棚からぼたもち、それってすごくいいことのたとえだ。
 でも男児が降って来てあなたのものだと言うのは、果たしてありがたい出来事だろうか。いやいや、お断りだと言うのが平凡な自分の意見だ。
 彦丸はにやりと笑ってなおの肩を叩く。
「直助。目が死んでるよ?」
 時刻はもう丑の刻を過ぎようとする頃。しかしいろりの周りではなおと彦丸、美鶴、そして天井から降って来た謎の男が居座っている。
 謎の男は強引に自分を押し付けようと美鶴に言う。
「受け取ってください。あなたのものです」
 一方、美鶴もなおが思うように迷惑はしているようで、ひととおりの断り文句は言いつくしたところだった。
「間に合ってます。お引き取りください」
 なおはそのやりとりを数十回聞いたが、どうやって男を帰すかはまだ策がなかった。
 なおはここは家主たる彦丸にがつんと言ってもらおうと、彦丸に言う。
「そろそろ止めようよ、彦丸。危ないひとだよ、あのひと」
 なおには何が何やらさっぱりだが、美鶴が迷惑しているのだけはわかる。早く男を追い出すべきだと思うのだが、どうしてか彦丸は面白そうに見ているだけだ。
 彦丸はなおに首を傾けて言う。
「どうして止めるんだい? もらえるものならもらっておけばいいじゃないか。せっかくの大国主(おおくにぬし)の贈り物なんだし」
「おおくにぬし?」
「上で一番偉い神様だよ」
「なっ?」
 なおはびっくりして彦丸を見返す。彦丸も一応神様だという話だし、あちらの世界で何人か神様を名乗る妖怪にも出会ったが、一番となるとちょっと話が違う。
 なおは声をひそめて彦丸にたずねる。
「そ、そんな偉い神様が立花さんに飛脚便? なんで?」
「さぁ。単に送りたかったんだろう?」
「そんな適当な」
 なおはあきれたが、彦丸はのんびりと答える。
「私だって、日々結びたい縁を結んでいるもの」
「彦丸と一緒に……」
「お言葉ですが、比良神」
 ふいに男がきりりと眉を寄せて彦丸へ振り向く。
「上は、公平を期すために役所を整備して人員を管理しています。今回も美鶴さんに本来遣わすべきものをお与えになっただけです」
「ああ、そう」
 彦丸はあくびをしながら答える。
 なおは彦丸の腕をつかんで後ろを向かせると、耳に口を寄せて言う。
「下手なこと言わない方がいいよ。相手は偉い神様なんでしょ」
「うーん?」
 彦丸は首をひねってなおに返した。
「私の上司は、下の黄泉神(よもつかみ)だしねぇ。上の下で働いてるわけじゃないから、なんかどうでもいいっていうか」
「上なのか下なのかどっちなんだ」
 神様も複雑な権力関係があることだけはわかった。
 さしあたって、彦丸は静観を決め込んでいるようだ。なおとて、神様の権力関係には口を挟みたくはない。
 けれどなおにとって重大なのは、これが縁結び祭り直後の深夜だということだ。美鶴と彦丸がお出かけ帰りとはいえ、夜更かしは万病のもとだった。
 なおは意を決して男に言った。
「とにかく、もう夜も遅いので帰ってください。立花さんのお肌が荒れます」
 てっきりなおも彦丸と同じで冷たく言い返されるかと思っていた。
 ところが男はすごい勢いで飛びのいて、美鶴を凝視する。
「なんと! あまりにまぶしくて気づきませんでした」
 どうやら美鶴のお肌の調子は男の重大事だったらしい。
 男は驚愕して美鶴を見やると、すぐさま頭を下げて言う。
「夜分にお邪魔いたしました。今日は失礼します」
 男はきっちりと一礼して、すごい脚力で跳びあがる。
 カコンという音を立てて、円く空いていた天井の穴が塞がった。
 なおはそれを見上げながらぼやく。
「帰る時も上からなんだ……」
 いろりの真上の天井は継ぎ目もなく綺麗に修復されている。しみじみとなおが見上げていると、彦丸が事もなげに言う。
「屋根裏に行ったようだね」
「え、帰ってないの?」
 なおはそんなはた迷惑なと思ったが、彦丸はさほど気にしていない様子で続ける。
「上は侍並の規律だからね。収穫もなしに帰れるわけないよ。さ、私たちも寝よう」
 彦丸はもう一つあくびをして、話を打ち切った。
 おやすみと言って自分の部屋に引っ込んでいった彦丸はさておいて、なおは美鶴に心配そうにといかける。
「た、立花さん。いいんでしょうか?」
「ん……どうしよう」
 美鶴は天井を見て思案すると、悩ましげに返す。
「困ったな。屋根裏、掃除しておけばよかった」
「いや、問題はそれですか」
 さすが無数のつくもがみと同居している人だけあって、器が大きい。美鶴は押し付け男が居座るという事実にも動じていなかった。
 美鶴はおおらかに笑って言う。
「後でお布団持っていくよ。直助は祭りで疲れただろう? もうおやすみ」
 なおの体を労わることも忘れない如来さまに、なおはただただ恐縮するしかなかったのだった。



 なおは現在無職という緊急時。幸い彦丸は引き続き住んでいいと言っていたが、仕事もないまま彦丸の家に厄介になるのはなおの矜持が許さなかった。
 屋根裏の居候のことは気になったが、目先の課題に立ち向かおう。なおがそう決意して出発した先、それはまた田中家だった。
 美鶴が止めていた、「田中家の外回り」が募集をかけていて、なおはそこに申し込んでいたのだった。
 既に簡単なそろばん試験は通っている。なおとて商家の出身だからそこはどうにかなった。
 問題は二次試験、面接だ。
 なおは本音をぼそりとつぶやく。
「帰りたい」
 前回の試験が思い出される。遠慮も容赦もないおばちゃん五人に雨あられと質問を浴びせられた。
 普通商家で働く人たちはおじさんを想像するだろうが、ここ田中家は圧倒的に壮年の女性が多かった。おばちゃんと言ったら怒られそうなので、普段は華麗なる熟女軍団と呼んでいる。
 ……やっぱり江戸に若い人が吸い取られているのは本当らしい。なおはそんなことを心配したが、田中家の事情はこの際考慮するまいと飲み込む。
 なおは扉の前で断って、一礼してから部屋に入る。
「失礼します」
 心を無にするんだ、なお。一度は通過できただろうと、自分を奮い立たせる。
 いくら今回が美鶴に止められた「外回り」とはいえ、鬼に魂を売るわけじゃあるまい。
 自分に言い聞かせながら顔を上げたら、意外にもそこにいたのはたった一人だった。
 なおは変な顔をしている自覚があった。
