まるんだ…
そう、彼女は疑いもしなかった
必死に駆け出す少年の理由も、その後に起こる事も
彼女には何一つ理解が追いつかなくて…
少年の右手が彼女の右手を掴みあげると
そのまま自分の居る方に引っ張り
少年はそのまま、私の立っていた場所に辿り着く
ガシャンッという
鉄骨がアスファルトに落下するもの凄い音がいくつも続いて…
彼女の前には数本の鉄骨が散らばっていた
声をあげることも…泣き喚くことすらできず
尻餅をついた、彼女の前に転がる鉄骨
自分が無事だった…そんな事実などどうでも良かった
赤…あか…
鉄骨の下敷きになっていた…
自慢の右腕はつぶれていた…
だけど、今の彼女にそれを受け入れることなんて出来なかった
その日から、そのデパートの工事は中止された
街は時間が止まったように変化を止めてしまい…
だから…彼女の時間も動くことを忘れてしまったのかもしれない
来る日も…来る日もただ、彼女は彼を待ち続けた
・
「ねぇ…私、君と同じ高校に入学できたよ」
視界に広がる風景
どこかの部屋
窓が少しだけ開いていて
優しい風が入り込む
今までとは違う風景
そうか…
彼女はこうやって僕に話しかけてくれていたんだ
始めから…僕は此処に居たのだろうか…
こうやって彼女の言葉が僕をあの屋上に居ると錯覚させてくれたのかもしれない
返事のない男に…
あの日から一度も目を覚まさない植物人間となっていた僕に
意識を取り戻す日をずっと待っていた
「やだ…またあの娘」
「…毎日、日が暮れるまでずっとああやって独り言呟いてるの…」
こそこそと看護婦たちの言葉
そんな言葉は彼女には聞こえない
ずっと…ずっと彼女の時計の秒針は動こうとしない
だからあの日から時間は止まったまま
彼女の世界はずっと僕と独りだけだった…
あぁ…どうして彼女の姿がこんなに鮮明に見えているのに
僕の身体は動こうとしないのだろうか?
なぜ、彼女のその手を取ろうとしないのだろうか
今日という日まで…そしてこれからも
彼女は周りの冷ややかな目すら気づかず…気にせず
僕という停止の中を生き続けている
止めたいのに…救ってあげたいのに
何が正解だ
心地良い風が開いた窓から流れ込み
白いカーテンを優しくなびかせて
僕のすぐそばで、彼女の綺麗な黒い髪が揺れていて
風が収まる頃には、動かない僕からそっと重ねた唇を離した
「…またね」
そんな動かぬ僕を相手に照れるように逃げるようにそう言って病室を出ようと、
僕に背を向けた
あぁ…彼女は後、何度…こうして僕の所に訪れてくれるだろうか?
彼女が決してそれを止めようと思わなくても、周りがそれを許さないかもしれない
そしたら、彼女の時計は動き出すのだろうか…
僕から解放されることで動いてくれるのだろうか…
きっとそれも正解だ
それでも僕は…
だから…そんな奇跡があったっていいじゃないか
自由にしてあげたい…そう思って鳥篭から逃がした小鳥
彼女がそんな奇跡を僕に運んでくれた
開いた窓から流れ込む風の音にかき消されそうで
「行こう…」
部屋から身体半分外に出ていた彼女の動きが止まる
聞き…違い?
ゆっくりと…彼女が再び僕の方を振り向く
それは、僕の妄想か…?
