神様。どうか私の願いを叶えてください。私がどうなろうと構いません。だから、どうか...お願いします。
何度この場所に足を運んだだろうか。何度訪れても慣れることのない匂い。鼻を刺すようなアンモニア臭などとは違った、本能的に拒んでしまう場所。
どんなところよりも死の匂いが強く感じられるからだろうか。薬品の匂いに混じる死の香り。
決していいものではない。それでもこの場所に足を運んでしまうのには訳がある。
今、私の立っているドアの向こうで安らかに眠っている彼に出会うためだ。
毎回私は彼の病室に入るのを躊躇ってしまう。変わらない日常に怯えているのかもしれない。
眠っている彼を見るのは辛い。かれこれ数年が過ぎてしまっても彼は目を覚さない。もしかしたら、このまま一生目を覚さないなんてこともあると担当医の先生は私たちに冷静に告げていた。
今日も昨日と変わらず、ドアノブに手をかけ病室への扉を開ける。
彼の病室は不思議なくらい病院の匂いがしない。所々に溢れている死の香りや薬品の香りが一切しない。
彼の眠っているベッド脇に置かれている季節の花たち。様々な種類の花たちが混同しているためか、匂いが一つではなく無数に散らばっている。
「会いにきたよ、碧。今日も空が綺麗だよ。ほら、眩しいでしょ」
レースのカーテンを開け、病室に太陽の光を取り入れる。
気のせいかもしれないが、花たちも嬉しそうに光合成でもしているかのようだ。
綺麗な顔のまま眠っている碧。いつからだろう。碧の首元からネックレスがなくなってしまったのは。
私たちが高校生になった時に、彼へプレゼントした銀色の鈴のネックレス。もしかしたら、治療の際電子機器に引っかかってしまうから取り外されたのだろうか。
碧とは中学1年生の時に彼の方から告白をされ、お付き合いをしている恋人。
あの頃の面影もほんのりと残ってはいるもののすっかり大人の顔つきへと変わってしまった彼。
もちろん、私だってあの頃に比べると幾らかは大人の女性へと近づいたはず。
今年で私たちは高校3年生に進級した。約5年の月日を彼と共に過ごしてきたんだ。5年...いや、正確には2年半だ。
碧が事故によって昏睡状態に陥ってから、2年半の月日が経過していた。
思い出したくもない悲惨な事故だった。事故の後遺症として、目に激しい衝撃が伴ったことで、視力が低下している可能性があるらしい。当然、目を覚ましていないので本当かどうかは定かではない。
確かあの日は、私と碧は2人で下校していた。
雨降る中、2人で一つの傘を差しながら、数分後に起こる事故のことなんて頭には全くないくらい幸せに満ちていたんだ。
「なぁ、優華」
「んー?」
「知ってるか?」
「知ってるって、何をさ」
「叢雲神社の言い伝え」
「何それ、そんなのあるの?」
叢雲神社。私たちの住んでいる地域にあるかなり古くから存在するちっぽけな神社。
日当たりも悪く、日中でも神社を囲う軒並み背の高い木々たちによって太陽の光が遮断されているため、暗くて薄気味悪いので地域の人は滅多に近寄ることがない。
よく同級生やお酒を飲んだ酔っ払いの大人たちが、夜道神社の近くを通って「見た」という情報を耳にする。
本当に幽霊を見たのか疑わしいところではあるが、嘘だと断定することも出来はしない。
「そうなんだよ。噂だけど、なんでも願いが叶うらしいよ」
「えー、なんか嘘くさい。だって、なんでも願い叶うなんて都合良過ぎない?」
「そうか?漫画だとよくある話じゃん」
「それは漫画だからでしょ!漫画と現実を混同するなし」
「なんだ。その噂は嘘なのか・・・結構信じてたのに」
碧は持ち前の明るさからクラスでも人気者。一言で言うと、スクールカースト上位勢。
それに比べ、私はというと中の下辺り。碧が私に告白してきた理由は今でも教えてくれない。
初めは思春期男子の間で流行る嘘告白かと思っていたが、碧と過ごすうちにそれはないと確信した。
彼は嘘がつくことが出来ないほど、バカ正直な人間なのだ。だから、こうして噂の一つや二つ簡単に信じこめてしまう。
良いことでもあるが、悪く言えば騙されやすい。
「じゃあさ、今からその噂を確かめに行こうよ2人で」
この一言が私たちの未来を大きく変えてしまった。私がこんなことさえ口にしなければ、碧が眠ってしまうことなんてなかった。
今でもきっと私の隣でバカなことを言って笑っていたであろうに。
ごめんね碧。私のせいで、君の未来を奪ってしまった。悔やんでも悔やんでも許せない気持ちに押しつぶされそうだよ。
眠る碧の顔を眺めながら、あの日を思い出す私。そこから先の悲劇については思い出したくない。
1日の終わりに眠るたびにあの光景が鮮明に思い出される。暗い夜道に降り注ぐ雨の中、眩しいくらいに視界を照らした車のヘッドライトが...
