3日目 (月曜日)
今日も椿は残ってる。
落ちた椿は清掃されてしまったみたいでただ花の数が減った椿の木が寂しそうに佇んでいる。
今日も采音も僕も生きている。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせるように何度も何度もその言葉を口の中で反芻した。
※
「検査お疲れ様〜!」
「そっちもお疲れ様」
僕らはグラスで乾杯をした。
今居るのは駅前のファミレス。
今日は午前と午後前半に検査があったのでそれからの集まりとなった。
「晴慈は何飲んでるの?」
「マスカット。采音は……すごい色だけどほんとに何飲んでるの?」
采音が持ってきたクラスの中には茶色?いや、黒?とにかくすごい色の液体が並々に注がれていた。
昔からトライ精神のすごいやつだったけどこういう方面では本当に働いて欲しくない……。
「えっとね。コーラとぶどうジュースとジンジャーエールと……」
「わかった。もういい。十分ゲテモノだってことがわかった」
「ゲテモノってなによ。もしかしたらすごい化学反応的な何かが起こって美味しくなってるかもしれないじゃない」
「じゃあ、1口どうぞ」
采音は躊躇うことなくクビっとグラスを煽った。
正直見ている方は気が気じゃなかったが当の本人はやる気満々である。
「どう?美味しい?」
「……まずい」
「そりゃそうでしょ……。なんでそんなことしたの……」
「ドリンクバーってこうするのがお決まりでしょ!」
「それで美味しいものが出来た試しは?」
「……ないけど」
「学びなって」
「でもさ〜。今回は行ける気がしたんだよ」
采音は天を仰ぎ足をバタバタと動かしてまるで駄々をこねる子供のようだ。
「前回もそれ言ってたよね?いい加減にしとけって」
「ごめんなさい晴慈ママ〜」
「誰がママだ……」
飲んでと言わんばかりにグラスをこっちに寄せてくる采音に一発デコピンを入れてからグラスの中の液体を飲み干した。
……ちなみにホントにすごい味がした。
それはもう……。ホントに……。
「それで今日は晴慈ママプレゼンツだけどこれから何するの」
まだそのネタ引きずるんだ……。
ツッコミを放棄して僕はスマホの画面を采音に向ける。
「今日からイルミネーションが始まるらしいから。それを見に行こうかなって」
「あ〜!これ去年私が行きたいって言ってたけど入院してて行けれなかったやつだ。覚えててくれたんだ」
「開始時間まで少し時間があるからそれまではここで時間を潰そうかなって」
「なるほど。晴慈にしてはいい案出すじゃん」
「僕にしてはってなにさ」
失礼な。僕だってやる時はやるぞ。
「ごめんって。しっかし、このイルミネーション今日からだったんだ。やっぱり私たち……」
「「運がいいね」」
お互い顔を見合わせて笑った。
「采音よくこの言葉を言うよね。なんか思い入れがあったりするの?」
「うん。ほら私たちって昔から『可哀想な子供』だったじゃん。でもさ、病気のことだけに絶望して、全てのものに不幸を感じるようになったらそれこそ本当の地獄でしょ?だから、私は小さな幸せを大切にしたい。小さな幸運を見逃さないようにしたいって思ってるから」
別に意識的に使ってるつもりは無いんだけどなぁ。
と、最後に一言付け足して飲み物を取りに行ってしまった。
……正直僕は采音に会う前はずっとこの世の終わりみたいな顔をして過ごしてたと思う。
いっその事すぐに死んでしまおうかと思ってしまうほど。
いつ発作が起こってしまうのか分からない恐怖と日々一緒に生きてきた。
だけど、僕と同じような境遇で前向きに生きてる采音と過ごすようになってだんだん影響され始めた。
采音のその小さな幸せを噛み締めるところとか。
病気を理由に物事を諦めようとしないところとか。
そういうところに僕は憧れて、いつの間にか采音の背中を追いかけてたのかもしれない。
実際に今、こうやって外に出ているのも、少しでも長く生きたいと思えているのも采音のおかげだと思う。
きっと昔のままの僕なら病室のベットで死んだような目をしながら同じ日の繰り返しのような日々を消化し続けていたと思う。
「ただいま〜。今回はちゃんとしたやつにしてきたよ」
「……ありがとう。采音」
