人の声が漂うように聞こえる。
 近所の神社で毎年開かれる、夏祭りのにぎわいに似ている。露店から流れてくる胸をくすぐるような食べ物の匂いに、石畳を歩いていく足音、少し湿気た夏の宵の空気はよく知っている。
 ……夏、それに夜?
 今は春、そしてまだ昼過ぎだったはずなのに、どうしてこんな空気の中にいるのだろう。
 なおがその違和感にまぶたを開くと、目と鼻の先に誰かが屈みこんでいた。
 つり上がった狐目に、それを強調するように目じりに向けて赤い化粧が施されている。上品に通った鼻と、頬から耳に向けて斜めに引かれたやはり赤い染料の化粧、最後に楽しそうな笑みを刻む口元に、なおの目はたどり着く。
 ちなみに風変わりな美貌だろうと、間違いなく男だ。
「そんなに抱き心地がいいのかい、私は」
 それに押し倒されていることに気づいて、なおは我に返る。
「何してござる!」
 なまりながら思わず叫んで、力いっぱい突き飛ばす。そうしたら男は形のよい眉をくっと上げて見せた。
「おやおや、私のせいかい? 君が抱きしめて離さないからじゃないか」
 そう言いながら男は体を起こした。その拍子に、なおの周りに流れていた長い髪もさらりと動く。
「な、ななな……っ」
 少し離れると、男の全体像が見えた。
 年齢は二十歳ほどで、古い時代の公家のように、腰まである栗色の長い髪を背中に流していた。服装も、袖の広いずるずるした長い衣装を着ている。
 確か狩衣(かりぎぬ)とかいう服。表は黒くて、襟元や袖の下から覗く下の重ね衣は朱色をしている。ただそんな時代遅れな衣装が似合っているのが何より変だった。
 男は楽しそうにうなずきながら言う。
「ふうん。本当に君って女子なんだ」
 なおは否定しようとしたが、なおが触れられたくないのを知っているのか、なおが口を開く前に言葉を続けた。
「まあこっちじゃそんな話はどうでもいいけど」
 幼な子を追いかけて崖から落ちて、なぜ男に押し倒されている? なおは頭痛を感じながら、慌てて自分も体を起こす。
 ぐるりと辺りを見回すと、そこには露店をめぐっている人の波。見た目は夏祭りの夜だ。
 でも反転した季節、山奥に突然現れた人の波に、なおの理性が異変を教えてくる。
「ここは?」
 混乱して食いついたなおに、目の前の男は狐目を細めて笑う。
「こっちはそっち。あっちはどっち?」
 歌うように呟いて、男は優雅に立ち上がる。
「ここは君のいた場所の向こう側さ」
 男は座り込んだままのなおに、長く爪を伸ばした綺麗な手を差し伸べる。
「大丈夫。元の世界にはちゃんと帰ることができる。私と離れなければね」
 その声はなおが今日何度か聞いた、あのつやめいた低い声だった。
 差し出された手を見て、なおはぐっと言葉に詰まる。
「……なんだかわからないけど」
 自尊心を発揮して、なおは目をとがらせる。
「僕、馬鹿だけど馬鹿にされるのは嫌い。もう十六だからね」
 男の手を振り払うと、なおはすくみそうな足を叱咤して自力で立ち上がった。
「言うと思った」
 男はくすっと笑って肩をすくめる。
 自分のことを知られている? なおは首を傾げたが、誰かの声で思考が中断する。
「こちらです、お待ちしていました!」
 人波の中で誰かが声を上げて、こちらにやって来る。
 なおより二、三歳年下の少年だった。垂れ目でちぢれ髪を肩までたらしていて、こう言ってはなんだがひ弱そうな印象だった。
 彼は街の人々とは少し違って、山伏のような格好で歩きにくそうな高い下駄を履いていて、頭の横には天狗の面を下げている。
 彼は狩衣の男の手を両手で握って、感動したように頭を下げた。
「よく来てくださいました、ひらのかみ!」
 なおは眉をひそめてその名前を繰り返す。
「ひらのかみ……?」
 狩衣の男はちらりとなおを見る。
比良神(ひらのかみ)彦丸(ひこまる)
 低音を響かすいい声で告げると、狩衣の男はなおとやって来た天狗面の男に言う。
「彦丸と呼んでくれていいよ。なおも、万次郎(まんじろう)も」
 ……彦丸?