今日も彼は目を覚ますことはなかった。気付けば、時刻は18時を過ぎて窓から映る外はあの日と同じように闇に包まれ、雨が世界を濁していた。
不安が立ち込めるような灰色に濁った空だった。
事故にあった日と同じ帰り道を歩く。もう少し歩けば、叢雲神社が見えてくる。あの日と決定的に違うのは、私が1人で傘を差していること。
それ以外はなんの大差もないありふれた日常の一角。空から落ちてくる雨粒一つ一つが傘に当たり、孤独感をさらに強めていく。
一台の車が前方から走ってくる。車の正面に取り付けられたヘッドライトから、こちらを満遍なく照らす眩い光。
何事もなく私の横を通り過ぎていったが、嫌な過去がフラッシュバックされてしまった。
「・・・ここだ」
雨脚は一向に弱まることなく周囲の地面を打ち続ける。
高い木々に囲まれた中心に長く伸びる石で作られた階段。雨で霧がかっているせいか、頂上にある神社の面影すら目視することが出来ない。
雨も相まって、より一層不気味さが増しているようにも感じられる。正直、心細くて帰りたい。ここから逃げ去ってしまいたいけれど、今の私には単なる言い伝えを信じることしか彼を助ける方法が思い浮かばない。
携帯をライト代わりにして、慎重に一段一段足を踏み外さないように登っていく。一段一段の幅は意外にも広いため、足を滑らせることはなさそうだが、登るたびに光が失われていくのが怖すぎる。
まるで、真夏にする肝試しを体験しているかのような気分。
「これ・・・何段あるんだろう」
息が徐々に切れかけてくる。階段を登り始めてから既に5分は経過しようとしていた。田舎の神社であれば、とっくに頂上に着いている頃だろう。
私たちが住んでいるこの場所も田舎なはずなのに、どうしてここまで高いところに神社があるのか不思議でたまらない。
叢雲神社に普段から地域の人たちが参拝しに来ない理由がわかった気がした。
何分経過しただろう。頂上に着いたのは、登り始めてから12分経った頃だった。
息が乱れるだけでなく、まだ春先なのにもかかわらず、ひんやりとした汗が背中を伝っていた。
「や、やっと着いた」
肺に酸素を取り込むために息を吸うが、多くの酸素を肺に取り入れようと肩が上下に動く。
少しずつ乱れていた呼吸は、正常になりつつあったが、1度流れた汗が落ち着くのにはまだ時間がかかりそう。
頂上から今登ってきた階段の景色を見ようと振り返るが、視界に映ったのはほとんど真っ暗闇だった。
見えたのは、せいぜい10段ほど下の階段くらい。一体この場所はなんなのだろうか。
なんのために作られたのだろう。明らかに参拝目的に作られたとしては不便すぎる。
「何ここ、くっら」
携帯のライトがなかったら、真っ暗闇で神社の影すら見えなかっただろう。ライトがあったおかげでぼんやりとだが、輪郭らしきものは見えてきた。
「え、ここなの・・・」
正面に見えたのは、こぢんまりとした神社。とても神社までの階段の長さとは、比例していないものと思われるサイズ感。
本当にここが「なんでも願いが叶う」叢雲神社なのだろうか。失礼かもしれないが、とても願いが叶うような神社には見えない。
不気味に思いながらも足を神社の方へと進めていく。近づけば近づくほど神社の異様さは増していくばかり。
賽銭箱に小さな鈴。きっとこの賽銭箱には1円も入ってはいないのだろう。
そーっと中を覗いてみるも賽銭箱の構造上中身を見ることはできなかった。ただ、奥の方でキラリと光る何かが見えた。
もしかしたら、私の他にも利用者がいたのかもしれない。
「どうすれば良いんだろう・・・どうしたら神様に会えるんだ」
噂で聞いただけで手順のことなど一切知らない。ましてや、この噂が本当なのかすら危うい。
それでも、諦めるわけにはいかないんだ。碧を助けるためには、絶対に神様に願いを叶えてもらうしか...
財布から16円を取り出し、賽銭箱の中へと放り込む。16円。神様に自分が訪れたことを知らせるための合図。
古びているので壊れないようにゆっくり丁寧に、上からぶら下がる鈴を3回鳴らす。
「神様。お願いします。どうか、碧のことを助けてください!」
鳴り止む鈴の音。響いていたはずの鈴の音がぴたりと止んだことで、より静けさが深くなっていく。
聞こえてくるのは、風に揺れる木々の葉の音のみ。心地のいい音だが、今望んでいるものではない。
「ダメか。やっぱり噂だったのか・・・」
わかってはいたけれど、少しだけ希望を見出していた反動は大きい。彼が目覚めるまで、あと私は何年待ち続ければ良いのだろうか。
一生目が覚めないかもしれない。そんなの私には耐えられない。私のせいで、昏睡状態になってしまった碧。後悔ばかりが募っていく日々。
辛い現実から逃げてしまいたい。あぁ、お願い。神様、願いを...この願いだけ叶えてください。私がどうなってもいいです。彼を助けることができるのなら、私は...
『ほう、そうか。それなりの覚悟はあるようだな小娘』
突如私の脳内に響いてくる声。慌てて周囲を見渡すが、誰もおらず気配すら感じない。
『おい、お主はわしに願いがあってここに来たのだろう?』
「か、神様?」
『あぁ、今はお主の脳に語りかけておる。それで、端的に聞くが願いはなんだ?条件次第では叶えてやらんこともない』
「ほ、本当ですか!」
『神が嘘をつくわけなかろう。話してみせよ』
「実は、私の恋人が事故で昏睡状態に陥ってしまって、その彼を目覚めさせてほしいんです」
『・・・なるほど。状況は理解した。それで、その者の名は?』
「あお。霧島碧です」
『・・・そうか』
なぜだろう。先ほどの声よりもいくらか低く聞こえてくる。もしかして、無理な願いだったのだろうか。神様にでもできないことがあるのだとしたら、もう私にできることなど...