 それは四月に天狗の万次郎と祝言を挙げた美女、えんだった。
 えんは鈴の鳴るような声で自己紹介をする。
「私が田中家当主のえんです」
 実はなおはまだ一度もご当主さまに会ったことがなかった。偉い人はみんなそうだが、外回りの多い人なのだ。
 なおは入口に突っ立ったまま唖然としたが、ふと頭に残った単語をつなぎ合わせてみる。
 田中、えん。
 えんは優雅に座布団を示して言う。
「どうぞかけてください」
「ありがとうございます」
 なおは言われるままに用意された座布団に腰を下ろしてから、えんの顔をじっと見る。
 えんはなおのぶしつけな視線に動じず、淡々とたずねた。
「何か訊きたいことがあれば、先に仰っていただいて構いませんよ」
 なおは一度黙ってから、おもいきって疑問をぶつけてみる。
「この田中家で支給される飲み物、いつも田中園のお茶でした」
「このような名前は利用しない方が損というものです」
 この人たぶんやり手だ。そんなことを思いつつ、なおは明後日の方向を向く。
 えんはなおの様子を見計らって声をかけた。
「さて、緊張は解けましたか? では面接を始めますよ」
 今のは面接の導入編だったらしい。なおはこの人はやり手かつ周到でもあると思った。
 えんはなおを底の見えないような目で見据えてたずねる。
「あなたはあの世まで行って戻ってこられますか?」
「あ、あの世ですか」
 いきなり求められるものが高かった。その割に、「江戸まで出張できますか?」っていう調子で訊かれた。
 なおは冷や汗を流しながら、なるべく元気よく答える。
「ほ、方法があるなら勉強して覚えます!」
「ふむ。今のところその経験は持っていないんですね」
 持ってる奴いるのかい。そう突っ込んだなおの内心など関係なく、えんは声の調子を変えずに続ける。
「二つ目。山で修業した経験を話してください」
 これは修行僧の面接試験だったのか。なおはごくりと息をのんで答える。
「修業とは多少違いますが、里にいた頃、五日間山籠もりしたことがあります」
「滝に打たれたり火の上を歩いたことは?」
「すみません。その経験はありません」
「うーん、うちが求める人材とは少し違うみたいですね」
 えんは首をひねって苦笑する。
 まずい。旗色が悪すぎるとなおが焦るのも構わず、えんは容赦なく質問を投げた。
「ではあなたの特技は何ですか?」
 なおの頭はあきらめ状態に入っていた。どうせ空中旋回する技術とかお札で対象物を粉砕する必殺技とか求められているんだ。平凡な十六歳女子にそんな能力あるはずなかろうと思う。
 だからなおはだいぶ投げやりに答えた。
「走ることです」
 えんは顔色を変えずに問い返す。
「何か功績は?」
「十五の時、隣町の持久競争で六位でした」
 こんな中途半端な経歴じゃまったく相手にならないでしょ。
 斜に構えた視線でなおがえんの表情をうかがうと、彼女は相変わらずそつのない笑顔を浮かべていた。
 えんはうなずいてなおに言う。
「はい。面接は以上です。お疲れ様でした」
 ああ、駄目だった。なおはそう思いながらぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました……」
 なおは前かがみになりながら、とぼとぼと田中家を後にしたのだった。
 ふてくされて迎えた、その日の夕方。
 美鶴がなおに封筒を持ってきて言う。
「直助、田中家からお手紙届いてるよ」
 なおは美鶴が持ってきたそれを手に取って、のろのろと中身を取り出した。予想通り便りは紙一枚で、もうなおは期待などみじんも無い目でそれを見下ろす。
 そして紙を開いて現れた文字に、なおは目を見開いた。
 美鶴も手紙を覗き込んではしゃぐ。
「すごいよ! おめでとう、直助!」
 ころころと笑う如来さまが愛くるしい……のはいつものことだが、なおは事態に驚いて言葉をなくす。
 嘘でしょと心で繰り返す。
 なおの手に届いたのは「田中家外回り合格」だった。
 一体あの面接のどこに、なおの能力が評価されるところがあったのかわからない。それとも一次試験でもう合格は決まっていて、面接自体はそう意味がなかったということだろうか。
 美鶴は弾んだ声で続ける。
「可能なら明日からでも来てくださいって書いてあるよ。直助、期待されてるんだね!」
 いや、なおは自分のそろばん試験の結果は平凡だった自信がある。こんなに大手を奮って歓迎される要素は一次試験にはない。
 美鶴は出かける支度をしながら言う。
「お祝いしよう。ねっ? 僕、魚買ってくるから」
「はい、荷物持ちます」
 なおは反射のように手を挙げてお伴することを主張する。
 美鶴はわくわくした様子でなおに笑う。
「お赤飯も用意するからね!」
 ……何だかこの面接結果、あやしい。
 我が事のように嬉しそうな顔をする美鶴の隣をついていきながら、なおは何か不可解な事態に飲まれていっているような気がしていた。



 さて、なおが美鶴に名前を伏せて受験した田中家外回りとはいかなるものか。
 なおは合格通知を受け取った次の日から、早速そのわかるようでわからないところで働くことになった。
 顔合わせをした同僚たちは、常にも増して年齢層が高かった。
「あら、なーんだ。新人さんが来るって聞いたけど直助なの」
「若い男の子って期待してたのに」
 彼女らは見事に熟女軍団で統一された、五十代以上の女性三人だった。
 熟女軍団はなおの顔を見てあからさまにがっかりしたようだった。彼女らにとって、新人は美男でないというだけで罪深い。
 朝っぱらからちょっと腐っていたなおの隣で、涼やかな声が響く。
「おはようございます。上から出向でこちらに配属になりました、康太(こうた)です」
「きゃあ、いい男!」
 現れた長身痩躯に、熟女軍団がかき集められるように集中する。
 黒い着物を隙なく綺麗に着こなして一礼した康太は、文句のつけようもないほどのいい男ぶりだった。
 なおはそれが屋根裏の居候だと知って、ちょっと陰気な目で振り向く。
「……あの、なぜここに?」
 康太はなおの嫉妬交じりの声にすらすらと答えてみせる。
「手に職のない男など美鶴さんにご迷惑なだけ。普段はこちらで働かせて頂くことになりました」
 出向だなんてずるい。自分、ちゃんと採用試験受けたのに。なおの妬みはすでに最高潮だった。
