彼女は、毎日ここに居る。
 毎日毎日、雨の日も風の日も、彼女はじっと目の前のお墓を眺めたまま、ただひたすらに佇んでいる。
 僕は今日、彼女に声を掛けると決めていた。

「何をしてるんですか?」
「…………」

 こちらを見る事も無く、お墓の見つめたまま彼女は答える。

「……見張ってるんです」
「え?」
「私が居ない間にここを出てしまわない様に、ずっと見張ってるんです」
「…………」

 一瞬にして僕の中で声を掛けてしまった事への大きな後悔が生まれた。まさかそんな答えが返ってくるなんて思いもしなかったからだ。
 「えっと……」と、口籠もりながら次の言葉を探し、目が泳ぐ。声を掛けたのは僕だ。何か返さないと。

「……その人が出て来ない様に、見張ってるんですね」

 しかし、結局良い答えが見つからず、彼女が言った言葉と同じ意味を持つ言葉を返す事しか出来なかったけれど、

「いえ、違います」

 それをきっぱりと否定されて、もう何が何だかさっぱり分からなかった。駄目だ、やっぱり思考回路が違う人なのだ。そもそもお墓から人が出て来る訳が無いのだから。

「…………」
「…………」

 沈黙の中、何を言って良いのかも、どう動いて良いのかも分からず立ち尽くしていると、ゆっくりと彼女が振り返る。長く伸びた黒髪の間から青白い顔を覗かせて、彼女は言った。

「私を覚えてはいませんか?」

 その瞬間、さっと辺りの風景が変わる。
 気づけば僕は、懐かしい気配のする古くて大きな家の縁側に座って居た。……知っている。ここは、この場所は——。

「悠太、帰ってきてたのかい」

 背後にある居間の奥の襖が開かれ、しゃがれた声で声を掛けられ振り返ると、そこに居たのは曲がった腰で細く小さな身体を支えて立っている、随分前に他界したはずの曽祖母だった。懐かしいその姿にハッと息を呑む。

「学校はどうだったかい?」
「……楽しかったよ」
「そうかい。良かったねぇ」

 そう言って、曽祖母は襖を閉めると自室へと戻っていった。これは小学三年生当時の僕の毎日のやり取りだった。
 僕の両親は仕事に生きている様な人で、出張が重なるとそろって何日も家を空ける事もざらにあり、母の実家に僕はよく預けられていたのだけれど、僕が三年生の頃からの三年間は転校という形で祖父母と曽祖母の住む家のある田舎の小学校に通っていたのだ。
 都会から突然やってきた僕は学校ではすっかり除け者にされていて、いつも一人つまらない思いをしていた。しかし両親と同じく仕事に励む祖父と祖母、小さくてよぼよぼの曽祖母に余計な心配をかけまいと、毎日毎日、声掛けには決まって楽しかったと返していて、それが全くの嘘である事がとても苦しかった。
 本当は何も楽しくない、何もかも。両親の元に居ようと、祖母達の元に居ようと、学校に居ようと、僕の心がずっとひとりぼっちなのには変わりなく、僕がここに居る事の意味が一つも分からなかった。毎日毎日、僕はなんでここに居るのだろうと、答えの出ない問い掛けの答えを探す時間だけはある、そんなつまらない日々。
 そんな、ある日の事だった。

「おい、おまえ。裏山行った事あるか?」

 教室内で急に声を掛けられてびっくりした僕が言葉に詰まっていると、「おい、聞いてんのか?」と、その男子が責める様に問うので、僕は「知らない、行った事ない」と答える。

「へー! 知らんの! ならおまえ夜に集合な」
「なんで?」
「みんなで行くから、仲間に入れてやる」
「…………」

 何か怪しいと思った。だってあれだけ僕の事を避けておいて、急に仲間に入れてやる? それに、なんで夜に?

「裏山には怖い噂があるんだよ」

 すると一緒にいたもう一人の女子が言う。

「長い髪の女の幽霊が彷徨っていて、山に迷い込んだ人間を呪い殺す」
「…………」
「大人も暗くなってからは近付かん。でも本当なのか、気にならない?」
「…………」

 そんな馬鹿なと思った。大人が夜の山に近付かないのだって危険だからに決まってるし、人の少ない田舎で誰かが亡くなったとしたらすぐに噂が回ってくるはず。
 ……でも。

「分かった。何時にどこ?」

 僕はもう、つまらなくて仕方なかったから、そこに仲間として加わる事にした。彼らはきっと僕をいざという時の囮にでもするつもりなんだろうなと思ったけれど。
 ——そして、その考えは的中した。

「おまえちょっと一回見てこい! 俺達はここで待ってるから!」

 懐中電灯の光の一歩先にはもう、夜に支配された圧倒的な闇が佇んでいる。山の木々は音を立てながら大きく揺れ、湿度でもわっとした土の匂いとべたべたとした嫌な汗が身体に纏わりつき、とても、さあ行こう!という気持ちにはなれなかった。聞いたこともない鳥の叫び声のような鳴き声が響き渡る。

「行けよ! もう仲間に入れてやんねぇぞ!」
「…………」

 仕方なく、僕は一歩一歩と山の中へ足を踏み入れた。でも決して仲間外れが怖かったからじゃない。もしこれをやり遂げたら何かが変わるかもしれないと思ったからだ。つまらなくて意味のない、僕の毎日が。

 ——カサカサッ

「っ! ……動物多いなぁ」

 じっと静かなのに、カサカサ、バサバサと音がする。何もいない気配と何かいる気配が同時にやって来るなんて、こんな奇妙な経験は初めてだった。ぎゅっと懐中電灯を握りしめながら山の奥へと進んで行く間、どこから来たのか分からなくならない様に何度も何度も振り返って、まだ分かる、まだ分かると安心した。そして、じゃあもう少し行ってみるかと、また進み出すのを繰り返す内に段々辺りの気配に慣れて来た所。

「……っ、」

 喉の奥にある酸素の通り道がきゅっと引っ張られた様に狭まると、そこから浅い呼吸を繰り返す。鼓動と共にそれはどんどん、どんどん速くなっていく。声は出ない、出せなかった。なぜなら、懐中電灯で照らし出された先、木の影に何かの姿を見てしまったから。
 慌てて光の向きをずらした為、それはどっぷりと暗闇に浸かって視界にとらえる事が出来ない。でも、もう一度確認する事なんて……、

「……あなたは誰?」
「!」

 その瞬間、僕は弾かれる様に駆け出していた。聞こえてきたのは女の声。はっきりと僕の頭に響く、糸のように細く、針の様に鋭い声。
 後ろを振り返る余裕なんて無くて、ただがむしゃらに来た道を戻る。何度も振り返ったからちゃんと記憶している道をすがる様に辿っていき、跳ねる泥も、被さる草木も、もう何も気にならなかった。逃げる。僕は今、逃げている。そしてやっと見えてきた入り口に見える灯りの方へと思いっきり飛び出すと、

「出た! 居た! 女!」

 僕の叫ぶような大声に、クラスメイト達も血相変えて走り去って、その日は終わりを迎えた。
 それからずっと、頭の中であの女の声が消えない。細く鋭い針になって、僕の脳みそに刺さってしまったみたいだ。そんな話をクラスメイトにした僕は、その日から呪われたのだと口すら聞いて貰えなくなってしまい、結局ひとりぼっちのまま、僕の世界が変わる事は無かった。