 さっきまで追いかけていた幼な子の名前と同じだと思いながら、なおは首を傾げる。
 狩衣の男は、言われてみれば彦丸少年と顔の基本的な作りが似ている。あの子が成長すれば目の前の男のようになるかもしれない。
 万次郎と呼ばれた男は、感動して袖で目じりを拭いながら言う。
「光栄ですっ。うう……っ!」
 万次郎は何度もうなずいて告げる。
「彦丸様にご協力いただければ、この縁談、必ずうまくいきましょう」
 はらはらと涙を零す。大げさな男だなぁとなおがあきれていると、万次郎はつとなおを見て言った。
「ところで彦丸様。この俗っぽい男児はいったい……?」
 なおは目に力を入れて睨み返す。
「田舎っぽいのは許すけど俗っぽいのは聞き捨てならない」
 万次郎は怯えたように袖で口元を押さえて後ずさった。
「こ、怖い! あっちの世の男児は草食動物になったと聞いていたのに!」
「ならないよ。人は人だ」
「おっと、紹介が遅れた」
 彦丸は恐怖に震える万次郎と怒りに震えるなおの間に入って立つ。
「紹介するよ、万次郎。こっちは直助。見ての通り人間の男児だ」
 あれ、仮名を知られている上に男児のまま通してくれるんだ。それはありがたいと思いながらも、なおの彦丸に対する不信感はますます募る。
 万次郎は礼だけは綺麗にしてみせて言う。
「よろしく、直助」
「ああ、どうも」
 なおは気に入らないながらも、反射のように会釈を返した。
 万次郎は不思議そうになおを見やる。
「でも、この方は神使(しんし)ではありませんよね? 彦丸様の神使は決まったとうかがっておりますし」
「神使にさらに神使をつけようと思っていてね」
「ははぁ」
 万次郎は納得がいったようにうなずいて、なおに向き直るなり言う。
「お使いがんばってください」
「なんかわからないけど馬鹿にされてるのはわかる」
 なおは万次郎に指をつきつけてにらむ。それを彦丸は横目で見た。
「お行儀が悪いよ、直助」
「……いたっ!?」
 彦丸の狐目が朱色に光ったかと思うと、雷が走ったようになおの手が弾かれる。
「な、何今の?」
 ひりひりする手を押さえながら、なおは後ずさる。
「直助、君の元気さは好きだけど。あまりおいたが過ぎるとお仕置きしちゃうよ」
 彦丸の声は弾むようで、まるでおもちゃを楽しむ子どものようでもあった。
 なおは声を低めて、頭一個半ほども背が高い彦丸を下から睨みつける。
「……僕に何をさせたいんだ?」
 彦丸は栗色の長い髪を揺らしてなおをのぞきこむと、とっさに身を引いたなおにささやく。
「簡単なお手伝いさ」
「近い近い」
 なおが後ずさると、彦丸はなおににっこりと笑う。
「私は万次郎の願い事を叶えることにした。彼と、明日やって来る女性との縁結びをね」
「縁結び……?」
「そう。無事に縁が結べたら、君を元の場所に帰してあげよう」
 赤い化粧の施された狐目が、ぐっと細くなる。
「縁結びは神々のたしなみだからね」
 神というぶっとんだ名前を聞いても、なおは笑い飛ばせなかった。
 今置かれている訳の分からない状況なら神様の一人くらい登場してもおかしくないと、頭の隅で考えてしまったのだった。




 提灯を持って行き交う人の群れの中、なおは彦丸の後を歩き始めた。
 あちこちにおいしそうな湯気の匂いがたちこめて、夜店が並んでいる。
 そこに歩く人たちは、たいてい動物のお面を頭の横に引っ掛けている。ちょっと都会の町の人の格好で、女性などは髪をきちんと結ってかんざしをつけていた。
 ……ただそれ以上に目につくものがいくつかある。
「夏祭りっていっても、ちょっとはしゃぎすぎじゃない?」
 なおは行き交う人たちを、失礼にならない程度に指さす。
「せっかくみんな洒落者の格好してるのに、猫耳やしっぽはないんじゃないかな」
 彼らは猫耳だったり犬耳だったり、たぬきのしっぽや昆虫の触覚やらをつけているのである。
 それに答えたのは万次郎だった。
「いいじゃないですか。ちょっとはみ出るくらい」
「はみ出るったって」
「誰だって、照れくさいけど自己主張したいでしょ?」
 万次郎は小声でなおに告げる。なおはなんだかよくわからないが、他人のお洒落にとやかく言うものでもないかとうなずいた。
 なおは難しい顔をして万次郎に振り向く。
「しかし縁結びって、具体的には何すればいいの? 恋愛成就ってこと?」
「恋愛?」
 万次郎に問いかけると、彼はきょとんとして言う。
「いえ、彼女が僕のところにお嫁に来ることはもう決まってます」
「え? じゃ、縁結びなんてとっくに終わってるじゃない」
「ところがそうはいかないんだな」
 なおの前を進んでいた彦丸が振り向いた。
「なお、足入れ婚はわかるかい?」
「聞いたことくらいはあるけど、周りではやってなかったよ」
「女性が夫となる相手の家で暮らしてみて、うまくいかない場合には結婚せずに実家に帰る方法なんだよ」
 なおはちょっと考えて、冷えた目で万次郎を見やる。
「ひどいことするなぁ。ちょっと遊んで捨てるんだ」
「僕は本気で結婚するつもりなんです!」
 万次郎は慌てて首を横に振って、勢い込んで言う。
「だいたい僕らがお嫁に来た人をそう簡単に帰すわけな……いですけど、今回は彼女のきっての頼みなんです! どうしても足入れ婚にしてもらいたいって」
 彦丸は口元に手を当てて思案顔になる。
「それで私が呼ばれたんだよ。何が彼女に結婚をためらわせているのか知りたいと」
「本人に訊けばいいんじゃないの?」
 なおの問いかけに、彦丸が難しい顔をして答える。