 康太は低姿勢で熟女軍団に言葉を続ける。
「不勉強なところも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「若いのにしっかりしてて感心だこと。何でも訊いて。おばちゃんたちが教えてあげる」
 みなさま、僕への態度とずいぶん違いませんか。なおはそう思ったが、本能に忠実な彼女らに言っても効果はあるまい。
 康太はあくまで低姿勢で熟女軍団に礼を言った。
「ありがとうございます。勉強させて頂きます」
 なおの妬みの半分以上は、康太があまりに模範的な態度で、なおには真似できない真面目さを醸し出しているからだった。
 上の神様がどんなひとか知らないが、たぶんこのひと誠実だ。だからこそさえない自分には妬ましいのだが、そういうひとが好かれるのも仕方あるまい。
 なおは自分にそう言って聞かせると、熟女軍団に振り向く。
「これで全員ですか?」
「うん。難しい時はご当主さまも来るけど、平常時の外回りは三人、奉公さん一人、上からの応援一人なのよ」
 結構大人数で動くんだなと思って、なおはいよいよ本題に入ろうとする。
「はぁ。それで、ここの職務内容って一体」
「さあ行くわよ」
 熟女軍団はいつも通りなおの質問にはさっぱり反応を返してくれなくて、なおは有無を言わさず同行させられることになった。
 出発した田中家から下流沿いに歩いて、田園風景の中をひたすら南へ。
 八月の真夏では農作業の人たちはいない。せいぜい子どもたちが虫取り網を持ってすれ違うくらいだ。
 熟女軍団も先を急ぐつもりはないようで、時々なおに振り向いて呼ぶ。
「暑いわぁ。直助、水筒」
 なおたちは支給品のお茶を片手に、あぜ道で何度目かの一服をする。
 なおも手ぬぐいで汗を拭っていたが、康太は汗一つかいていなかった。美男って汗かかないんだとうらめしく思いながら、なおは康太に問いかける。
「外回りが必要ってことは、この辺って罪人でもいるんですか?」
 暑さに疲れている熟女軍団はそっとして小声でたずねると、康太は淡々と答えた。
「そんな言い方をしては失礼です。我々はあくまで巡回しているだけなんですから」
 その答えは、核心を言わないのが怪しい。やましい匂いをひしひしと感じる。
 周りは一面田園風景で聞いている人など皆無だろうが、なおは一応注意深く辺りをうかがっていた。
 ご当主さまが言うように、滝に打たれたり火の上を歩いたり、過酷な修行が必要な仕事かもしれない。気を抜かずにいようと自分を奮い立たせていたところだった。
 ふいにおにぎりを食べていた熟女軍団の一人が声をあげる。
「あ、いたわ」
 それはとかげをみつけたというような口調だった。その緊張感のなさに一瞬気を緩ませたなおだったが、次の瞬間下った命令に身を固くする。
「直助、つかまえて」
「ええっ? 僕がですか!?」
 正体不明の仕事とはいえ、着任したからにやらねば。なおは自分に言い聞かせて、熟女軍団の示す方を振り向いた。
 視界の隅で黒い影が動き回る。なおはそれを目でとらえて仰天した。
「……オオサンショウウオっ!?」
 里ではみつけると幸せになれると言われていた生き物が、田んぼの中を行き来していた。それはなおの片腕を広げたくらいの大きさで、のっそりと泥の中を歩いていた。
 夏になるとみんなでつかまえっこしたものだったが、あんまり素手で触らない方がいいとも言われていた。なおはちょっとためらってたずねる。
「手で触っていいんですか?」
「触らなきゃつかまらないでしょ。ほら、手袋貸すから。早く」
 なおはぞんざいに投げられた手袋を受け止めてはめる。それから泥まみれになるのを覚悟で、田んぼの中を歩き始めた。
 オオサンショウウオは動きが遅いが、泥の中を動くなおもまたそれ以上に遅い。
 熟女軍団は手であおぎながらなおに言葉を投げる。
「直助、まだー?」
「すみません、もうちょっとお待ちください」
 それにしても熟女軍団よ、自分たちは入ってこないんかい。康太まで完全に傍観姿勢で、集団行動などあったものではなかった。
 なおは下っ端の切なさをかみしめつつ、まとわりつく泥の中でオオサンショウウオを追う。
 はっしとオオサンショウウオを両手で確保した瞬間、なおは声を上げる。
「よし……えっ?」
「離してよぉ!」
 なおがやっとのことでつかまえて引き上げた黒い影は、ひれと尻尾のついた五歳程度の少年だった。
 やっぱりというか人間じゃなかった。それならもっと大仰に怖がった方がいいのかもしれないが、幸せになれるというオオサンショウウオなものだからちょっとほっこりしてしまう。
 オオサンショウウオっ子って新しいな。まじまじとみつめたなおの目の先で、少年は大声で泣き喚く。
「わぁぁぁん!」
 寝た子は起こさないのが吉。なおもそれは知っているが、妖怪となると多少話も変わる。
 熟女軍団はゆらりと立ち上がって言った。
「みつけたわよ。さあ、とっとと成仏しなさい」
「嫌だぁー!」
 熟女軍団の言葉に、少年は手を振り回して抵抗する。
 そうだな、たぶん成仏って話になるんだろうな。でもこんな小さい子には酷いような気もする。
 なおはちょっと心配になって声をかける。
「いや、この子が妖怪なのはわかりますけど。もっと優しくさとすように話さないと聞いてくれないんじゃ……」
 なおは思わず弁護したが、横目で少年を見て眉を寄せる。
 少年はおっさんみたいににやりと笑っていた。ちょろいぜと言わんばかりの表情だった。
 なおは一度目を伏せて言葉を翻す。
「世の中、何言っても聞かない子どもっていますよね」
「ちょっ! お兄ちゃん、ひどいよぉ!」
 すぐさまオオサンショウウオっ子は目をうるうるさせながらなおを見上げる。
 あざといオオサンショウウオっ子に、なおは一瞬優しさを失いそうになった。といっても全部なくしたわけではなく、まだ良心のかけらは残っている。
 なおは気が進まないながらも弁護を続行する。
「まあまあ、いきなりあの世行きってのはきついんじゃ……」
 そのとき、熟女軍団の一人は自分の目を覆った。なおは首を傾げて、次の瞬間変な声を上げる。
「……うわぁ!」
 熟女軍団の一人の目が赤く光って、その光はぴしりとオオサンショウウオっ子に当てられていた。
