さあ、素敵な恋の始まりだ。
 そう目を輝かせるような乙女ではなく、なおは如来さまにただただ恐縮していた。
「よく来てくれたね。直助、奉公希望なんだ?」
「ええ、まあ」
 幸い美鶴はなおの胸には触らなかったらしく、女子と気づかれなかったのはほっとした。
 押し倒すつもりじゃなかったんです。わたわたと弁解をしたなおに、美鶴は笑って助け起こしてくれた。「そういうこともあるよ」と全然動じなかった。
 なおにとっては一文無しで途方に暮れていた自分に手を差し伸べてくれた人、いわば恩人だ。また会えて当然嬉しかった。
 しかし黒狐の隣の小屋から始まったこの町との縁が、再び同じ場所から始まるのは何か作為的なものを感じる。まあ端的に言うと、あのうさんくさい黒い狩衣の男のせいじゃないかと思ってしまう。
 それはさておいて、如来さまは時と場合が変わっても麗しかった。今日の彼は長い黒髪を首の後ろで結んで、青い飾り紐をつけていた。飾り紐なんてなおがやったら怒られそうだが、彼がすると実に優雅だ。若葉色の着物に白い帯できっちりと締めているのも、また素敵だった。
 美鶴は親し気になおに話しかけてくる。
「僕は田中家の親戚でね。今日はお手伝いで来てるんだ」
「そうなんデスか」
「どうしたの、直助。緊張してるの?」
 なおは堅い口調で相槌を打ってしまったので、美鶴は心配そうに首を傾げた。
「大丈夫。僕に任せて」
 美鶴は力強くかつ優雅にうなずくという常人にはできない動きをしてみせた。
「仕事の内容は、僕が手取り足取り丁寧に教えるからね」
 ぶっと、なおは鼻血を噴いて後ろにのけぞった。
「あれ? とりあえず横になって! 直助」
 弁解しても説得力がないが、なおは美男をちょっと苦手にしているだけで変態ではない。鼻は弱くなく、まして興奮で鼻血を噴くなんてそうそうしない。
 でも美鶴に会ってからというもの、そういうなおの常識を軽やかに飛び越されてしまっている。あっちの世界では空を飛ぶのが当たり前だったように、今までのなおの常識はまるで通用しない。
「まだ始めるには少し時間があるからね。ちょっと休憩してなさい」
 美鶴はまた手ぬぐいを持ってきてなおに貸してくれた。なおは少しあきらめの境地になって、床に横になりながら自分のいる部屋を改めて見る。
 なおのいるところは商家の居間といった感じの部屋だった。隅々まで掃除の行き届いた板張りの床が十畳ほど広がる中に、いろりを囲んで座布団がいくつか敷いてある。
 ちらと奥を見ると、広々とした厨房があった。かまどや水汲み場が併設されていて、けっこうな人数の食事が出せそうだった。
 天井には梁が張り出していて、雅かつ力強い。外から見たときはこじんまりとした屋敷だったのに不思議なものだ。
「こんにちは、お邪魔します」
 ふいに戸が開いて、なおと同い年くらいの男が現れた。学者みたいな大きな黒縁眼鏡をかけていて、人懐こく美鶴に笑いかける。
「あ、てっち君も手伝ってくれるの?」
「はい、僕もお手伝いです。そちらは奉公希望の方ですか?」
「はは。今日はまだ説明だけなんだけど、この感じだと彼で決まりだろうね」
 がらんとした居間を見渡して、美鶴は苦笑する。てっちと呼ばれた男が明るく返した。
「縁があったんですよ。いいことです」
「そうだね。紹介するよ。こちらは直助」
 美鶴に紹介されてなおが頭を下げると、男も丁寧に言った。
「初めまして。僕は修行中の住職、円城寺(えんじょうじ)哲知(てつとも)といいます」
 丁寧に礼をしたのを見て、なおはこくんとうなずく。
 育ちがよさそうで角が立たない態度を取る男だなと思っていた。まだ丸めてはいないが短く刈り上げた髪で、清潔感があふれる。
「僕、十六なんだけど、円城寺さんは?」
「ああ、僕も同じです」
「じゃあてっちって呼んでいい? 僕のことはなおでいいよ」
「うん、そうしよ。なお、よろしく」
 哲知はなんとものんびりとした物言いで、なおはすぐ仲良くなれそうな予感がしていた。
「こんな体勢でごめん」
 寝転んだまま頭をかいたなおに、哲知は苦笑を返す。
「美鶴さんを見たらみんなそうなるよ」
 あ、やっぱり?となおは苦笑した。哲知は美鶴に対して普通の年上のお兄さんに接する態度だが、美男という認識は共通しているらしかった。
 カランと固いものが転がる音がした。何か異質な空気が流れ込んで、まばたきした後にはなおの隣に誰かが立っている。
「また鼻血を噴いて。お子様だね、なおは」
 その面白がるような口調、低くつややかな声には聞き覚えがあった。
 なおが見上げた先には、黒い狩衣姿で目元の化粧が特徴的な男。
 やはり来たなという腹立たしい思いでなおが見ていると、すっと美鶴が立ち上がった。
「帰れ、彦丸」
 美鶴は彦丸に冷ややかに言い放った。
 彦丸はくすくすと笑って美鶴を見やる。
「私は今回のお祭りの後援者だよ? 私を追い出してどうするんだい?」
「説明なら僕がする。お前は毒にも薬にもならないような縁でも結んでくるがいい」
「それは嫉妬かな? 美鶴」
 彦丸は美鶴の肩を抱いて引き寄せる。なおはどきっとしてとっさに目を逸らした。
 え、え、これって。なおは声には出さずに心中で騒ぐ。
 彦丸は例のつやめいた声で美鶴にささやいた。
「私が帰るべき場所はいつも美鶴のところだって知ってるだろう?」
「黙っていろ。その口にあぶらあげを叩きこんでやろうか」
 美鶴は彦丸を弾き返すと、怒りをまとってにらむ。それを見て、彦丸は肩をすくめた。
「それは勘弁。私は美味しいものだけ口にしてたいんだ。ま、説明役くらいは美鶴に譲ろう」
 美鶴はまだ彦丸を睨んでいたが、彦丸はひょうひょうとしてそこに立っていた。
 やがて美鶴は仕方なさそうに腰を下ろして、彦丸は当然のようにその右隣に腰を下ろした。
 なおはあわわと思いながらその様子を見ていた。
 街の方では男同士も恋人になるっていうけど本当なんだ。さすが美男の世界は違うなぁ。なおは赤くなった頬をさすりながら、二人の恋路に思いを馳せていた。
