……さんびゃくごじゅうろく、さんびゃくごじゅうしち、さんびゃくごじゅうはち……。

 窓から差し込む陽光は、もう時節も秋にさしかかっているから、そうつよいものでもない。

 気温も、むしろ肌寒いといえた。高地に位置するこの辺境のまちの秋は、冷涼な気候とゆたかなみのりでよく知られている。

 それでも、朝方からすでに太陽が中天にさしかかるいままで、ずっと鍛錬をやすまないユーリアのからだを冷やすには、まだ、大気があつすぎる。

 片腕だけを床につき、上半身をささえ、うしろで結んだ紅い髪が床につくまでおろして、また、あげる。そういった運動を、彼女はずっと、つづけている。

 身体の下にたまった、汗。細身の、けっして隆々とは表現できない彼女の腕、頸筋、せなか。その身体を構成する筋肉は、うつくしくはあるが、見るべきものがみれば、そこにすさんだ野生を見出したかもしれない。

 衣服をまとっていない。

 わずかな腰衣だけをつけ、鍛錬をつづけている。流れる汗が、小ぶりの胸のあいだをおち、腿をつたう。ずいぶんたってから、たちあがった。手近の布をとって乱暴にかおを拭う。

 瓶に近寄り、杓子でみずをくみあげ、飲み干す。

 と、その柄杓を、叩きつけるようにおき、噛み締めた歯のあいだから言葉を漏らした。

 「……ちくしょう……ちくしょう。どうして、届かない……」

 昨日のことを、思い出している。

 すでに十七のとしをむかえているユーリアの剣技は、近隣のおとこどもを圧倒するのは当然として、騎士をまねいて行われる地方の試技会においてもやぶれたことがない。うわさを聴いた王宮のつかいが彼女のいえを尋ねることもあったが、つねに、追い返された。

 彼女がみているのは、ただ、ふたり。

 鬼王。

 王の盾とうたわれ、国の誇りであった、彼女の父、男手ひとつで彼女を守り続けた最強の騎士を、彼女のななつのとき、その目の前で、ほふった、怨敵。つねに仮面をつけており、その顔にみにくい傷をもつともいわれている。

 そして、父の死後、すぐに彼女の前にあらわれ、彼女をまもり、いままで導いてくれた剣士、ゼオ。養い、剣をおしえ、いきる術をつたえてくれた彼を、ユーリアはなんども、おとうさん、と呼ぼうとしたが、そのつど、ゼオは手を振った。

 「おまえの父は、ひとりだけだ」

 ゼオは、しかし、指導においては容赦なかった。

 もちろんはじめは、剣をもつことすらままならなかったユーリアである。しかし、その彼女をも、ゼオは、けりたおした。泣く彼女をおいて、家にはいった。次の日も、また次の日も、彼は、もてる技術のすべてを、擦り込むように、きざみつけるように、伝え続けた。

 そうして、昨日。

 何年もつづいた訓練のなかで、はじめて、ゼオのくびにユーリアのやいばが届きかけた。寸止めをする余裕もない。ユーリアは、まよいながら、それでも、剣をふりぬいた。

 が、次の瞬間に地にころがり、空を見ていたのは、ユーリアであった。

 「……筋肉で切ろうとするな。そして、あいての筋肉のうごきは、けっして見落とすな。そんなことでは、鬼王は、切れん」

 訓練において、何千回、何万回もいわれたことば。ユーリアが悔し涙をこぼすなか、ゼオは家にはいり、夕方にでて、今朝まで戻っていない。

 ユーリアは服をかぶり、しばらく、窓のむこうに広がるおだやかな風景に目をやりながら、ものおもいにふけった。

 が、やがて、その目がするどくなる。

 たてかけてある獲物をとり、戸口から駆け出す。

 馬上のひとかげ。いくにんかの騎士らしい影が、彼女のいえに近づいていた。

 先頭をゆく、ひときわ大きな影。

 ユーリアの目がおおきく見開かれ、怒りと、緊張とで、充血した。

 「……鬼王……っ!」

 忘れもしない、しろの、仮面。鬼の面相が彫刻されている。国の騎士団が何年も追い、すべて返り討ちにされてきた、王の敵。その姿はすぐに大きくなり、やがて彼女の家のまえまでついた。鬼王は、しばらく黙してから、ゆっくりと、くぐもった声をだした。