 彼女は学者が詩をそらんじるみたいに言葉を告げる。
「帳簿を読んだところ、そちらは死後五十八年この世をさまよったオオサンショウウオのようだけど?」
 でもなおには彼女の赤い目のせいで説明がまったく頭に入ってこなかった。思わず彼女の業務を中断させるようなことを言ってしまう。
「ごめんなさい。まずその目の説明からお願いします」
 オオサンショウウオっ子の妖怪より彼女の光る赤い目の方が怖い。体をぷすりと突き抜けそうだとなおが震えていると、彼女はそっけなく答えた。
「ただの田中家の仕事道具よ。さ、それをこちらによこしなさい。直助」
 なおが暴れるオオサンショウウオっ子を抱えながら立ちすくむと、康太が近づいてきてなおに言った。
「直助。私たちの外回りの仕事というのは」
 康太は身を屈めて、優しいながらも低い声で告げる。
「……成仏を渋っている死者を、そっとあの世へお届けすることですから」
 なおはようやく業務内容を理解して、はたと手を打つ。
 康太は素早くオオサンショウウオっ子の首根っこをつかんで言った。
「手を離しちゃいけませんよ」
「あ、すみません」
 康太はなおが離した手にオオサンショウウオっ子を戻してくれた。
 なおの理解したことによると、つまり外回りが扱うのは死にたくないとごねている魂、巡回というのはあくまでそっと成仏させるということのようだ。
 なおは不思議そうに首を傾げる。
「そういうのって、陰陽師とか、神職の人がやるんだと思ってました」
「田中家の方々は商人なので、そういった天職ではありません」
 康太は生真面目にきりりと続ける。
「でも儲けにはなりますので、田中家の一大事業です」
 つまり商売人根性で得た仕事を、恐ろしく差しさわりのない言葉で表現した結果らしい。
 なおはまだ納得しきっていないところをたずねる。
「本職じゃないのに成仏させられるものなんですかね?」
「できますよ。こちらの田中家は毅然とした態度で数々の偉業を成してこられましたから」
 康太はついと熟女軍団に目を戻すので、なおもつられてそちらを見る。
 熟女軍団の一人が耳に手を当てて告げる。
「社持ちの三分の二の同意が得られました」
 なおが見るに、どうやらあの耳に仕込んだ秘密道具には、社持ちからの声を聞き取る力があるらしい。
 熟女軍団は互いにうなずきあって言葉をかける。
「よし。執行準備完了」
「待って、お姉さん方! 僕、心を改めて過ごしますから!」
 オオサンショウウオっ子が、必死の声音で抵抗する。
 しかし少年は相手が熟女軍団だというのを忘れているようだった。
 熟女軍団のリーダー、田中おばちゃんが言った。
「おばちゃんたち、これが仕事なんだわ」
 田中おばちゃんは馬耳東風といった感じで懐からお札を取り出した。
 康太は神妙な面持ちでそれを見て言う。
「あちらの方は一番重要な力を田中家から預かっていらっしゃいます」
 康太の言葉に、なおはごくりと息を呑む。
 きっとあのお札は対象物を粉砕するとか、そういう力に違いない。さあ一体どんな能力が飛び出すのやらと、なおは期待に満ちた目でみつめる。
 山田はぺろっと札をなめた。
 そして札をオオサンショウウオっ子の頭にはりつける。
 なおはきょとんと声を上げる。
「……え?」
「接着能力です」
 もっと有意義な能力にしたら?
 康太の答えになおは心の中で突っ込んだが、康太はなおの内心を見通したように続けた。
「大事なんです。あの世まで絶対剥がせない死亡証明書をつけることが」
 接着能力で札をはりつけた田中おばちゃんは、ぽんとオオサンショウウオっ子の肩を叩く。
「行ってらっしゃい、黄泉の国」
 その言葉が合図のように、オオサンショウウオっ子の足元が消えた。
 穴にはまったように、彼はまっさかさまに落ちていく。康太が上からやって来た時と同じだ。
 しんとした沈黙が下りる。なおは真夏だというのにひんやりしながら立っていた。
 田中おばちゃんは肩を伸ばして言った。
「ああ、すっきりした」
 権力って怖い。それを扱うのが熟女軍団だともっと怖い。
 熟女軍団はあくびをしてお互いに声をかえkる。
「さ、次行きましょ」
 なおは彼女らがこの仕事を担っている理由がわかった。熟女軍団……いや、敬意を払ってもうおばちゃんと言ってしまおう。
 おばちゃんたちに怖いものなどないのだ。相手が幽霊だろうと妖怪だろうと知ったことじゃない。
 なおはおばちゃんを見る目が変わったのを感じながら、泥だらけの着物をひきずって後に続いたのだった。



 その日の内に、なおが田中家の外回りの奉公人になった事実は美鶴の知るに至った。
 美鶴は顔を険しくしてなおに言う。
「言ったでしょ、外回りだけは駄目だって」
 一目でばれるだろうとは思っていた。なおは泥だらけの田んぼを走ったり、くっつきボボだらけの山の中を駆けたり、ほこりまみれの廃屋をかきわけたりしていた。ただでさえ貧相な着物姿は見るも無残で、二度とこれを着てお出かけには行けない。
 相手にするのはいずれも成仏を渋っている死者たちで、捕まえるのはいつもなおの仕事だった。抵抗する彼らを押さえようと奮闘するさまは、文字通り異種混合の戦だった。
 なおは美鶴の前で正座しながら、弁解の余地もなくうなだれる。
「黙っていてすみません。ここまできついとは思ってませんでした」
 一日だけで、足は棒を通り越して骨のようだった。座る時人体ではありえない音がした。
 美鶴は首を横に振って続ける。
「そうじゃなくて、外回りは危ないんだ。君みたいな生身の人間じゃ、いずれ怪我をする」
「まあ……仰るとおりです」
 そう答えながら、なおはまだ仕事を続けるつもりだった。
 少なくとも今日相手にした妖怪たちとはもめるものの身の危険は感じなかった。疲れるのはそのとおりだが、縁結び祭りのときの方がもっと危なかった気がする。
 ふいに美鶴はなおを引き寄せて声を上げる。
「危ない!」
 美鶴の腕に包まれたまま、なおは横に転がる。
 なおは美鶴の花のような香りに鼻血を噴きそうになったが、慌てて顔を引き締める。
 なおはそろそろと自分が今まで座っていた場所を見やる。
 そこには康太が黒い着物姿で正座していた。彼は三つ指をついて頭を下げる。
「美鶴さん、お風呂が沸きました」