『よかろう。その願い叶えてやろう。ただし、先ほども話した通り条件がある』
もちろんタダで願いが叶うなんて思ってもいなかった。それは、ここに来る前から覚悟はしていた。
「どんな条件ですか?」
『そうだな。代償として絶望を与えよう。それが、どんな形の絶望なのかはお主には一切伝えることはない。それでも良いのなら、願いを叶えてやろう』
このチャンスを失ってはならない。唯一彼を助けることができる最後の希望なのだから。
「お願いします!」
『迷いがないのだな。どんな現実が待っていても決して目を逸らしてはならないぞ。約束だ。わしにできるのはここまでじゃ』
「はい、ありがとうございます!」
『うむ』
スーッと神様がどこかへ行ってしまったのが感じ取れた。不思議な感覚だった。目には見えないのに、声だけは聞こえる。
話したところで誰も信じてはくれないだろうが、これで碧は目を覚ます。ようやく私たちの止まっていた時間が、再び同じ歩幅で動き出す時が来る。
胸の奥底から湧き上がる高揚感と、私の身に振りかかる代償に怯えながら、私は叢雲神社を後にした。次ここに来るときは、私だけではなく碧も一緒に連れて来ようと胸に決めて。
もし、もう一度神様に出会えなかったとしてもお礼だけは述べておきたいから。
普段よりも帰宅するのが遅くなってしまった。両親に多少心配をされたが、図書室で勉強していたと手短に嘘をついて、その場を逃れることができた。
本当なら神社のことを話してしまいたかったが、流石に両親といえど簡単には信用されなさそうなので、黙っておくことにしたんだ。
今日は本当に色々なことがあった。食事や入浴を済ませ、ベッドの上で仰向けで寝転がって今日1日を振り返る。
「明日には、碧が目覚めてるのかな〜。2年半ぶりの再会か。碧、絶対私みたらびっくりするだろうな」
ベッドの上で足をバタつかせ、軋む音が部屋に響き渡る。まるで、小学生が翌日の遠足に備える前日と大して変わらない。
自分でもわかるくらいに浮かれていた。浮かれずにはいられなかった。きっと明日になれば、碧が目覚めていると信じて目を閉じた。
興奮していて眠れないかと思っていたが、疲れた体は正直だったようで一瞬にして意識が飛んでいった。
"チン"一階からトースターでパンの焼ける音で目が覚めた。ベッドから降りて、部屋の扉を開くとコーヒーの香りがうっすらと鼻を掠める。
「痛い」
階段を降りようとすると、体の節々から悲鳴が上がる。どうやら、普段から運動を怠っていたせいか全身。特に下半身が筋肉痛になってしまったらしい。
一段一段階段を降りるだけで、ズキズキと足腰に痛みが走る。
「もしかして、これが代償なの?そんなわけないか」
時間をかけて一階へ降りていく。今日が休日でよかった。平日だったら、学校でもこんな状況は大変でしかないから。
一階へ降りると、さらにコーヒーの匂いが強まる。コーヒーだけでなく、甘いジャムのような香りが私の食欲を引き立てる。
「おはよう」
リビングの扉を開ける。私の部屋とは違って、全方位から光を取り込んでいるためか、やけにリビングが眩しく見える。
どうしたのだろう。なぜか、いつもと視界が違って見える気がする。
「おはよう、優華」
お母さんの声に促され、椅子に座る。目の前に置かれたトーストと私限定の砂糖がたくさん入れられた甘いコーヒー。
「今日さ、朝ごはん食べたら病院に行ってくるね」
「わかったわ。気をつけて行ってきなさいね」
「うん」
「碧くんが眠ってもうすぐで3年になるのね。早いものね、時の流れって」
「そうだね。同じ3年でも碧と私の時間の感覚は違うんだもんな〜」
「そうね。3年・・・ほんとあっという間だったわ」
意味ありげにしみじみと呟くお母さん。この何気ない言葉が予期せぬ形で、私に降りかかってくるなんて今は思ってもいなかった。
朝食を食べ終えた私は準備を済ませ、家を出ようとしていた。今日の服装は、白のワンピースの上に薄手の黒いカーディガンを羽織るスタイル。
靴は黒いブーツで少しだけ大人に見えるように着飾る。碧が目覚めているはずだからと張り切ってしまったが、今思うと少しだけ張り切り過ぎていないか心配。
「お母さん、行ってくるね!」
「はーい。あら、綺麗!すっかり大人の風貌ね」
「でしょ!」
「うん。本当に綺麗になったわ。気をつけてね」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉を開くと、眩い光が差し込んでくる。正面に立ち並ぶ家の上から顔を出すように、綺麗な眺めではあるが光が強過ぎて目が痛い。
目が痛い...?そんなこと今までなかったのに、どうして。
突如激しい痛みが、目を突き刺す。まるで、針で眼球を刺されているかのような鋭い痛み。
「あぁぁぁ、痛い!」
目元に手を当てるが、血は出ていない。脳裏によぎったのは、神様の言葉。絶望というなの代償。
わかってしまった。これが、代償なんだ。目が見えなくなることが私の代償。そして、絶望はただ目が見えなくなるだけではなく、今日目覚めるであろう彼の顔をもう2度と見ることができなくなるということ。
鋭く刺さる痛みに耐えながら、一歩一歩確実に前へと足を進めていく。病院までは近道すれば、5分で着く。だから、どうかそれまで間に合ってください。
最後に1度でいいので、彼の元気な姿をこの瞳に映させてください。お願い神様。
ぎゅっと痛みに耐えるため、自然に力が入ってしまう両手。急げ私。最後まで諦めるな。ここまで頑張ってこれたんだ。最後の力を振り絞ってみせろ。
カツカツっとブーツが地面を歩く音が耳を震わす。大丈夫。碧さえ生きていれば、私は目が見えなくても生きていけるから。
だから、もう少し待っててね碧。
道路の端で1羽のカラスが、全身を怪我しているのにさえ私は気が付かなかった。
病院の玄関に着く頃には、目の痛みは嘘だったのかのように消え去ってしまっていた。おかしい。代償は失明ではなかったのか。しかし、先ほどから視界がぼやけている気がする。
