*
あれはたしか、itとしてこの世に生をうけてから、二ヶ月が経った頃のこと。
若手俳優演じる男女二人の恋を描くドラマをみるのが趣味になっていたため、自然と恋愛についても興味を持った私はかつて実験者に問いかけたことがある。
「あの……人間と、itは恋をしてはいけないのでしょうか」
固まった瞳をわずかに動かした実験者は、手を止めて視線を上げる。血色のない唇が動く。
「君がなぜitと呼ばれるか知っているかい? imitation、つまり『ニセモノ』って意味さ」
幼い子供に言い聞かせるように、じっとこちらを見つめてくる。
「itになった子はみんな、自分の境遇を受け入れている。人間と恋など、はなからできないと分かっている。反対方向の歯車は、決して噛み合うことはないからね」
人間とit。歯車の外見は同じように見えても、回り方が違う。内側に回るか、外側に向けて回るか。
それが違えば、一生、噛み合わない。
「君は笹原まゆがいるからこの世に存在するのであって、君は『ニセモノ』にすぎないからね。勘違いしてはいけないよ」
その瞬間、身体の力が抜ける感覚がした。
ーーそうだ、私は『ニセモノ』だった。
──────
迎えた火曜日。結局、この前の出来事はなかったことにするという決意に反して、私はこの前と同じ河川敷に行った。
我慢しようと思っても、どうにも会いにいきたい衝動に駆られて、自分の気持ちを消し去るなど無理だったのだ。
するともう水樹くんはそこにいた。
おだやかな笑みを浮かべてこちらに手を振る水樹くんをみると、胸の奥がキュッと痛んだ。
「久しぶり。会いたかったよ」
「……私も」
偽っている。ニセモノなのに、私は今、ホンモノの『笹原まゆ』のふりをしている。
水樹くんはとても優しく私の話を聞いてくれた。それが、すべての人間に対する態度なのか、それともまゆだけに対する態度なのかは分からないけれど。どちらにせよ、まゆが彼に惹かれるのは明白だった。
ーーだって、まったくの他人である私ですら、彼のことを好きになってしまったから。
そよ風が頬を撫でる。となりから聞こえる彼の優しい音色を大切に抱きしめて、私はまたひとりぼっちに戻らなければいけない。
私はすうっと息を吸った。
「私、まゆじゃないの。双子でもない。実験によって生み出されたニセモノなんだ」
双子、というと、まゆとある程度関係のある水樹くんにはすぐに否定される可能性があった。世間的には、私はいないものとして扱われている。つまるところ、笹原まゆは一人っ子となっているわけだ。
「信じられないかもしれないけど、端的に言うと私は人間じゃない。私は笹原まゆじゃなくて、笹原あゆって言うの」
意味不明だと気味悪がられても、それでいい。だって、どうせもうすべて終わりなのだから。出会ってしまったのが最初から間違いだったのだ。
だから、もう終わりにしなきゃいけない。そう伝えなければならないのに、喉が詰まってしまったみたい。苦しい、悲しいと心が叫んでいる。
自分の心が誰を求めているのか、痛いほど分かってしまった。
こんな気持ち、知りたくなかった……。
自分には無関係だとどこか他人事のように、水樹くんを想うまゆを見ていた。幸せになってほしいと思っていたし、彼の言動に一喜一憂するまゆを応援したいとも思っていた。けれど正直、恋をすることがこんなにもつらくて切なくて、どうしようもないことだとは思いもしなかった。だから心の底からまゆを祝福できたことも、一緒に哀しめたこともなかった。
だけど今は、わかる。
この人がいない世界で、私はこれからも生きていかなければならない。それがどれだけ過酷で、残酷で、果てしない道か。きっと、想像を絶するものだろう。
困ったように泣き笑いを浮かべた水樹くんは、静かに口を開いた。
「驚いたよ。打ち明けてくれたことに感動もした。でもいちばんは……嬉しいんだ。僕も、一生叶わないって思っていたから」
え、と。今度は私が疑問符を浮かべる番だった。
「僕は確かに"水樹くん"だけど、水樹隼人じゃなくて、水樹奏人」
しばし沈黙が降り、理解する。