 勝手に人の家の風呂沸かすなよ、あと毎度僕の上に降りてくるな。なおはうろんげな目で見た。
 美鶴は慌てて康太に言う。
「そんな。お客さんなんですから座っててください!」
 いつの間にかお客様に昇格されてる。なおはその事実に青ざめたが、美鶴はただ心配そうに康太を見ている。
 康太は美鶴のまなざしに、くっと首を垂れて身を屈める。
「もったいないお言葉です」
 ふるふると震えて頭を地面にこすりつける。そのまま動きそうになかった。
 美鶴は思案したようだったが、やがて苦笑してうなずく。
「ありがとうございます。せっかく沸かして頂いたのだし、使いますね。……直助、まずは入っておいでよ」
 考えてみればなおはどろどろの格好のままだった。美鶴の厚意をむげにすることもできず、なおは仕方なく風呂へ向かうことにする。
 なおは着替えをして浴室に入り、湯船に浸かる。
「ふー……」
 ヒノキ造りの湯船は一日の疲れをほぐしていくようだった。なおは広々とした浴槽の中で手足を投げ出して浮く。
 たぶん今日は、こんな仕事もうやだって思って眠る。でもきっと明日になったら出勤する。
 ま、いっかそれで。そういう楽観的な気持ちで、うつらうつらしたときだった。 
 なおにぱりっとした男の声がかかる。
「失礼します」
「うわ!」
 引き戸が開いて、いきなり康太が入ってきた。
 なおは激しく動揺しながら言った。
「な、な、何入って来てんですか!?」
 どもりながらとりあえず胸を隠したら、康太ははたと意外そうな顔をした。
「……女子でしたか」
「なんであっちの人らはみんな僕を男だと勘違いするんですか!」
「親しい匂いがするからですよ」
 康太があっさりと答えた言葉に、なおは一瞬変な顔をする。
「親しい匂い?」
 康太はふいと顔を背けてなおを見ないようにしたようだった。
 彼はぺこりと頭を下げて言う。
「それはそれとして、女子なら一応それ相応に扱います。外でお待ちしてますから」
 康太はそう言って風呂から出て行った。
 確かにここのお風呂は広いので二人くらいは余裕で入る。美鶴や彦丸も後に控えていて混み合う時間でもある。お風呂がある家なんて豪邸ばかりで、なおだって里にいたときは銭湯でお風呂を済ませていたのだから、康太が入って来ても別に変ではなかった。
 でもなんでいちいち男の格好してても誰も疑わないんだろ、僕。なおは遠い目をしながらも、仕方なく湯につかる。
 康太は言葉通り引き戸の外にはいるようで、意外にもそこから声をかけてきた。
「あなたは美鶴さんの神使候補だそうですね」
 康太が世間話のように切り出した言葉に、なおは気が進まないながらも答える。
「まあこの際僕は下働きでいいです。でも美鶴さんが彦丸の下働きなんてひどすぎません?」
 康太はややあって質問に質問で返した。
「あなたは美鶴さんがどんな思いで神使を断り続けていらっしゃるか、考えたことはありますか?」
「え?」
 なおが首を傾げると、康太はさらりと続ける。
「残念ですね。次に神使になろうともいう方が」
 至極真面目な調子で、康太はなおに言う。
「では私が美鶴さんの神使の座を頂きましょうか。あの方の犬であることなら、私は何者にも負けませんから」
 それは今までと違って挑戦的な口調だった。さすがにそれに気づかないほどなおはまぬけじゃなかった。
 康太の足音が聞こえて、風呂から離れていったのがわかった。
 ……僕、いつの間に康太に好敵手認定されてるの?
 なおは康太に問い返すこともできないまま、浴槽に浸かりながら気まずい思いをかみしめていた。
 風呂から上がると、康太はどこかで水を浴びてきたようだった。美鶴がびっくりしたように声を上げる。
「康太さん、頭びしょびしょですよ。ほら、乾かして」
 美鶴は手ぬぐいで康太の頭を拭いてから大判の拭き布を持ってくる。
 美鶴は苦笑しながら言う。
「子どもみたいなんだから……」
 康太を目の前に座らせて、美鶴はせっせと康太の髪を拭き始める。
 康太は美鶴のなすがままだった。でもその頬は年頃の男児が同年代の女子に構ってもらえた時みたいに、ほっこりと赤くなっていた。
 ……いやいや、和んでいる場合じゃない。
 なおはそっと美鶴に言葉を挟む。
「美鶴さん。さすがにどこの誰とも知らない人の髪を拭くのはどうかと」
「あっ!」
 なおの言葉に、美鶴は慌てて康太から飛びのく。
 美鶴は気まずそうに康太に言う。
「何かつい手を出しちゃって。年上の方に失礼でしたね。ごめんなさい」
「いいえ」
 康太は首を横に振って振り向く。
 そこで今まで淡々とした態度を崩さなかった康太が、はじめて笑った。
「うれしいです」
 そう彼が言ったときの表情は小さな変化だったけど、とても幸せそうな顔だった。
 美鶴はそれを見て何か言いかけた。けれど康太は美鶴の手をほどいて言う。
「私の髪はいいですから。さあ、美鶴さんの番です。どうぞお風呂にお入りください」
 康太はいつもの生真面目な顔に戻ると、三つ指をついて再びうやうやしく頭を下げる。
 美鶴は康太を見て我に返ったようで、慌ててお礼を返す。
「あ、ありがとう。じゃあ」
 美鶴は自分が何を言おうとしたのかわからなかったようで、足早にお風呂に向かっていった。
 なおは二人の間に流れた不思議な空気に首を傾げていた。康太の態度は、自分みたいに如来さまみたいに綺麗な美鶴にみとれた様子とは違っていたから。
 なおの疑問に答えたつもりではなかっただろうが、その場で髪を拭いていた康太に声をかけた男がいた。
「康太」
 なおがいろりの方を振り向くと、彦丸が座っていた。勝手に夜食のせんべいをつまんでいる。
 彦丸は別段感情の含まない声でたずねる。
「美鶴に思い出してもらわなくていいのかい?」
 康太は首を横に振って、懐かしむように目を伏せる。
「はい。……また美鶴さんを悲しませずに済みますから」
 それきり康太も彦丸も何も言わなかった。
 彦丸がお茶をすする音と、康太が自分で髪を拭く音が二重に聞こえるだけだった。




 田中家の外回りの仕事は、毎日力技だった。暴れる死者たちを追って廃屋や野山を駆けずりまわり、死者を羽交い絞めにしておばちゃんが死亡証明書を貼るまで待つ。
 なおは自分が奉公人になったのは、ただ若者の体力を求められてのことだったと納得した。支給された手袋をはめれば死者は素手で触れるし、昔話みたいに死者が恐ろしい呪いをかけてくることもない。