 いろりを囲んで美鶴の左隣が哲知、向かい側がなおとなる。なおが起き上がったのを見計らって、美鶴は話し始めた。
「では時間になったから、説明を始めよう」
 美鶴は一度目を閉じて息を吸うと、その次の瞬間には優しげな如来さまに戻っていた。先ほど彦丸に向けた不穏な眼差しはすっかり収めて、穏やかに語りかける。
「今年の夏、七月中旬からこの稲香町(いなかまち)でお祭りを開きます」
「……いなかまち」
「いね科町とか田舎なら村だろうとかいろいろ言われるけど、いなか町です」
 微妙な名前だ。しかし如来さまを困らせるものではないと、なおはうなずいた。
 なおははいと手を上げて質問をする。
「お祭りって、具体的にはどういうことをするんですか?」
 美鶴はなおを見て優しく答える。
「田中家の紹介で来たなら、直助は「あちら側」を見たんだよね?」
「あ、はい。妖怪の世界のことですね」
 美鶴はうなずいて告げる。
「今回のお祭りっていうのは、妖怪と人間の縁結びで人を呼ぶ計画なんだ」
「縁結び大好きですね、ここの人らは」
 なおはちょっと遠い目をする。
 妖怪と人間のうふふあははな交流というものを想像しかける。いやいや待て、となおは首を横に振った。
「ああ、そっか……縁組ですか」
 そういう理解でなおは納得しかかったが、美鶴は言葉を挟んだ。
「ちょっと違うかな。縁結びっていうのは結婚相手だけじゃなくて、友達や近所との縁もあるんだよ。広く江戸から人を呼ぶ計画なんだ」
「ははぁ」
 健全な普通のお祭りだと気づいて、なおはうなずく。
「素敵じゃないですか。僕も貢献させて頂きます」
 胸をおさえて、なおはうなずく。そんななおに、彦丸がくすっと笑った。
「ちょっと地味だって思っただろ、なお?」
「なっ! 健全でいいじゃない!」
 男子ばかりの村で育ったので、ちょっと妄想しただけだ。彦丸に内心が読まれていたかと思ってなおはぎくりとした。
 哲知はのんびりと言葉を挟む。
「稲香町は若い人がどんどん江戸に出てしまってますからねぇ」
 彼はうなずきながら言う。
「そのわりに、あちら側は妖怪が密集してますし。行き来を活発にしてどちらもほどよい街にしたいって、長いことあっちこっちで言ってましたもんね」
 どうやら哲知もあちら側についてよく知っているらしかった。修行中でも住職だった。
 美鶴はそうだねとうなずき返して、なおを見た。
「それで人手が欲しくて、てっち君みたいなお手伝いや、直助みたいな奉公人を募集してるんだ」
 どんな仕事をやらされるかと思えば観光案内のお手伝いとみた。
 これなら自分にもできそうだとなおが思ったところで、ふと違和感が頭をよぎる。
「……夏のお祭りなんですよね? その後は?」
 なおが恐る恐る問いかけると、美鶴は気の毒そうに顔をしかめる。
「ごめんね。奉公さんを取るのは七月までなんだ」
 ということは、なおは八月以降宿無し仕事無しに逆戻りということだ。
 せちがらい奉公人の現実に直面するなおに、彦丸が声をかける。
「安心したまえ。その後も田中家に奉公する道があるよ」
 袖に手を入れながら、彦丸は何気なく付け加える。
「美鶴がなおを田中家の外回りに推薦してやればね」
 美鶴はその言葉に迷ったらしく、黙って考える間があった。
 美鶴はうなって一言告げる。
「田中家の外回りは危ないからなぁ……」
 商家の外回りって、そんなに危険な仕事なの? なおは首をかしげながら、美鶴の困り声に疑問を持つ。
 美鶴はなおに振り向いて厳しく言う。
「直助、仕事にもいろいろあってね。田中家の外回りはあんまりおすすめしないよ」
「はぁ。わかりました、気をつけます」
 なおはいまいち納得がいってないながらも、如来さまが言うならと素直にうなずく。
 美鶴は首を横に振って、なおに柔らかく笑いかける。
「ぜひ直助にも手伝ってほしいな。「恋の町、稲香町」祭り」
 その笑顔の麗しさに、なおはまた強く鼻を押さえたのだった。




 それから早二か月。
 言葉面は軽やかに通り過ぎたように見えるが、なおの人生の中ではこれでもかというくらい新しい日々だった。
「次の方、どうぞ」
 なおは一人だけで田中家のおばちゃんたちにそろばんや簡単な漢字を教わって、そして一人だけのお祭り用奉公人となった。ここまではいい。
 そこから始まったなおの仕事というのが、ある意味新人の定番。門番だった。
 縁結び祭りに参加を希望する妖怪を入口で出迎える。さすが街一番の商家開催の祭り、事前に認められた妖怪だけ参加が許される。まあ実際の了を出すのはなおの上司のさらにずっと上司であるご当主さまなので、なおは入口でさらっと札を見て小屋の中のおばちゃんに取り次ぐだけだ。
「……待ってください。井の町二丁目のどじょうさん」
 ところが、意外と入口でお断りするケースも多い。あっち側の彼らは非常に適当で、参加の一枚札は不備の嵐だった。
「本気でうなぎを販売するつもりなんですか?」
「どじょうじゃなきゃ何でもいい気がしない?」
 札を読んでなおが訊くと、非常にまったりとした答えが返ってくる。
 なおは首を横に振ってどじょうに忠告する。
「同業者から村八分に遭いますよ。具体的な料理も書いた方がいいですね。ただでさえ食品の販売は難しいんですから」
「うーん、わかったぁ」
 にょろにょろとした尻尾を引きずりながら、二丁目のどじょうはのんびりと去って行った。
 なおのここ二か月の相手は、おはようからおやすみまで妖怪である。
 田中家の案内所は山の中の小屋にある。まだあっち側と通じている道は、この緑濃い山間にしかなかった。なおは蚊に刺されながら、ぽりぽりと首の後ろをかいて耐える。
「おい、門番!」
 ふいに剣呑な声を聞いて、なおは顔を上げる。
「俺の宿が不許可ってどういうことだよっ? 責任者を出せ!」
 ズズズ……という地響きがして、なおの体が浮き上がる。
