ある日私が迷い込んだのは、一言で言うなら『花の世界』だった。
柔らかな光の差す、温室のような建物の中。場違いな白いベッドで目を覚ました私は、夢と現の境界で眠る前の記憶を辿ろうとするけれど、噎せ返るような甘い花の香りに頭が上手く働かない。
ベッドから降り、辺りを見回す。様々な種類の花が咲き乱れ、そこはまるで花の迷宮のようだった。
ふわふわとした足取りで、夢見心地のまま温室を抜けると、やがて拓けた場所へと出る。
「……何、これ」
そこには、現実離れした光景が広がっていた。頭のてっぺんから大輪の紅い花を咲かせた人。全身に蔓が幾重にも巻き付き雁字搦めになっている人。ネックレスのように首に咲きかけの蕾をつけた人。お腹の空洞にまるで赤ん坊のように花を抱えた人。
色んな植物に寄生されたような人々が、日差しが降り注ぐ中、優雅にお茶会をしていたのだ。
「……」
まだ夢でも見ているのだろうか。靄がかかったようにぼんやりとする頭で、私は必死に考える。ここはどこで、あれは何なのか。
「……あら? 新しい花が目覚めたのね」
呆然と立ち竦んでいると、白いドレスの女性が私の存在に気付き、笑顔で近付いてくる。
友好的な様子に安心しかけたのも束の間、よく見るとその女性は手首からぐるぐると棘のある蔦を食い込ませ、血を赤い花として咲かせていた。そして、本来右目のある場所には目玉ではなく、咲きかけの丸みのある花が埋め込まれている。
花に侵食されているその姿に、思わず悲鳴を上げ掛けて、何とか堪える。
「……っ」
「こんにちは、お嬢さん。今目が覚めたの? 喉は渇かない? お茶は如何?」
「こ、こんにちは……すみません、私、ここがどこなのか、わからなくて……」
しどろもどろになりつつも、何とか言葉を紡ぐ。『目が覚めたら見知らぬ世界だった』なんて自分でも信じられないような状況を、改めて口にすると戸惑ってしまう。しかし彼女はそんな私に対して、朗らかに笑み肯定してくれた。
「あら、そうよねぇ……座ってお話しましょう。ねえあなた、お名前は?」
「……レイアです」
「レイアちゃんね。わたしはエマよ、宜しくね」
「は……はい」
終始にこやかな彼女は、恐ろしい外見とは裏腹に会話も通じるし敵意はなさそうだった。私は引きつる表情を何とか笑顔に保ちながら、促されるままお茶会の席につく。
胸の内に溢れる混乱と恐怖と不安、けれどそれよりも今は、何かしらの情報が欲しかった。
「さあ、どうぞ」
エマさんが茨の食い込む手で差し出したのは、色とりどりの花弁の乗った白い皿だった。
「……花?」
戸惑いながら辺りを見回すと、他の席でも同じように花の皿があり、皆それを食べながらティーカップ片手に談笑をしている。
不思議の国のいかれた帽子屋達のお茶会に迷い込んだような感覚だ。
私の様子に気付いたエマさんは、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ……花を食べるのは初めてよね。戸惑うのも無理ないわ。でも、ここでは花が唯一の食べ物なのよ」
「そうなんですか?」
もしかすると、皆は花を食べ過ぎたせいで身体からも生えてきたのではないか。そんな疑念が浮かんだが、口に出すのは憚られた。
「ええ、でも抵抗があるなら、お茶だけでもどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
知らない人から物を、ましてや口に入れる物を貰ってはいけないと思いつつも、先程から照り付ける日差しのせいで、喉が渇いて仕方無かった。
私は恐る恐るティーカップを手に取る。カップの底にも沈む花弁に一瞬躊躇しながらも、紅茶を一口含んだ。
「……美味しい……!」
「ふふっ、良かった。おかわりもあるから、遠慮しないでね」
仄かな甘味のある華やかな香りの紅茶は、全身に染み渡るようだった。私はあっという間に飲み干して、一息吐く。
エマさんはとても優しく、花があるだけで普通の人と何も変わらなかった。警戒もすぐに解け、私は改めて目覚めてからの疑問を口にする。
「ここ、どこなんですか? 私、気付いたらあの温室で寝ていて……」
「皆はここを『花の庭』と呼ぶわ。でも……わたし達も、気が付いたらここに居たの」
「えっ!?」
皆も私と同じ状況。異形のように見えるその姿に、彼女達自身も困惑しているのだと知って、怯えてしまったのを申し訳なく感じた。
「……花、痛くはないんですか?」
「痛いって程じゃないけど、違和感はあるわ」
「そうですか……何なんでしょう、それ」
その疑問には、答えてくれなかった。見知らぬ場所に来て身体から花が生えても、順応して、のんきにお茶会なんてしている。その光景はやはり異常だ。
「花ですし、その内散ったり枯れたりしたら取れる……とか?」
「そうね。でも……花の庭で、枯れた花を持っている人は居ないのよ」
確かにお茶会をする何十人もの人達の中に、枯れた花を宿している人は居なかった。
しかし遠くの席に、花弁を一枚だけ残した茎を首から生やした少女を一人見付けた。
「あの子……」
「ああ、レイアちゃんの少し前に来た子だわ。……花弁、あと一枚ね」
「あれが散ったら、どうなるんです?」
少女は花弁を大切にしているようで、動く度に一枚が残っているか気が気ではない様子だった。
しかし不意に髪が風に靡き、その花に絡む。
花弁が取れてしまうかもしれない。慌てて駆け寄ろうとした私の手を掴み、エマさんは緩く首を振った。
彼女の棘がわずかに食い込み、痛んだことに気を取られた瞬間。ふわりと、これまでで一番強い花の香りがした。
「え……?」
反射的に視線を向けると、そこにはもう、少女の姿はなかった。
飲み掛けの紅茶がテーブルクロスに染みを作り、地面には割れたカップと、花弁のない茎だけが残されていた。
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