ずっと…ずっと…こんな不自由を生かされてきたんだ…
例えばそんな…小さな奇跡を…望んだっていいじゃないか
チッチッチッと…
彼女の左腕の腕時計が忙しく動いていた
なぜ、自分がそこに居るのか
冷たい風が屋上の出入り口を繋ぐ扉を抜ける
そんな冷たい風を浴びながら僕は正面に向き直す
屋上の端、転落防止に張られる緑色の金網に
右手の指を絡め、外を眺める少女
高校生だろうか
後姿なのに…何故かその表情は鮮明に読み取れて…
その屋上の景色の先にある遠い町並みを眺め
そこに居る誰かに話しかけるように…
「貴方は…今もそこに居ますか?」
誰に対してどういう意味の質問なのか…
もちろん僕にはわからなくて
夕日に照らされる彼女の姿は儚げで
「あの街も…私の時間も…あの日からずっと止まったまま…」
そう誰かに小さな声で語りかける。
「動くことをやめてしまった…そんな時計に価値はあるのでしょうか?」
風はゆっくりと彼女の長い黒い髪を揺らして
「完結させないとならない…終わらせないとならない…」
その言葉の意味などさっぱり理解できないはずなのに…
僕は…
「終わらせろよ…」
そう…彼女に告げる。
驚いた表情で振り返った彼女がいつの間にか僕を見ている。
そんな表情をすぐに崩し元の儚げな表情に戻し…
「時間が進まなくなった世界で…それを終えてしまったら…わたしは…」
そう儚げに微笑む彼女に…
「新しく何かを始めろ…なんだっていい…そうすれば再び時間は動き出す」
そんな僕の顔を眺めながら…
「私は一人じゃ何もできないの…彼の右手だけが…私《じかん》を動かしてくれた…だから…」
彼女は再び後ろ…遠くの町並みを眺めながら
「あそこに置いてきてしまったから…」
そう…悲しそうに話した。
「そんなものっ」
僕はそう言って右手を伸ばそうとした
そうして、ようやく気がついた
僕に彼女を導いてあげられる右手が無かったこと
麻痺したように全く動かない右腕
僕はそれを何処に置いてきたのだろうか
・
《少年の記憶》
少年の父親は風邪を拗らせ入院していた
少年は母親に頼まれて週に何度かそんな父親の病院に会社の書類やら何やらを届けに来ていた
そんな仕事を数秒でやっつけると、少年は決まって病院の出口とは逆の階段の最上階屋上を目指した
スケッチブックを広げると、その屋上から見える景色を両手の親指と人差し指え長方形を作り、辺りを見渡す
麦藁帽子をかぶり、白いワンピースを着た自分と同じくらいの年…5、6歳の少女が屋上のフェンス越しに立っていた
短い黒髪を風になびかせ
少年はその場に座り込むと…そんな彼女の後姿を眺めながらペンを走らせた
少しだけ時間が立って…彼女は動き出すと、ようやく少年の存在に気がつく
不思議に思い、少年の方に歩き出そうとするが
「駄目、動かないでっ」
少年はそう告げるが…少女はお構いなしに少年に近づく
「何してるの?」
そう率直に尋ねながら、少年のスケッチブックを覗き込む
「うわっ…上手」
素直にそう感想を述べる
10年に一人…なんて煽てられていた
神の右手なんて言われたこともある
もちろん自覚などしていなかったけど…
「つばさ…?」
僕が描いた少女の背中には翼が生えている
もちろん、彼女に翼は無い。
僕はそばで羽を休めていた鳥を見ながら…
「自由に飛べる翼があったらって思ったことない?」
そう彼女に告げる。
「私を天使が迎えにくることがあっても私が天使になることはないよ」
そう彼女は苦笑した。
少年は知らない。
いつから、なぜ、彼女は病院に居るのか…
少年の年齢を知るのはもう少し先の話だけど
たまたま偶然、この場に居合わせた同い年の少年