そんなことよりも今は、碧の状態が先決。どんな顔をして碧に会ったらいいのだろう。碧...あれ。何か忘れているような。
はやる気持ちを抑えつつ、エレベーターに乗り込み碧の病室がある階のボタンを押す。エレベーター内には私以外は誰も乗ってはいなかった。
1階、2階と時間を追うごとにエレベーターは上の階へと上昇していく。
「あと少しで、碧に会えるんだ。びっくりするだろうな〜」
エレベーターの到着音が響き、ゆっくりと重たいドアが開いていく。この瞬間、神様が代償として私から奪ったものは、この世で私が最も大切にしているものだった。
「あれ。私何してるんだろう」
見知らぬ場所に立っている私。この場所がどこなのかさっぱりわからない。わかるのは、どこかの病院の中にいるということだけ。
鼻を掠める死の匂いや心地の悪い薬品の香り。どれもが私にとっては馴染みのない匂いで、不快感が募っていくばかり。
目の前の壁には、『霧島碧』と書かれたネームプレートが貼り付けられている。たぶんだが、集団部屋ではないだろう。この階にある病室は『霧島碧』という人の病室以外に2部屋しかない。
何をしにきたのか思い出せない。でも、何か目的があって来たのには間違いないのに。なんで思い出せないんだろう。
私の胸の中に残る違和感の正体は一体なんなのだろうか。手を伸ばせば届きそうなのに、どんどんと風に流される風船のように何かが私から遠ざかっていくみたいだ。
このままエレベーターに乗って、家へと引き返すことだってできた。でも、不思議と目の前に佇むドアの奥にいる人物に会わないといけない気がしたんだ。
顔も知らない他人になぜ、興味が沸いたのかはわからない。ただ、神様が「開けてみろ」と囁いている気がした。
勇気を振り絞りドアを開くと、そこは病院とは程遠い花に包まれた香りが部屋中に漂っていた。
どのくらい寝ていたのだろうか。目を覚ましたが、体が思うように動いてはくれない。起き上がるのでさえ、困難を極めている。
僕の記憶が正しければ、以前はここまで指一つを動かすのに苦労はしなかった。むしろ、意識したことがなかった。当たり前に動かすことができるものだったから。
グーッと指を曲げたり、伸ばしているうちに少しずつ感覚が戻り始めてきた。自由にとまではいかないが、自分の体にかけられた布団を掴む程度には。
静かに病室のドアが開く。わかっていた。ここがどこで、僕はなぜ寝ているのか。そして、今から僕が会う人物が誰なのか。
「や、やぁ。ひ、ひさしぶりだね。優華」
長い年月言葉を発していなかったからだろう。うまく言葉を紡ぐことができない。
僕の記憶にはない大人びた姿の彼女が、少しずつ僕の病室へと足を踏み入れる。
「・・・・・こ、こんにちは」
「え?」
「あ、あの。突然申し訳ないんですけど、なぜかあなたに会わないといけないような気がして」
「・・・・・」
「ご、ごめんなさい。お、おかしいですよね。私たち今日初めて会う他人なのに」
言葉を失ってしまった。何を言えばいいのかわからなくなってしまったんだ。初めて会う?確かに僕は何年もの間寝ていたのかもしれない。
パッと見た感じ彼女は高校生ぐらいだろう。そうなると、まだ2、3年しか経ってはいないはず。そんな短期間の間に人を忘れることなんてあるのだろうか。
まして、2年半ほど付き合った彼氏の存在を忘れることなんて...
「ぼ、僕のこと。ど、どこかで見たとか・・・」
「いえ、今日初めてお顔を見ました」
僕は彼女の顔を見ることはできなかった。きっと彼女から見た僕の顔は、悲しみと憎しみが入り混じった顔をしているに違いない。
彼女の声には申し訳なさは一切なく、本当にここがどこで、僕が誰なのかわからず戸惑っている声だった。
泣きたくなった。僕の世界は彼女でいっぱいだった。もちろん、彼女もそうだったはず。それなのに、彼女の世界から僕は跡形もなく消え去ってしまった。
微塵の欠片も残す事なく完全に。でも、これは僕への罰なのかもしれない。
彼女を助けるために嘘をついてしまった僕への神様の怒りなのだろう。
ごめん。優華。僕は君に嘘をついていた。神様と取引したのは、君だけではないんだよ。
あの日。事故に遭ったのは、僕ではなくて君だったんだ。足がすくんで動けなくなった僕を庇う形で助けてくれた君。
昏睡状態となり、医師からは「目覚める可能性は低い」と言われて眠っている君をただただ上から見ているのは辛かった。
だから僕は決断した。僕はどうなっても構わないから、どうか優華のことだけは助けてくださいと。言い伝えのあった叢雲神社で懸命に祈ったんだ。
その後のことは、君も知っている通り。いや、今はもう覚えていないか。
「あ、その。私たちって本当はどこかで会ったことがあるのではないでしょうか?」
僕の顔色を伺うかのように、真っ直ぐ僕の目を見て話す彼女。思い出そうとしてくれているのかもしれない。でも、その表情は苦しみに囚われていた。
僕の答えは一つしかない。常に僕は彼女のことを想って、自分のことなど顧みず行動してきた。今の僕にできることは...
「会ったことはないですよ。もしかしたら、どこかですれ違っていたりとかはあったかもしれないですけど」
気付けばスラスラと言葉が口から出るようになっていた。神様からの最後の労りなのかもしれない。苦しんだ僕ら2人への同情として。
「そ、そうですか」
涙が出るのをグッと堪え、無理矢理でも笑顔を作ろうと努力する。これ以上、彼女を苦しませたくはなかった。散々僕の勝手な行動のせいで、苦しい日々を過ごさせてしまった彼女を。
辛いな。眠っていた彼女がこうして、元気に過ごせているというのに、僕は彼女に触れることさえ許されない。他人となってしまった僕らの壁は思っていた以上に高く聳え立っている。
失うのも辛いが、忘れられるのも辛い。笑い合った日々、手を繋いで帰った道。全てを忘れてしまった彼女。
「あ、私。そろそろ帰りますね。これ以上は申し訳ないので」
行ってしまう。今、彼女を手放せば、もう僕らは一生交わることのない人生を歩む気がした。後悔をするくらいなら...
