俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 水崎は静かな感情に呑まれたかのように目を細め、それから、当時に想いを馳せる言葉を切った。コップを見下ろした瞳は、水に浮く角が解けて丸くなった氷に、その頃見つめ続けた海を探しているようでもあり、全く別の哀愁を深く鎮めようとしているかのようにも思えた。

 柳生も、自分のコップを見下ろした。持ち上げてみると、ゆらりと動く水面の底が見えた。遠い過去にしまっていたはずの、あの懐かしい潮臭い香りが鼻腔に漂ったような気がして、知らず鼻先を指でこすった直後、元妻が「それって、あなたの癖よね」と無邪気に告げていた声が、なんとなく耳元に蘇った。

 水崎が再び口を開いた。

「港は、いつも空が近く感じて、時折強い潮風が吹いていました。父と二人で、堤防の向こうからやってくる小型船や、これから出ていく漁船を見送りました。父は港から戻るたび、港の友人から聞いた話や、そこで見たことを母に話し聞かせていました。母の方は『また港?』と嫌そうな顔をしていたのですけれど、本当に嫌に思っていたことなんて一度もなかったんですよ。いつも心底愛している瞳で、僕の相手をしてくれている父を誇らしげに見つめていました」