将来の色んな期待を背負った少年。
そして、難しい病名など覚えていない…
そんな明日死んでも別におかしな話じゃない彼女と…
「ねぇ…どこか遠くに行こうよ、ふたりで」
そう唐突に少年は悪戯に微笑む
「…馬鹿なの」
少し怒ったように、彼女は少年に返す
「私が何で此処に居るか、病院に閉じ込められているのか…」
考えればわかることだとそう告げる
「僕も、君も翼は無いけどさ…そんな人生に抗いたいじゃん」
「自由に飛び回る鳥と一生困らない餌を与え続けながら鳥篭にずっと閉じ込められた鳥と、ねぇ…どっちが幸せかな?」
そんな少年の疑問に
「馬鹿なの…君はそれで私が明日死んでしまったら、そんなつまらない私《いのち》の責任を取れるの?」
そう少女が返す
「取れないよ…」
あっさりと返事を返す。
「でもさ…そんな一瞬の想い出を望んでくれて、共有できるなら、僕はその責任と一緒にそれを背負っていける」
少年はそう少し寂しそうに笑った
少年は黙ってスケッチブックやペンを片付け、左脇と左手にそれらを納め
あまった右手で
「行こう?」
彼女に差し向けた
同時に吹き抜けた風が少女の中の何かを全て吹き飛ばしてしまったように…
そんな彼の右手に気がつけば手を伸ばした後で
ずっと止まっていた私の人生が再び動き出した
そんなの、拒否することなんてできなかった
・
ゆっくりと目を開く…
そこは、先ほどの学校の屋上
僕は誰の記憶を見ていたのだろう
もちろん同じ屋上でも先ほどの病院の屋上とは違う
目の前の少女は寂しそうに微笑んで
彼女が僕にそれを見せたのだろうか
いったい…何が起きているのか
僕が今、彼女の前に立っている意味に
それに意味などあるのだろうか?
あの少年が誰なのかさえわからないのに
僕に何をしろというのだろう
彼女が再び遠くの街を眺める
「貴方はまだそこにいますか?」
記憶の少年に話しかけているのだろうか?
思わず彼女の見つめる場所を目で追う
再び、ぐるりと視界が暗転するように…
何かの記憶が流れてくる
・
「ねぇ、そんなに時間はないよ?」
少しだけ不安そうに少女が言う
面会、彼女が病室を出て病院内を歩き回れる時間…
「じゃぁ、今日はその辺まで」
彼はそう言って、彼女の左手を引っ張る
そこには確かに彼女を動かす右手があって…
繋がれる手と手…近場とはいえ、初めて無断で抜け出した病院と…
その胸のドキドキはなんのせいなのか…今は整理ができなくて…
つい先ほど、その手を取る恐怖を覚えたはずが
すでにその手を振りほどかれる恐怖が勝っている
それは、もちろん…こんな場所で手を離されてはこんな近場でさえ
彼女に病院に引き返すことが難しい
それくらい鳥篭の外は彼女には未知の場所だ
「ねぇ…どうして?」
彼女のそんな疑問
主語なんてものが何にも無くて…
「子供の僕が言う話じゃないんだけどさ、本当の恋って子供にしかできないんじゃないかなって思うんだ」
そう少年が言う
「大人になれば、恋をするにもその後の人生が絡んできて…」
「余計な考え抜きで…ただ、今の気持ちに正直になれるのってさ…年を重ねると難しいんじゃないかなって」
そう少年は言う
「でも…そういう人生もあっての恋なんじゃないの?」
そんな少女の返しに
「そうかも」
そうあっさりと返す
その少年の言葉になんの意味があったのだろう…
あったばかりの少女に
まさかの一目ぼれなどありえない
そう、自分でもわかりきっている
目の前の少年は10年の逸材
釣り合いさえ取れていない
手を繋いでいる間の実感はほとんどなかったのに…
別れ際に手を離したときの寂しさは妙に現実的に実感できて…