「え?どした?私なんかしたっけ?」
「ううん。ただ言ってみたかっただけ」
「そう?なら言えるうちに全部言っといた方がいいよ。私たちに『次』があるのは絶対じゃないからね」
「……うん。そうだね。その通りだ」
今日、采音に集合時間を伝え忘れたから言いに行かないとと思って采音の病室に行った時に見ちゃったんだ。僕。
先生と采音が真剣に話し合ってるのを。
もしかしたら采音の体は限界に近いんじゃないか。
背筋がゾッと凍る感覚を思い出してしまった。
「このポテト食べ終わったらそろそろお店出る?」
「うん。いい時間だしね。あと、采音。食べながら喋らない」
「は〜い。ママ」
「ママじゃない!」
※
「うぅ……寒い……」
「なんか雪降ってない日の方が寒い気がする時あるよね……大丈夫采音?」
手袋越しに親指を突き立てているがその姿はどう見ても大丈夫じゃないの人のそれである。
「結構着込んでるはずなんだけどなぁ……。冬をちょっと舐めてたね」
「僕たちの場合は脂肪も筋肉もついてないのが痛いね」
「やめてよ。ちょっと気にしてるんだから」
手をハァーと吐いた白い息で温めているけど本当に凍ってしまいそう。
「あれ?晴慈手袋は?」
「病院に忘れちゃった……」
「馬鹿じゃないの?!本当に凍っちゃうよ」
「今からでもそこのコンビニかどこかで買ってきた方がいいかな?」
当たりを見回してて近場で売ってそうなところを探して見るけどどう頑張っても開始時間には間に合いそうにない。
「もう、しょうがないなぁ。私の左手側あげるからつけときな」
「え、いいの?そしたら采音は左手どうするのさ?」
采音から左手側の手袋を申し無さげに貰ったはいいものの寒すぎるので速攻で着用する。
「こうすればいい!」
僕は右手をギュッとしっかり采音に握られて少しドキッする。
「晴慈の手の方が冷たいじゃん」
「さっきから何もつけてないからね」
僕だけ照れるのもなんか癪だなぁと思っていたが、采音も何やら僕から顔を背けていて耳は真っ赤だ。
「……采音さん耳赤くないですか?」
「うるさい。寒いだけだし」
脇腹を小突かれて采音は顔をいつも着ていた茶色のマフラーに埋めてしまった。
そんなやり取りをしているとアナウンスが聞こえてくる。
『只今より本日のライトアップを開始します』
バチッという音ともにみんなが取り囲んでいた大きなツリーやオブジェクトがいろんな色で光り輝き出す。
「わぁ、すごい綺麗」
「うん。本当に綺麗だ」
采音はツリーを見たまましばらく動かなかった。
僕も隣でじっと明るいツリーを見つめる。
時々、繋がった手から力が伝わって来て、独りじゃないことへの安心がやってくる。
「ねぇ、写真撮ろうよ」
ライトアップが開始されてから少しした頃。ツリーをじっと見つめていた采音は僕の目を見て言った。
「じゃあ……って周りの人は自分達に夢中だよね。頼める人いないや」
「じゃあ、今日はタイマーで撮ってみようよ」
近くにあった花壇の段差にカメラを置いてタイマーをセットする。
この前タイマーの設定に手こずったからやり方を確認しておいて良かった。
タイマーを10秒にセットしたのを確認してツリーの前に待機していた采音の方に走る。
「10秒後にシャッター切られるから」
そう言うと采音は僕の右手にもう1度指を絡めた。
「え?采音さん……?」
「……このままがいい。今日はこのままが」
困惑しているとカメラからパシャと音が聞こえて2人して「あっ」と声が漏れる。
確認してみるとやっぱり目線はしっかりお互いに向いていた。
まるで映画やドラマのキスシーンの手前みたいでなんだか見ているだけで体温が上がっていくのを感じる。
「取り直す?」
「いいや。これでいい。これがいいよ」
「そっか。采音がそう言うならこれでいっか」
采音はカメラを真剣な目つきでにじっと見つめていた。采音の口角は少しだけ上がっていてそれにつられて僕も頬が緩む。
采音は今はカメラの画面に夢中だ。
だからそっとバレないように采音のカバンからカメラを拝借してチェキでこの采音を撮影した。
出てきたフィルムは僕が持っていても良かったけど何となくカメラと一緒に采音のカバンにそっと返しておいた。
采音からカメラを受け取り首にかけると今度はどちらからと言わずに手を繋ぐ。