 「貴様。王の盾の、むすめか……ひさしいな」

 こたえない。ユーリアはいま、ひとの言葉を解さない。なぜここに、どうして、いま。そんな疑問は、いっぴきの獣となった彼女のこころに宿り得ない。めのまえの怨敵にむかって、跳んだ。

 左右の騎士たちが割ってはいる。剣先が彼女のわきばらに殺到する。が、ユーリアはすでに、右の騎士の背をみながら、細身の剣をおおきくふりかぶっている。

 左の騎士がさらに剣をつきだす。身を捻り、ふりかぶった剣の尻をたたきつけ、そのまま右の騎士に振り下ろす。血飛沫。地におちる、ふたりの騎士。

 鬼王が、ものもいわず、馬を降りる。

 ユーリアが構える。

 彼女をおそう、凄まじい闘気。かてるのか。手が震える。闘うまでもなく、力量の差が明らかだった。だが、彼女がいきる意味は、この戦闘のむこうにしか落ちていない。

 相手が先行した。音速をこえて流れる刃。彼女が反転するのがわずかでも遅ければ、そのくびは地にころがっていただろう。その一撃が彼女の目をさました。跳ぶ。剣をふるとみせ、ひといきにかがんで脚を払う。同時に刃を突き立てる。鬼王はのけぞってそれを躱し、飛び退って、かまえなおした。

 立て続けにかわされる剣戟。ユーリアの剣が、優勢にたった。いくつかの傷が鬼王のからだに刻まれる。だが、しばらくのちに、見切られた。攻撃がとおらない。ユーリアは、おされ、みずからの家の壁際までおいこまれた。

 ふっ、ふっ、と、息を吐く、ユーリア。鬼王は、彼女の首筋に刃をあてながら、ひややかに見下ろしている。

 「……しまい、だな」

 ユーリアは、覚悟した。

 そのとき。

 筋肉のうごきを、けっして、見落とすな。

 ゼオのことばが、脳裏をはしった。

 鬼王のうでが、ほんのわずか、刹那、うごいた。

 捉えて、ユーリアの腕が振り上げられる。鬼王の剣がとばされる。その蹴りが彼女の腹をつく。倒れ掛かり、こらえて、地を蹴った。鬼王のむなもとに剣をおくる。切先は、だが、鬼王が差し出した腕の上を滑った。

 筋肉で、切ろうとするな。

 ふたたび、ゼオの言葉。ユーリアは、瞬時、いきをはいている。ちからを抜く。刃は、ただ、ながれ、鬼王の装甲のうえを滑らかにたどった。

 鬼王の胸、装甲のつぎめに、ユーリアの剣がつきたっている。

 倒れ伏す、鬼王。

 たがいに、うごけない。

 どれだけの時間がたったか。ユーリアは腰をおとし、鬼王の仮面を、剥いだ。その目が、濡れている。

 あいての頬にも、涙がある。仮面を剥がれたゼオは、やがて失う呼吸の、さいごのいくつかで、ユーリアに語りかけた。

 「……よく、できたな」

 「……しっかり、みたよ。あいてのうごき、筋肉の、うごき」

 ゼオは、わらって、わずかに頷いた。

 「……いつから、わかった」

 ユーリアは、くっと唇をかんで、しばらく堪えて、ようやく、少しだけ、微笑むことに成功した。

 「……だいすきな、ずっとずっと追いかけた、太刀筋。まちがえるはずがないじゃない……おとうさん」