「またね…」
その少年の言葉だけが今の彼女を生かす糧だった
・
再び…学校の屋上の景色が広がる
そのしがらみが…彼の言葉が…
彼女を此処に縛り付けているのだろうか…
時計の針が動くことをやめてしまったのだろうか……
僕は右手を動かすことを諦めて、左手で彼女の手を掴もうとした
…その結果に彼女は寂しそうに笑って
「あぁ…そういうことか」
彼女をすり抜けた左手を眺めて僕は呟いた
・
残された時間…そんなものがあるのなら
そんな間だけでも何とか繋ぎ止めたい…そう思った
親に我侭を言った事は無かった
何かを望んで、生に期待を持つようなことはしたくなかった
「ひなた~、その雑誌何度も見て楽しい?」
見舞いの椅子に座る少年を無視する少女の名前を呼ぶ
女性誌、ファッションや今の流行…
異性とどんな服を着てどこに遊びに行くのか
こんなのを見て…何を期待しているのか
「ばぁ!?」
余計なことをごちゃごちゃ考え、結果的に少年を無視していた少女に
少年は雑誌と彼女の顔の間に割り込むように顔を覗かせる
少し気障なロマンチストな言葉を吐くくせに以外とおちゃめな一面がある事にここ最近気づかされた
少し不機嫌そうにその顔を雑誌を丸めてバシンと叩く
なぜ、不機嫌なふりをしているのか自分でも謎だ
あの日、以来少年はこうして彼女の元を訪れるようになった
またね…その約束を破ることはなく…
だから、私の残りの命を彼の右手が動かしてくれる
そう…信じていた
いつの間にか、イスで回るのをやめた少年はじっと時計を眺めて…
「…行こう?」
病院の監視が手薄になる時間…
少年は右手を彼女に差し出した
・
再び景色は学校の屋上に戻り
あの少女が大きくなったら…たぶん…
「…ひなた?」
僕はその名前を呼ぶと
彼女は寂しそうに微笑んで
なぜ…僕は忘れていたのだろう…
それを…なぜ今思い出すのだろう…
そして…なぜ彼女は僕の前に…
「約束…覚えてる?」
彼女のその言葉に…ぼくはその責任から逃げる事は許されない
・
いつものように抜け出した病院
少年と少女が向かう先はそのほとんどが少年が決めていた
少女はその少年の手が導く場所だけが彼女の場所だった
もうすぐで彼女の誕生日だった
そして、彼女も少年に媚びるすべを少しずつ身に着けていた
とある雑貨屋
ずらりと並んだ縫いぐるみ
無理に背伸びをして女性雑誌を眺めてその何かを欲するよりもずっと可愛らしかった
店に入った瞬間、自分の身長と差ほど変わらない大きさの熊の縫いぐるみ
思わず二人してそれを眺める
そして、何かを察するように少年は目線を下げ、値札を確認する
「おっ…これなんか可愛いんじゃないか?」
そう彼女に告げ、サングラスをしたウサギの縫いぐるみを手に取る
「てやんでぃ」
ある箇所を押すとしゃべる仕組みになっているようだ
「うぉっすげぇ」
ちょっとだけ本気で関心しているようだった
だが…
彼女はぎゅっと大きな熊の縫いぐるみに抱きつく
「な、ひなちゃん、こっちにしよーな?」
「てやんでぃ」
そう少年の言葉にウサギが返事をする。
「これ…欲しい」
単刀直入だった…
「ひなちゃ…これ?」
自分の手にしているウサギを少し上にもちあげる
「いらない…こっち」
大きい縫いぐるみをぎゅっとする
「少年は大きい熊の縫いぐるみを買った…しかしお金が足りなかった」
そう…言いながら
「この甲斐性なしっ!」
そう自分を罵倒しながら、近くの縫いぐるみを叩いた
八つ当たりだった
「ごめんなさーい」
叩いた縫いぐるみが喋る
土下座をしたウサギの縫いぐるみ
てやんでぃウサギと別のシリーズだろうか?
