俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 柳生は話を聞きながら、遠い昔に、自分が元妻と過ごした穏やかな時間を思い出した。妻の祖父は一本釣りの漁師をやっていて、彼が戻ってくる時間に合わせて、お爺ちゃん子だった彼女と、よく港まで出掛けて散歩したものだった。

 ドライブデートの折り、用事がなくとも、時間を見つけては港へと車を向けた。彼女は、港からの眺めを好いていた。海辺の町で暮らしたことは一度もなかったから、海沿いで生まれ、ずっと暮らしていた祖父達が羨ましいのだと彼女は口にしていた。

 大学を卒業して三年後、彼女の祖父はあっけなくこの世を去った。彼女は一週間泣き続け、その後一週間ほど思い出に浸り、そうやって自分の中で、本当の意味で祖父と別れを告げて日常に戻った。

 当時まだ恋人同士であった柳生と彼女は、それでも懐かしいその港を訪れるのをやめず、何を言うわけでもなく海を眺めたりした。その時に彼女が見せていた、静かな横顔に浮かぶ微笑が、今でも彼の瞼の裏に強く焼き付いて離れないでいる。