「もちろん訊いてみたよ。でも彼女は強者でね。全く答えは引き出せなかった」
「単に、結婚前に一緒に暮らしてみようって話じゃないの? うちの村でもよくあったよ」
「そういう気楽な感じでもなかったな」
 万次郎はぴたりと足を止めて肩を落とす。
「……やっぱり、僕に不安があるんだと思います」
 万次郎はもどかしそうに続ける。
「今回の縁談は、代理婚だから……」
「代理婚?」
 しょんぼりとしてうつむいている万次郎に、なおも立ち止まって振り向く。
「彼女は僕の兄と結婚するはずだったんです。でも兄は駆け落ちしてしまって、代わりに僕と結婚っていう話になって」
「代わっちゃうんだ、そこ」
 確かにお殿様とかお姫様はそんなことをすると聞いた覚えがある。でもなおのような村の若者だとそれは奇怪な展開だ。
 いや?と彦丸が口を挟んだ。
「別に昔から珍しくないことだよ。家同士の結婚なら、その相手が兄から弟に移っても全然問題ない」
「でもそれじゃ、本人の気持ちがついていかないよ」
 恋人同士だった相手がいきなり自分以外の女と駆け落ちして、代わりに弟で……と提案されたのを想像して、なおは首を横に振る。
「……無理無理。その結婚、うまくいかないって」
「うまくいきたいんです」
 なおが思わず顔をしかめて言ったら、意外にも万次郎は強く言い返した。
「僕が望んでます。彼女に来てほしいんです」
 なおは少し驚いて万次郎を見返した。
 初対面で万次郎をひ弱そうと思ったが、譲らない意思を口にした声はなおより大人に思えた。
 道行く人たちは、万次郎をみとめるたびに口々に言う。
「次郎坊、嫁取りおめでとう」
「いよいよ明日だねぇ」
 万次郎はそれに笑顔を返しながら、眉をちょっと寄せて困っていた。
 はしゃぐ人たちに聞こえないように、万次郎は小声でなおに言う。
「みんなには、これが足入れ婚であることを言えなくて」
 だって、と万次郎は続ける。
「お山に人間のお嫁さんが来るのはとってもめでたいことですから」
 「人間の」と聞いて、なおはそろそろ彼らの正体を認めざるをえない時期のような気がしていた。
 彦丸のことは気に食わないが、万次郎の縁結びをしないと帰れないらしい。だいたい、彦丸の後をついていくだけなんて気に食わない。
 なおはううんとうなって言う。
「……僕も本腰入れて考えるよ」
「え、本当ですか!」
 万次郎はぱっと顔を輝かせてなおの手を取る。でもすぐに眉を寄せて難しい顔をした。
「あ……でもあなた、色男には見えませんが……」
「否定はしないけどはっきり言われると傷つく」
 なおは万次郎をにらんだが、そろそろ万次郎の空気読めない発言にも慣れてきた。 
 なおはため息をつくと、しかめ面のまま周りを見回す。
「ま、万次郎自身の問題は後で考えるとして。基本、嫁ぎ先の家っていうのは大事だよね」
 にぎやかな夏祭りの様子を見やりながらなおは考える。
 小奇麗で品のいい町で、住民も歓迎してくれている。耳やしっぽは好みが分かれそうだが、別に致命的でもないと思う。そんなことを考えていたら、彦丸が言った。
「町のことは大丈夫だろう。彼女はここに来たこともあって知ってるから」
「ふうん。じゃ、万次郎の家に来たことは?」
 なおの問いかけに、彦丸はちょっと考えて返す。
「それはまだだね」
「それなら、家の様子を見てみよっか」
「わかりました。ついて来てください」
 万次郎が何気なく言った、次の瞬間だった。
 万次郎は天狗面をつけるなり背中から黒い翼を広げて、軽やかに宵の空に飛び立った。
 なおはあっけに取られて立ち尽くす。
「……え」
 その反応を面白そうに見て、彦丸はくすっと笑う。
「何を驚くんだい? 天狗が空を飛ぶのは当たり前だろう?」
 彦丸はそう言ってなおの手首をつかむ。
「私たちも行こうか」
 彦丸の栗色の髪の中から黒い狐耳が、狩衣の下から黒い毛並の尻尾が生える。
 なおをつかんだまま、彦丸は高く跳躍した。狩衣はまるで天女の羽衣のようにゆらめいて風に乗ると、夜の闇をかきわけていく。
 一瞬で、夏祭りの喧騒が遥か下に飛び去った。淡い光だけが眼下でちらちらと輝く。
 ……なおは長く息を吐いた。もう認めるしかない。
 彦丸も万次郎も人間ではなくて、そして自分は人外の者たちが住まう場所に迷い込んでしまったという事実を、なおはようやく胸に収めたのだった。




 なおだっておとぎ話の世界のことだと思っていた。今住んでいる世界の向こう側に別の世界があって、そこに人外の存在が生活している。
 でも信じられなくても、現実に見てしまったものは仕方ない。
 万次郎は子どもが家に帰るみたいに言う。
「ただいまー」
 続いてなおが立ち入った万次郎の家には、しゃべる動物が山ほど行きかっていた。
 ハスの花が咲き乱れる池の中に、緩く弧を描く石の橋がかかっていて、白木作りの立派な御殿が建っていた。たぬきやねずみやシカや、はたまたそれらのちょっと人間っぽい形をした者たちが、皿やらついたてやらを持って大忙しで駆けまわっている。
「すみません。明日輿入れだから、みんなバタバタしてて」
 万次郎が困ったように頭をかいたが、なおは言葉もなく屋敷の中を見ていた。
 玄関を上がって一つ奥に行った和室で、万次郎は振り向く。
「ここが式場です」
 そこは見渡す限りの畳の部屋だった。色鮮やかに動物の絵が描かれた屏風や細かい彫り物がされている鴨居があって、天井にまで金箔や銀箔で細工が施されている。
 なおは遠い目をして言う。
「……万次郎ってお坊ちゃんだったんだ」
「このお山一の名家だからね。使用人だけで百はいるよ」