「少し回ったら今日は帰ろっか」
「寒いからね。どこかの誰かさんが手袋忘れたせいで」
僕達はツリーの周辺を少し回ったらそのまま帰路に着いた。
その途中に会話はなかったけど、繋がった手から温かさを感じることができて帰る途中には今日の不安が薄まった気がした。
だけど、それは一夜にしてひっくり返ることとなった。
6日目 (木曜日)
椿の花は昨日一日で残り三割程度になってしまった。
でも、大丈夫。まだ残ってる。
采音はまだ死なない。死なないはずなんだ。
最初はこんなのジョークだと思っていたけど今ではそんなジョークにすら縋っている。
この世に神様がいるのなら、どうか采音を助けてあげてください。僕はどうなってもいいから……。
※
「采音はどうなんですか!?」
「落ち着いて!心臓に負荷がかかるわ」
僕は朝起きて直ぐに采音の容態が急変したことを聞いてエントランスに大急ぎで来ていた。
部屋で朝の検査にやってきた看護師さんに聞いてからなりふり構わず走ってやってきたが、息が上がるとどうしても心臓が痛む。
でも、そんなこと関係がないくらい今は采音が心配だ。
采音の容態が悪くなっていっているのは実際知っていた。
事実僕らは昨日、一昨日と外に出ていない。
采音の体調が優れなかったからだ。
一日目こそ、先生からのドクターストップがかかったせいで行けなかったような形だったのが二日目では采音自らが決行を断念するほど体が弱りきっていた。
そして、今日だ。
「今、采音ちゃんは治療室にいるわ。きっと会えるのは夕方くらいになるかしら。だから、今は落ち着きなさい」
夕方までは会えないという言葉が僕の頭を冷やし、冷静にさせる。
今慌ててもしょうがないんだ。
看護師さんに合わせて深呼吸をすると、心臓が耳元で大きな音を立てて鼓動し、脳を揺らされるような感覚に陥る。
采音はこんなの比じゃないくらい辛い思いをしてるはずだ。
そう思うといてもたっても居られず治療室の前までフラフラと歩みを進めていた。
「晴慈くん!」
「……おばさんにおじさん?」
そこに居たのは采音のお父さんとお母さん。
「晴慈くんは大丈夫なの?」
「はい……でも、采音は……。」
僕の視線が赤色の光を放つ治療室の看板に吸い寄せられる。
この看板に光が灯ることは使用中であることを示している。つまり、采音は今この中で……。
「……実は采音はこうなることを余命を知らされるずっと前から予想していわ。それと同時にとても心配そうにしてた」
みんなの不安でできた沈黙を破るようにしておばさんが口を開いた。
「こうって?」
「晴慈くんを置いていってしまうことよ」
「采音が……僕を置いていくことを?」
正直、その事に僕は驚いた。
僕には余命がはっきりするまではドナーが見つからない限り采音と僕のどちらの方が限界に近づいているかなんて全然分からなかったから。
僕が先かもしれないし、采音が先かもしれない。
ずっとそう思っていたが采音は違ったらしい。
「実は采音とあなたと出会う前はすごく暗い子だった」
「えっ……」
「人生に絶望しているのような。この世界でやりたいことなんてまるでない。全部諦めるしかないと思っていた時期があったのよ 」
その姿の采音はあまりにも僕の初対面の時の印象と異なっている姿だったから素直に受け入れることができかった。
僕は初対面のとき、采音の難病を抱えながらも前向きに明るく進む姿に惹かれたんだ。
まるで、無敵のヒーローみたいな采音に。
それじゃあまるで……
「本当に初めて病院で会った晴慈君にそっくりだった」
あの頃の僕は本当に全てが不幸に見えて、何故自分だけこんな世の不条理を受け入れなければいけないのかとそんな言葉が頭の中をずっとこだましていた。
ヒーローとは反対の弱くて弱くてどうしようもないやつだった。
「そんな采音を前にして私たちは采音に何もしてあげられなかった」
おじさんがおばさんの手をギュと握りしめている。
「そんな時、采音はあなたと出会って変わった。晴慈君を見て、あの子は目標を見つけたの」
「目標……?」
「ええ。『あなたを笑顔にしてみせる』それが采音が死ぬまでに達成すべき目標となってあの子に生きる意味を与えた」
僕を……笑顔に……?