 なおをつまみ上げたのは、丘ほどもある一つ目の巨体を持つ妖怪だった。
 なおは並みの大木より高くに持ち上げられて、この高さから落とされたら命はないと冷や汗を流す。
 とはいえ今、なおは言うべきことを言う立場にあった。
「……あなたの札に不備があるんです」
「あァ?」
 門番の宿命として、荒っぽいお客さんの相手をしなければいけないこともある。すぐ慣れるわよとおばちゃんたちは笑うが、なおはまだ全然笑えない。
「今回のお祭りは、原則風俗営業は禁止です。芸妓のお姉さんを呼ぶ宴会は違反です」
「芸妓が酒の席にはべるのはあっち側じゃ常識だよ。認められたところもあるだろ」
「昼間の舞台観光は例外として認められているからです。でもそれも当主さまが特別に認めた店でないと……」
「ええい、ごちゃごちゃうるせぇ。ったく田中家は!」
「いや、門番の僕に怒られても……って、うわぁ!」
 あんまり役に立たない言い訳をする暇もなく、なおは宙に放り出される。
 地面に叩きつけられると体を縮めた。痛みを想像して泣きたくなりながら目を閉じる。
 けれど衝撃は来なかった。代わりにふわりと大きなものがなおを包んでいた。
「すまんねぇ、坊や」
 そろそろと目を開けると、先ほどの妖怪の二倍ほどもある一つ目妖怪がなおを手のひらに包んでいた。全身緑色で牙が飛び出ていて恐ろしい風貌だが、なおを見下ろす眼差しは穏やかだ。
 大一つ目はなおをそっと地面に下ろすと、小一つ目の頭に拳骨を落とす。
「いてっ! 何すんだよ、兄貴」
「阿呆。こっちとあっちは違って当たり前じゃろうが。分をわきまえんか」
「喧嘩もいかんぞ」
「札くらいいくらでも書けばいいじゃろ」
 声が増殖したかと思うと、一つ目巨人たちがわらわらと集まって来て、小一つ目を引っ張っていく。
 巨人たちは手を振ってなおに言った。
「坊や、おつかれさん。がんばっとくれ」
 看板につるした風鈴が、チリーンといい音を立てる。
 仕事を始めてから、絡まれたり文句をつけられることは日常茶飯事だ。
 でも、なおはまだ一度も怪我をしていない。怪我をしそうになると、必ず別の妖怪が止めに入ってくれる。
 あっち側の多くの妖怪は、喧嘩は嫌いで、人間にもむやみに怪我をさせたりはしないようだった。
 お客さんが途切れたところで、水筒のお茶を飲んで一服する。
 そんな調子で、なおは何とか仕事をしている。
「ただいま帰りましたー」
 ところで、なおは奉公人になってから説明会のあった小屋で暮らすことになった。
 この小屋は、町の人たちには「サイコロ屋敷」と呼ばれている。この家は四角い箱のような見た目をしていて、表面に黒点がついているからなのだそうだ。
 彦丸が言うには入口だけはこちら側にあって、内側の立派なお屋敷はあちら側にある。こっちなのかあっちなのか、よくわからない建物だった。
 なおを迎えてくれるのは、やはり妖怪の面々だ。
「おう、なお」
「あいも変わらず貧相な顔じゃのう」
 いわゆるつくもがみというやつで、この家にはかまどやいろりや風呂や壁や床や、とにかくあらゆるところに妖怪が住んでいる。物と変わらない形も、手足が生えているのもいるが、だいたいおっさんっぽくしゃべる。
「貧相じゃない。普通なだけだよ」
 なおは自分で言ってへこんだが、首を横に振ってぐったりする。
 なおがいろりの前でつぶれていると、彼らは家のあちこちから集まってくる。
「飯はまだか」
「今日は厠掃除をしとらんな?」
「窓のさんにほこりが積もっておるぞ」
 彼らは姑みたいなことを言うのが好きである。
 なおは仕事でくたびれた身に面倒事を上塗りされるのが嫌で、つい苛々して言い返す。
「そんないっぺんにできるわけないよ。自分の担当は自分でやって!」
「使えん居候じゃ」
「まったくじゃ」
 けれどなおが一声怒鳴ると、妖怪たちはすごすごと自分の持ち分に戻っていく。
 たまになおが申し訳なくなるのはこういう時だ。
 つくもがみたちは、口うるさいが悪気はない。ただ自分の持ち分が大好きで、いつでもそこを清潔に使いやすく保ってくれるように願っている。
 それになおが朝遅刻しそうになると起こしてくれたり、仕事でへこんでいたりすると迷惑なくらい歌ったり踊ったりして慰めようとしてくれる。
 やっぱり謝っとこうとなおが腰を上げたところで、廊下を渡って美鶴が現れた。
「おかえり、直助」
 ……そう、これが大事。
 このお屋敷は、家主と無数のつくもがみがいる。けれどそこに美鶴も住んでいるのだ。
 本日の美鶴は外行きの着物姿だった。袖に銀杏模様があしらわれていて、紺の帯できりっと締めている。このまま姿絵に載せても、部屋に貼られること間違いなしだった。
「今日は魚を焼こうと思ってるんだけど、それでいい?」
 美鶴はなおが疲れているからと気を遣って、いつも食事を作ってくれる。心も如来さまのような人だった。
「僕も手伝わせてください!」
 この年まで母の手伝いでしか料理をしてこなかったなおの腕は期待できないが、今は奉公人の端くれ。少しずつでも炊事を覚えようと、せめて夕食はお手伝いすることにしていた。
「いつもありがとう。じゃあ一緒にやろうか」
 美鶴はにっこり笑ってうなずいた。
 美鶴は髪をくくったり、袖をまくったりという身支度でさえ動きが絵になる。
 なおはぽへっとして見とれそうになったが、慌てて首を横に振る。美鶴は手早く魚に仕込みをしてなおに声をかけた。
「これを、うちわであおぎながら焼いてくれるかな」
 かまどを前にして、なおは魚を焼く。やってみると楽しい。うちわで仰ぎながらじゅうじゅう音を立てる魚を見守る。
「仕事はどう?」
 美鶴はその横で、みそ汁や煮物の支度をしていた。何気なくかけられた言葉に、なおはちょっと苦笑する。
「毎日びっくりしますけど、けっこう楽しくやってます」
「うん。彼らは気安いしすごく優しいよね」
 美鶴は優しく相槌を打って言った。
「僕は小さい頃から、人間より彼らの方に親しんできたものだから。むしろ人とどう接したらいいかわからない時の方が多いよ」
