俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 毎晩、虚しい形ばかりの理想や恋が溢れていた。たくさんの恋の話が、あちらこちらで色をつけて、彼らの一時の現実を逃避させていた。恋のもつれあいは人間の最も典型的な感情を激しく揺さぶって、そのおかげで騒動も事件も絶えなかった。

 たくさんの男女が恋仲となり、たくさんの別れが続いた。柳生も決して例外ではなく、飲み歩いた店に名ばかりの恋人を二、三人は作ったことがあった。色恋といった感情は一切持っていなかった。

 夜の相手として、都合がいいだけの男女仲も当時は珍しくなかった。中にはタフな女性もいて、割り切った関係として「あんたが好きよ」と声を掛けて誘い、「まあ、今だけはね」とそっけなく告げたりした。


 元妻であるアキコと出会ったのは、夜の生活にも飽いて飲み歩きさえやめてしまった、大学三年生の頃だった。

 どの男女も、仕草や行動を気にして自分の良さを異性にアピールしていたものだが、柳生はにこだわらず、授業の他は中庭の木陰で横になって本を読んでいることが多かった。そんな彼に声をかけてきた変わり者が、彼女だったのだ。