俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 彼は目も向けないまま、つい愚痴るようにそう言った。印字されている文章を目で追う速度が落ち、読むことでその本の世界を体験できるような想像力が、徐々に鮮明さを欠いていくのが自分でも分かった。

「そうね」

 女は、心もない声色で答えた。

「座りたい場所に、私が勝手に座っているだけよ」
「勘違いされたら困る」
「あなたが?」
「面倒なことに巻き込まれるのは、ごめんだ」

 すぐに色恋や遊びの内容であると察した彼女が、「ふうん?」と言った。

「別に、そういったことではないから安心して。私がここに座りたいなと思ったから、座っているだけよ。あなたを困らせるつもりはないわ」

 彼は「そうか」と答えた。
 女は「そうよ」と言った。

 しばらく、お互い黙って過ごした。柳生は横になったまま、日差しを遮るように本を開いて読んでいたのだが、彼女に背を向けるように身体の姿勢だけは変えていた。片腕に頭を置き、もう一方の手で器用に本を持ってページをめくる。