「そうなんですか」
 なおは冗談でなく本音で言う。
「美鶴さんみたいないいお兄さん、人間も誰だって好きですけどね」
 なおがこの家に暮らすようになったのは、なおに家がないのを気の毒に思って美鶴が誘ってくれたからだ。
 美鶴はちょっと気弱そうに付け加える。
「それならいいんだけど」
 確かになおは美鶴がこの、こちら側とあちら側の中間に立つ不思議な屋敷に住むようになった経緯をまだ知らない。
 どうして妖怪と親しむようになったのか、いつからここに住んでいるのか、そういう事情も知らなかった。
「……彦丸。行儀が悪い」
 美鶴はいきなり不機嫌になって手を下ろす。
 なおが横を見ると、彦丸が煮物をつまみ食いしていた。いつの間にか里芋がいくつか平らげられていて、彦丸は美鶴に弾かれた手を素早く引っ込める。
「うん、煮加減はまずまず。直助にも教えてあげなよ」
 赤い化粧の施された狐目がにやりと笑みを作る。
「美鶴の使い勝手のいい神使に育てた方がいいからさ」
「何度言ったらわかる。彼は奉公に来てくれているだけで、僕の神使じゃないんだ」
「いずれそうなるさ。だって美鶴は寂しがりやだろう?」
 彦丸が美鶴の肩に肘をついて、ささやくように告げる。
 美鶴はかっと顔を赤くして、彦丸に冷ややかに言う。
「お前、今日は夕ご飯抜き。外で食べてこい」
「おやおや、こんなに尽くしている私に何て仕打ち」
「知るか。出てけ」
 美鶴は煮物の器を持って彦丸の横を通り過ぎる。
「出てけって言われても、ここは元々私の家なのに」
 なおにとって微妙な事実だが、確かに彦丸の言う通りだった。
 この家は美鶴となお、そして家主の彦丸が一緒に住んでいる。一応各人の部屋はあるものの、食事場所や風呂などは共用だ。
 美鶴は彦丸の前だと子どもみたいに見える。すぐ怒って、なおはなんだかかわいいと思ってしまう。
「直助、ごはんにしよ」
 まだぶすっとしながら、美鶴が振り返る。なおは反射的にうなずく。
 美鶴と彦丸は恋人同士なんだと思っていたが、本人たちが言うにはどうやら違うらしい。
 なおは二か月間一緒に暮らしてみてもさっぱりわからないまま、つい焼きたての魚にうきうきして食卓に向かった。



 縁結び祭りの説明のとき以来、なおはお手伝いとして参加している哲知と仲良くなった。
 哲知は初印象と違わず気さくで、親切だった。毎週のようになおを連れて、稲香町のあちこちを案内してくれる。
 土曜日の今日も、哲知と町の散策をすることになっていた。なおはいつものように朝一番、哲知の家である円城寺で待ち合わせの約束をしていた。
 鐘の音を聞くに、そろそろお店の類も開く時間。ちょうどいいと思って、なおは時間つぶしに境内をぶらぶらと歩いていた。
「どこまで続くんだろ」
 円城寺に来るにはけっこう長い坂道を上る。そして本尊が置かれている寺よりさらに奥がある。
 本尊の建物の隣にはいくつも細い綱も束ねた、太い綱が地面に置いてある。その向こうに延々と石段が続いていた。
 小石が転がって来て、なおはその先を見上げる。石段の上を、ほうきで掃き掃除をしている人をみつけた。
 その人は哲知が家で着ているような、作務衣(さむえ)という住職の普段着をまとっていた。「終縁」と縦書きで書かれたお面をつけていて、顔はわからないがかなりがっちりした体格をしている。
 彼は円城寺に来ると時々見かける。いつもこの格好で、寺のあちこちを掃除して回っている。お面が不審すぎるが、その心意気はすばらしい。
 今日もその住職は、丁寧に掃き掃除をしていた。階段を一段ずつ、ちりとりで石や木の葉を取りながら下りてくる。
「あの」
 なおが声をかけると、彼はびっくりしてほうきを取り落した。体格はいいのに、反応の仕方が小動物っぽい。
「ここの頂上には何があるんですか?」
 そう問いかけてみると、彼は内気そうな声で返す。
「そこの綱と同じものがあるだけだよ。入って見てきたらどうだい」
 意外と若い声だった。まだ二十代で、哲知より少し年上くらいだ。
 なおはうーんとうなって言う。
「いや、ここからは入りにくいんですよね。この綱があるから」
 哲知のお兄さんだろうかと当たりをつけながら、なおは言葉を重ねる。
「この綱は……えと、入口みたいで。ここからは違う世界だから気楽に入るなよって感じがして」
 なおは目の前に置かれた太い綱を見下ろしながら言う。
 彼はふうんとうなずいて言う。
「そんなとこかな。君は山で修行したことはある?」
 がっちり住職さんの何気ない問いかけに、なおは一瞬考える。
 修行とは違うけどと、なおは苦い思いをかみしめる。
「……十五の頃、みんなで山籠もりしたんですけど」
 あえて過去形で言うと、彼はそれには気づかなかったらしく話を変える。
「君のことは少し知ってる。哲知と仲良くしてくれているみたいで」
 おやとなおは気づいた。彼は今、てつともと呼んだ。哲知のことはみんなてっちと呼んで、家族しか本名では呼ばないと聞いていた。
 彼は少し迷って、さらりと言う。
「この綱を見てそう思うなら、君はいい感覚を持ってると思う。君も神使を狙っていいんじゃないかな」
 あまりに意外なことを言われたので、なおは不思議そうに問い返す。
「僕が神使に?」
「哲知を推す妖怪もいるから、僕は待ってよって思ってるんだ。確かにあの子は霊力が高いし頭もいいけど、美鶴さんの神使なんてちょっと欲張りすぎだから」
 褒めているのかけなしているのか。ただそういう言葉の端々から、身内の心配というのがありありと見える。
 なおは頭をかいて彼に言う。
「神使って要は神様の下働きでしょう? まあ僕は如来さまの下でなら、下働きもいいんですけど」
 なおは素朴な疑問を持って彼を見る。
「でも立花さんが神様になって初めて、その下働きを決めようってなるのでは? 立花さんは如来さまみたいですけど、人間ですよ」
「美鶴君が神様になるのは決定事項なんだ」