 彦丸がさらりと答える。なおは置いてある花瓶をつつこうとして、値段もつきそうにないほど豪華だったので手を引っ込める。
「嫁に来る身としては、ちょっと敷居が高いかもしれないなぁ」
「彼女は街一番の商家のお嬢様だが」
「あ、そうなんだ」
 そういえば家同士の結婚だと言っていた。家格がつりあうなら、生活水準はそれほど心配要らないのかもしれないとなおは思いなおす。
 なおが廊下から外を覗くと、夜桜が並んで咲き誇っていて壮観だった。
 万次郎は先に襖を開けて言う。
「ここが彼女の部屋です」
 万次郎が案内した部屋は女性用の雅な部屋だった。広さは二十畳ほどで、琴や茶器が用意されている。ここだけふわりと香がたきしめられていて、化粧台や可愛い花飾りのついた小物入れも揃っていた。
「……あの向こうは?」
「無粋なことを訊いてはいけないよ、なお」
 彦丸に笑われて、なおはばつが悪そうにうつむく。
 つまり襖の向こうは万次郎との寝室ということになるのだろう。今更だが、夫婦になるとはそういうことだった。
 それから食事の部屋、台所に客室、いろいろと回ったが、どこを見ても文句のつけようがないほど立派な御殿だった。
 なおは最後に万次郎の部屋に入ってたずねる。
「じゃ、いよいよ万次郎についてだけど」
 そこは案外質素で、文机と座布団が置いてあるくらいだった。
 万次郎は彦丸たちに座布団を出すと自分は畳に正座した。なおと彦丸は勧められるままに座って、質問を投げかける。
「まず、万次郎の両親はどうしてるの?」
 嫁姑問題は結婚の難関である。そこから押さえておかなければいけなかった。
 けれどなおの心配とは裏腹に、万次郎はあっさり答える。
「僕の両親は人間なので、とっくに亡くなってます」
「じゃ、兄さんと二人暮らし?」
「ええ。でも兄さんは今駆け落ち中で、この家にいるのは僕と使用人だけですけど」
「で、年がずいぶんと若そうだけど、結婚できるの?」
 万次郎は見たところなおより年下だ。
 そうしたら万次郎はしょんぼりしてうなずいた。
「やっぱり頼りなく見えますよね。僕、元禄生まれですし」
「げんろく?」
「百歳くらいかな」
 彦丸に言われて、なおはぽかんとする。
「……すっごい年上だったんだ」
「僕なんてひよっこですよ。兄さんは江戸に将軍が来る前から生きてますし」
 見た目があてにならない。なおはこの世界の怖いところを垣間見た気がして、無理やり話題を変える。
「年齢はもういいや。職業は?」
「天狗です」
 さらっと答えた万次郎に、なおは首をひねる。
「いやそれはわかったけど、一体何をやって生計立ててるの?」
「うんと、まあ」
 万次郎は明後日の方向を見て言葉を濁す。
「縁結びとか……」
「ちょっと怪しい匂いがしてきた」
「お、お山の維持管理とか、遭難者の救助とかしてます!」
 なおがうさんくさそうな目をしたので、万次郎は慌てて返す。
「ふーん……忙しいの?」
「普段は暇ですけど、緊急時に呼ばれますから不定期な仕事ではありますね。あ、でも彼女は好きにしていてもらえばいいです」
 なおはちょっと考えて、ふと先ほどから彦丸が質問をしていないことに気づく。
「彦丸、縁結びの依頼を受けたのはそっちだよ。質問しなくていいの?」
「これは直助の教育も兼ねているんでね」
「僕?」
 なおが聞き返すと、彦丸はつやっぽく笑う。
「人間の女性なら、私より直助の方が詳しいだろう」
「そうかなぁ」
 なおは別に深刻な事情で男装しているわけじゃない。あんまり自分が女子という実感がないのだ。
 世間では男と女というのは生き方が違うらしいと聞いているが、なおの村はなぜか男ばかりのところだったので、自然と男っぽい格好と話し方になった。
 前髪はいつもぱっつん、藍で染めた紺の男物の着物が基本だから、世間でいう女子のことがあまりわからない。
 彦丸は笑みをたたえたまま言う。
「今はわからないだろうけど、直助は女子のことだってちゃんとわかるようになる」
 なおは首を傾げて、不思議な心地で彦丸を見返した。
「今回はその第一歩さ。さ、もっとよく話を聞いてみるといいよ」
 彦丸はそう言って、なおに任せた。
 なおは釈然としないながらも縁結びを再開する。
「それで、万次郎と結婚する人ってどういう人なの?」
 なおが何気なく万次郎に言葉を投げかけた時だった。
「さぁ?」
「さぁって言われても。回答を放棄してると進めないよ」
 万次郎はきょとんとして返す。
「だって僕、彼女に会ったことがないんです」
「え?」
 なおは眉をひそめて恐る恐る問いかける。
「……まさか万次郎、彼女の顔も性格も知らない?」
「そういうことはこだわりませんから」
「え、いや、でも」
 なおは澄んだ丸い目で見返す万次郎の内心がわからず、焦るしかない。
「け、けど。多少は知っておくべきだよ。自分に何の関心もない夫なんて嫌だもん」
「あ、そうですね。気づきませんでした」
 反省するように頬をかいてから、万次郎は彦丸に向き直る。
「彦丸様はご存じですよね。彼女のお名前は?」
「……そこからなんだ」
 この天狗どれだけ興味なかったんだとなおが呆れると、彦丸はほほえんで答える。
「そう。まず知るところからだよ。……いくらでも話そう」
 彦丸は袖に手を通しながら、にこやかに話し始める。
「彼女の名前はえん。向こう側で一番の商家の当主で、四十五歳だ」
「ん?」
 驚いたのはなおだけで、万次郎は頬を染めて手を顔に当てる。
「ぼ、僕、そんなぴちぴちのお嫁さんをもらっていいんですか……?」