采音だってこの世に絶望していたはずだ。
さっきのおばさんの話でそれは僕の中ではより確信に近づいている。
でも。それでも彼女は自分のためではなく人のために命を尽くそうとした。
「……きっと死んだような目をしていた晴慈くんを見て、まるで鏡でも見たようだったのでしょうね」
そこで赤色のランプの明かりが切れた。
僕らは扉から出てくる先生に注目し、手術の成功を聞いた。
「これはただの延命措置です。どんだけ長くても今日を越せるかどうか」
先生は僕らの前で深々と頭を下げた。
「私たちは晴慈くんにずっとお礼を言いたかったの。病院の外の世界を一緒に歩いてくれたことも。たくさんの思い出を作ることができたことも。あの子に生きる意味を与えてくれたことも。」
ありがとう。
おばさんとおじさんはそう言ってそのまま看護師の人と一緒に行ってしまった。
「面会ができるのはきっと18時頃になるだろう。……今日は看護師の皆には君の消灯時間後の行動を見逃すように言っておく。最後かもしれない時間を大事にするんだ。だが、君ももう危ないところにいることを忘れないでくれ」
と、出て行った先生に今度は僕が深いお辞儀をした。
※
「やぁ、采音。元気?」
日が傾きだして辺りがオレンジ色に色めき出した頃。
采音の面会がやっと許可されてからおばさん達の面会が終わったあと、僕は采音の病室に訪れた。
「元気!……って言えたら良かったんだけどな〜」
あはは……と笑う采音の瞳にはいつものような眩しいほどの光は宿っていなかった。
僕は采音のベットの隣の椅子に腰掛けた。
ベットに横たわっている采音の体には大量の管が繋がれていて、それが采音の命を取り留めていた。
それからは無言が続いた。
采音は僕とは反対方向にある窓の外の夕日をじっと眺め、沈むのを惜しむような目をしてた。
「実はね、私も昔は晴慈と同じで死んだような日々を送ってた」
「……うん、聞いたよ」
「あちゃ、お母さん言っちゃったんだ」
采音はバツの悪そうに頭をかいた。
「正直意外だった。僕の知る采音はいつも明るかったから」
「明るい私は晴慈をちゃんと照らせてた?」
「もちろん。ここまで立ち直れるくらいにはね。だから、今度は僕が采音を照らしたい」
あの話を聞いて決意した。
僕は采音を知っていたつもりになっていた。
僕らは自分の過去の話をずっと避けてきた。
暗黙の了解的な領域になっていたのだ。
でも、今は僕は心の底から采音を知りたい。知っていてあげたい。
これは僕のエゴだけど采音の昔の暗い記憶だってこの世から消えてしまってはいけないものだと思ったから。
「……昔は私も晴慈と同じだった。毎日が消費されていくように進んでいく日々だった」
采音が僕の手をそっと取った。
こうやって自分の心の暗い部分を人にさらけ出すのはとても怖いことなのを知っている。
人を悪く言ってしまうこと。自分だけどうして、と。
それを自分とは境遇が異なる人に言うことがどれほど怖いことかを。
僕も采音の手を握り返した。
その手は数日前に繋いだはずの手なのに前よりもずっと骨の形が分かるような手になっていた。
「きっと不幸なことが自分のアイデンティティになってたんだと思う。なんで私だけがって、どうしてって。死にたかったけど死にたくなくて、周りの人が生きてって言うから毎日私は生きていなきゃって思って過ごして、そんな矛盾を抱えながらいつが私の命日だろうって怯えてた。それが小学生の私が体験してことだった」
心の底から共感出来た。
僕らは生きていなくちゃいけなかった。
勝手にそう思って毎日を灰色の世界で過ごしてきた。
「毎日学校に行ってる人が羨ましかった。それと同時にむかついた。当たり前のように明日があると信じて疑わない人も!生きることができるのに死にたいと言っている人にも!何をしようとしても、もう一人の私が私に囁いてくるの。『どうせお前はすぐ死ぬんだから何をやっても無駄だ』って」
徐々に感情的になり、采音の目からは涙が溢れていて、大粒の雫がポロポロと白い布団に落ちていく。
「でもね」