「もし、よければ僕と友達になってくれませんか?」
僕らの物語は一度終わってしまった。でも、また始めればいい。忘れられても何度だって、僕は君の側に居続けるから。
何度も何度も君の小さな手を守り続ける。だから、今度は僕に君を守らせてよ。君が僕を守ってくれたように。
僕の声を聞いて嬉しそうに笑う君は、僕の記憶の中で笑う君とそっくりだった。
何度この場所に足を運んだだろうか。何度訪れても慣れることのない匂い。鼻を刺すようなアンモニア臭などとは違った、本能的に拒んでしまう場所。
どんなところよりも死の匂いが強く感じられるからだろうか。薬品の匂いに混じる死の香り。
決していいものではない。それでもこの場所に足を運んでしまうのには訳がある。
今、私の立っているドアの向こうで安らかに眠っている彼に出会うためだ。
毎回私は彼の病室に入るのを躊躇ってしまう。変わらない日常に怯えているのかもしれない。
眠っている彼を見るのは辛い。かれこれ数年が過ぎてしまっても彼は目を覚さない。もしかしたら、このまま一生目を覚さないなんてこともあると担当医の先生は私たちに冷静に告げていた。
今日も昨日と変わらず、ドアノブに手をかけ病室への扉を開ける。
彼の病室は不思議なくらい病院の匂いがしない。所々に溢れている死の香りや薬品の香りが一切しない。
彼の眠っているベッド脇に置かれている季節の花たち。様々な種類の花たちが混同しているためか、匂いが一つではなく無数に散らばっている。
「会いにきたよ、碧。今日も空が綺麗だよ。ほら、眩しいでしょ」
レースのカーテンを開け、病室に太陽の光を取り入れる。
気のせいかもしれないが、花たちも嬉しそうに光合成でもしているかのようだ。
綺麗な顔のまま眠っている碧。いつからだろう。碧の首元からネックレスがなくなってしまったのは。
私たちが高校生になった時に、彼へプレゼントした銀色の鈴のネックレス。もしかしたら、治療の際電子機器に引っかかってしまうから取り外されたのだろうか。
碧とは中学1年生の時に彼の方から告白をされ、お付き合いをしている恋人。
あの頃の面影もほんのりと残ってはいるもののすっかり大人の顔つきへと変わってしまった彼。
もちろん、私だってあの頃に比べると幾らかは大人の女性へと近づいたはず。
今年で私たちは高校3年生に進級した。約5年の月日を彼と共に過ごしてきたんだ。5年...いや、正確には2年半だ。
碧が事故によって昏睡状態に陥ってから、2年半の月日が経過していた。
思い出したくもない悲惨な事故だった。事故の後遺症として、目に激しい衝撃が伴ったことで、視力が低下している可能性があるらしい。当然、目を覚ましていないので本当かどうかは定かではない。
確かあの日は、私と碧は2人で下校していた。
雨降る中、2人で一つの傘を差しながら、数分後に起こる事故のことなんて頭には全くないくらい幸せに満ちていたんだ。
「なぁ、優華」
「んー?」
「知ってるか?」
「知ってるって、何をさ」
「叢雲神社の言い伝え」
「何それ、そんなのあるの?」
叢雲神社。私たちの住んでいる地域にあるかなり古くから存在するちっぽけな神社。
日当たりも悪く、日中でも神社を囲う軒並み背の高い木々たちによって太陽の光が遮断されているため、暗くて薄気味悪いので地域の人は滅多に近寄ることがない。
よく同級生やお酒を飲んだ酔っ払いの大人たちが、夜道神社の近くを通って「見た」という情報を耳にする。
本当に幽霊を見たのか疑わしいところではあるが、嘘だと断定することも出来はしない。
「そうなんだよ。噂だけど、なんでも願いが叶うらしいよ」
「えー、なんか嘘くさい。だって、なんでも願い叶うなんて都合良過ぎない?」
「そうか?漫画だとよくある話じゃん」
「それは漫画だからでしょ!漫画と現実を混同するなし」
「なんだ。その噂は嘘なのか・・・結構信じてたのに」
碧は持ち前の明るさからクラスでも人気者。一言で言うと、スクールカースト上位勢。
それに比べ、私はというと中の下辺り。碧が私に告白してきた理由は今でも教えてくれない。
初めは思春期男子の間で流行る嘘告白かと思っていたが、碧と過ごすうちにそれはないと確信した。
彼は嘘がつくことが出来ないほど、バカ正直な人間なのだ。だから、こうして噂の一つや二つ簡単に信じこめてしまう。
良いことでもあるが、悪く言えば騙されやすい。
「じゃあさ、今からその噂を確かめに行こうよ2人で」
この一言が私たちの未来を大きく変えてしまった。私がこんなことさえ口にしなければ、碧が眠ってしまうことなんてなかった。
今でもきっと私の隣でバカなことを言って笑っていたであろうに。
ごめんね碧。私のせいで、君の未来を奪ってしまった。悔やんでも悔やんでも許せない気持ちに押しつぶされそうだよ。
眠る碧の顔を眺めながら、あの日を思い出す私。そこから先の悲劇については思い出したくない。
1日の終わりに眠るたびにあの光景が鮮明に思い出される。暗い夜道に降り注ぐ雨の中、眩しいくらいに視界を照らした車のヘッドライトが...