「その心意気、気に入った…今日はこれで手をうとう」
強引に少年はその土下座ウサギを買うと、少女にプレゼントした
「その熊はまた今度な」
そう約束して、少年はその縫いぐるみを手渡す
「売れてなくなっちゃうかも」
少女のそんな不安に
「そんなでけぇ熊欲しがるのお前くらいな?」
そう少年が返す。
「じゃぁ…約束」
少年が少女にそれをプレゼントする…そう約束を…
「ねぇ、お父さん…あたし、あのでかい熊が欲しい~」
「よ~し、パパが何でも買ってあげちゃうぞ~」
その矢先…後ろでそんな会話が聞こえてきた
「ごめんなさーい」
少年は自分の後頭部を叩くとそう声真似した
雑貨屋の近くのパン屋でひとつずつパンを買って
近くの公園で二人でそれを食べていた
「ごめんなさーい」
少女は時たま、少年のプレゼントされたそれの頭を叩いている
近くでは少年と少女とは別に同じ年代の男の子が多人数でボール遊びをしている
「どうして…?」
相変わらずな主語のない台詞
まぁ…どうしてあのボール遊びをするグループに混じらず、自分と要るのか…みたいな話であろう事は推測できるようになった
「別に…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
不規則に少女が手を動かし、土下座ウサギの頭をどつく
「別に…同じじゃないかな…ひなたと」
その少年の言葉に…
「どういう意味?」
自分にも同じ質問をしてみるが…その答えが見つけられない
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
その答えを聞くのが少し怖いのか、手を忙しそうに動かしている
そのたび、どつかれている土下座ウサギに…
こんな場面なのに噴出しそうになってしまう
「別に…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
「僕は…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
「ひなた…」
ぱしんっ
「ごめんなさーい」
「おまっ…それ、ちょっと煩いからなっ」
言葉を遮られ思わずそう突っ込む
「ごめん…」
無意識だったのだろう、彼女がそう誤る
「頭、もげちゃうからな」
…そう心配を付け足しておく
「ごめんなさーい」
彼女の素かボケか…その台詞に
「ぶふっ」
少年は噴出し笑い出す
少女もそれにつられて笑い出す
「多分、こうゆうことっ」
そう、笑い涙をぬぐいながら少年が言う
「楽しいじゃん、それで十分じゃない?」
それは答えになっているのか…
正直わからなかったけど…
「うん」
少女は頷き
「行こう」
少年の右手を少女は左手で掴む
彼女に地図など必要なかった
そこには、確かに彼女を導く右手があったから
・
少年の記憶は再びいったんそこで途切れる…
楽しそうな少年と少女の記憶…
なのに…どうして?
「そう…別れは唐突だった…」
目の前の彼女が言う
病の名も知らない
そんな症状も…少なくとも少年の記憶の中には残っていない
それなのに…
・
「一緒に行きたいところがあるんだ…」
その日、少年は強引に少女の手を取った
いったい、どこへ向かっているのか
少女は不安だった
何処と無くいつもと雰囲気の違う少年に
いつもより移動距離が長く
戻る頃には完全に病院の門限を越えてしまうだろう距離
日が暮れ始めて…
ようやくたどり着いたその場所は
何処の学校だろうか…
少年は躊躇うことなくその門を潜り、休校日なのか
ほとんど人の居ない校舎の中に入っていく
階段をただうえにのぼっていく
最上階のドアを開けると冷たい風がその出入り口を吹き抜ける
夕暮れ…
彼は少女の手を引いて、転落防止ようのフェンスから外の街を眺める
「僕たちあの辺から来たんだね…」
そう遠くの街を眺めそう呟く
「こうやって歩いてくるには…すごく遠い遠い場所」
…いったい少年は何を言っているのか?
「こうして、ひなたと手を繋いで…僕は君を利用して自由になったつもりでいたのかもしれない…」
いったい何を告げようとしているのか?