「ぴちぴち……かな?」
 確かに万次郎の中身は百歳だが、見た目十代半ばの少年とその倍以上の女性の組み合わせは許されるのか。なおはひととき考える。
 ……というよりあちら側の商家の当主なら、あのおばちゃんたちのご主人様だった。ご無礼なことを言わなくてよかったと思った。
「十六歳で江戸での修行を終えて田中家の女当主になる。江戸の修行時代に知り合った侍と意気投合し結婚、夫との間に娘を一人もうける」
「子持ち……」
 なおがなお驚いていると、万次郎は感心したようにほおと息をつく。
「聡明で敏腕な女当主なんですね。素敵です」
 それは実に輝かしい経歴すぎて、なおのような田舎の女子には目が白黒としてしまう。
「三年前、夫とは円満に離縁して、夫はふるさとに帰った。今のえんは娘と使用人たちと一緒に向こう側で暮らしている」
 しばらく呆然と話を聞いていたなおと違って、万次郎は目をらんらんと輝かせていた。
「理想的なお嫁さんです。一点の曇りもありません」
「そう、かな?」
 こっちの世界の男性の好みを聞き返すのは野暮だろうか。なおはちょっとだけ冷や汗をかきつつ、頭によぎる考えに気づく。
「ああ、でも。なんかわかったよ」
「どうしました、直助?」
 なおは昨日里で別れたばかりの人を思い出す。
 いつでも手紙を書いてね。ご飯をちゃんと食べるのよ。なおの姿が見えなくなる直前までなおをみつめていた母のことを。
 なおの胸がずきりと痛む。
「たぶんそんな輝かしい経歴を辿ってきた人なら、自分に自信はあるよ。相手が天狗でも嫁ぎ先の世界が違っても、やってやろうって思うかも」
 なおの母も男だらけの村で堂々と働いていた。でも、だから何も心配していなかったわけじゃない。
「娘さんが万次郎やこっちの世界とうまくやっていけるのか、心配してるんだと思う」
「……あ」
 万次郎は短く声をもらして、彦丸も少しだけ驚いた顔をした。
 万次郎はうなずいて目を上げる。
「直助の言う通りですね。よく確かめてみます」
 そう言って万次郎は立ち上がった。



 万次郎はもう一度、子どもが暮らせる家か考えてみると言った。
 子ども用の暮らし道具やおもちゃは揃っているか、世話を替わってくれる使用人はいるか、そういうお母さんが不安に思いそうなことを見直すことにしたらしい。
 家の者たちはますます忙しくなったみたいだが、万次郎自身もてきぱきと家の様子を見て回ったりしていたので、立派な当主におなりだと涙ぐむ者もいた。
 なおはその間、月見をして時間をつぶしていた。
 舞台のように池に張り出した台から、池の中に映る丸い月をみつめる。この世界には空ではなく水底に月が浮かんで、まるで大きな光の玉が水の中を転がっているようだった。
 ふいに万次郎も屋敷から降りてきて言う。
「そろそろあっちでは夜明けですね」
 万次郎の家の使用人に聞いたことには、この世界に太陽はないらしい。いつも夜で、ただ朝の時刻になると月がひときわまぶしく輝くのだそうだ。
「直助も休んできてくださって構いませんよ」
 彦丸は奥の客室で眠りについている。今なら彦丸から逃げることもできそうだが、不思議となおは逃げる気は起きなかった。
 なおはこの縁談の行く末を見てみたいと思った。
 縁結びというのだから、もっと超自然的な力を駆使するのだと思っていた。でも実際は、なおたちは万次郎の話を聞いて、少し助言をしただけだった。
「縁結びっていつもこんな感じなの?」
 なおが月見台に立った万次郎に言葉をかけると、万次郎は笑って答える。
「もっと強引に縁を結ぶ神もいますよ。でもそういう縁はどこか無理があって、すぐにほどけてしまうんです」
 万次郎はなおと並んで、手すりに肘をつきながら言う。
「まして人と妖怪の縁というのは難しいものですから」
「天狗って、妖怪に入るんだ?」
「僕は社を持っているので、一応神を名乗れます。でもこっちの住人はみんなまとめて妖怪というんです」
 涼しくなってきた風を頬に受けながら、万次郎は黒々とした目を細める。
「僕はよくあっちの世界に行くのでわかります。直助にはこの縁談、不思議なことだらけでしょう」
「まあね。お殿様でもないのに、顔も見たことがない相手といきなり結婚しようっていう発想がまず驚いた」
「そうですね」
 万次郎はうなずいて苦笑する。
「「お前は嫁なら誰でもいいのか」と、思ったんじゃありません?」
 黙ったなおに、万次郎は池に映る月をみつめながら言う。
「昔は往来が活発だったんですけど、最近は特別な力のある者でないと、こっちとあっちは行き来できない。でも人間のお嫁さんが来ると、道が開くんです。だから時々、人間と名のある妖怪の異種婚が行われるんですよ」
 万次郎はつと目を伏せて悲しそうな顔になる。
「でも人間がここで暮らすのは、負担が大きいんです。こっちはあっちよりあいまいな世界ですから。長くいると動物の耳や牙が生えたり、人間だった頃の記憶を忘れてしまったり。僕らは慣れてますけど、人間にはつらいですよね」
「なんで?」
 ふいになおは言葉をかけていた。
「家のためってそんなに大事かな?」
 なおは田舎の村で暮らしていたから、家というものを意識したことはなかった。母と二人だけの家族だったから、住む家だって小さくて土地もほとんど持っていなかった。
 母さんが旦那さんになる人のことを好きなら結婚すればいいんじゃない。そう思っただけだった。
 万次郎は笑ってなおに振り向く。
「家は大事です。ただそれ以上に、僕は誰かを大好きでいたいんです」
 まばたきをしたなおに、万次郎は振り向いた。