今日も彼は目を覚ますことはなかった。気付けば、時刻は18時を過ぎて窓から映る外はあの日と同じように闇に包まれ、雨が世界を濁していた。
不安が立ち込めるような灰色に濁った空だった。
事故にあった日と同じ帰り道を歩く。もう少し歩けば、叢雲神社が見えてくる。あの日と決定的に違うのは、私が1人で傘を差していること。
それ以外はなんの大差もないありふれた日常の一角。空から落ちてくる雨粒一つ一つが傘に当たり、孤独感をさらに強めていく。
一台の車が前方から走ってくる。車の正面に取り付けられたヘッドライトから、こちらを満遍なく照らす眩い光。
何事もなく私の横を通り過ぎていったが、嫌な過去がフラッシュバックされてしまった。
「・・・ここだ」
雨脚は一向に弱まることなく周囲の地面を打ち続ける。
高い木々に囲まれた中心に長く伸びる石で作られた階段。雨で霧がかっているせいか、頂上にある神社の面影すら目視することが出来ない。
雨も相まって、より一層不気味さが増しているようにも感じられる。正直、心細くて帰りたい。ここから逃げ去ってしまいたいけれど、今の私には単なる言い伝えを信じることしか彼を助ける方法が思い浮かばない。
携帯をライト代わりにして、慎重に一段一段足を踏み外さないように登っていく。一段一段の幅は意外にも広いため、足を滑らせることはなさそうだが、登るたびに光が失われていくのが怖すぎる。
まるで、真夏にする肝試しを体験しているかのような気分。
「これ・・・何段あるんだろう」
息が徐々に切れかけてくる。階段を登り始めてから既に5分は経過しようとしていた。田舎の神社であれば、とっくに頂上に着いている頃だろう。
私たちが住んでいるこの場所も田舎なはずなのに、どうしてここまで高いところに神社があるのか不思議でたまらない。
叢雲神社に普段から地域の人たちが参拝しに来ない理由がわかった気がした。
何分経過しただろう。頂上に着いたのは、登り始めてから12分経った頃だった。
息が乱れるだけでなく、まだ春先なのにもかかわらず、ひんやりとした汗が背中を伝っていた。
「や、やっと着いた」
肺に酸素を取り込むために息を吸うが、多くの酸素を肺に取り入れようと肩が上下に動く。
少しずつ乱れていた呼吸は、正常になりつつあったが、1度流れた汗が落ち着くのにはまだ時間がかかりそう。
頂上から今登ってきた階段の景色を見ようと振り返るが、視界に映ったのはほとんど真っ暗闇だった。
見えたのは、せいぜい10段ほど下の階段くらい。一体この場所はなんなのだろうか。
なんのために作られたのだろう。明らかに参拝目的に作られたとしては不便すぎる。
「何ここ、くっら」
携帯のライトがなかったら、真っ暗闇で神社の影すら見えなかっただろう。ライトがあったおかげでぼんやりとだが、輪郭らしきものは見えてきた。
「え、ここなの・・・」
正面に見えたのは、こぢんまりとした神社。とても神社までの階段の長さとは、比例していないものと思われるサイズ感。
本当にここが「なんでも願いが叶う」叢雲神社なのだろうか。失礼かもしれないが、とても願いが叶うような神社には見えない。
不気味に思いながらも足を神社の方へと進めていく。近づけば近づくほど神社の異様さは増していくばかり。
賽銭箱に小さな鈴。きっとこの賽銭箱には1円も入ってはいないのだろう。
そーっと中を覗いてみるも賽銭箱の構造上中身を見ることはできなかった。ただ、奥の方でキラリと光る何かが見えた。
もしかしたら、私の他にも利用者がいたのかもしれない。
「どうすれば良いんだろう・・・どうしたら神様に会えるんだ」
噂で聞いただけで手順のことなど一切知らない。ましてや、この噂が本当なのかすら危うい。
それでも、諦めるわけにはいかないんだ。碧を助けるためには、絶対に神様に願いを叶えてもらうしか...
財布から16円を取り出し、賽銭箱の中へと放り込む。16円。神様に自分が訪れたことを知らせるための合図。
古びているので壊れないようにゆっくり丁寧に、上からぶら下がる鈴を3回鳴らす。
「神様。お願いします。どうか、碧のことを助けてください!」
鳴り止む鈴の音。響いていたはずの鈴の音がぴたりと止んだことで、より静けさが深くなっていく。
聞こえてくるのは、風に揺れる木々の葉の音のみ。心地のいい音だが、今望んでいるものではない。
「ダメか。やっぱり噂だったのか・・・」
わかってはいたけれど、少しだけ希望を見出していた反動は大きい。彼が目覚めるまで、あと私は何年待ち続ければ良いのだろうか。
一生目が覚めないかもしれない。そんなの私には耐えられない。私のせいで、昏睡状態になってしまった碧。後悔ばかりが募っていく日々。
辛い現実から逃げてしまいたい。あぁ、お願い。神様、願いを...この願いだけ叶えてください。私がどうなってもいいです。彼を助けることができるのなら、私は...
『ほう、そうか。それなりの覚悟はあるようだな小娘』
突如私の脳内に響いてくる声。慌てて周囲を見渡すが、誰もおらず気配すら感じない。
『おい、お主はわしに願いがあってここに来たのだろう?』
「か、神様?」
『あぁ、今はお主の脳に語りかけておる。それで、端的に聞くが願いはなんだ?条件次第では叶えてやらんこともない』
「ほ、本当ですか!」
『神が嘘をつくわけなかろう。話してみせよ』
「実は、私の恋人が事故で昏睡状態に陥ってしまって、その彼を目覚めさせてほしいんです」
『・・・なるほど。状況は理解した。それで、その者の名は?』
「あお。霧島碧です」
『・・・そうか』
なぜだろう。先ほどの声よりもいくらか低く聞こえてくる。もしかして、無理な願いだったのだろうか。神様にでもできないことがあるのだとしたら、もう私にできることなど...