 ふいにがっちり住職さんは語気を強める。
「そうじゃないと、上の神々が騒ぎ出してややこしいことに……あ」
 彼はおもむろに顔を上げて、なおにほうきとちりとりを押し付けた。
「よろしく!」
「え、なにが」
 なおが突然のことに驚いて立ち竦んでいると、がっちり住職さんはさっと物陰に隠れた。
 何事だろうと、なおはほうきとちりとりを手にきょろきょろしていた。ふいに境内の方から声をかけられる。
「あらあら、直助。お掃除してくれたの?」
 なおに近づいて来たのは、今年七十歳になるという哲知の祖母、とわだった。足が悪く、背中を丸めて杖をつきながらゆっくり歩いてくる。
 なおは慌てて否定しようと声を上げる。
「いや、掃除してたのは僕じゃなくて……」
 なおが物陰の住職を示そうとしたら、彼はぶんぶんと首を横に振った。
 なぜ彼が掃除をしていたのを知られたくないのかわからないまま、なおは一応口をつぐんだ。
 なおが物陰から顔を背けてとわの方を見ると、とわはうなずいてなおに言う。
「ありがとうねぇ。とってもきれいになってるわ」
 とわは綺麗になった境内を見渡して笑った。
 なおはそこで違和感に気付いた。とわの視線の先、大きな綱の向こうにはさっきの住職が立ってこちらを見ている。でもとわの目線はその向こうしか見ていない。
 とわは柔和に頬をほころばせながら言う。
「そこの綱の向こうに入らなくなって、もう四十年になるのよ。足が悪くなったからじゃないの」
 とわは綱の先の石段を見やりながら言葉を重ねた。
「子どもが出来てすぐの頃に、私がここの石段で転んでね。主人に、危ないからお前はここの掃除はもうしなくていいって怒られて、それっきり」
「怒らなくたっていいじゃないですか」
「そうねぇ」
 なおがちょっとむっとすると、とわは若い娘のようにころころと笑ってうなずく。
「でもその時から、毎朝ここの石段を掃除するのは主人の日課になったのよ」
 なおはふいに黙った。疑問だったことが一つ腹に入る。
 物陰に消えた住職の正体、それはもしかしたらと思ったのだ。
「とわさん、あの……」
 なおが顔を上げてとわに問いかける前に、境内の方から哲知がやって来て言う。
「おばあちゃん、お客様がいらっしゃってるよ」
 哲知がにらむように物陰を見た。もうそこにがっちり住職さんはいなかった。
 とわは哲知の言葉にうなずいて返す。
「じゃあ戻るわ。哲知、直助をよく案内してあげるのよ」
「うん」
 哲知はうなずきながらも、消えた住職の方をにらんでいた。
 とわが去った後、哲知はいつもの温厚な表情でなおを見る。
「ごめん。待たせたね」
「いや、僕はいいんだけど。さっきの住職さん……」
 なおが言いかけると、哲知はさっと顔を強張らせて言う。
「あれは幽霊だよ。寺に住み着いてるんだ」
「っていうか、あの人は哲知の……」
「あっち側に行くこともできずにさまよってるんだ。早く成仏させないと」
 哲知がこんなきつい口調でしゃべるのを、なおは初めて聞いた。
 こじれてしまった縁を直すのはとても難しいと聞いたことがある。
 哲知とあの住職もそうなのかもしれない。なおはぼんやりとそう思った。
 結局それ以上なおは住職の話をすることができないまま、哲知と連れ立って出かけることになった。




 哲知と親しくなって、なおは何度かあちら側に遊びに行った。
 先日、こちら側とあちら側をつなぐ大きな道が山間に通った。平日にはそこを縁結び祭りのために妖怪がやって来る。ただ道はまだ不安定で、縁結び祭りの解禁日までは一般人は通行禁止になっているのだった。
 ただこちら側とあちら側の行き来ができないわけじゃない。こちら側とあちら側はいろいろな場所でつながっている。ただ、普通の人はそれがどこか気づかない。
 特別な力のある者、神様とか霊力の高い人間とかならその場所がわかる。それで、哲知はその力がある者なのだと聞いた。
 哲知はなおを振り向いて声をかける。
「じゃ、行こっか」
 なおが哲知に手をつかまれたまま前に進み出ると、世界がころりと転がるように変わる。なおは何度やっても慣れずに転んで、しばらく立ち上がれない。
 なおは地面に手をついたまま目を回すが、哲知は涼やかな顔でどこに行こうかと周りを見回している。
 なおはちょっと涙目で言う。
「いいな、てっちー。そういう力ってどうやって身に着けるの? やっぱ修行が要る?」
「確かに修行も要るけど」
 哲知はなおを助け起こして言う。
「霊力は基本、縁の強さだって言われるね。僕は寺にしょっちゅうあちら側の妖怪が来るから、あちら側に縁が深いんだ」
「縁かぁ。僕は普通の商家出身だし同じようにはいかないか」
「ううん」
 哲知は苦笑して指を立てる。
「ある日突然、大物妖怪にぶつかられて縁ができることもあるよ。ほら、直助もそうだろ?」
 なおは彦丸に絡まれたことを思い出してため息をつく。
 確かに順調に江戸に上っていたら、なおは天狗の縁結びも田中家の祭りにも奮闘することがなかった。
 面白い経験をさせてもらえたと喜ぶには、ぶつかった神様が曲者すぎる。なおはぼそりとぼやいた。
「どうせぶつかるなら、美人の神様がよかったなー……」
 彦丸はその辺をさえない人間が歩いていたから面白がって絡んだのに違いないと、なお自身納得している。本当に面白味がない。
 今更ぶつかったものは仕方ないが、そのうち彦丸に文句をつけてやろうと思うなおだった。
 なおは腰をさすって立ち上がる。
「ん、そろそろ大丈夫」
「うん。なら今日は劇場街の方に……」
「……おい、てっち!」
 突然怒鳴り声が割り込んできて、なおはそちらを振り向く。
 その声は哲知に続ける。
「てめぇ、またこっち側に入り込みやがって! いつまでもタダで済むと思うなよ!」
 哲知の胸倉をつかんでいきり立っていたのは、背の高い男だった。
 ひぃ、となおは息を呑む。
 その男は二十代後半ほどで銀髪、いかにも人相が悪く、しかも眉まで剃っているものだから、見た目完全にがらっぱちだった。