 かれこれ二か月が過ぎて、なおは日曜日に円城寺に来ていた。
 鏡矢が何気ない風になおにたずねる。
「どうよ、田中家の外回り」
「縁結び祭りに比べると力技ですけど、まあ何とか」
 なおはそう答えてたき火に目を戻した。
 円城寺の庭で、なおは鏡矢と哲知の三人でたき火を囲んでいた。三人の真ん中にはこんもりと積まれた枯葉があって、鏡矢は木の枝で焼き芋を転がしていた。
 鏡矢は芋をつついてなおに言う。
「これ、そろそろいけるぞ。食え」
「あ、ありがとうございます」
 なおがイモを拾おうとすると、哲知がじっとりとした目を向けて言う。
「ずるい。鏡矢さんからイモを頂くなんて」
「てっちにはしいたけをやるから」
「やった!」
 鏡矢は網の上の椎茸を拾って差し出す。それを哲知は目をうるうるさせて受け取った。
「鏡矢さんが焼いたしいたけ……」
 いいんだ、それ舞茸とかじゃなくてただのしいたけだよ。なおはそう言ってやりたかったが、友人は眉無しがらっぱちに恋をしているのだから仕方ない。
 鏡矢はふと息をついてなおにたずねた。
「で、直助は覚悟決めたのかよ」
「何がですか?」
「美鶴の坊ちゃんの神使になる覚悟さ」
 鏡矢はこうして時々円城寺に来て、なおと話すことも多い。兄貴気質の彼は、何かとなおの相談にも乗ってくれる。
 ししゃもをかじりながら鏡矢は言った。
「神と神使ってのは一心同体。夫婦になるようなもんだぞ」
「めおと」
 なおは美鶴のことを思い浮かべた。麗しい彼と祝言を挙げる図を浮かべようとして、なおは首を横に振る。
「あ、駄目。現実味がなさすぎて想像できません」
「うん。俺も無理」
 鏡矢にもあっさりと肯定されて、なおは乾いた笑いをもらす。
 鏡矢はそんななおを見ながらぼやく。
「でもこのままだと、上から来た役人に神使の座をかっさらわれるぞ」
「あれ? あちら側の妖怪の方々はてっちを推してるって聞きましたけど」
「僕は辞退したよ」
 哲知はにっこりと笑ってしいたけをかじる。実に上品にそしゃくして飲み込んだ後、哲知は晴れやかに言った。
「僕は鏡矢さんと夫婦になるから」
 なおはそろそろこの友人のことがわかってきていて、こくんとうなずく。
「あ、うん。もう好きにすればいいんじゃないか」
「冗談やめろ、直助」
 鏡矢はぎろっとなおをにらんで言う。
「俺はまだ所帯持ちになるつもりねぇっつーの」
「いいえ、鏡矢さん」
 鏡矢の剣幕にもまったく怯まず、哲知は鏡矢に振り向いて神妙にうなずく。
「必ず幸せにします。僕と祝言を挙げましょう」
 この友人ってまったくぶれないよなぁ。なおは感心しながらうなずいていた。
 鏡矢はまだちょっと友人が心配なようで、子どもに言うようにつぶやく。
「ったく、いつになったら目ぇ覚めんだよ。お前もう十六だろ」
 いや、赤ん坊の頃から十六年経っても冷めない恋なら、もうそれは一生冷めないんじゃないでしょうか。なおはそう思いつつ、そっと言葉を挟む。
「僕、お邪魔ですよね」
「俺たちの縁結びはしなくていい!」
 なおが腰を上げようとしたら、鏡矢は両手でなおを引き戻した。
 鏡矢はふうと息をついて、なおに指を差して言った。
「で、話は神使のことだよ。いつまでも美鶴の坊ちゃんが神にならないし神使も選ばないから、上が干渉してきたんだ」
 彼の口調が案外深刻だったので、なおは少し眉を寄せて言う。
「でもなんだってそこまで強引に? 立花さんが嫌がってるなら神使も何もないでしょ」
「うーん、これは長い話になるが」
 鏡矢は明後日の方向を見て、うなった。
 ところが彼はうつろな目でうなずいて言葉をひるがえす。
「……長いからやめた。面倒くせぇ」
「え、ひどい!」
 鏡矢はぱんと膝を手で叩いて言う。
「とにかく、美鶴の坊ちゃんが比良神の跡を継ぐのは決定事項なんだよ。上も下もあっちもこっちも、みんなそれを待ってんだ。そんだけさ」
「はぁ」
 なおはあいまいな返事をして、ふと目をまたたかせる。
 あれ、でも後を継ぐということは。
 ……そうなったら、彦丸はどうなるんだろう?
 鏡矢はなおを見て問いかける。
「どうした?」
「あ、いや」
 なおは首を横に振る。美鶴を次の比良神にするのは彦丸の願いに違いない。美鶴の神使候補を考えているくらいなのだから当然だ。
 鏡矢はいもをいじりながらつぶやく。
「ああ、でも上の役人が神使になるのはありがたくねぇなぁ。あいつらって、昔風の侍って感じなんだよな」
 鏡矢はたき火を木の枝でかきまぜてぼやく。
「何かと統一するのが好きでな。死者を呼んできてでっかい組織作って、昔からこの世のあれこれに口出ししてくるんだ。俺みたいな古参妖怪はあいつらが苦手なんだよ」
 なおは康太のことを思い浮かべる。確かに独特の雰囲気があって、ちょっと怖いときもある。
 でもそんな影を帯びた印象はなかった。その印象のままになおは言う。
「ずるいところがなくて、信用できる感じでしたけど」
 なおの言葉に、鏡矢は苦々しい口調でつぶやいた。
「それが問題なんだ。あいつら、仕事しすぎなんだよ」
「どういうことですか?」
「日没の決戦を見りゃわかるよ」
 鏡矢はうなって言葉を続ける。
「この世の俺らが心配することじゃねぇんだろうけど、命かけて仕事するなよなって言いたくなるぜ。……ん、てっち」
 鏡矢は気を取り直したように哲知を振り向く。
「てっち、いつまでしいたけ食ってんだ。魚も食え。でかくなれねぇぞ」
 なおはそれを横目で見てほのぼのする。
 なおは哲知が鏡矢にべったりなのは、鏡矢が構いすぎるからじゃないかなと考えていた。




 ある日、仕事から帰る道中、なおは忘れ物に気づいた。
 田中家に戻る途中、なおは風に吹きさらされて目をつむる。
 秋風が冷たくなった頃だが、まるで氷の粒が顔に当たるような風だった。まさか雪が降るには早すぎると、なおは空を仰ぐ。
「覚悟を決めろ……か」
 空を見ながら鏡矢の言葉をつぶやく。
 なおはこの一年間を臨時の奉公で食いつないで、来年は江戸に行くつもりでいる。美鶴のところは居心地がいいが、これから先ずっと一緒にいるというのはなおのわがままだろう。