「…結局、僕も不自由な子供だったんだ」
いやだ…聞きたくない
本能がそう告げている
「…あの病院からずっとずっと遠い場所」
一日かけてようやくたどり着いた場所
「…僕が今度から通う学校」
何を告げられたのか…理解が追いつかない
その言葉の意味するところが理解できない
「いや…」
溢れてきた涙に
「翼があれば…いいのにね」
「翼があれば…いつでもひなたに会いに行けるのに…」
「連れ出すのも…此処から逃げ出すのも自由にできたのに…」
少年の言葉に…
「いや…いやだっ」
その言葉を繰り返すことしかできない」
「実感ないけどさ、僕の右手には凄い価値があるらしいんだ」
そう少女の左手を握る力を強める
「実際、ここに通うのはもう少し先の話なんだけどさ、こっちで…いろいろと勉強をつまないとならないんだって…」
少年が告げる。残酷に…
「…結局、僕も大人の決めたことには逆らえない…鳥篭に飼われた鳥だった」
そう告げる
「いやだ…ひどい…いまさらっ」
せめて、私の命が尽きるまで…責任を取ってよ
その言葉をなんとか重いとどませる
「わたし、君がいないと何もできないっ…」
泣きじゃくる少女に…少年は残酷に…それでも…
「だからさ…だから、元気になってひなたも来なよっ」
さすがに怒る、当然だ…少年だって理解している
「できるなら、とっくに元気になって退院しているっ!!」
理解している…それでも…
「…元気になってさ、ひなたもこの学校に受かって…」
少年は続ける
「そして、周りに恥じることなくこうやって…毎日一緒に登校するんだ」
そんな少年の未来図に
「そんな恋人同士になったらさ、毎日が楽しいと思わない?」
そんな少年の提案に
少女は少年の手を振りほどき、その体に抱きつき…
「うん…そうしたいっ」
だから、少女もその日の訪れを疑わなかった
それが、二人の約束だったから
・
目を開く
少年の記憶の屋上と
現在の景色が重なり合う
彼女が病気にうちかって此処に居るのならどんなに幸せな話だろう
彼女に触れることすら許されなかったことを思い出す
僕に思い出せる記憶はここまでなのか?
そもそもなぜ…忘れていた
なぜ…僕の右手は…
「ごめんね…ひなた…」
その記憶の全てはまだ、思い出せないけど…
その記憶の行き着く先はなんとなく想像はついていた
いま…全て思い出すから…
・
「あのね…最近、街に大きなデパートが出来る予定でね、今そこは工事中なんだけど、そこが目立つからそこで待ち合わせ」
電話口で少女は大騒ぎだった
久々の連休に少年は一人、少女の居る街に遊びに来た
最近、元気になった彼女はその連休、家での休養を病院からも正式に許可されている
バスを降りる。
歩けば半日以上終わってしまう距離だが、バスなら昼前に到着する
真っ先に待ち合わせの場所に行きたいが
少年はまずはとある雑貨屋に訪れる
店主に取り寄せてもらったものを受け取らないとならない
右手には自分と同じくらいの熊の縫いぐるみ
店から出た少年の姿を通りすがった女子学生がクスクス笑っている
「…今日、手を繋ぐ相手はお前じゃないつーのっ」
ぺしんとその頭を叩く
「ごめんなさーい」
変わりに少年が誤る
「まて、この後お前…誰と手を繋ぐんだ?」
嬉しそうに熊を抱きかかえる少女が思い浮かぶ
「今夜、彼女に抱かれるのは俺の役目だからな?」
そう熊に語りかけ、はなぢを噴出しそうになる
「明日からは部屋の隅で誇りかぶってろ…なっ?」
そう言い聞かせる
数ヶ月前くらしていた街
それでも、懐かしいという感情が沸いてくる
数ヶ月前は空き地だった場所
そこでは、聞いたとおり大掛かりな工事がされていて…
はるか高いところまで柱となるような鉄骨を懸命に積み上げている
その下には、鉄の策に囲まれた工事現場の外に白いワンピース
白の麦藁帽子をかぶった少女が懸命に少年に手を振っている