涙を拭いて僕の目をしっかりとらえた采音の目にはいつものように後ろに見える夕日よりも眩しい光を放っていた。
「晴慈を見た時に気づいたの、この『特別』は私だけじゃなかったんだって。なんだかそう思うと心が軽くなったの。そして、これが私の最後の試練なんだなとも思った。この男の子を笑顔にしてみせることが私の死ぬ前に達成すべき目標なんだって」
「それじゃあ、その目標を完遂するために生きてくれ。これからも僕と一緒に……」
そこまで言いかけてハッとした。
「ごめんね」
采音が本当に悲しそうな顔をしていたから。
握られた手から暖かい温もりが、何故かとても心に響いた。
「ねぇ晴慈。この世には不平等だけが唯一平等に存在してる。そんな世界に私たちは生きている」
采音は机に置いてあるチェキのカメラ機に目を向けた。
「実はね、私昔は写真が嫌いだったんだ。お母さん達が撮ってくれた写真に写ってた私はどれも死んだような顔をしてて見ている私まで気分が落ちた。写真にはそんな力があったから。だから、私は晴慈と写真が撮りたかった。幸せな私も写真に残したくて。私が居なくなった後、晴慈が写真を見返した時に幸せな気分になれるように私たちの幸せな写真が撮りたかった。それがあの旅にカメラを持って行ったもう一個の理由」
遠い過去を見ていたような采音の目は今はしっかりの僕の目を捉えていた。
僕はその瞳をじっと見つめ返した。
逸らしたらダメな気がした。
「だから、晴慈。私が死んだ後、絶対に後追いなんてしようとしないで。あなたが死にたがっているその一分一秒を私は生きていたかったことを忘れないで。晴慈はこれから先の未来を生きていくべきなんだ」
「……できるかな。僕に」
不安になっている僕に采音はいつものような光を浴びせてくれる。
「できるよ。なんたって、晴慈を変えたのは私だからね」
屈託なく笑う采音の目には眩い光が戻っていた。
「なら、精一杯生きてみるよ。できるはずだ。だって、僕は君をずっと見てきたからね」
「うん。安心した」
采音は僕から目線を逸らし、病院の白い天井を仰いだ。
「この一週間。晴慈は楽しかった?」
「うん。もちろん」
「そっか。ねぇ、晴慈。私ちょっと眠いんだ」
「……ここ一週間歩き回ったからね。疲れたんだろう」
「そうだね。楽しかったなぁ……」
思い出すように、しみじみと思い出に浸るように、絞り出した声に僕の視界はどんどん滲んでいく。
「少し寝てもいいかな?やっぱりちょっと疲れたみたい」
「うん。ずっと手を繋いでてあげるよ。ずっと隣にいるからね」
それから安心したような顔で安らかに采音は言った。
「おやすみ。晴慈」
7日目(金曜日)
真っ赤に染まっていた椿の木は緑の葉が生い茂るただの木となり、僕は花が本当に全部散っているのか確かめるために凍てつく病院の外の世界へ踏み出した。
病院服のままで出たから非常に寒かった。
そこで、一つの椿の花を見つける。
たった一つ、生き残った花。
椿は美しいまま花が『落ちる』と言っていた。
僕は半ば無意識的にその花をそっと摘み、握りつぶした。
※
采音の葬儀が終わった。
式には親族と僕らの家族くらいしか訪れない小さな式だった。
当たり前だ。だって、僕らはほとんど病院で過ごしていて、病院の外に友達なんて居なかったんだから。高校は中退してるし。
でも、多分一番の要因は僕にある。
采音とは同じ歳で、同じ境遇で生きてきた。
それから僕らは出会い、僕は彼女の生きる理由になった。
采音は僕を笑顔にするために明るく前向きに振舞ってきたけど、それでも彼女は根っこの部分は変わらなかったのだろう。
一人が怖いくて、そのくせみんなといると異端な自分に何よりも不安なる。
だから、僕らは二人だけの世界を作った。
お互いの悩みを、不安を共有できる仲間だけの世界を。
もしかしたら采音はそんな世界に僕を一人にしないようにしてくれていたのかもしれない。
「晴慈くん、今日は来てくれてありがとう」
「おばさん……」
たった、一日ぶりに見ただけだ。
なのに、おじさんもおばさんも目に見えるほどやつれていた。
くまもできてるし目も腫れている。きっと一晩中泣いたのだろう。