なるほど、彼はまゆの想い人ではない。実は水樹くんには双子がいたのだ、知らなかった。
じゃあ私は、まゆの好きな人を好きになったわけじゃないんだ……。
ずっと抱えていた罪悪感が消えていく。まゆを騙しているようで、苦しかった。出会った時から、まゆに嘘をつき続けている自分が、大嫌いだったから。
じゃああとは、私がこの気持ちを我慢して、蓋をして、閉じ込めてしまえばいいだけ。
私が人間である彼と恋愛をできないことは、紛れもない事実なのだから。
溢れそうになる涙をぐっと堪えて、拳を握り締める。強く食い込んだ爪が、震えそうになる唇の動きを阻める。
「あの、奏人くん。あなたが隼人くんと双子だってことはわかったけど……人間と私は、恋ができないの。そういうルールなの。それなのに……私、奏人くんのことを好きになってしまった」
まゆが言っていた"水樹くん"と、今目の前にいる"水樹くん"が別人だったことに安堵したけれど、根本的な問題は解決されていない。
「だから、さようならしなきゃ。さようなら、させて」
いくら私が隼人くんのことを想おうと、結ばれることはない。
人間と、itだから。
なんと理不尽で、切ないことなんだろう。種族が違うだけで、引き離されてしまうなんて。ポロポロと涙をこぼす私の頭に、そっとぬくもりが乗る。見上げれば、それは隼人の手だった。
「人間とitは恋することができない。それは、僕も知ってる」
「え、いまitって……なんで」
「でも、itとitはどうなのかな」
それは、いったい。でもそんな、ありえない。信じたい、信じられない。そんな正反対な気持ちがぐるぐる頭を回っている。
彼からたしかな言葉を聞きたい。
「それはつまり、どういう話……?」
カラカラと歯車が再び動き出す音が聞こえる。ゆっくり、ゆっくり。たとえ他とは違う、外回りだったとしても。両方が同じように外向きならば、その歯車はいつまでも噛み合ってまわり続ける。
「itの水樹奏人が、itの笹原あゆを好きって話」
その瞬間、ふたつの透明な水滴がポタ、と静かに地面に落ちた。
了
あれはたしか、itとしてこの世に生をうけてから、二ヶ月が経った頃のこと。
若手俳優演じる男女二人の恋を描くドラマをみるのが趣味になっていたため、自然と恋愛についても興味を持った私はかつて実験者に問いかけたことがある。
「あの……人間と、itは恋をしてはいけないのでしょうか」
固まった瞳をわずかに動かした実験者は、手を止めて視線を上げる。血色のない唇が動く。
「君がなぜitと呼ばれるか知っているかい? imitation、つまり『ニセモノ』って意味さ」
幼い子供に言い聞かせるように、じっとこちらを見つめてくる。
「itになった子はみんな、自分の境遇を受け入れている。人間と恋など、はなからできないと分かっている。反対方向の歯車は、決して噛み合うことはないからね」
人間とit。歯車の外見は同じように見えても、回り方が違う。内側に回るか、外側に向けて回るか。
それが違えば、一生、噛み合わない。
「君は笹原まゆがいるからこの世に存在するのであって、君は『ニセモノ』にすぎないからね。勘違いしてはいけないよ」
その瞬間、身体の力が抜ける感覚がした。
ーーそうだ、私は『ニセモノ』だった。
──────
迎えた火曜日。結局、この前の出来事はなかったことにするという決意に反して、私はこの前と同じ河川敷に行った。
我慢しようと思っても、どうにも会いにいきたい衝動に駆られて、自分の気持ちを消し去るなど無理だったのだ。
するともう水樹くんはそこにいた。
おだやかな笑みを浮かべてこちらに手を振る水樹くんをみると、胸の奥がキュッと痛んだ。
「久しぶり。会いたかったよ」
「……私も」
偽っている。ニセモノなのに、私は今、ホンモノの『笹原まゆ』のふりをしている。
水樹くんはとても優しく私の話を聞いてくれた。それが、すべての人間に対する態度なのか、それともまゆだけに対する態度なのかは分からないけれど。どちらにせよ、まゆが彼に惹かれるのは明白だった。
ーーだって、まったくの他人である私ですら、彼のことを好きになってしまったから。