 怖っとなおは一目散に逃げようと思った。
 ところが哲知は目を輝かせて、男に自ら近づいていく。
鏡矢(きょうや)さん! そちらから会いに来てくださるなんて!」
 哲知は顔の前で手を握り締めて黄色い声を上げる。
「その着物素敵です。巾着も新作ですね? だけど鏡矢さんは何を着ても麗しい。白鳥のようです!」
 ……あれ、哲知ってこんな性格だっけ? なおは心の中で突っ込む。
 哲知は普段の穏やかさとはうって変わって、まるで歌舞伎俳優に遭遇したようにはしゃぐ。
 男は、確かによく見るとおしゃれな着物を着ているし、それを粋に着崩してるし、ちりめん生地の巾着もちょっと見かけない小物ではある。
 しかしながらと思って、なおは言葉を挟む。
「待って! 待ってください! ちょっと失礼します」
 なおは哲知を引っ張って木の影に連れてくる。
 幸い男は哲知を引き戻して殴るほど怒ってはいないようだった。なおは哲知を安全な場所まで確保すると、ほっと安堵しながら口を開く。
「落ち着きなって、てっち。あんな怖い人にかかわるとろくなことが……」
「鏡矢さんを見て落ち着けるわけないよ!」
 まだ興奮している哲知に、なおは眉を寄せて言う。
「深呼吸してよく見るんだよ」
 なおは恐る恐る後ろを示す。そうしたら哲知は一度息を吸って、深く息をついた。
 一瞬いつもの穏やかな哲知に戻ったように見えた。でも次の瞬間、哲知は口を開く。
「……白鳥は嘘だった」
「だろ? 眉無し……」
「むしろ黒鳥。危ない魅力にあふれてるね!」
 なおはわかっていたつもりで哲知のことを全然わかっていなかったと反省した。
 何が起こった、哲知。なおはただ呆然とする。
 そんななおと哲知を差し置いて、男はふいに哲知に近づいてきた。
 男は呆れ調子で哲知に言う。
「てっち、もういいから。頭冷やしてこい」
 ぺいっ。
 そんな音と共に哲知が放り出されて、宙に消える。
 なおは何が起こったのかわからず、辺りをきょろきょろと見回した。
「え?」
「ちょっと向こう側に飛ばした。でもてっちのことだからまたすぐ戻って来るに違いねぇ」
 男はなおの襟首をつかんで言う。
「てっちをまくぞ。来い、坊主」
 なおはがらっぱちに引っ張られて空に跳ぶ。
 男は屋根の上を下駄でトン、トンと、軽やかに飛んで行く。
 なおは最初こそ怖かったものの、じきに感心の境地になる。
 妖怪の脚力っていつもながらすごいよなぁ。空を往くなんて人間にはできないことを、妖怪は簡単にやってのける。きっと見てる世界も人間とはずいぶん違うんだろうなぁと思う。
 やがて男は町屋の裏通りみたいなところに着地して、なおも地面に下ろす。
「勝手に連れてきて悪かったな」
 がらっぱちもとい鏡矢はすまなそうに言う。
「帰りはちゃんと送ってくから。てっちはああなっちまうと、しばらくどうしようもねぇんだよ」
 頭をかいて困り顔になる彼を見て、なおは見た目ほど怖い人じゃないんだと気づく。
「ちょっと待ってろ」
 彼は縁側になおを呼んで座らせると、奥に入って何か用意している気配がした。
 まもなく彼はなおに小皿と湯呑を渡して言う。
「ほれ、こんなもんしかねぇけど」
「あ、ありがとうございます」
 それは枝豆と麦茶だった。鏡矢は隣に座って自分もぽりぽりと枝豆をつまみながら、なおに言葉をかけてくる。
「俺は鏡のつくもがみの鏡矢。坊主はてっちの友達か?」
「はい。四月から田中家に奉公に上がりました、直助です」
 妖怪というのは特に理由もなく人懐こい。なおも自己紹介にだいぶ慣れてきていた。
「ああ。比良神の神使の神使か」
 それで次に、妖怪はこう返してくる。大体、この後延々と神使の話になる。
 ところが鏡矢はあっさり神使の話題を打ち切って、哲知の話を続けた。
「そっか、てっちに人間の友達が出来たのか」
 鏡矢はしみじみとうなずきながら言う。
「あいつ、器用貧乏だからなぁ。変に頭が固いところもあるし。よかったよかった」
 なおは微笑ましくなってたずねた。
「鏡矢さんはてっちと長い付き合いなんですか?」
「おう、あいつが赤ん坊の頃からな。俺、あいつのおしめ替えたことあるぜ」
 鏡矢は見た目の恐ろしさに反して、気さくになおに話を合わせてくる。
「俺はガキの時から円城寺に世話になってるもんでね。鏡座の役者なもんで」
「役者さんって、寺にお世話になるもんなんですか?」
「坊主は知らねぇか? 円城寺は別名「終縁寺」、縁切り寺なんだよ」
 縁切り寺とつぶやいて、なおは首を傾げる。どこかで聞いたような気もするが、適当な記憶だから言葉にできない。
 鏡矢はなおの反応に、おかしそうになおの肩を叩いて言った。
「なんだよ、縁切り寺も知らねぇって? しょうがねぇな」
 世話焼きの兄さんらしい調子で、彼はなおに教えてくれる。
「余所では、女の側から離婚をするために駆けこむところ。この稲香町では、縁全般を切るために駆けこむんだ」
 ああ、となおはうなずいて言った。
「そういえば母さんに聞いたことがあります。駆け込み寺ってやつですか」
「そうそう。知ってんじゃねぇか」
 鏡矢は枝豆を食べながら、強面に苦笑いを浮かべる。
「俺は職業柄、色恋に目が狂った奴らに追い回されることが多いんでね。こりゃいよいよやべぇって時、最後に駆けこませてもらってるのさ」
「ははぁ……」
「あん、信じてねぇな? 俺は売れっ子なんだぞ」
 そった眉の辺りを見てしまったなおの額を、鏡矢は指先でぽんと弾く。
「眉ばっか見るんじゃねぇ。舞台では化粧するからそってるだけだよ」
「す、すみません」
 なおが慌てて謝ると、鏡矢は真顔になる。
「ま、でも俺のすっぴん見てる連中はそれが普通の反応なんだよ。なんでてっちは元に戻らねぇんだろうな……」
 あごに手を当てて黙ってしまった彼に、なおは先ほどの哲知の様子を思い出す。
 確かにあのときの哲知はちょっとおかしかった。なおは恐る恐る声をかける。