「運命の相手なんてこの世にはいません。あるのは縁、つまり偶然のつながりだけです。でもそれって運命よりわくわくしませんか?」
 万次郎は晴れやかに告げる。
「その偶然をえんさんはつかんでくれた。だったら僕は、あっちの世界で彼女がどういう人だったかは気にしないと決めました」
 万次郎はまた前を見て、夜空に言葉を浮かべるように呟いた。
「……だから、お嫁に来てくれる人なら本当に誰でもいいんですよ」
 池がまぶしく輝く。どうやらあっちの世界で夜が明けたようだ。
 それはさながら水底から太陽が昇るように、水面が金色に染まった。




 翌日の昼から、万次郎とえんの祝言が行われた。
 今回は足入れ婚なので、正確にいえば仮の祝言となる。ただ見た目は普通の結婚式と変わらず、衣装や儀式も華やかに用意されていた。
 まず万次郎がえんをお山の入口まで迎えに行って、そこから街道を二人で練り歩いた後、万次郎の屋敷で杯を交わすという予定だ。
 彦丸は仲人として、えんをこっちの世界に連れてくることと、二人が夫婦の誓いとして杯を交わす時に酒を注ぐ重要な役を頼まれている。ちなみになおは彦丸の付き人という設定で、まあ要するにおまけなわけだった。
 なおが落ち着きのない万次郎と共に山の入口で待っていると、さやさやと木々が鳴った。
 かぐわしい風が流れて、万次郎がはっと顔を上げる。
 彦丸の手を借りて地面に降り立ったのは、凛とした印象の女性だった。長くつややかな髪を上品にまとめあげ、黒い瞳はまっすぐに前を向いている。紫の着物をまとって歩く姿はとても優雅だった。
 なおは自分の先入観を反省した。年齢や子持ちなんて気にならないくらい綺麗な人だった。
「ど、どうしよう……」
 これなら万次郎も大満足だろうと思ってなおが横目で見ると、万次郎はガチガチに緊張していた。
「人違いじゃないんですかね? ぼ、僕、田舎天狗なのに……」
「し、しっかり、万次郎。傷は浅い。ほら、背筋伸ばして」
 なおも動揺から立ち直れないまま、万次郎の背中を叩いて前に押しやった。万次郎はちょっとよろめきながら、恐る恐るえんに近づく。
 えんは無言で一礼した。万次郎はわたわたしながら数回頭を下げる。
 それから花嫁と花婿は二人で並んで歩き出した。街道沿いには家々から人々が顔を出して紙ふぶきを飛ばし、やんややんやとはやしたてる。
 なおはその様子をうかがいながら小声で言う。
「大丈夫かな、万次郎」
 なおは花嫁行列の一番後ろを、彦丸と並んで歩いていた。彦丸はくっと笑う。
「さあて。投げたサイの目がどう出るかは、神々にもわからないからね」
 彦丸は心から楽しそうだった。なおがそういうものかなと首をひねっていると、彦丸はなおを振り向く。
「なおもそろそろ転がる心の準備はできたかい?」
「うん? 何の話?」
 なおは手を上向けて彦丸に突きつける。
「それより、忘れてないよ。財布返して」
「いいよ」
 ぽんとその手に財布が乗せられて、なおは拍子抜けする。
 開いてみると、中身はそのままだった。何も盗られた形跡はなく、ちゃんと金子も江戸への通行証も全部入っている。
「まだ式までには少し時間がある。今の内に、元の世界に帰してあげようか?」
 正直、なおには彦丸が何を考えているのかさっぱりわからなかった。
 見上げると、目じりに赤い化粧の施された狐目は面白そうな光をたたえてなおを見ている。まるで子どもがじゃれあうのを待っているような、そんな興味がありありと浮かぶ。
「何がしたいのかはっきり言って」
「それを言ったら面白くない」
「言って。何か企んでるのはわかってる」
 なおが疑わしそうな目で彦丸を見やると、彼は優雅に笑いかけてみせた。
「出会いはいつも偶然」
 彦丸が突然告げた言葉に、なおは聞き返す。
「何の宣伝文句?」
「私たちは、誰かと誰かを引き合わせることができる。けどそれは一回だけ」
 彦丸は低くあでやかな声で言った。
「……同じ人に会いに行ったら、それは偶然ではなく必然」
 なおが首を傾げると、彦丸は悪戯っぽく首を傾げた。
「君が必然に変えたいものは何だろうね?」
 そう言って、彦丸は前を向いて歩き出した。
 完全にはぐらかされたのはわかっていたが、なおは少し考える。
 行列の前方を進んでいるのは、隣をものすごく意識しながら歩く万次郎だ。先ほどは動揺してしまっていたが、万次郎はこの縁談を成就させるために必死で努力してきた。彼女との縁を必然にしたいと願っている。
 自分が必然にしたいものは何なのだろう。それは今、見えそうになっている。
 江戸に行くことを決めた時、なおは母との縁を切ろうと躍起になっていた。自分の能力とか将来の夢とか、そんなもの何も考えずにただ母から離れて暮らせる場所が欲しくて、遠くといえば江戸だろうと考えただけだった。
 けれどなおはその手配を全部親任せにしてしまった。母は抜けたところがあるのを嫌というほど知っていたのに、自分で奉公先にあいさつ回りも行かなかったし、どんな仕事をするかも聞いていなかった。
 再婚の準備に追われて忙しい母が手違いを起こしてしまったのは、ある意味必然だったのだろう。
――そこの神様に願い事をするときはよく考えて。
 如来さま、美鶴はなおにそう言った。
 適当に親から離れるという願い事をしたせいで、転がり落ちるように安定した生活から外れてしまった。迷い込んだ因縁はきっと一生付きまとって、人生を訳のわからないところまで流していってしまうのかもしれない。
 ……それでも、願い事があったんじゃない?