『よかろう。その願い叶えてやろう。ただし、先ほども話した通り条件がある』
もちろんタダで願いが叶うなんて思ってもいなかった。それは、ここに来る前から覚悟はしていた。
「どんな条件ですか?」
『そうだな。代償として絶望を与えよう。それが、どんな形の絶望なのかはお主には一切伝えることはない。それでも良いのなら、願いを叶えてやろう』
このチャンスを失ってはならない。唯一彼を助けることができる最後の希望なのだから。
「お願いします!」
『迷いがないのだな。どんな現実が待っていても決して目を逸らしてはならないぞ。約束だ。わしにできるのはここまでじゃ』
「はい、ありがとうございます!」
『うむ』
スーッと神様がどこかへ行ってしまったのが感じ取れた。不思議な感覚だった。目には見えないのに、声だけは聞こえる。
話したところで誰も信じてはくれないだろうが、これで碧は目を覚ます。ようやく私たちの止まっていた時間が、再び同じ歩幅で動き出す時が来る。
胸の奥底から湧き上がる高揚感と、私の身に振りかかる代償に怯えながら、私は叢雲神社を後にした。次ここに来るときは、私だけではなく碧も一緒に連れて来ようと胸に決めて。
もし、もう一度神様に出会えなかったとしてもお礼だけは述べておきたいから。
普段よりも帰宅するのが遅くなってしまった。両親に多少心配をされたが、図書室で勉強していたと手短に嘘をついて、その場を逃れることができた。
本当なら神社のことを話してしまいたかったが、流石に両親といえど簡単には信用されなさそうなので、黙っておくことにしたんだ。
今日は本当に色々なことがあった。食事や入浴を済ませ、ベッドの上で仰向けで寝転がって今日1日を振り返る。
「明日には、碧が目覚めてるのかな〜。2年半ぶりの再会か。碧、絶対私みたらびっくりするだろうな」
ベッドの上で足をバタつかせ、軋む音が部屋に響き渡る。まるで、小学生が翌日の遠足に備える前日と大して変わらない。
自分でもわかるくらいに浮かれていた。浮かれずにはいられなかった。きっと明日になれば、碧が目覚めていると信じて目を閉じた。
興奮していて眠れないかと思っていたが、疲れた体は正直だったようで一瞬にして意識が飛んでいった。
"チン"一階からトースターでパンの焼ける音で目が覚めた。ベッドから降りて、部屋の扉を開くとコーヒーの香りがうっすらと鼻を掠める。
「痛い」
階段を降りようとすると、体の節々から悲鳴が上がる。どうやら、普段から運動を怠っていたせいか全身。特に下半身が筋肉痛になってしまったらしい。
一段一段階段を降りるだけで、ズキズキと足腰に痛みが走る。
「もしかして、これが代償なの?そんなわけないか」
時間をかけて一階へ降りていく。今日が休日でよかった。平日だったら、学校でもこんな状況は大変でしかないから。
一階へ降りると、さらにコーヒーの匂いが強まる。コーヒーだけでなく、甘いジャムのような香りが私の食欲を引き立てる。
「おはよう」
リビングの扉を開ける。私の部屋とは違って、全方位から光を取り込んでいるためか、やけにリビングが眩しく見える。
どうしたのだろう。なぜか、いつもと視界が違って見える気がする。
「おはよう、優華」
お母さんの声に促され、椅子に座る。目の前に置かれたトーストと私限定の砂糖がたくさん入れられた甘いコーヒー。
「今日さ、朝ごはん食べたら病院に行ってくるね」
「わかったわ。気をつけて行ってきなさいね」
「うん」
「碧くんが眠ってもうすぐで3年になるのね。早いものね、時の流れって」
「そうだね。同じ3年でも碧と私の時間の感覚は違うんだもんな〜」
「そうね。3年・・・ほんとあっという間だったわ」
意味ありげにしみじみと呟くお母さん。この何気ない言葉が予期せぬ形で、私に降りかかってくるなんて今は思ってもいなかった。
朝食を食べ終えた私は準備を済ませ、家を出ようとしていた。今日の服装は、白のワンピースの上に薄手の黒いカーディガンを羽織るスタイル。
靴は黒いブーツで少しだけ大人に見えるように着飾る。碧が目覚めているはずだからと張り切ってしまったが、今思うと少しだけ張り切り過ぎていないか心配。
「お母さん、行ってくるね!」
「はーい。あら、綺麗!すっかり大人の風貌ね」
「でしょ!」
「うん。本当に綺麗になったわ。気をつけてね」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉を開くと、眩い光が差し込んでくる。正面に立ち並ぶ家の上から顔を出すように、綺麗な眺めではあるが光が強過ぎて目が痛い。
目が痛い...?そんなこと今までなかったのに、どうして。
突如激しい痛みが、目を突き刺す。まるで、針で眼球を刺されているかのような鋭い痛み。
「あぁぁぁ、痛い!」
目元に手を当てるが、血は出ていない。脳裏によぎったのは、神様の言葉。絶望というなの代償。
わかってしまった。これが、代償なんだ。目が見えなくなることが私の代償。そして、絶望はただ目が見えなくなるだけではなく、今日目覚めるであろう彼の顔をもう2度と見ることができなくなるということ。
鋭く刺さる痛みに耐えながら、一歩一歩確実に前へと足を進めていく。病院までは近道すれば、5分で着く。だから、どうかそれまで間に合ってください。
最後に1度でいいので、彼の元気な姿をこの瞳に映させてください。お願い神様。
ぎゅっと痛みに耐えるため、自然に力が入ってしまう両手。急げ私。最後まで諦めるな。ここまで頑張ってこれたんだ。最後の力を振り絞ってみせろ。
カツカツっとブーツが地面を歩く音が耳を震わす。大丈夫。碧さえ生きていれば、私は目が見えなくても生きていけるから。
だから、もう少し待っててね碧。
道路の端で1羽のカラスが、全身を怪我しているのにさえ私は気が付かなかった。
病院の玄関に着く頃には、目の痛みは嘘だったのかのように消え去ってしまっていた。おかしい。代償は失明ではなかったのか。しかし、先ほどから視界がぼやけている気がする。
そんなことよりも今は、碧の状態が先決。どんな顔をして碧に会ったらいいのだろう。碧...あれ。何か忘れているような。
はやる気持ちを抑えつつ、エレベーターに乗り込み碧の病室がある階のボタンを押す。エレベーター内には私以外は誰も乗ってはいなかった。