「さっきのてっち、こう言っちゃなんですけど……」
「あれは取り憑かれてるな」
 鏡矢はうなずいて衝撃的な一言を告げる。
「恋の病に」
「恋……!?」
 なおは枝豆をとりこぼして驚く。
 そうしたら、鏡矢は同意するように声を荒らげた。
「なっ、お前もおかしいって思うだろ?」
「え、いや、その、まあ」
 男同士も江戸では恋人同士になるって聞きますしね。適当な知識を披露しかけたなおだったが、鏡矢は問答無用で続ける。
「てっちは霊力も高いし、ちゃんと山で修行も積んできた、立派な住職の跡取りなのにさ。何を間違って眉無しがらっぱちに惚れるんだ?」
 あ、自分でも見た目が眉無しがらっぱちなのは自覚があったのか。なおは遠い目をしながらうなずいていいのか迷う。
 鏡矢は顔を覆って深いため息をつく。
「もっと綺麗な姉ちゃんもいいとこの坊ちゃんもいるだろうよ。俺はつくづく、あいつの将来が心配でならねぇ」
 なおはそんな鏡矢を見て、この人けっこういい人だなと思っていた。
 とはいえ、なおは念のため質問を投げかける。
「……あの、いい話だと納得する前に一つ質問が」
「ん?」
「妖怪のみなさんは、「坊ちゃん」とも縁を結ぶんですね」
「うん、いいな。男でも女でも、縁があれば」
 鏡矢はなおの問いかけに全肯定してみせた。
「こっちじゃ、そんな細かい違いはこだわらねぇぜ」
「なるほど」
 妖怪はいろんなところで寛容である。なおの田舎くさく、かつみみっちい固定観念など要らないらしかった。
 鏡矢は子どもにさとすように言う。
「お前、考えてみろよ。たとえばとんでもねぇべっぴんが男だったとして……」
「鏡矢さん?」
 ふいに音楽のように美しい声が飛び込んできた。
 なおはぴんと背筋を伸ばして、鏡矢など縁側から飛び下りて立ち上がった。
 見上げると庭先の植木からとんでもないべっぴんさん、美鶴が顔をのぞかせたところだった。
 美鶴は庭に入って来て鏡矢に声をかける。
「ああ、よかった。鏡矢さんがご在宅で」
「お、俺に用ですか? やだなぁ、美鶴の坊ちゃん。俺にどうしろって言うんですか」
 鏡矢は近づいて来た美鶴に笑み崩れて頭をかく。
 ちなみにこれは、鏡矢がおかしいわけではない。なおも何度か見たが、美鶴に会うと老若男女、もちろん人妖問わずみんな顔がとろける。例外は、なおの知る限りでは彦丸と哲知だけだ。
 鏡矢は全面的に歓迎の笑顔で美鶴を手招く。
「さあさあ座ってくださいな。いい玉露があるんで出しましょう。あ、紫摩屋(しまや)の甘納豆も持ってきますよ」
 ここまでなおと扱いが違うと、なおは怒る気も失せて感動した。麦茶が玉露に、枝豆が老舗の高級和菓子に変身している。
 美鶴は和やかに言葉をかけてくる。
「ありがとうございます。でもよければそこの麦茶と枝豆を頂けますか? おいしそうですもんね」
「おお、もちろんいくらでも。おっと、舶来の陶磁器を持ってきましょうな」
 美鶴がちょっと首を傾げてにっこりしただけで、強面の兄さんもさえない女子もにっこりである。
 ……うん、自分もわりと男か女かわかんない性格してるから、人のことをどうこう言えないなぁとなおは思った。
 美鶴はなおの隣にやって来てほほえむ。
「直助も来てたんだ。鏡矢さん、頼りになるお兄さんだよね」
「見かけほど怖くありませんしね」
 二人でうなずきあっていると、鏡矢がおそらく彼の家で一番上等と思われる陶磁器の器に麦茶を注いで持ってやって来た。
 美鶴はお礼を言ってそれを受け取ると、ひとごこちついて鏡矢と世間話を始める。
 なおは麦茶と枝豆を手にしていようと、眉無しがらっぱちとさえない男児を左右に置いても、如来さまのところだけ絵画のように綺麗だと思ってうなずいていた。
 ふと美鶴は空を仰いで言う。
「もうすぐ縁結び祭りの解禁日ですね」
 なおもおそらく鏡矢も、自分たちが背景で全然構わなかったが、美鶴が顔を引き締めたのでつと振り向く。
「鏡矢さん、今一度お願いします。どうか鏡矢さんも、人間と妖怪の縁に一役買って頂けませんか?」
「お、おっと……」
 美鶴は鏡矢の手を取って熱っぽく告げる。
 鏡矢は耳まで真っ赤になって全肯定しかけたが、なんとか美鶴の手を外して縁側をずり下がった。
「いやいや、それは……いくら坊ちゃんの頼みでも、勘弁してくださいな」
 鏡矢は顔を苦しそうに歪めて頬をかく。
「俺はこっちとあっちの縁結びには反対なんです。……お互い、分というものがあるでしょう?」
 鏡矢が言った「分」という言葉を、なおは妖怪に関わるようになってからよく耳にした。
 分をわきまえよとか、相手の本分を侵しちゃいかんとか、妖怪は繰り返し口にする。
 鏡矢は困り果てたように美鶴に言う。
「分をわきまえない結びつきってのは、災いを招きますんで。俺は遠慮させてもらえませんかね」
 なおは、縁結び祭りに多くの妖怪は乗り気だが、反対の立場の者もそれなりにいると聞いていた。
 けれど世話焼きで初対面のなおにも親切にしてくれた鏡矢も反対だと聞くと、ちょっと意外な気持ちもしていた。
 だから前々から鏡矢に親しんでいた美鶴はもっと複雑な心境かもしれないと思って、なおは心配そうに美鶴を見る。
 美鶴はしょんぼりとしてうなずく。
「……ごめんなさい、しつこくして」
 鏡矢は慌ててなだめるように言う。
「とんでもない。坊ちゃんに誘われるなんて役者冥利に尽きますぜ」
 鏡矢は頬をかいて苦笑してみせた。
「俺はちょいと年食った妖怪だもんで、新しい話に乗れねぇだけなんです。坊ちゃんがこれだけ一生懸命やってんだ。うまくいってほしいと思ってますよ」
 ぽんぽんと美鶴の頭を叩いて、鏡矢は優しい目をする。
「俺は、坊ちゃんみたいに俺たちのことが好きな人間が時々来てくれて、一緒に茶が飲めれば……それで十分だって思うだけなんですがね」
 なおは鏡矢の言うこともそのとおりのように思った。
 縁結びって必要かな。それってはしゃいでどんどんすること?
