それから、私は何かに取り憑かれたように鏡の前へ座るようになっていた。あの子が映っている時間は、一分ほどの僅かで。一日に一度しか現れない。
 決まって世界の扉が開く合言葉は、「おはよう」だ。あちら側には朝がないらしい。漆黒の空の下で、眠ることもないと聞いた。

「さくらちゃん。今日は何をしたの?」
「えっとね、追いかけっこした。しーちゃんと、あっくんと、それからおままごと」

「さくらちゃん。少し髪伸びたね。その髪は、おばあちゃんがしてくれるの?」
「うん、可愛いでしょ! ふたつにしてって言うと、おばあちゃん難しいなって笑ってるよ」

 もう見ることが出来ないと思っていた成長を目の当たりにして、目頭が熱くなる。
 もしかしたら、小学生、高校生、そして成人する姿まで見守ることが出来たら。

「ママも、そっちへ行きたいな。さくらちゃんに会いに、行こうかな」

 瞼からぽろぽろと雫があふれ出す。ほとんど使われなくなった化粧品に囲まれて、私は顔を覆う。
 全てを投げ出して、あなたのいる場所へ連れて行ってもらえるなら。迷いなどない。

「ダメだよ、ママ」

 しっかりとした声が、私をばっさりと切り捨てる。
 少し大人びた表情になるあなたは、穏やかに笑って。

「パパが悲しんじゃうよ」

 よく遊びに行った公園。パパと一緒に不安定な音程で歌を歌ってわらったり。誕生日のケーキを作った時、あなた以上に喜んでくれたのはパパだった。
 思い出されるのは鮮やかな世界で笑う私たちで、色のない現実には誰もいない。

「さくら、ママも大好きだけど、パパも大好き」
「そうね、そうよね」
「だから喧嘩しないでね。パパとママが仲良しなのがいいから」

「さくらね、生まれ変わったらまたパパとママのところに産まれるんだ」
「……うん」
「だから、ふたりで待っててね。早く会えるように、おばあちゃんと頑張るから」
「……ありがとう」

 同じベットで横になっていても、背を向け合っている私たち。笑い合うどころか、ほとんど会話もなくなっていた。
 夜の凍りつく空気が毛布の隙間へ入り込んで、さらに心を冷やしていく。


「……おはよう」
 朝起きて、階段を降りてきた夫へ声を掛ける。しばらく固まって、数回瞬きをした彼が「おはよう」と口を開いた。
 驚いた、と言う表情で私を見ている。朝食の支度が整ったダイニングテーブルを見て、もう一度ぽつりと声が溢れた。

「……ふたつ?」
「だって、あの子はもう……食べないでしょ」
 
 鏡の前で、最後に話した日。約束したから。

 彼岸世界では、ルールがあるらしい。
 人間界とは比べ物にならない速さで成長して、最後の選択肢を与えられる。
 もう一度、人間として生まれ変わりたいか、彼岸世界に残りたいか。
 そうして、また赤ん坊へ旅立っていく者も多いそうだ。

『さくら、いつも見てるから。ママ、頑張って。パパ、頑張ってって』

 子どもに励まされるなんて、母親失格だ。そう思う私へ手を伸ばして、

『これ、ママが持っててね。さくらがいなくても、ママが寂しくないように。さくらのお守り』

 鏡面が波打って飛び出して来たのは、あなたが気に入っていたディオールの口紅だった。
 再び手の中に戻った口紅を、そっと胸に抱く。離したくないと思った。
 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。

 ふとあなたのまつ毛が濡れていることに気付く。
 我慢していたのは、私だけではなかった。
 この子こそ、ずっと寂しさを抱えながら気丈に振る舞っていたの。
 ごめんね、さくら。ずっと周りが見えていなくて。もうこの世界にはいられないあなたを、離してあげられないで。

『ママ、そろそろお別れだね』
『……そうね。もう、時間だね』
『いつも寝る前に歌ってくれてた、ゆりかご歌って?』
『いいわよ』

 朝のない世界に住むあなたへ。あの頃を思い出しながら、優しく包み込むように歌う。
 噛み締めるように一言ずつ、嬉しそうな顔を見ながら。
 そして、歌の終わりに。

『……おやすみ、さくら』
『おやすみ、ママ』

 愛らしい笑顔を残して、あなたは消えて行った。
 それから、二度と鏡の向こう側が開くことはなかった。