 この半年、転がるように過ごしてきた。彦丸に絡まれて神使の神使候補にされて、縁結び祭りに参加して、外回りで働いた。
 転がるならそこからつながっている舞台へと思って進んできたけれど、それもいつまでも続くわけじゃない。
 母は自分の好きな道に進みなさいと言って、なおを送り出してくれた。
 でもなおの好きな道というものは目に見えて描かれているわけじゃない。近頃、それを強く考えるようになっていた。
「わ!」
 ふいに吹き上げるような風にあおられて、なおは顔を覆った。
 全身を氷の粒が撫でていく。なおは足先から凍るようなそれに、思わず立ち止まる。
 風はまもなくやんだ。けれど代わりに、目の前が点滅するような悪寒がした。
「……え」
 顔を上げると、そこには青い狐が一匹立っていた。
 イノシシくらいはある巨大な体躯で、青白い毛並みがなびくたびに氷の粒が飛んでくる。透き通る瞳は、生き物が棲めない色をしていた。
 なおはぞくっと身を引いた。まるで冷気がそこから生まれてくるみたいに、周りに氷の柱が伸びていく。
 氷の檻の中に閉じ込められる。そういう図がなおの中に浮かんだとき、青い狐は瞳孔を細めてなおの方に突進した。
 ふいに誰かの声と共に、なおは引き寄せられた。
「離れて!」
 なおは知らず目を閉じていたらしい。
 目を開くと、そこは曲がりくねった暗い道だった。地面が砕いた硝子のように散らばっているのを見て、霊道に引っ張り込まれたのだと気付く。
 そこに注意深く辺りを見やりながら立っていたのは康太だった。彼は振り向いて、確認するようになおにたずねる。
「大丈夫ですか」
「……は、はい」
 康太は手で周りを押さえながら、霊道の出口が塞がっていることを確かめている。
 あの狐の姿は見えない。でもなおは震える声でたずねた。
「康太さん。何が……起きてるんですか?」
 なおの声が震えたのは、寒さのせいではないと自分でわかっていた。体が勝手におびえてしまっていて、足元から崩れ落ちそうになる。
 あれは、よくないものだ。言葉で教えられるより先に、なおの体が気づいていた。
 康太はなおの問いには答えずに言う。
「説明する時間がない。安全な場所まで案内します。一緒に来てください」
 なおは康太に手を借りながら立ち上がった。
 なおは急ぎ足で先に歩き始める康太についていきながら、まだ震える声でたずねる。
「さっきの……今までの妖怪と違う。外回りの仕事ですよね? 僕も何か働いた方がいい……ですか?」
「いいえ」
 康太は迷わず首を横に振って否定する。
「あなたには手に負えません。あれは日没の決戦対象の死者ですから」
「日没の決戦対象?」
 康太は足を止めないまま早口でなおに言う。
「長く生き過ぎた死者は、どうあっても生命力が強すぎるんです。それをあの世に送ることができるのは、この町では田中家のご当主さましかいません」
 えんさん、日没にそんなことを。普段のなおだったら突っ込むところなのに、今は一刻も早くこの冷気から逃れたい思いしか湧いてこない。
 話すこともままならないなおに気づいたのか、康太は珍しく安心させるように言った。
「大丈夫。時間稼ぎくらいなら私でもできます。今あなたがすべきことは、逃げること。いいですね?」
 そう言われて大人しくうなずいてしまう自分が情けなかった。
 なおは康太に手首をつかまれたまま霊道を歩く。
 硝子のような塵がぴりぴりと震えていた。まるで空気さえおびえているようで、なおは霊道が決して安全ではないのを悟る。
 永遠のような静寂の中、康太はふいに顔をゆがめる。
 なおも異変に気付いた。頭上がひしゃげるような違和感が伝わってきた。
 康太は舌打ちをしてつぶやく。
「……気づかれた」
 康太は地面に手をついて、そこに指で何かを描きはじめた。なおはうろたえてたずねる。
「な、何してるんですか?」
「結界を張って食い止めます。直助は円城寺まで走ってください」
 またひしゃげるような圧迫感が襲ってきた。なおはとっさに首を横に振って言う。
「一緒に行きましょう!」
 なおの言葉は気弱とも取れたに違いないのに、康太はそうは受け取らなかったようだった。
 康太はふっと苦笑して応えた。
「ありがとう。……でもこれは私の仕事ですから」
 このひとはやっぱり仕事熱心で、誠実な人だ。こんな状況で今更それを確認してしまったのが悔しかった。
 なおは精一杯の強がりで言う。
「僕だって一人で逃げるわけにはいかないです」
 康太は苦い笑みを浮かべたままなおを見て、後は何も言わなかった。 
 康太は黒い線で奇妙な模様を描いていく。線の周りには葉っぱをばらまいて、何かをぶつぶつとつぶやき続けていた。
 康太の額から汗が流れていた。それだけで、事態の緊急性が伝わってきた。
 たぶん半刻もない時間の後、康太はようやく線を引き終わった。なおの目にも、「終」の文字が見え始めたときだった。
 なおはごくんと息を呑む。
「あっ」
 霊道の天井が玻璃のように砕けて、青い狐が飛び降りてくる。
 吹雪になった風が痛いほどに吹き付けてきた。
 ……神の怒り。それを肌で感じたのは彦丸が怒ったとき以来だった。
 青い狐が牙をむきだしにして飛びついてくる。
 康太はなおの前に立ちふさがって叫んだ。
「直助、伏せて!」
 康太は狐の首を両手で掴んで力をこめたようだった。
 地面の模様から雷撃のような光が迸って狐を縛る。だけどその光は康太にもからまって、康太の顔を苦しそうに歪めた。
 視界が真っ白に染まっていく。なおは呼吸すらも忘れて、その渦に呑まれて行った。



 なおが体を起こしたとき、遠くにどこかの空き地が見えた。
 空き地にはぽつんと箱が作られていて、なおは覗き込んだわけではないのに、そこに横たわる黒い老犬を見ていた。
 その老犬の入った箱の前で、十歳ほどの男の子が泣いている。
 なおは男の子の顔立ちに見覚えがあった。なおが食い入るようにその光景をみつめていると、なおの隣に康太が立った。
 康太は箱の中の老犬を親しげにみつめて、懐かしそうに話し始める。
「私は生前、主人を次々と変えました。若い頃の私は見目麗しく、どこへ行ってもかわいがられたからです」
 康太は遠い世界を仰ぐようにして目を細める。
「でも誰しもいつかは年を取る。私はどこにも頼りがなく一人で死期を迎えようとしていました。そんな私を拾ったのが、美鶴さんだったのです」
