俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 K出版社を出た柳生は、次の予定の時間まで少し暇を潰すべく、その漫画喫茶に立ち寄った。一階にある窓際のオープン席に腰かけて、ガラス張りの店内から大通りを眺めた。

 様々な心境や境遇に置かれた人間が、それぞれの方向へ歩き過ぎる姿にはドラマがある――と彼は思っている。昔は通りのカフェテラスに腰かけては、彼らの中にある物語を想像して、短編小説を書いたものだった。

 細い腕時計に厳しい目を走らせ、堂々と人波をぬい歩くスーツの女性。カジュアルなジャケットに身を包み、蒸し暑さも気にしないような穏やかな顔を空に向けて、ゆったりと歩き去る若い男。
 己の人生すべてに納得がいかないという怪訝な面持をした中肉中背の男が、携帯電話を耳に押し当てた際、擦れ違う彼を一瞬だけチラリと見やって足早に過ぎ去った。

 柳生は珈琲を一杯やりながら、しばらく時が流れるままに身を任せた。たいして時間もかからずに迎えが来ることは分かっていたので、食事はとらなかった。