1階、2階と時間を追うごとにエレベーターは上の階へと上昇していく。
「あと少しで、碧に会えるんだ。びっくりするだろうな〜」
エレベーターの到着音が響き、ゆっくりと重たいドアが開いていく。この瞬間、神様が代償として私から奪ったものは、この世で私が最も大切にしているものだった。
「あれ。私何してるんだろう」
見知らぬ場所に立っている私。この場所がどこなのかさっぱりわからない。わかるのは、どこかの病院の中にいるということだけ。
鼻を掠める死の匂いや心地の悪い薬品の香り。どれもが私にとっては馴染みのない匂いで、不快感が募っていくばかり。
目の前の壁には、『霧島碧』と書かれたネームプレートが貼り付けられている。たぶんだが、集団部屋ではないだろう。この階にある病室は『霧島碧』という人の病室以外に2部屋しかない。
何をしにきたのか思い出せない。でも、何か目的があって来たのには間違いないのに。なんで思い出せないんだろう。
私の胸の中に残る違和感の正体は一体なんなのだろうか。手を伸ばせば届きそうなのに、どんどんと風に流される風船のように何かが私から遠ざかっていくみたいだ。
このままエレベーターに乗って、家へと引き返すことだってできた。でも、不思議と目の前に佇むドアの奥にいる人物に会わないといけない気がしたんだ。
顔も知らない他人になぜ、興味が沸いたのかはわからない。ただ、神様が「開けてみろ」と囁いている気がした。
勇気を振り絞りドアを開くと、そこは病院とは程遠い花に包まれた香りが部屋中に漂っていた。
どのくらい寝ていたのだろうか。目を覚ましたが、体が思うように動いてはくれない。起き上がるのでさえ、困難を極めている。
僕の記憶が正しければ、以前はここまで指一つを動かすのに苦労はしなかった。むしろ、意識したことがなかった。当たり前に動かすことができるものだったから。
グーッと指を曲げたり、伸ばしているうちに少しずつ感覚が戻り始めてきた。自由にとまではいかないが、自分の体にかけられた布団を掴む程度には。
静かに病室のドアが開く。わかっていた。ここがどこで、僕はなぜ寝ているのか。そして、今から僕が会う人物が誰なのか。
「や、やぁ。ひ、ひさしぶりだね。優華」
長い年月言葉を発していなかったからだろう。うまく言葉を紡ぐことができない。
僕の記憶にはない大人びた姿の彼女が、少しずつ僕の病室へと足を踏み入れる。
「・・・・・こ、こんにちは」
「え?」
「あ、あの。突然申し訳ないんですけど、なぜかあなたに会わないといけないような気がして」
「・・・・・」
「ご、ごめんなさい。お、おかしいですよね。私たち今日初めて会う他人なのに」
言葉を失ってしまった。何を言えばいいのかわからなくなってしまったんだ。初めて会う?確かに僕は何年もの間寝ていたのかもしれない。
パッと見た感じ彼女は高校生ぐらいだろう。そうなると、まだ2、3年しか経ってはいないはず。そんな短期間の間に人を忘れることなんてあるのだろうか。
まして、2年半ほど付き合った彼氏の存在を忘れることなんて...
「ぼ、僕のこと。ど、どこかで見たとか・・・」
「いえ、今日初めてお顔を見ました」
僕は彼女の顔を見ることはできなかった。きっと彼女から見た僕の顔は、悲しみと憎しみが入り混じった顔をしているに違いない。
彼女の声には申し訳なさは一切なく、本当にここがどこで、僕が誰なのかわからず戸惑っている声だった。
泣きたくなった。僕の世界は彼女でいっぱいだった。もちろん、彼女もそうだったはず。それなのに、彼女の世界から僕は跡形もなく消え去ってしまった。
微塵の欠片も残す事なく完全に。でも、これは僕への罰なのかもしれない。
彼女を助けるために嘘をついてしまった僕への神様の怒りなのだろう。
ごめん。優華。僕は君に嘘をついていた。神様と取引したのは、君だけではないんだよ。
あの日。事故に遭ったのは、僕ではなくて君だったんだ。足がすくんで動けなくなった僕を庇う形で助けてくれた君。
昏睡状態となり、医師からは「目覚める可能性は低い」と言われて眠っている君をただただ上から見ているのは辛かった。
だから僕は決断した。僕はどうなっても構わないから、どうか優華のことだけは助けてくださいと。言い伝えのあった叢雲神社で懸命に祈ったんだ。
その後のことは、君も知っている通り。いや、今はもう覚えていないか。
「あ、その。私たちって本当はどこかで会ったことがあるのではないでしょうか?」
僕の顔色を伺うかのように、真っ直ぐ僕の目を見て話す彼女。思い出そうとしてくれているのかもしれない。でも、その表情は苦しみに囚われていた。
僕の答えは一つしかない。常に僕は彼女のことを想って、自分のことなど顧みず行動してきた。今の僕にできることは...
「会ったことはないですよ。もしかしたら、どこかですれ違っていたりとかはあったかもしれないですけど」
気付けばスラスラと言葉が口から出るようになっていた。神様からの最後の労りなのかもしれない。苦しんだ僕ら2人への同情として。
「そ、そうですか」
涙が出るのをグッと堪え、無理矢理でも笑顔を作ろうと努力する。これ以上、彼女を苦しませたくはなかった。散々僕の勝手な行動のせいで、苦しい日々を過ごさせてしまった彼女を。
辛いな。眠っていた彼女がこうして、元気に過ごせているというのに、僕は彼女に触れることさえ許されない。他人となってしまった僕らの壁は思っていた以上に高く聳え立っている。
失うのも辛いが、忘れられるのも辛い。笑い合った日々、手を繋いで帰った道。全てを忘れてしまった彼女。
「あ、私。そろそろ帰りますね。これ以上は申し訳ないので」
行ってしまう。今、彼女を手放せば、もう僕らは一生交わることのない人生を歩む気がした。後悔をするくらいなら...
「もし、よければ僕と友達になってくれませんか?」
僕らの物語は一度終わってしまった。でも、また始めればいい。忘れられても何度だって、僕は君の側に居続けるから。
何度も何度も君の小さな手を守り続ける。だから、今度は僕に君を守らせてよ。君が僕を守ってくれたように。
僕の声を聞いて嬉しそうに笑う君は、僕の記憶の中で笑う君とそっくりだった。