 康太の視線の先には小さな男の子がいる。
 男の子は何度も黒い老犬を撫でて、泣いて、また撫でては泣いていた。
 康太はなおに話すというより、男の子に語り掛けるように言葉を続ける。
「私はもう全盛期のように美しくありませんでした。汚れて匂いもきつかったでしょう。弱っていて、散歩もできなければ一緒に遊ぶこともできなかった」
 黒い老犬はもう動かないまま、見開いた緑の瞳に男の子を映していた。そこに痛みや苦しみはもう無く、安心に身を委ねているように見えた。
 康太の今の姿は若々しい青年だ。だが彼の口調には、老いて得た心がにじんでいた。
 康太は懐かしいものを見るように老犬と男の子をみつめて言う。
「でも美鶴さんは私を看病して、何か食べられるものはないかと苦心して、毎日毛並みを梳いてくれたんです」
 なおも知っている。美鶴はそういう人だ。弱い者を放ってはおけないから、家を失くしたなおにも手を差し伸べてくれた。
 康太はひととき口をつぐんで、ほほえみながら口を開いた。
「……私が美鶴さんと一緒に過ごしたのは、私が死ぬ前の十日間だけでしたが」
 なおは彼が美鶴に髪を乾かしてもらっていた時の柔らかな表情を思い出した。彼の生涯でほんの一瞬のとき、それを抱きしめるようにして康太は言う。
「私の死にめいっぱい泣いてくださったのは、美鶴さんだけなのです」
 康太はふいに歩み寄って幼い美鶴の横に屈む。
 美鶴は康太が見えない。けれど康太は透ける腕で、泣きじゃくる美鶴の頭を抱きしめる。
「泣かないで、最後のご主人。あなたに会えて幸せでした。あなたが忘れても、ずっとずっと覚えています」
 言い聞かせるように告げて、康太は幼い美鶴から離れる。
 なおははっと息を呑む。康太の姿が霧のように薄くなっていた。
 なおは彼の名前を呼ぼうとしたが、康太はそれを制するように首を横に振る。
 康太は薄れていく指先で、なおの手に「終縁」と書いた。
「さよなら」
 その言葉を聞いた途端、なおの視界が真っ暗に沈んだ。



 なおの意識がなくなっていた内に、康太が青い狐となおの縁を切ってくれたらしい。
 けれどなおが目覚めたときにはすでに、康太の姿はこの世になかった。
 サイコロ屋敷で話を終えて、えんは沈痛な面持ちでうつむく。
「駆けつけるのが遅すぎました。私の力不足です」
 なおはいろりの側で横になったままその言葉を聞いていた。
 なおに怪我はなく、体もどこも痛くない。それがかえって、康太にだけすべてを負わせてしまったようで悔しかった。
 いろりを挟んだ向かい側で、彦丸がえんに言葉を返す。
「仕方ない。相手が九尾では君も危なかった。上に任せて正解だったよ」
 彦丸は袖に手を入れたままで言葉もそっけなかったが、長い沈黙の間何か考えているようだった。
 なおは体を起こしたが、言葉が出てこなかった。
 たった二か月だったが、毎日顔を合わせていた康太がいない。まだ何も実感がなくて、屋根裏からひょっこり降りてくるような気がしてならなかった。
 やがて彦丸は話を打ち切るようにして言う。
「さ、えん。君こそ疲れているだろう。もう帰って休むといい」
 彦丸はえんにそう勧めたが、えんも帰りがたそうにしていた。
 美鶴もいろりの側に同席して、黙ったままだった。彼もまた深く考えこんでいるようだった。
 えんはうつむいたままぽつりと告げる。
「お心遣いに感謝します。……では、私はこれで」
 えんが去って行った後も、しばらく誰も話さなかった。
 やがて美鶴が身じろぎして、おもむろに口を開く。
「彦丸。康太さんって、もしかして僕が小さい頃に世話したあの康太?」
 彦丸は答えなかった。それが肯定になった。
 美鶴は目に涙をにじませてうなずく。
「……そっか」
 如来さまを泣かせてしまう。その事実はなおの心に拒否反応のような痛みを走らせた。
 なおは深く考えたつもりはなかった。けれどもじっとしていることだけはできなくて、弾けるように顔を上げて告げていた。
「立花さん。僕、あの世に行ってきます」
 どうしてそんなことを言い出せたのか、なお自身わからなかった。
 驚いて振り向いた彦丸と美鶴の前で、なおは勢いのままに言う。
「面接で聞いたんですけど、あの世に行って戻ってくる方法っていうのがあるらしいんです。僕のせいで康太があの世に行ったなら、僕が取り戻してきます」
 美鶴より少し早く驚きから立ち直ったようで、彦丸が静かに問いかける。
「では、それができた人間のことを聞いたことがあるのかい?」
 彦丸に問われて、なおは首を横に振る。
「知らない! やったことないから!」
 なおは開き直って胸を張る。
 今それをやらなければいけないと思った。それが無謀だとか無茶だとか、考えている暇はなかった。
 彦丸はあぐらをかいて座っていたが、ため息をついて言う。
「やれやれ。直助は思ってたよりやんちゃだな」
 彦丸はゆっくりと立ち上がって、床をトンと叩く。
「……じゃあ私も行くしかないじゃないか」
 突然家が揺れたかと思うと、彦丸が今しがた踏んでいた床が抜けた。
 底のまったく見えない暗い穴が、ずっと下まで伸びている。
 なおはまんまるな目をしてぼそっと言う。
「……へ?」
 何が起こったのかわからない。そんななおに、彦丸はさらりと言う。
「私は下の系列の神だと言ったろ? あの世にはくわしいんだ」
 下って、地理的にこの屋敷の下からも行けるのか。なおは呆然としたが、彦丸はふいに顔を引き締める。
 彦丸はなおの覚悟を問うように言った。
「言っておくが、この下は君の知っている世界とは違うよ。……いいかい?」
 なおはごくりと息を呑んで、馬鹿にするなとにらみつける。
 なおは胸を押さえて叫んだ。
「行く!」
 瞬間、なおのところまで穴が広がっていた。
 彦丸にトン……と軽く肩を押されただけで、なおの体はあっけなく倒れる。
 一瞬の浮遊感。その後、不安を感じる前に穴にはまっていた。
「う……わぁぁぁ!」
 なおは穴の中へ、まっさかさまに落ちていく。
 彦丸はひらりと手を振って言った。
「行ってらっしゃい、黄泉の国」
 彦丸の姿さえ、あっという間に遠ざかっていった。
 ……自分の扱いってひどくない?
 なおはそんなことを、果てしなく落下しながら思っていた。