「お礼を言うのは僕の方です……。采音の最期の時間を僕に譲ってくれて、本当に感謝してもしきれないです」
ありがとうございますと深々と頭を下げた。
本当はそれだけでは全然足りないと思う。
土下座でもした方がいいと思うし、いっそのこと思い切り罵倒してくれと自分勝手な事さえ思う。
「いいのよ。きっとその方があの子は幸せだと思ったからやったの。後悔はないわ」
後悔がないと言わせてしまったことに僕は心が苦しくなった。
大切な我が子の最期に立ち会えなくて後悔がないことなんてあるわけがないのに。
そう言わせてしまう自分に無性に腹が立った。
「これ、采音が晴慈君に渡してくれって」
おばさんは鞄から1冊の本を取り出した。
硬い赤色の表紙でページ数はそれほどない。
そして、もう1つ。
葬儀に使われていた遺影だ。
采音の遺影には僕が撮った写真の中から1番いい写真をおばさんに選んで貰った。
葬儀に実際に使われた写真は公園での写真。
采音の本物の笑顔が撮られた写真。
「これがあの子の本心に1番近い笑顔だと思う」
そう言ってこの写真を選んだおばさんにはさすが親と思ってしまった。
「いいんですか?!僕が持ってて?」
ただ問題なのは遺影の方だ。
遺影は通常、49日の法要が終わるまで飾るのが基本だ。
それに、遺影は僕ではなく、家族で持っていた方がいい。
この人たちにはもう十分にお世話になった。
采音が僕を変えてくれて、采音と色んなところに行かせてもらえて、最期を一緒に過ごさせてもらって。
これ以上、この人達に我慢なんてして欲しくない。
「晴慈くんも身体が悪いんだからお守りだと思ってあなさい。それに……」
おばさんはおじさんと目を合わせた少し頬を緩めた。
「あの子は私たちの中でずっと生きてるわ。だから、采音に見守られるべきはあなたよ。晴慈くん」
おばさんとおじさんは僕を抱きしめた。
暖かくて、僕を支えていた氷が溶けていくような気がして気づけば涙が出ていた。
「私達は采音と同じくらい君のことも大切に思ってる。だから、長生きしてちょうだい……」
その後、一通り泣いたあと、片付けに参加しようとしたらおばさん達に病院に返されてしまった。
僕も余命宣告された日が1週間を切った。
旅を始めた時の采音と同じ時間の余命だ。
おばさん達は僕のことも心配してくれていることが心から分かってまた泣きそうになった。
…………
静かな病院の病室帰るとどっと寂寥感に襲われた。
もう采音は居ない。
明日の予定は検査以外にないし、病院のエントランスに座って待っていても、もう誰も来てくれない。
もう写真を撮る相手もいないし、僕に運がいいねと言ってくれる人なんてもう居ない。
ファミレスで馬鹿をする友達も、手を繋いでイルミネーションを見る人も、僕にはもう居ない。
空気に耐えきれず僕は喪服も着替えずにベッドにダイブして顔を埋めた。
もう、居ないのか……。
漠然と考えていたことが現実になりやっと実感が湧いてくる。
「あ、そういえば……」
僕は鞄から1冊の赤い本を取り出す。
受け取った時には気づかなかったけど、表紙には黒のマジックで字が書かれてある。
丸くて可愛らしい采音の筆跡だ。
『晴慈へ』
ページを1枚捲ると、そこには写真とチェキが貼られ、カラーペンで可愛く飾り付けされたページが。
この赤い本は采音がいつぞやに言ってたアルバムだったのだ。
一枚一枚丁寧に捲って行く。
商店街や公園、ファミレスにイルミネーションと僕らの行った先々での写真や、病院内での写真も。
懐かしなぁ。楽しかったなぁ。
そう思う度に、目から水滴がこぼれ落ちる。
アルバムに決して落とさないように涙を拭きながらページをめくろうとするのだが遂に涙が溢れて止まらなくなってしまった。
ダムが崩壊したように涙が溢れ出て止まらない。
なんで、采音だったのか。
なんで、僕だったのか。
この不平等を受けるのはなんで僕達でないといけなかったのか。
世界に対しての怒りがふつふつと湧いてくる。
ベッドに力なく何度も何度も拳を無意味に打ちつけた。
「クソっ」
力任せに拳を振り上げた時だった。