「やば、似合ってるじゃん」
手を振る彼女の元に歩いて近寄る。
鉄骨を忙しそうにワイヤーで引き上げる大人たちの掛け声…
その側で懸命に手を振る少女…
急に強い風がびゅーっと吹いて…
舞った砂埃に視界が奪われる
再び、彼女の方を向いて…
相変わらず手を振る彼女の元に…
僕は手にした縫いぐるみを地面に投げ捨てる
思いっきり地面を蹴り上げ、許される全速力で彼女にかけよる
「にげろっ ひなたっ!!」
これから、楽しい、楽しい、一日が始まるんだ…
そう、彼女は疑いもしなかった
必死に駆け出す少年の理由も、その後に起こる事も
彼女には何一つ理解が追いつかなくて…
少年の右手が彼女の右手を掴みあげると
そのまま自分の居る方に引っ張り
少年はそのまま、私の立っていた場所に辿り着く
ガシャンッという
鉄骨がアスファルトに落下するもの凄い音がいくつも続いて…
彼女の前には数本の鉄骨が散らばっていた
声をあげることも…泣き喚くことすらできず
尻餅をついた、彼女の前に転がる鉄骨
自分が無事だった…そんな事実などどうでも良かった
赤…あか…
鉄骨の下敷きになっていた…
自慢の右腕はつぶれていた…
だけど、今の彼女にそれを受け入れることなんて出来なかった
その日から、そのデパートの工事は中止された
街は時間が止まったように変化を止めてしまい…
だから…彼女の時間も動くことを忘れてしまったのかもしれない
来る日も…来る日もただ、彼女は彼を待ち続けた
・
「ねぇ…私、君と同じ高校に入学できたよ」
視界に広がる風景
どこかの部屋
窓が少しだけ開いていて
優しい風が入り込む
今までとは違う風景
そうか…
彼女はこうやって僕に話しかけてくれていたんだ
始めから…僕は此処に居たのだろうか…
こうやって彼女の言葉が僕をあの屋上に居ると錯覚させてくれたのかもしれない
返事のない男に…
あの日から一度も目を覚まさない植物人間となっていた僕に
意識を取り戻す日をずっと待っていた
「やだ…またあの娘」
「…毎日、日が暮れるまでずっとああやって独り言呟いてるの…」
こそこそと看護婦たちの言葉
そんな言葉は彼女には聞こえない
ずっと…ずっと彼女の時計の秒針は動こうとしない
だからあの日から時間は止まったまま
彼女の世界はずっと僕と独りだけだった…
あぁ…どうして彼女の姿がこんなに鮮明に見えているのに
僕の身体は動こうとしないのだろうか?
なぜ、彼女のその手を取ろうとしないのだろうか
今日という日まで…そしてこれからも
彼女は周りの冷ややかな目すら気づかず…気にせず
僕という停止の中を生き続けている
止めたいのに…救ってあげたいのに
何が正解だ
心地良い風が開いた窓から流れ込み
白いカーテンを優しくなびかせて
僕のすぐそばで、彼女の綺麗な黒い髪が揺れていて
風が収まる頃には、動かない僕からそっと重ねた唇を離した
「…またね」
そんな動かぬ僕を相手に照れるように逃げるようにそう言って病室を出ようと、
僕に背を向けた
あぁ…彼女は後、何度…こうして僕の所に訪れてくれるだろうか?
彼女が決してそれを止めようと思わなくても、周りがそれを許さないかもしれない
そしたら、彼女の時計は動き出すのだろうか…
僕から解放されることで動いてくれるのだろうか…
きっとそれも正解だ
それでも僕は…
だから…そんな奇跡があったっていいじゃないか
自由にしてあげたい…そう思って鳥篭から逃がした小鳥
彼女がそんな奇跡を僕に運んでくれた
開いた窓から流れ込む風の音にかき消されそうで
「行こう…」
部屋から身体半分外に出ていた彼女の動きが止まる
聞き…違い?
ゆっくりと…彼女が再び僕の方を振り向く
それは、僕の妄想か…?
ずっと…ずっと…こんな不自由を生かされてきたんだ…
例えばそんな…小さな奇跡を…望んだっていいじゃないか
チッチッチッと…
彼女の左腕の腕時計が忙しく動いていた