「いい加減にしてくれ。何度言えば分かってくれるんだ。もう、疲れたよ」

 頭を抱えて塞ぎ込む夫の姿を見るのは、今日で何回目だろう。
 ダイニングテーブルの上には、あの頃と同じように食事の用意をしてあるのに。嘆きにも似た声をあげて、夫は手付かずの皿を見つめている。
 温かいはずのリビングは、時間が経ったスープと同じで冷めきっていた。

 この世界が鈍色(にびいろ)になったのは、一ヵ月半前。あなたを失ったあの瞬間から。見るもの全てが似たような色で、鮮やかさも美しさも感じない。
 幸せ色の世界は、ただの灰になってしまったの。

 ひとりで家にいると、たまに声が聞こえる。あなたの着ていた小さな服、そのままになっているおもちゃを眺めていると。
 まるで隠れんぼをしているみたいに、遊んで欲しそうな声が私を呼ぶ。

「ママー」

 空耳だと分かっている。もうあの子はいない。
 だけど、探して欲しいと言っている気がして。あの頃していたように、私はダイニングテーブルの下を覗く。

「いないねぇ。どこに隠れてるのかな」

 ソファーのうしろ、カーテン、それからクローゼットの中。全て探したところで、我に帰る。

 ーーひとりで、なにしてるんだろう。

 急激に切なさと虚しさが込み上げてきて、私は床へ崩れた。


『大きくなったらね、ママといっしょにお化粧するの。さくら、お姫さまになれるかな?』

 ドレッサーの前で化粧をする時間。口紅を持って、私の姿を真似るのが好きだった。
 お気に入りは、ディオールの白っぽいピンクベージュ。母親である私には可愛すぎて、あまり使わない。
 だからあなたにあげると言った時、飛び跳ねて喜ぶ姿が印象的で。愛らしい唇に塗ると、顔がパッと華やかになって美しかった。
 未来の姿を想像して夢が膨らんだのに。
 その口紅と一緒に、あなたは旅立ってしまった。


 久しぶりに鏡の前へ座った。
 目の下は黒く、青白い肌は不健康そのもの。まるで生きる死神みたい。
 少しやつれた顔を覗き込むと、鏡面が揺れた。水面が波打つようにして、現れたのはあなた。

「ママ、おはよう」
「お……はよう」

 おはようだなんて、何日振りに聞いただろう。もう一週間以上、夫とも交わしていない。
 鏡に映るあなたは、あの頃と変わらない屈託な笑顔を見せてくれて。
 時が止まったあの日から、時計が動いた気がした。

「ママ、泣いてるの?」
「さくらちゃんに会えて、嬉しいの」
「さくら、ずっとここにいたんだよ。ママ、全然見つけてくれないもん」
「ごめんね。待っててくれたのね。どうして鏡の中にいるの?」

 もう一度、この腕に抱き締めたい。
 温もりを感じたい。
 ただ、その想いだけだった。

 けれど、あなたは首を横に振る。もう、そちら側の世界へは行けないのだと。

「でもね、さくらたちの住む世界は、とっても近くにあるんだよ」
「さくらたちの……世界?」
「これね、おばあちゃんのお化粧のとこで話してるんだよ。可愛いのがいっぱいあって、さっきもね……」

 少しずつ冷静さを取り戻して耳を傾けてみると、どうやら彼岸世界はあるらしい。
 私たちの住む此岸と似たような空間が、次元で区別された場所に存在する。それも、通常は互いに認識出来ない隣り合わせに。