 なおは男ばかりの村で育って、女より男に親しんできた。母はなおが恋愛事に興味がないのを心配していたけど、なおはその生活が心地よかった。
 無理に縁を結ばなくても、自分を好きなひとと時々楽しくお茶が飲めればいい。なおもそういう考え方を持っている。
「きっと俺は恵まれてるんでしょうなぁ。縁に困っていないんです」
 鏡矢が何気なく言った一言を、なおもぼんやりと心に思ったのだった。



 縁結び祭りの解禁日の前日、なおは家で夕涼みをしている美鶴をみかけた。
 美鶴は湯上りだと浴衣になる。長い黒髪をほどいて垂らし、中庭の縁側で裸足をぶらぶらさせているところなんて卒倒ものの色香だから、なおはなるべく見ないようにしている。
 でも美鶴が声をかけてくれるのを実は待っていて、その日はありがたいことにそれがあった。
「ね、直助。蛍を見に行かない?」
「はい、お供します」
 そう言われたなら、なおは一も二もなく直行決定だ。
 ただ大体そういうときは余計な御仁も控えていて、彦丸が廊下から顔を出して言う。
「私も行こうかな」
「お前は来なくていい」
 美鶴は冷たく返したが、彦丸は軽く笑い返す。
「だめだよ。こんな夜遅くに美鶴を一人で外にやるわけないじゃないか」
「……直助、行こ」
 美鶴はぷいと彦丸から顔を背けてなおを呼んだ。
 なおが後ろをついていくと、美鶴は家の入口から右に曲がった廊下を進んで……ふいになおの手をつかむ。
「わぁ」
 びっくりしてなおが身を引く間もなく、カランと世界が反転する衝撃がやって来る。
 そこは曲がりくねったけもの道だった。四角の色とりどりの石が地面にたくさんはめこまれて、なんだか迷路みたいだった。
 美鶴は驚いた様子のなおにそっと教えてくれる。
「家の横には霊道、えっと、幽霊の通り道があるんだ。近道なんだよ」
「そうなんですか」
 幽霊と聞いてどきっとしたが、美鶴の表情が明るいことになおは安心する。彼にとってはよく通る道らしい。
 なおは顔が火照って視線をさまよわせる。
「あ、あの……」
「うん?」
「手……」
 美鶴は草むらをなおの手を取ったまま歩いていく。その手は柔らかくて温かく、包み込むような優しい力加減だった。
 美鶴は困ったように微笑んで言う。
「ああ、ごめんね。直助、もうそんな子どもじゃないか」
 美鶴は手を離してしまって、なおはとっさに自分の言葉を後悔した。でも次つかまれたら今度こそ鼻血を噴くと思ってあきらめる。
 彦丸はそれを面白そうに見ながら言った。
「美鶴は甘えん坊なんだから。ほら、私が手を引いてあげよう」
「僕もそんな子どもじゃない」
 手を差し伸べた彦丸に、美鶴はぶすっとしてそっぽを向いた。
 なおたちは曲がりくねった道を少し歩いて、すぐに見覚えのある道に出た。たんぼの脇の農道から、淡い光に満ちた用水路を眺める。
 美鶴はうちわをあおいで蛍を呼ぶ。
「こっちの水は甘いよー」
 美鶴の目がきらきら輝いている。美鶴にいっぱい寄ってくる蛍の気持ちがなおはよくわかった。
 青い夜に浮かぶ蛍の光に包まれて、なおは少し里のことを思い出した。里でもこの季節は蛍が待っていた。
 でもなおにとって里というと真っ先に浮かぶのが、今は里にいないひとのことだ。
 母さんはどうしているのかな。嫁ぎ先でいじめられたりしてないかなと、思いを馳せていた。
 ふと美鶴が顔を上げる。
 なおは目を見張る。……水路の水面を、「終縁」のお面をつけた住職が渡っていた。
 美鶴はなおと違って、水面を滑るという超人的行動におびえることはなかった。気楽に彼に声をかける。
「ああ、勇雄(いさお)さん、お久しぶりです……あ!」
 本名勇雄は、びくっとして水面で転ぶ。そのままぶくぶくと水に沈みそうになった。
 けれど美鶴やなおが動く前に、袖をひらめかせて彦丸が跳躍していた。
「やれやれ」
 彦丸はまるで水面の葉っぱを拾うように勇雄の袖をつかんで救出する。
 彦丸はそのまま一跳びで勇雄をこちらの岸に連れてきた。
 彦丸は岸辺に下ろした勇雄に言う。
「そろそろ潮時なんじゃないかい、勇雄。だいぶ意識が濁ってるんだろう?」
 彦丸は珍しくも神様じみた忠告を続ける。
「その体は不安定すぎるんだ。君はもう次に進むべきだよ」
 次と聞いて、勇雄は首を横に振った。
「少しだけ……もう少しだけ待ってください」
 勇雄は懇願するように言った。
「哲知が跡取りなんて不安なんです。せめてあれが身を固めるまでは」
「君、息子の時も同じこと言ってたそうじゃないか。哲知の縁結びが終わったら今度はその子ども、次は孫って、永遠に続くよ」
「でも……」
 呆れ口調の彦丸に、勇雄は何か言いかける。
「あれ? えーと」
 でも言うはずだったことを忘れたようで、少し黙ってから口を開く。
「まだ四十里の壁を越えていないので……」
「君は何に挑んでいるんだい」
「それと、明日は服部家でごぼうの安売りが……」
「確認するけど、本当に安売りが終わったら未練はないんだね?」
「うう……」
 ぼそぼそと内気そうに呟いて、勇雄は首を横に振る。
「……用事を思い出したのでこれで失礼します」
 勇雄は踵を返すと、猛烈な速さで霊道に消えて行った。
 その後ろ姿を彦丸はじっとみつめていた。そんな彦丸に、美鶴は不満げに言う。
「そっとしておいてあげればいいじゃないか。勇雄さんは、誰に迷惑をかけているわけでもないし」
 彦丸は狐目で美鶴を見やる。
 彦丸は淡々と言葉を告げた。
「勇雄は長くこの世に留まりすぎた。もう黄泉の国へは行けない」
「えっ、じゃあどうするの?」
 なおが思わず声を上げると、彦丸はあっさりと答える。
「妖怪のいるあっち側に定着するか、消えるか。けどこれ以上長くここにいたら、あっち側にも行けなくなる」
「じゃ、消える……」
「それが時間切れというものだからね」
 彦丸の声に悲しみはなかった。いつもみたいな楽しげな様子でもなかったが、なおには冷たくも見えた。
 なおは心配になって彦丸にたずねる。
「な、なんとか未練を断ってどこかへ行かせてやれないの?」
 彦丸が何か言う前に、美鶴がつぶやくように告げた。
「……それが彼の道かは、彼次第だろうね」
 美鶴はうつむいて黙りこくると、さっと先に歩いていった。
 なおも歩き出そうとして、彦丸に声をかけられる。
「さて、なおも次の舞台に上がる準備はできたかい?」
 なおはため息をついて、悔しいが自分もそろそろ奉公の時間切れなのだと思った。
 なおは少し考えて続ける。
「いろいろ当たってみたけど、ここからつながってる舞台に行ってみたいとは思ってる」
「ふむ」
 彦丸は悠々とうなずいて、横目でなおを見る。
「次の舞台は、けっこうきついと思うよ。なおはまだ妖怪の恐ろしさを知らないだろう?」
 彦丸はくっと笑って袖をひらめかせると、軽やかに跳躍した。
「でも、妖怪の別の一面を知るのもいいことかな。君は神使になるんだから」
 彦丸はそう言って、一跳びで美鶴に追いついていった。
 蛍はまたたいては、ふわりと飛び立つ。留まることを知らず、短い生を飛び回る。
 ……僕だってと思いながら、なおは二人の方に向かって駆けだした。