 その後の人生が左右されても叶えたい願いが確かにあったはずだと、なおはうなりながら思う。
 気づけば花嫁行列は山の高いところまで上って来て、万次郎の御殿までたどり着いていた。
 えんはあでやかな白無垢に、万次郎は紋付袴に着替えて奥から現れる。
 例の華やかな座敷で、式は進められた。なおは彦丸の後ろから、まだおどおどしている万次郎を見守っていた。
 式自体は短いと聞いていた。両家の紹介があった後、名主らしい妖怪があいさつして、もう最後の儀式だ。
 彦丸が進み出て万次郎の杯に酒を注ぐ。それを新郎新婦が飲み干せば、婚姻は成される。
 ところが万次郎がふいに硬直して……ころりと杯を取り落とした。
 なおも周りの妖怪たちも顔色をなくす。万次郎はそれ以上に真っ青になって言った。
「ごめんなさい。仕事が出来たので行ってきます!」
 紋付袴をひらめかせて一歩で座敷の端まで跳ぶと、万次郎は黒い翼を広げて空に飛び立つ。
 こらぁとなおは内心で舌打ちをする。
 まさかこの期に及んで怖気づいたのか。万次郎が飛び去った方角を睨む。
 彦丸は悠々と座ったまま、隣のなおに言う。
「万次郎なら大丈夫だよ」
「万次郎は良くてもえんさんがよくない!」
 なおはそれに食いついて怒る。
 彦丸は変わらずのんびりと問いかけた。
「じゃあ見に行ってみるかい?」
 なおは花嫁のえんを見やった。彼女の表情は、白無垢の大きな被り物のせいでよく見えなかった。
 なおはえんに向かってぺこりと頭を下げた。
「すぐ連れ戻してきます! ちょっと待っててください!」
 なおは安心させるように言ったが、えんの答えを聞く前に彦丸に手を引かれた。
 なおをつかんで、彦丸はあろうことか池に向かって飛び込む。
「わ、わわ……!」
 まさかそんな方向に跳ぶとは思ってなかったので、なおは目を閉じてぎゅっと体を縮めた。
 水にぶつかる感触はなかった。ただ世界が反転するような衝撃があって、なおは目を回す。
 遊び半分に学者さんの眼鏡をかけた時のように、しばらく目の前がぐわんぐわんとゆがむ。なおはふらつきながら立ち上がろうとしたが、ひしゃげるようにして尻餅をついた。
 どうやら木の上に座り込んでいるらしいと気づくまで、少し時間がかかった。
 木の下で誰かが泣いている。その声の方向になおは顔を向けて、目を見張った。
 山道に土砂が流れ込んでいた。昨日の雨で地盤が緩んで、土砂崩れを起こしたらしかった。
 誰かが繰り返し叫ぶ声が聞こえた。
「返事をして!」
 道が完全に分断されていて、その端で女性が身動きもとれなくなっていた。彼女は泣きながら流れ込んだ土砂に向かって誰かの名前を叫んでいる。
「……まさか」
 誰か、土砂に埋まっている?
 なおが青ざめて土砂を見やると、積もった土の中に何か大きなものが落下した。
 土がざわざわとうごめき、地面から逆流して土砂があふれていく。
 ふいに地面が破裂したような衝撃と共に、土砂の中から人影が現れた。
「はっ……はぁ、はっ……!」
 五歳ほどの男の子を抱えて、万次郎が全身泥だらけで出てきた。母親らしい女性は大慌てで近づこうとして、それより前に万次郎が息を切らしながら彼女の方に進み出る。
「も……大丈夫、です、よ……!」
 まだ満足に話せないほど疲れ切った様子で、万次郎はそれでも安心させようと言葉を続ける。
「怪我……はなさそう、です。呼吸もしっかりしてる。でも下山して、お医者さまにかかった方がいいです」
 母親の女性は何度も頭を下げて、子どもを受け取る。
 なおはようやく合点がいった。
 万次郎の仕事は山の維持管理、遭難者の救助だと聞いた。天狗の力で山の異変に気づいて飛んできたらしかった。
 万次郎はなお言葉を続ける。
「足元が悪いので、お山の出口まで先導します。僕についてきて……」
「私が案内するよ」
 万次郎の言葉を遮ったのは、いつの間にか彼らの近くに立っていた小さな子どもだった。
 子ども姿の彦丸は、その幼さに不似合いな落ち着きを持って言う。
「だから万次郎は祝言に戻りなよ」
「けど、こんな格好ですし……」
「えんは万次郎を待ってるんだよ? 行きなさい」
 万次郎は泥だらけの自分の姿に自信なさげにしていたが、彦丸は軽く言い返した。
「杯の交換の儀は、私の代理になおをよこす」
 彦丸はなおを見据えて言った。楽しそうに狐目が細められる。
「やってくれるね? なお」
 彦丸と目が合ったなおは一瞬迷って……こくりとうなずき返したのだった。




 自分の結婚もしない内に、なおは他人の結婚式の仲人になった。
 万次郎のことを笑えないくらいにガチガチに緊張して杯に酒を注ぐと、万次郎とえんは順々に杯を飲み干して、ひとまず結婚式は終わった。
 その後は宴会になだれこんだ。動物たちは駆け回り酔っ払い、せっかくの絢爛豪華な座敷はてんやわんやの大騒ぎだ。
 夜になっても続く宴会の中、なおは月見台で一緒に立つ万次郎とえんの姿を見かけた。
「式の途中で席を立つなんて、申し訳ありません……」
 ぺこぺこと頭を下げてもう何度目かの謝り文句を告げてから、万次郎は顔を上げて切り出す。
「あの、こまりちゃんのことですけど」
 今日は出席していないが、えんの一人娘の名前はこまりというらしい。
「昔からお山にはよく子どもが迷い込むので、子どもの世話は慣れているんです」
 月明かりが水面からのぼってくる中、万次郎は予備の羽織姿で懸命に言葉をかける。
「僕はまだまだ未熟者で、兄さんみたいに立派な天狗でもないのですけど。精一杯、えんさんとこまりちゃんを大切にしたいと思っています」
 だからと言いかけて、万次郎が肩を落とした。
 なおは万次郎の性格を思った。ひ弱で頼りなげで……気が優しい。泥だらけで子どもを助けていてもそれを誇る言葉なんて出せず、勝手に祝言の席を立ったからとえんに謝るばかりだった。
 でも万次郎、がんばってたよ。こまりちゃんを迎えるために精一杯準備したんでしょ?