アルバムがベッドから音を立てて落ちてしまった。
振り上げた手を下ろして慌ててアルバムを拾う。
そっと手に取り各ベージを確認する。
……大丈夫だ。どこも折れたり破れたりしてない。
安心が訪れると共に少し冷静になる。
アルバムを机に置いてやっと服を着替えようとしたその時、写真が一枚落ちていることに気づいた。
少し小さいことから一眼レフで撮った写真ではなく采音の撮ったチェキであることがわかった。
拾ってみるとそのチェキは一日目の僕らが病院を出た瞬間のチェキだ。
僕らの旅が始まった瞬間。
懐かしいな。この時は急に撮られて驚いたっけ。
感慨に老けていると、チェキの裏に何か書いてあることに気づいた。
チェキの裏には黒のペンで書かれた丸い文字が。
『今日から始まった私たちの旅!それがその第一歩。今日から色んなところに行こうね』
こんなことを思ってくれていたのか。
チェキを慈しむように見てハッとする。
このチェキはアルバムの一ページから出てきたものだ。
采音はこのチェキにだけ文字を書いていたのだろうか。
いや、もしかしたら、きっと……。
アルバムのページを捲り最初のページを見る。
写真は見開きに3枚ほど貼ってある。
だけど、その写真はいずれもノリやテープで貼られていない。
紙面に切込みが入っていてそこに写真の四隅を入れるようにして貼られていて、あえて言うなれば取り外すことを想定したような作り方になっていた。
さっきのチェキはこのページから抜け落ちたものだ。
アルバムをパラパラとめくると写真やチェキが大まかに時系列順に並んでいたことにも気づく。
震える手を伸ばして写真を一枚取る。
これは商店街に入る前に通りがかった夫婦に撮ってもらった写真だ。
『商店街に到着!前見た時よりもお店が少なくなってて少し悲しかったなぁ。でも、写真を撮ってくれた人達もいい人だったし幸先は良さそう!私たちは運がいいみたい』
やっぱり。僕の予想は当たっていた。
おそらくこのアルバムの全ての写真に采音のメッセージが書かれてある。
次々に写真やチェキ取り出し裏返してみる。
『晴慈とコロッケを食べた!昔と味が変わっていなくてなんだか懐かしかったなぁ。でも最近は病院食しか食べてなかったのに急に揚げ物を食べるのは間違えたなって思ったよ。晴慈は大丈夫だった?』
『もう、こんな写真撮ってるなんて聞いてないよ!データ貰ってびっくりしちゃった。背伸びしてたら私って意外と晴慈と身長変わらないんだね。新たな事実かも!』
『雪と椿って相性がいいね!まるで私たちみたい……なんてね(笑)。メイクがとれて寒い中待たせてごめんね。晴慈の前では普通の可愛らしい女の子で居たかったから』
最初は旅の話が前向きに、楽しそうに語られていた。
ただ、旅の後半になると内容も采音が追い詰められていたのが目に見えて分かるようになってくる。
字は弱々しく、書きかけのまま終わっているものも出てくるようになった。
『やだ、死にたくない。まだ、晴慈と一緒に色んなところに……』
僕は懐かしい気持ちから一転、徐々に暗い気持ちになる。
まるで、この一週間の采音の気持ちの変化を体験しているようだ。
辛くなって一度写真を置いてアルバムを閉じた。
いつも快活に振る舞っていた采音はこんなにも追い詰められていた。
死ぬのが怖くない高校生なんてそういない。
采音だって割り切っていたわけじゃない。そう思わされる。
采音は絶対無敵のヒーローなんかじゃないんだ。
ただのひとりの女の子。
そうして、もう一度アルバムを開き続きを見ていくといつの間にか最後のページになっていた。
最後の写真はイルミネーションで2人で撮った写真。
2人ともカメラなんて見ずにお互いを顔を赤くしながら見ている。
今見ても顔が熱くなってしまう。
『この時は正直恥ずかしかったよね。でも後悔はしてないよ!いい写真だなって思ってる。なんなら火葬してもらう時に一緒に入れてもらおうかなって思っちゃった。……このメッセージを見つけれたってことは仕掛けに気づけたんだね、晴慈。私ね、やっぱり死にたくなんてない。でも、もう私はダメだから……。だけど晴慈は違う。晴慈は生きて。明日があることを当たり前のように生きて。