そよ風が頬を撫でる。となりから聞こえる彼の優しい音色を大切に抱きしめて、私はまたひとりぼっちに戻らなければいけない。
私はすうっと息を吸った。
「私、まゆじゃないの。双子でもない。実験によって生み出されたニセモノなんだ」
双子、というと、まゆとある程度関係のある水樹くんにはすぐに否定される可能性があった。世間的には、私はいないものとして扱われている。つまるところ、笹原まゆは一人っ子となっているわけだ。
「信じられないかもしれないけど、端的に言うと私は人間じゃない。私は笹原まゆじゃなくて、笹原あゆって言うの」
意味不明だと気味悪がられても、それでいい。だって、どうせもうすべて終わりなのだから。出会ってしまったのが最初から間違いだったのだ。
だから、もう終わりにしなきゃいけない。そう伝えなければならないのに、喉が詰まってしまったみたい。苦しい、悲しいと心が叫んでいる。
自分の心が誰を求めているのか、痛いほど分かってしまった。
こんな気持ち、知りたくなかった……。
自分には無関係だとどこか他人事のように、水樹くんを想うまゆを見ていた。幸せになってほしいと思っていたし、彼の言動に一喜一憂するまゆを応援したいとも思っていた。けれど正直、恋をすることがこんなにもつらくて切なくて、どうしようもないことだとは思いもしなかった。だから心の底からまゆを祝福できたことも、一緒に哀しめたこともなかった。
だけど今は、わかる。
この人がいない世界で、私はこれからも生きていかなければならない。それがどれだけ過酷で、残酷で、果てしない道か。きっと、想像を絶するものだろう。
困ったように泣き笑いを浮かべた水樹くんは、静かに口を開いた。
「驚いたよ。打ち明けてくれたことに感動もした。でもいちばんは……嬉しいんだ。僕も、一生叶わないって思っていたから」
え、と。今度は私が疑問符を浮かべる番だった。
「僕は確かに"水樹くん"だけど、水樹隼人じゃなくて、水樹奏人」
しばし沈黙が降り、理解する。
なるほど、彼はまゆの想い人ではない。実は水樹くんには双子がいたのだ、知らなかった。
じゃあ私は、まゆの好きな人を好きになったわけじゃないんだ……。
ずっと抱えていた罪悪感が消えていく。まゆを騙しているようで、苦しかった。出会った時から、まゆに嘘をつき続けている自分が、大嫌いだったから。
じゃああとは、私がこの気持ちを我慢して、蓋をして、閉じ込めてしまえばいいだけ。
私が人間である彼と恋愛をできないことは、紛れもない事実なのだから。
溢れそうになる涙をぐっと堪えて、拳を握り締める。強く食い込んだ爪が、震えそうになる唇の動きを阻める。
「あの、奏人くん。あなたが隼人くんと双子だってことはわかったけど……人間と私は、恋ができないの。そういうルールなの。それなのに……私、奏人くんのことを好きになってしまった」
まゆが言っていた"水樹くん"と、今目の前にいる"水樹くん"が別人だったことに安堵したけれど、根本的な問題は解決されていない。
「だから、さようならしなきゃ。さようなら、させて」
いくら私が隼人くんのことを想おうと、結ばれることはない。
人間と、itだから。
なんと理不尽で、切ないことなんだろう。種族が違うだけで、引き離されてしまうなんて。ポロポロと涙をこぼす私の頭に、そっとぬくもりが乗る。見上げれば、それは隼人の手だった。
「人間とitは恋することができない。それは、僕も知ってる」
「え、いまitって……なんで」
「でも、itとitはどうなのかな」
それは、いったい。でもそんな、ありえない。信じたい、信じられない。そんな正反対な気持ちがぐるぐる頭を回っている。
彼からたしかな言葉を聞きたい。
「それはつまり、どういう話……?」
カラカラと歯車が再び動き出す音が聞こえる。ゆっくり、ゆっくり。たとえ他とは違う、外回りだったとしても。両方が同じように外向きならば、その歯車はいつまでも噛み合ってまわり続ける。
「itの水樹奏人が、itの笹原あゆを好きって話」
その瞬間、ふたつの透明な水滴がポタ、と静かに地面に落ちた。
了