 ……大丈夫だから、胸を張りなよ。なおが物陰でもどかしい思いを抱えながら見守っていると、えんが口を開いた。
「私、幼い頃にこのお山で迷子になったことがあります」
「え?」
 鈴が鳴るような声で、えんは言葉を続けた。
「その時、こちら側に入ってしまいました。最初はとても怖かったです。でも、私をみつけてくれた方がいらっしゃいました」
 えんは万次郎をみつめながら言う。
「その方はこちら側の町を案内してくれて、空を駆ける動物、水の中の月、にぎやかな宵闇、そういうものを見せてくださったんです。たった一日のことですが、とても楽しかった」
 万次郎は懐かしむようにえんを見返した。そこに、彼の重ねてきた歳月が映っていた。
「それからあちら側に帰って、恋も結婚もしたのですが、こまりにこちらの世界を見せてあげたいと思いました。……あの子がうまくやっていけるかは自信がなかったので、足入れ婚を提案させていただいたのですが」 
 えんは万次郎の頬にそっと手を置いて、柔らかく笑った。
「不思議。まさか縁談の相手があの時の方になるなんて。子どもに優しい天狗の……あなたで、よかった」
 えんがつぶやくと、万次郎も照れくさそうに笑い返す。
 包み込むようにえんを抱きしめた万次郎から、なおはやれやれと顔を背けて苦笑する。
 この調子なら、きっとこの縁結びは成功するだろう。
 なおは人騒がせなと呆れるようで、悪くない気持ちに包まれた。
 なおは小声で物陰にささやく。
「どこまで彦丸が演出したの? この縁結び」
 衣擦れの音もなく彦丸がなおの横に並んで言う。
「何が?」
「えんさんがこちらで迷子になったこと、知ってたでしょ」
「まあね。でも私はそのときまだ生まれてないから、噂に聞いただけだし」
 なおが黙ると、彦丸はくすくすと笑う。
「ま、終わり良ければすべてよし。ただまだ油断はできない。足入れ期間が終わる一年後まではね」
 なおは少し考えて言葉をまとめると、意を決して顔を上げた。
「……彦丸」
 なおが呼びかけると、彦丸は黙って先を促した。
「僕を元の世界に帰して。やりたいことがあるんだ」
 彦丸の狐目が、楽しげに細められた。




 なおが田中家に行くと、おばちゃんたちがわらわらと寄って来た。なおは今度は同じ建物内にある帳簿台を訪れていた。
「来年の春までの臨時でいいんです。僕にここで働かせてください」
 なおが人生を転がしてもやってみたかったこと、それは「今年から働く」ことだ。
 江戸に行く気はある。母が渡してくれたお金はなおの財布に残っているから、それは大切に残しておいて来年は江戸に上る。
 だけど母の手を離れて一人でどれだけやっていけるか知りたい。どうしても今、試してみたい。
 母から離れたいという思いは適当に抱いたものだけど、母から独立する願いは本気で願った。だからなおはそれを実行することに決めたのだった。
「何でもやります。お願いします」
 帳簿台のおばちゃんに頭を下げたら、彼女はけらけらと笑った。
「若い子っていうのは無防備ねぇ」
 ひとしきり笑ってから、おばちゃんは帳簿台に肘をついて言った。
「まあそれだから、神様も絡みたくなるんだわ」
「は……?」
「今ちょうど、奉公人を探してる家があるの」
 なおががばりと顔を上げると、おばちゃんは小さな声で教えてくれる。
「川沿いに行って三本の杉を背にしたお屋敷。奉公人になりたい若者は、そこのお家で今日の午後までに集合だそうよ。やる気があるなら行ってきたら?」
「は、はい! ありがとうございます」
 お礼を言って踵を返すと、なおは大急ぎで外に飛び出す。
 田中家の門扉が開いてすぐに来たから、まだ朝一番だ。十分間に合うだろうと、なおは田んぼの中のあぜ道を速足で歩き始める。
 でも数刻後、なおは口の端をひきつらせて立ちすくむことになる。
「……嫌な予感がする」
 たどり着いたのはおとといなおが呆然自失になっていたところ、黒い狐の石像のほこらの前だ。
 うん、黒い狐ね。今はどう頑張っても、それを疑いの眼で見ることしかできない。
 三本の杉を背に、小じんまりとしたお屋敷が建っていた。扉に「奉公人希望はこちらから」と縦書きの達筆な筆で書かれている。
 嫌な予感しかしない。でも、進みたい。一度投げたサイの出る目を、見届けるために。
「ごめんくださーい!」
 深呼吸をして、なおは扉を叩いた。
 しばらく待ってみても扉が開く気配はない。もう一度呼びかけても、やはり応答はない。
 困りながら立ちすくむと、軽く背中を押されたような気がした。
「わ……っ!」
 当然扉が眼前に迫って来る。ぶつかると思ったら、吸い込まれるように全身が扉の中に入っていく。
 視界いっぱいに、大きなサイコロの一の目が見えた気がした。
 カラン。
 何かが転がる音と共に世界が反転して、気がつけばなおは床に倒れていた。
「……あれ、君」
 自分の下に誰かいる。なおが恐る恐る視線を落とすと、忘れようもない人がそこにいた。
 なおは反射的に鼻を強くおさえる。
「直助?」
 如来さま美鶴がきょとんと声を上げる、数秒前のことだった。