ps.晴慈ったら内緒でこんな写真撮ってたんだね。私、今までで1番幸せそうな顔しちゃってるよ。いい写真をありがとう』
そこでさっき取り出した写真があった場所にもうひとつ写真がもう重なっていたことに気づいた。
そこには写真よりも一回小さいチェキが切り込みにはめられていてちょうど写真で隠されているようだった。
「これは……」
イルミネーションの時、采音が二人で撮った写真を確認してた時に内緒で撮った写真だ。
僕が持っていてもしょうがないから采音の鞄にカメラと一緒に返しといたんだっけ。
さっきのが采音が僕に送ってくれる最後の言葉だと思っていたからもう既に涙が止まらず、息も絶え絶えだ。
もう一度だけ采音の言葉が聞ける。
写真をそっと取り出し後ろを見る。
『晴慈はこれから色んなことを体験することになる。けど、大丈夫だよ。私がずっと一緒にいるからね』
「采音……。僕は……!」
心臓が一度だけ大きく音を立てた。
胸が締め付けられるように痛み、耳鳴りで頭が割れそうになる。
(なんで、今……。采音、僕もやっぱりもう無理かも……)
ナースコールのボタンに手を伸ばしてもギリギリ届かず、腕が力なく落ち、膝から崩れ落ちる。
(ごめん、采音。僕ももう、そっちに行くことに……)
ここで僕の意識は暗闇へと落ちた。
10年後
椿の花も何度も咲いて、落ちてを繰り返した。
僕はもう、あの病院の椿を久しく見てない。
でも、道を歩き、椿の花を見る度に彼女のことを思い出している。
彼女は美しく死ねたのだろうか。
そもそも死に美しい、美しくないはあるのだろうか。
ただ、十年前に僕は醜く生に縋るのは決して美しくないことでは無いと僕は知ることができた。
※
「あら、晴慈くんも来てくれたのね」
「おばさん……。お邪魔してます」
「いいのよ。この子も喜んでいるわ」
そう言っておばさんは僕の横にかがみ線香を立てる。
「おじさんは……」
「あの人なら今車を停めてくれているわ」
「後で挨拶に行きます」
「毎度律儀にありがとうね」
手を合わせるおばさんに僕ももう一度手を合わせる。
合掌する僕らの前には墓石と『花音采音』の文字。
おばさんが顔を上げたのを確認して僕も顔を上げる。
「晴慈くんは今はカメラマンやってるんだっけ」
「はい」
僕は病院を退院後はフリーのカメラマンとして全国各地を歩き回っている。
国内、国外を問わず多くの場所を歩き、風景を撮って、現地の人を撮って、動物を撮って。病院にいた頃には考えられなかった体験を沢山して過ごしている。
采音も言ったように写真には特別な力があると思う。
正確にはそう思うようになった。
あのアルバムと、文字を見て僕は采音の気持ちをダイレクトに受け取ったような感覚を受けた。
写真には人の気持ちに直接訴えかける力がある。
それに気づいた僕は僕らと同じような境遇な人に外の世界を見て欲しくて。色んな人の幸せな瞬間を収めたくてカメラを持つことを決意した。
「采音を色んなところに連れて行ってくれているのね」
結局僕は発作を起こした後、偶然部屋の前を通りがかった看護師に発見されて迅速な措置を受け一命を取り留めた。
その後、先生からドナーが見つかったことを知らされた。
普通、ドナーとして臓器を提供してくれた人の名前や素性は提供された人に明らかにされない。
しかも、心臓ともなればいい理由である方が稀であろう。
でも、僕は提供者の名前を知っている。
僕に心臓をくれた人の名前は『花音采音』
あの日、先生と真剣に話していたのはドナー登録についてだった。
僕は、采音に生かしてもらっているのだ。
采音には本当に最初から最後まで感謝してもしきれない。
「晴慈くんはこれからどうするの?」
僕はしばらく悩んだが、やっぱり答えは出なかった。
活動を初めてから次はどこへ行くべきかなんて考えてその地に訪れたことはなかった。
僕らが行きたくても行けなかった場所に行こうと思った瞬間ビュンと飛んでいく。
僕らは今、これをすることができるから。
「気の赴くままに。世界を見て来ようと思います!」